"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

なかなか手ごわかった八瀬大原の大尾山(だいびさん)①

2011-05-30 18:00:22 | 

なかなか手ごわかった八瀬大原の大尾山(だいびさん) 

‐ファミリープラス若者1名でハイキング‐

 

 

 

 

 

 

 201154日、ゴールデンウィークの真ん中に、ファミリーでハイキングを楽しんだ。参加メンバーは、いつもの連れ合いと次女それと今回は小学校3年生の下の孫、プラス若者S君と私の計5名。下の孫は、今まで天王山などの「ピクニック」程度には参加したことがあるが、そこそこのハイキングはデビュー戦。活発で結構運動神経もよく、たぶん今回のハイキングも大丈夫だろう。中学2年で昨年の夏には雌阿寒岳にも登った上の孫は、今回は花粉症のため参加せず、残念そう。

 54日朝550分に起床。本日の弁当の準備を始める。おにぎり、ゆで卵、ウインナー、目刺のいつもの定番プラスチーズとオレンジ。本日は少し豪華。おにぎりが足りないようだが、ともかく準備も整い712分に出発。

 

阪急、京都市営地下鉄を乗り継いで、825分に地下鉄「国際会館」着。地上のバスターミナルに出ると次女から電話があり、近くのローソンにいるとのこと。ちょうどおにぎりも足りないのでローソンに行き、お菓子等も買い足す。ここで若者S君と合流。S君とは初めてで挨拶をする。

 

850分、京都バス「小出石」行きに乗車。バスはハイキング客や観光客、地元の人たちで、早朝というのに結構混んでいた。やがて、95分に「登山口」バス停着。わが一行5名はここで下車し、道路を横断しストレッチを始めた。朝の空気が心地良い。これから登るコースは約1年前の2009年末に行ったコースで、その時は前夜来の積雪があり、コース中にある青龍寺までは何とか辿り着いたが、そこから先は断念した因縁のコースだ。いわば今回はリベンジ。

 

ストレッチを済ませ、915分いよいよ出発。スタートからは青龍寺まで約40分、標高差約500メートルを、ちょっと頑張ってワンピッチ。順番は先頭が次女、続いて孫、S君、私、連れ合いの順番。時々登山道を鹿の足跡が横切る雑木林の里山を登り続けると、やがて両側が植林の杉林へと景色が変わっていく。このあたりは1年前登ったときは新雪がいっぱいで、滑り滑りヒーヒー言いながら登っていった道だが、今回は快適で順調。

植林の杉林の中をさらに歩き続けるとやがて青龍寺の鐘堂が見え出した。青龍寺は比叡山の北方にある山寺で尼寺。比叡山は天台宗だがこの寺は浄土宗、境内には法然の銅像があったり、鐘堂があり閑静な寺。寺には合宿所があり、夏期には上の宮太子中学校の生徒たちがやってくるようだ。955分、スタートから1ピッチ、ちょうど40分で寺の山門をくぐると、本堂ではお勤めの最中だった。

 

 

 本堂前のベンチで大休止。トイレを借りたり、飴などの簡単なお菓子を食べたりしていると、やがてお勤めも終わったようなので本堂に上がらせていただき、古仏に合掌。その後孫と一緒に鐘を突いて、1020分に出発。山門前から両側に車の轍道の付いたコンクリートの長い階段を登りきると地道の林道にでる。林道を左方面にしばらく歩き続けると、やがて右側に比叡山の根本中堂から続く山道が合流し、林道の先は奥比叡ドライブウェイに突き当たる。ドライブウェイの手前に、「京都トレイル」の看板があり、左手北方の方面に山道が続いている。根本中堂からの道とそれに続く京都トレイルの道は、千日回行をする修行僧が通る道だ。ほとんど標高差のない京都トレイルの道を辿ると、右手は奥比叡ドライブウェイと並行したり離れたりしながら、行く手に横高山を見ながら進んでいく。やがて1105分、行程中で一番琵琶湖方面の景色が良いであろう、展望スポット(時間によってはお弁当スポット)に到着。

 

展望スポットで中休止。天気は良いのだが黄砂のせいで琵琶湖がほとんど見えないのは残念。まだ少し早いので、弁当は広げずに、ここでは簡単なお菓子等を食べた。15分の休憩後、1120分に、横高山を目指して出発。行き交うハイキングの人は結構多い。ここからは多少の登り下りがあり、やがて横高山への取り付きに着く。取り付きは看板は出ているが少し解りにくい。とにかく登りの踏み跡を辿っていく。取り付きから標高差約8090メートル。少し急坂を頑張って登りきると、少し開けた横高山頂上の2等三角点(767M)に1120分に到着した。林は切り開いているが、展望は八瀬大原方面のみで、やはり黄砂のせいか、あまりよく見えなかった。ここでも弁当は広げず、小休止の写真撮影。それにしても孫は文句も言わず、朗らかによく頑張っている。

 

 5分の休憩後、北方に見える水井山を目指して出発。横高山頂上からの目線でも水井山は2030メートルほどは高く見える。横高山頂上から、一旦下り斜面を駆け下りて、鞍部から再び水井山への取り付き点に着く。先ほどからは、トップは次女から若者S君に交代。やがて1145分、水井山頂上着(794.1M)。ここでいよいよお弁当。家から作って持ってきたおにぎり、コンビニのおにぎり、ウィンナーソーセージ、目刺とゆで卵のいつもの定番メニュープラスチーズ。今回は次女がバーナー持参で、コーンスープを作ってくれて、少し贅沢な弁当となった。孫も良く頑張っており、食欲旺盛。デザートにはオレンジ。

 

弁当の後、1230分出発。横高山から水井山、その先のコースはずっと尾根を忠実に辿っていく。尾根ではあるが雑木林の中を踏み跡が続いている。若者S君が上を見上げ、

「でっかいきのこがある。」

と、言っている。見上げるとそのとおりで、一行の植物学博士である連れ合いが、

「あれは、サルノコシカケだわ。」

とのこと。

 

林の中の尾根道をしばらく歩き続けると、やがて13時ちょうどに、ちょっと開けた仰木峠(標高573M)に到着した。仰木峠は、東の方琵琶湖側は大津市仰木に至り、北西へは八瀬大原、戸寺方面へ続く東海自然歩道、北東は大尾山となっている。ここで思案。ここから八瀬大原へ降りれば、目出度し目出度しで、後はゆっくり温泉に浸かって、ということになる。ただ、今日は大尾山まで、みんなが元気なら行こうということになっている。大尾山まで足を伸ばすと、距離がかなり増え、時間も2時間以上は余分にかかることとなる。それに何よりもこの先は未知のコース。しかし、肝心の孫はというといたって元気でやる気満々。それではと大尾山まで行くことに決定。

                                     (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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雌阿寒岳山行

2010-11-08 21:50:38 | 

                                                       2010年10月 記

                        雌阿寒岳山行 

 雌阿寒温泉から望む雌阿寒岳

  2010年8月19日から8月23日にかけて、わがファミリーは末っ子の3女が結婚して暮らしている釧路を中心に、行き慣れた道東への旅行を楽しんだ。今回は初めてファミリー総出で、長女、男孫二人(上は中学1年生、下は小学2年生)、次女そして連れ合いと、総勢6名、現地合流の3女夫婦合わせて8名の賑やかな旅行となった。 行った先は、長女ファミリーが北海道デビューとあって、阿寒湖、川湯温泉、硫黄山、屈斜路湖、美幌峠、摩周湖と定番コースを回り、さらには少しマニアックコースとして、釧路湿原を望む北斗展望台、サルルン展望台、地平線を見渡す900展望台などを回り、釧路市内では博物館や春採湖を見下ろす六花亭の春採店等にも寄ってきた。 今回の道東旅行では、雌阿寒岳登山に挑戦した。雌阿寒岳は標高1499メートルとそんなに高くは無いが、活火山であり時々は有毒ガスが噴出し入山禁止になることがある。今回は日帰りで、全行程4時間半の予定で、いつもの山行きのメンバーである連れ合いと次女、それに中学1年生の孫も山行に初参加した。   

   

   サルルン展望台から釧路湿原と塘路湖            細岡展望台からのサンセットの釧路湿原

 2010年8月20日朝7時、登山一行は宿泊しているホテル・ルートイン釧路駅前をレンタカーに乗って出発。同宿の長女と小学校2年の孫は後ほど迎えに来る三女夫婦と合流し、釧路湿原界隈を観光後午後2時に阿寒湖畔のアイヌコタンで合流の予定だ。登山一行は大楽毛(おたのしけ)でコンビニに寄り簡単な行動食を仕入れた後、一路雌阿寒岳登山口のある雌阿寒温泉を目指した。 8時45分雌阿寒温泉着。雌阿寒温泉は阿寒湖から西に足寄方面に走り、暫く走って側道に入る。数件の国民宿舎や旅館があり、山中のオアシスのような風情のある温泉。雌阿寒温泉で支度を整え、清潔なトイレで用を足し一通りストレッチも済ませ、いよいよ9時に登山口より入山。 はじめのうちは蝦夷松林の中を高度を上げていく。やがて9時28分に「2合目」の道標に出会い、少し早いが小休止。5分休止の後再び登り出す。順調に3合目を過ぎ4合目の道標を過ぎたあたりから振り返ると、下の視野が広がり右手に登山口の雌阿寒温泉、左の尾根越しにオンネトーの群青色の湖面が見え出した。ここからはオンネトーの一部しか見えないが、鮮やかな群青色はここからでも吸い込まれていきそう。     

       

5合目付近から振返るオンネトー           頂上稜線からカルデラを見る

 5合目付近から振り返ると群青色のオンネトー頂上稜線からのカルデラ  やがて10時10分に5合目の標識着。このあたりから森林限界で、標高は950~980㍍位か。眼下のオンネトーはほぼ全容が見え、鮮やかな群青色の半月のような形も神秘さを漂わせる。5合目で10分間の「中休止」。 5合目から先はガレ場、岩場。森林限界からやがて笹や這松も無くなり、つづれ折の地肌の山道となってくる。8合目あたりからは山頂の稜線が眼前に迫ってくるが、足下は火山礫でガレ場からザレ場へとなって登るのにも礫が崩れ歩きにくくなってくる。やはり普通のスニーカーやウォーキングシューズでなく登山靴のほうが良かったかと少し思う。それでも次女と孫は快調にピッチを上げ、連れ合いはそれに続いて行くが、私は若干遅れ気味。もっとも遅れるというわけでもなく「のんびりと」登っているといった感じだ。 11時少し前に頂上稜線に出た。目の前にバーッと頂上の大火口が大きく拡がり、大カルデラの底部には池が水を貯え、傍らのあちこちからは噴煙が上がり、硫黄の臭いが漂い、なんとなく息苦しくなってくる。風はかなり強い。ここは「風の通り道」なのだろう。頂上稜線から登ってきた道を振り返ると、すでにオンネトーは左側の西稜線の裏側に隠れて見えない。頂上稜線に出ると進行方向は左にとる。そして右側にカルデラが大きく迫る大絶壁の頂上稜線を辿るのだが、次女はフォトポイントとばかり、絶壁の頂部を動き回りながら写真を撮りまわり、見ているほうがハラハラ。      

  そうこうしながら頂上稜線を辿って行き、11時13分に「雌阿寒岳頂上 1499M」の標識に到着。一応計画の時間からは約13分の遅れだ。これくらいは「順調」のうちだ。雌阿寒岳は登頂してみるとさすが日本百名山の風格がある。頂上は大火口のカルデラであり、頂上稜線から大きく切れ込み、はるか下にある噴火口の底部には、青沼、赤沼といわれる妖しい雰囲気を持つ沼が色づいた水を溜め、あちこちからは噴煙が上がっている。天候はここに来て快晴だが風は非常に強い。頂上標識からカルデラの向こう、いわば「対岸の向こう」には、登行意欲をそそる優雅な姿をした阿寒富士が聳える。阿寒富士はオンネトーの対岸から見れば大変優雅な山容なのだが、登山をしていると、この場所まで来なければ「優雅な阿寒富士」は見られない。暫くの休憩や他の女性の単独登山者とのお互いの写真撮影交歓の後11時20分に頂上を出発し降りに入る。降りは登ってきた道ではなく、頂上カルデラ稜線を半周し、西稜線で登路の反対側をオンネトーのほうに降りる。 降りはザレ場で、登りより厄介だ。足元の火山礫がずるずると崩れ落ちるため、慎重に歩を進めなければならない。連れ合い以外は登山靴を履いておらず、余計に気を遣う。火山に登るときは大概こうなのだが、すこし考えが甘かったかと密かに反省しながら、慎重に降り続けた。やがてそのうち、あまり「山馴れ」していない孫が不調になりだした。「足が痛い、膝が痛い、歩かれへん・・・」などと言い出す。それでも誤魔化し誤魔化ししながら降り続け、やがて頂上火口稜線から離れ、左手目前に阿寒富士を見上げながらザレ道を下り続けた。

 山頂カルデラの青沼と阿寒富士

 11時50分、オンネトー側の8合目を少し降りたあたりで、大休止とし行動食を取ることとした。ここでも密かに反省。実は本日は朝9時に登山を開始し、一気に全行程4時間30分を歩き通し、昼食抜きで雌阿寒温泉に下山するつもりでいた。したがって大楽毛のコンビニでも「弁当」を仕入れず、「水気」だけを購入していた。しかし、幸いにも連れ合いと次女が軽食を用意しており、それを分け合って行動食とした。私の頭の中には、時間通りに阿寒湖畔で三女夫婦、長女と下の孫と合流することがイメージとなっていたのだ。登山を軽く見てはいけない、いい年してまた思い知らされた。  さて、20分の行動食後12時10分に出発。少し快調に動き出したが、再び孫の足が不調。誤魔化し誤魔化しゆっくりと下山。12時55分、5合目を過ぎたあたりで中休止をとり、孫に膝サポーターなどを与え下山の体制を整える。この辺はすでに樹林地帯で、蝦夷松やら一部広葉樹などが茂っている。足下もザレ場ではなく普通の山道になっており、快調に飛ばしたいのだがなかなか進まない。それでもなんとかゆっくり目で下山を続ける。3・2・1合目と徐々に高度を下げ、やがて14時20分、予定のイメージより約1時間30分遅れでオンネトー側登山口の湖畔のキャンプ場に到着した。わが一行は登山口の大きな木製標識を囲んで記念撮影。携帯メールが通じるので三女夫婦と長女一行には「当初の約束時間に1時間30分遅れ」と次女が携帯メールで連絡を入れている。昼早々には阿寒湖畔に着いて、うまい飯と阿寒湖観光を目論んだ計画は破綻したようだ。  

  14時35分に出発。ここからキャンプ場を抜けてオンネトーの湖畔に出、湖畔の道を辿る。木馬道やら整備された道を左手にオンネトーに触れながら歩き続け14時50分に右手の山道に入っていく「雌阿寒温泉分岐道」に至った。わが一行はオンネトーに別れを告げ、右手の山道へと入っていった。 ガイドブックにはこの道は「快適な道」と案内されている。ならば、普通は整備され林間の散策道かプロムナードと想像するが、そうではなかった。普通の山道だった。藪が茂っていることや獣の糞が(たぶん狐の糞だろう。熊でも鹿でもない。)あちこちにある分、この道を「快適」と思うのはきっと一般観光客ではなく「山が好きな人」なんだろうなと思う。 とにかく孫の足も元に戻ったようで、早足で歩き続けるとやがて木馬道が現れ、前方の森が明るくなってきた。15時10分、分岐から20分後(登山地図のコースタイムでは30分の行程)、目の前がバーッと拡がり、出発地点の雌阿寒温泉に到着。当初の目論見から1時間40分の遅れ。出発時に用を足した清潔なトイレで再び用を足し、軽くストレッチをしながら、駐車場へと戻った。 山行報告は以上だが、その後ワンボックスカーに乗り込み、阿寒湖畔のアイヌコタンへと行く。15時35分アイヌコタン着。三女夫婦一行とはすぐに合流。アイヌコタンにある喫茶店で登山後の美味しいコーヒーを飲んでいるとマスターが、 「雌阿寒岳でお会いしましたね。」 聞けば1日おきに雌阿寒岳を登っておられるとのこと。土産物屋さんをうろうろし、上の孫はマリモッコリなどを仕入れたりしながら、16時20分に出発。三女夫婦とは阿寒湖畔で別れ、わが夫婦、長女と孫二人、次女の総勢6名は本日のファミリー宿泊地の川湯温泉へと向かった。     (終わり)

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剱岳山行⑦

2009-09-10 22:53:17 | 

 

剱岳山行⑦

 黒部水平歩道

 2009年8月20日(木)

【行程】6:00出発→6:40水平歩道→7:40折尾谷(休憩)8:00→9:15志合谷→11:30欅平(ゴール)

 

 いよいよ今日が最終日。諸計画のため朝6時出発とする。小屋の朝食が6時30分からなので朝弁当を作ってもらい、早めに食べて予定通り6時に出発。キャンプ場を通り水平歩道まで登りのアルバイト。やがて水平歩道に到り歩き始める。

 水平歩道は黒部第四ダム建設のときに作業用「道路」として黒部渓谷の右岸壁を切り込んで作られた歩道とのこと。場所によっては断崖絶壁に幅1メートル足らずで切り込んでいる。それが本当に水平かと思うほど見事に切り込まれている。人工の道なのだが、今や歴史がこの道を大自然に同化させてくれているかのようにいわば趣きもある。しかし要所要所にフィックスロープや鎖が取り付けられてるとはいえ気は抜けない。下は何百メートルの断崖絶壁。

 水平歩道をしばらく行くと立派な滝が流れ込んでいる折尾谷。阿曾原温泉小屋の佐々木さんが言っておられたが、この沢の水は飲用可能とのことなのでここの滝壷で小休止と水補給。小休止後再び水平歩道を延々と歩く。やがて断崖絶壁が連なってきて、行く手前方右方対岸の黒部渓谷左岸に雄大、絶大な大岩壁が現れてくる。ここが黒部奥鐘山西壁の大岸壁で日本で最も登攀が難しく、レートの高い壁といわれている。誰かクライミングをしていないかなあと探したが、本日は誰もいないようだ。

わが一行は大岩壁をちらちら見ながら、志合谷を過ぎる。この谷は黒部奥鐘山と立ち向かうかのような厳しい谷で、絶壁のトラバース道も無く、水平歩道は長いトンネルとなる。ヘッドランプを点けて川のような流れを歩いてようやくトンネルを出ると、谷を挟んだ対岸には、岸壁を切り抜いた水平歩道がくっきりと幾何学模様の直線のようだ。

 

 黒部奥鐘山西壁の大絶壁

 志合谷を越えて、しばらく行くと欅平のトロッコ列車の案内放送のような音が遠くに聞こえてくる。『いよいよ終わりに近づいてきたなあ』と少し寂しい思いをしながらさらに水平歩道を歩き続けると、やがて欅平への降路となる送電鉄塔に着く。ここで途中に追い越されたお元気な中高年単独行登山者が行動食を食べていた。

「最後に怪我をしないように、ゆっくりしています。」

とのこと。

 志合谷をまたぐ水平歩道

 ここからは、ひたすら降りるのみ。時々立ち止まっての休止を挟み慎重に降りる。次女リーダーと連れ合いはとっとと先に降りてしまっている。私は、慎重ではあるが、余韻を十分にかみ締めながら、慎重に降りていった。

 11時30分、観光客で喧騒とする欅平に降り立つと次女リーダーと連れ合いは駅屋上広場のベンチから手を振っていた。今回の山行は無事終わった。

この後、欅平温泉(猿飛温泉ともいう)に入り、汗を流して普通の服に着替え、登山靴もカジュアルサンダルに履き替えさっぱりとして、ビールで乾杯後昼食の「冷やし山菜そば」を頂く。その後トロッコ列車に乗り宇奈月温泉駅へ、そこから富山地方鉄道に乗り、途中所要で上市に寄った後、JR富山駅。夕食、土産購入後特急で金沢へ、金沢で雷鳥に乗り換え、京都そして山行の余韻に浸りながら孫たちの待つ大阪の我が家へと列車に揺られていった。

                                                          (終わり)

 

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剱岳山行⑥

2009-09-10 22:34:45 | 

剱岳山行⑥

 仙人池に写るモルゲンロートの裏剱、八ツ峰

 2009年8月19日(水)(第4日目)

【行程】7:00仙人池ヒュッテ発→9:15仙人温泉小屋9:45→雲切新道→12:45雲切新道終点(大休止・昼食)13:40→15:10阿曾原温泉小屋(泊)

 朝5時から仙人池畔で裏剱モルゲンロートを撮影するために待機。すでに同宿の登山者の皆様もカメラをセットして待機中。徐々に明るくなってきたが、朝日に薄雲がかかっているのかいまいち「燃えるようなロート」にならない。まあしかしそれなりに赤くなった八ツ峰、チンネ、ジャンダルム、少し見えにくいがクレオパトラニードル、そして僅かに見える剱岳本峰の裏剱のヨーロッパアルプスを思わせるような見事な山並みを写真に収めた。 

 モルゲンロートのジャンダルム、チンネ、八ツ峰の頭、剱 

              岳本峰、クレオパトラニードルの針峰群

 朝食を済ませ、静代オーナーと別れを惜しみ朝7時のゆっくりした出発。仙人谷を降りていくが、道は崩落があったりしてはっきりいって余り良くない。多少難渋して歩いていくとやがて雪渓のトラバース。雪渓を慎重に渡りさらに行くとやがて対岸の中腹に仙人温泉の源泉の湯気がもうもうと立ち上るのが見える。湯気を見ながら少し行くと道端の大岩にペンキで「お疲れさま 仙人温泉小屋」と書いてあり、その先に昨日宿泊予定だった仙人温泉小屋があった。ここまで2時間15分。コースタイムでは1時間15分~30分とあるが、それは登山道が良くて軽い荷物の条件の時だろうと思う。

 仙人温泉小屋でポカリスエットを飲み小休止後出発。従来は仙人谷をそのまま降り阿曾原温泉小屋まで直接行ったのだが、現在は仙人谷が崩落やらで通行不可能となっており、対岸に渡り仙人温泉源泉の横を通り、雲切尾根に取り付いていく雲切新道を行くこととなる。

 わが一行は仙人温泉小屋を振り返りつつ、雲切新道のピークを目指して歩く。道は整備されている。1645メートルのピークからは降り。尾根を忠実に降りるが要所要所には鎖やフィックスロープ、梯子が整備されている。新道を作ってこられた皆さんの多大なる労力と努力に感謝感激しつつも、これを逆に登って来るとしたら中途半端な労力ではないなと感嘆するような道であった。途中昨日仙人新道で追い越された2組の中高年のご夫婦が、本日は先行されていたのだが抜きつ抜かれつになっていろいろ話しながら降りてくる。やがて雲切尾根の終点の沢に到着しここで昼食大休止。沢の水で顔を洗いタオルを洗い少し飲んでみたが、甘くは無いが美味しい。軽く体を拭き最後の行動食を食べる。

 昼食後沢にかけられた丸太橋を渡り阿曾原を目指して更に歩く。ここからはアップダウンという道ではないがところどころにフィックスロープが張られている。しばらく行くと仙人ダムが見えてくる。さらに行くと仙人ダムサイトに降りていく梯子がある。この梯子がちょっと曲者で下に着地点が見えない。それどころか「ストーンと」ダム湖に落ちていく感じ。ダム湖が「おいで、おいで」と言っている。そんな多少ビビる梯子で、とにかく慎重に降りていく。とにかくダムサイトに降り立った。もっともダムサイトと言っても立派な道があるわけではなくダム湖のコンクリート辺にむりやり取り付けられた土道の「へツリ道」だが、ダムに向かって歩いていく。ダムに上り管理事務所の中を通り、熱気の充満する作業トンネルを通り、トンネル内のトロッコ軌道を横断し、「熊の侵入を防止するため必ず閉じてください」旨書かれた鉄柵扉から、やっと外に出る。関西電力の立派な鉄筋の宿泊所や管理棟が立っている。この秘境の山中にダムだけでも違和感があるのに、鉄筋の建物まである。しかしなぜか不思議と大自然の中に溶け込んでしまっている感じもする。これは自然の懐の深さなのか偉大さなのか。

 さて、ここから水平歩道まで再び登り。30分ほどのアルバイトの後、阿曾原までの水平歩道に出る。これは明日の黒部水平歩道の予行演習。40分ほどの水平歩道の後阿曾原温泉小屋への降路となり、15時10分小屋着。

 阿曾原温泉小屋のオーナーは佐々木さんで、長年富山県警山岳救助隊として活躍してこられた。現在「念願の」山小屋オーナーとなられ、毎年黒部下の廊下の登山道の整備を率先して行っておられたり、雲切新道を構想し実際に切り開いてこられたり、登山者には歯に衣を着せない厳しく辛口ではあるが適格なアドバイスをされている。昨日の静代オーナーともども一昨年のNHKスペシャルで大きく紹介されている。

 本日は源泉かけ流しの阿曾原温泉の露天風呂に浸かり、わが山行フィナーレ前夜の感慨に浸る。しかしまだまだ。登山は無事ゴールして完了なのだ。明日も気を抜かないように。

                             <続く>

 

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剱岳山行⑤

2009-09-09 22:33:44 | 

 後立山連峰からのご来迎

剱岳山行⑤

2009年8月18日(火)(第3日目)<o:p></o:p>

【行程】6:30剱山荘出発→剱沢→10:10真砂沢ロッジ10:30→12:05二股吊橋(昼休憩・昼食)12:55→仙人新道→14:00ベンチ14:20→15:30仙人峠→15:45仙人池ヒュッテ(泊)

 朝5時過ぎから、剱山荘から後立山連峰方面に向かいご来迎を見る。白馬岳方面になるのだろうか、少し雲があり、完全な球形のお日様にはならなかったが、十分に剱岳をモルゲンロートに染める朝日が昇ってきて、ひとしきり写真撮影。

 本日の行程は、予定では剱沢を下り仙人新道を登り仙人池を経由し仙人温泉小屋までのルートだ。剱山荘は、以前もそうだったが、水が豊富でトイレも水洗でシャワーまであり、また数年前に現在地に新築したこともあり、料理も含めて現代風で非常に快適な山小屋であった。わが一行は朝食を済ませ、出発準備を整え山荘前でストレッチを済ませいよいよ出発。

 34年前に来たときは、剱沢は7月中旬でもあったのだが残雪が多く、雪の状態もよくキックステップを効かしながら難なく真砂沢まで降りていった。しかし今回は雪が少ない。まず雪渓の取り付きに行くまでが、大小緩急のガレ・ザレで一苦労。雪渓の取り付きに来ると、殆ど踏み後が無く仕方なく慎重に雪渓に降り立ち歩き始める。アイゼンは無くキックステップを切ろうとするが雪が締まっていて殆ど切れない。最初の頃は慎重に踏み後を探して辿るようリーダーの次女に伝える。剱岳側からの谷との出会いになると斜面が急角度にはなるが、だんだんと慣れてきてペースも上がる。平蔵谷出会いは源次郎尾根などの撮影後左岸に捲いてガレ道を歩く。再び雪渓に下りて歩き、長次郎谷出会い付近では『尻セード』をして、谷の出会いで再び源次郎尾根、八ツ峰を存分に撮影し、ここから宇治長次郎や柴崎らが上って行って剱岳を登頂した、映画の撮影場所もここなどと連れ合い・次女に説明する。今度は右岸に渡りガレ道を歩く。道はフィックスロープなどが張られているが、雪渓歩きの倍以上の時間がかかる。結構時間がかかったが、10時過ぎに真砂沢ロッジ着。ポカリスエットを飲み、ロッジのご主人と談笑し小休止。

  剱沢の長次郎谷出会いから長次郎谷上部

 ロッジからは雪渓が解けて川となっている剱沢沿いに下る。途中中高年のご夫婦に追い越されながらも12時過ぎに近藤岩のある二股の吊橋に到着。吊橋がまたいでいる沢は剱沢の右岸に注ぎ込む三ノ窓雪渓からの流れか。とにかくこの沢の水は飲用可で、美味しい。二股で昼食大休止とする。

 昼食後いよいよ仙人新道の急登。これが大変だった。今まで剱沢を降りてきた分を再び登り返すようなものだ。散々の悪戦苦闘の末、約1時間後、ようやくベンチに辿り着く。目の前に裏剱、八ツ峰の勇姿がバーッと拡がるのだが、景色を眺めるのもそこそこにとりあえず立派なベンチで小休止。ベンチで小休止中、中高年ご夫婦と、単独行の中高年登山者に追い越されていく。いずれも私よりご年配のご様子だが、本日の行程を聞くと早月小屋から剱岳を越えてきたとか、剱山荘発で早朝に剱岳を登頂して来たとか、みなさん我が一行の2日分に近い行程ではないか。その人たち、しかもご年配の中高年の皆さんが追い抜いていく。日頃の我が怠惰と言うか鍛錬の無さに、深く反省。

 

 仙人新道ベンチから三の窓雪渓、裏剱の岩峰

 しかしベンチが本日のゴールではない。「深い反省」もそこそこに出発。約1時間のさらなる急登を耐え忍ぶと次女リーダーが「仙人池ヒュッテが見えるよ」と叫んでいる。見ると右手のほうに赤い屋根の仙人池ヒュッテが見えた。標高差約800メートルを登りなおして、2200メートルの仙人峠に着いたのだ。15時30分。実は、本日はこの先仙人谷を下がって仙人池温泉小屋まで行く予定で予約も入れてあったが、バテバテで本日はここで打ち止めと決めた。

 仙人池ヒュッテのオーナーは有名な80歳の静代おばさんがオーナー。シーズン中はヒュッテにずっと泊り込み、登山者を迎え、送り出している。他の登山客とともにいろんな話を聞かせていただいた。頭の回転が速くてインテリで、ご本人は芦峅寺出身で亡くなられたご主人とともに立山・剱を生活の基礎とし、その中での体験や薀蓄に富んだ逸話をたっぷりと聞かせていただいた。これだけで本日の宿泊の大いなる思い出となった。本日宿泊客は16名。次女以外全て中高年。しかも多分次女と連れ合い以外は私より年長者ばかり。

 仙人温泉小屋には迷惑をかけるので、ここからオーナーに無線電話で連絡を入れていただいた。

                                            <続く>

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剱岳山行④

2009-09-09 20:59:12 | 

剱岳山行④

 剱岳山頂から立山連峰、はるかかなたに槍ヶ岳・穂高連峰が遠望

  頂上では360度の展望を楽しむ。北の方を見れば雄大な八ツ峰の尾根が北方稜線につながり、その右には映画「剱岳点の記」で宇治長次郎や柴崎らが登ってきた長次郎谷が雪渓を残し、長次郎谷を挟んで源次郎尾根が剱岳ピークへと迫ってくる。遠方に不帰の剣、唐松、鹿島槍などの後立山を見、さらに右南方方面を見ると、雄山、大汝山のピーク、富士の折立の立山連山が見え、なんと連山の左端はるか奥に、槍ヶ岳とそれに連なる穂高連峰までもが遠望できる。ただその右平蔵谷、前剱から大日岳より先、富山平野方面は少しガスっていて、残念ながら眺望は無かった。しかし標高2000メートル以上は至上の快晴であった。

  次々と登頂してくる人たちと話していると、中高年夫婦がガイドさんとともに北方稜線を歩いてきたといいながらザイルを解いていたり、源次郎尾根を登ってきたという若手のパーティと写真を撮りあったり、中高年の男性とご婦人二人が、早朝馬場島を出発して、早月尾根を登り(標高差2000メートル以上で普通は途中の早月小屋に1泊するのだが)日帰りでまた馬場島へ戻るとか、いろんな登山をそれぞれが「楽しんで」おられる。わが一行は『無理なく、事故なく、楽しんで』である。頂上で昼食、写真撮影をゆっくりと楽しんだあと、下山開始。

  下山路はしばらく行くと最初の難路カニのヨコバイに来る。ここも鎖や梯子は付けられているが、ホールドやスタンスの取り方が少し厳しく、そして高度感がありそれなりに緊張はする。下山路で追い抜いて行った軽装の青年が鎖場で「降りられないんですよ」と言って立ち往生し、次女に弱音を言っている。スタンスが遠くて見えないのだ。しかも崖の上なので高所に弱い人には多少つらいかもしれない。まあ何とか彼もカニのヨコバイを超えて降りて行って、続いてわが一行もまとまって下山を続けた。

  前剱のピークを捲いて少し平地で休んでいると、ヘリコプターが低空を何回も旋回している。しばらくすると一服剱の向こう側に降下して見えなくなった。やがて上昇し、再び何回か旋回し降下して行きまた見えなくなった。一服剱の向こうで見えないけれど、かなりの時間ホバリングし、やがて上昇し富山方面へと飛んでいった。

  剱山荘への荷物のデポかな、それとも病人でも出たのかなと話していたが、あと一息で本日の予定行程も終了なので、慎重に下山を続けた。一服剱を越え、いよいよ本日ゴールの剱山荘が見えた。頂上から抜きつ抜かれつしている「ばてています」という、チンネ登攀断念クライマー2人パーティとも談笑しながらも慎重に下山を続け、剱山荘にゴール。

  わが一行は本日の労をねぎらいながら、剱山荘のスタッフに先ほどのヘリコプターのことを聞くと、一服剱の下降路で女性が滑落して意識不明のまま滑落現場から救出されたとのこと(翌日亡くなられたとの連絡が入った。30台の女性とのこと。)。ゴール間近でふと緊張が解けたのか。剱岳では一昨日もチンネを登攀していたクライマーが転落して亡くなられている。剱岳とはそういう山なのだとつくづく思い入る。・・・合掌・・・

 

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剱岳山行③

2009-09-06 15:30:38 | 

剱岳山行③

 剱岳山頂から立山連峰、遠景に槍ヶ岳・穂高連峰が見える

2009817日(月)(第2日目)

【行程】6:25剱御前小屋発→7:25剱山荘8:008:40一服剱→9:40前剱→11:45カニのタテバイ→12:20剱岳頂上(昼御飯)13:1517:25剱山荘(泊)

 本日はいよいよ剱岳の登頂を目指す。今回の山行は全体として『無理なく、事故無く、楽しんで』を至上としており、バリバリの元気者の次女には物足りないかもしれないけれど、ゆっくりの出発とした。

 剱御前小屋を出発して、剱沢最上部の右岸を辿り、やがて剱山荘に到着。剱山荘で本日の宿泊手続きを済ませ、大きい荷物は小屋に置いてもらいそれぞれ弁当、飲み物、雨具、ヘッドランプ、お菓子類のみを小さなザックに移し変え、いよいよ出発。天候は最高級の快晴。

 最初は一服剱を目指しての登り。早々と鎖場が出てきたり、途中からはガレ場・ザレ場となってくるが、難なく一服剱の頂上に辿り着く。ここで前剱が行く手に聳え立つが、剱岳本峰は前剱の後ろに控え見えない。しばし小休止と写真撮影。振り返れば剱山荘が小さく見える。

 前方は、わずかに雪が残る谷を挟んで東尾根を従えるように前剱が聳える。本峰と見間違うような立派なピークだ。行動再開。鎖場が頻繁に出てきて慎重にアップダウンを繰り返す。

やがて1時間弱で前剱のピークに到着。ピークに出れば、はっきりと雪渓の残る平蔵谷を挟んで雄大な剱岳本峰が、大きな2つのピークを持つ源次郎尾根を右手に従えて聳え立っている。28年振りの感激の再会だ。自分の青春をタイムマシーンに乗ってもう一度確かめることが現実となったようだ。34年前は自分がリーダーで、28年前は山岳会メンバーとして、自分にとって最高の思いをプレゼントしてくれた山だ。

 さて現実に戻る。前剱ピークで「大休止」と写真撮影。『無理なく、事故無く、楽しんで』をもう一度心に刻み込んで、気持ちの準備をしていると、単独行の青年が軽やかに登ってきた。

 「こんにちは。ちょっと座らせてもらっていいですか。」

 「どうぞ、どうぞ。今日はどこから来たの?」

 「みくりが池山荘です。アルバイトをしているのですが、今日は休みなのでちょっと剱岳を登っておこうと思って。」

 聞けば、福井県の大学生でワンダーフォーゲルをしていて、シーズン中みくりが池山荘でアルバイトをしているとのこと。みくりが池山荘から剱岳往復なら『ちょっと剱岳』というレベルで無いと思うが、自分もかってそうだったように、若さというのはこういうものだと、羨ましく思う。

 「お先に失礼します。」

 と言って、彼は再び軽やかに平蔵のコルを目指して降りて行った。

ピークから平蔵のコルを見ると、カニのタテバイで行列ができている。わが一行も出発。前剱のピークから平蔵のコルまでが結構厳しく微妙な鎖場も多く時間を費やした。普通のコースタイムの時間の倍以上かかり平蔵のコルに到着し、小休止。その後いよいよ往路の最後の難所カニのタテバイだ。しかし、ここは確かに場所によっては垂直、あるいはオーバーハング感覚のところもあるが、実際に登るとホールド・スタンスが取りやすいようにルートが付けられ鎖が整備されており、よほど高所に弱くない限りさほど困難ではないように思えた。確か28年前頃は梯子だったように思うので、今のほうがバリエーションはあるかとも思う。

さて、カニのタテバイを超えて、いよいよ剱岳ピークだ。尾根を歩き、早月尾根からの登山道と合流し、しばらく行くと剱岳頂上の祠の裏へと出た。次女は先行していたが、遅れて私と連れ合いは祠を回り込み、ついに剱岳・2999Mの頂上を踏んだ。

                             (続く)

 

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剱岳山行②

2009-09-06 15:19:27 | 

 剱岳頂上から八ツ峰五峰以下、長次郎谷、源次郎尾根の頭

剱岳山行②

 剱岳頂上から八ツ峰、長次郎谷の上部

2009816日(日)(第1日目)

【行程】7:38 JR京都発(サンダーバード1号)→10:40電鉄富山発(富山地鉄)→11:40電鉄立山発(立山黒部アルペンルート)→13:00室堂(昼食・登山届提出)13:50→地獄谷・雷鳥沢→16:40別山乗越・剱御前小屋(泊)

 朝、次女とは京都駅で待ち合わせ。京都駅近くで朝飯用の手作りパンを仕入れ、ホームへ戻ると次女が待っていた。まもなくやってきたサンダーバード1号に乗り込む。3人でパンなどを食べ、これからの山行に思いを馳せているうちに、やがて富山に到着。電鉄富山駅に移動し、ここからはいわゆる「立山黒部アルペンルート」となる。富山地鉄、ケーブルカー、高原バスと乗り継いで13:00ちょうどに、立山室堂に到着。

室堂で山岳警備隊事務所に登山届けを出した後、次女の用意した昼食のおにぎりを食べる。室堂界隈は観光客で喧騒としている。天候のほうは、数日前までぐずついてすっきりしなかったが、本日は多少の薄雲は出ているが、好天である。雄山頂上の雄山神社や、大汝山のピラミッドもくっきりと見えている。天気予報ではここしばらく晴天が続くとのことで、幸先が良い。

おにぎりを食べた後、1350分出発。観光客の間を縫って、みくりが池、地獄谷を経て雷鳥沢の下部キャンプ場。ここから見上げる約400メートルの登りの頂部が別山乗越で、そこまで行くと久しぶりの剱岳とのご対面となる。わが一行はいよいよ雷鳥沢の登りに取り掛かった。登山者は、当初思っていたほど多くもなかったが、しばらく天候不順だったのと、本日が「お盆休み」の最終日ということもあるのだろうか。

ゆっくりと時間をかけて雷鳥沢を登り、1630分やっと剱御前小屋が見えてきた。そこからひと登りで小屋の前に出て、そこが別山乗越。目の前に雄大な剱岳が拡がった。

「こんにちは剱岳。お久しぶり。これからご機嫌よろしくおねがいします。」

そう祈りつつ、写真を撮り、その後剱御前小屋に宿泊手続き。夕食後この日は大日岳方面、雲海の富山平野へのサンセットを眺め、明日からの剱岳への英気を養った。

夜は、気が昂ぶっているのかあまり熟睡できなかった。

2009817日(月)(第2日目)

【行程】6:25剱御前小屋発→7:25剱山荘8:008:40一服剱→9:40前剱→11:45カニのタテバイ→12:20剱岳頂上(昼御飯)13:1517:25剱山荘(泊)

                                 (続く)

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剱岳山行①

2009-09-06 15:08:59 | 

 別山乗越からの剱岳・28年ぶりの再会

剱岳山行① 

2009816日から、山中45日の日程でいつもの気心知れたメンバー、連れ合い、次女との3人で、剱岳登頂と剱沢、裏剱、黒部への山行を「楽しん」だ。

今回の山行を計画した理由は、第1に私自身の体力が近年「着実に」落ちてきていること、そして体力・気力充実期の次女と、ちょうど上昇線と下降線の接点を過ぎてきていること、そういった状況で残された後僅かの機会であろう厳しい「本番登山」を彼女(達)といつまで出来るか分からないが、時間と機会を惜しんでやっておこう、ということ。少なくとも、「大峰奥駈」を始めた2005年夏には、テントや水や団体装備を全て担いで(おそらく25Kg以上)稜線縦走をリードした私のほうが、圧倒的に体力・気力が充実していたのだが最近では次女に付いていくのもなかなか大変な状態になってしまっている。

2の理由は、山を愛し自分の人生観としての登山を思いつつあり、そして自分自身でいくつかの経験を踏みつつある次女に、今回はリーダーとして頑張ってもらおうと思ったこと。これは結果的には良かったと思っている。私が殿(しんがり)で連れ合いをカバーしながら歩くつもりであったが、二人でさっさと歩いて行って私を置き去りにするという「冷酷無比」なリーダーの面もあったが、全体としてはルートファインディングが的確で、なかなかのものであった。

3の理由は、このコースは私が26歳のときに4人パーティーのリーダーとして35Kgのキスリングを担いで登った縦走コースで、自分の心の中で深く思いに残っている山行であること、そして自分がこういった「本番登山」に行けなくなる前に、もう一度足跡を辿ってみたいと常々思っていたことである。

そのようなことで、昨年来から計画し、いよいよ本番となった。本年6月に映画「剱岳点の記」が公開されて、剱岳が全国的にブームになっている。私のようにかつてこの山に挑戦した人たち、特に時間的経済的に多少ゆとりができて、メモリアル登山を目指す団塊の世代の登山者が多いだろうなと思いつつ、盆明けの816日いよいよ出発した。

 

2009816日(日)(第1日目)

【行程】7:38 JR京都発(サンダーバード1号)→10:40電鉄富山発(富山地鉄)→11:40電鉄立山発(立山黒部アルペンルート)→13:00室堂(昼食・登山届提出)13:50→地獄谷・雷鳥沢→16:40別山乗越・剱御前小屋(泊)

                                                           (続く) 

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羅臼岳山行③

2009-03-21 18:11:30 | 

 羅臼町ビジターセンターの間欠泉も「ご苦労様」

 

山頂直下の岩場を慎重にくだり、十二時丁度に岩清水まで下山。小休止を取っていると三人連れの外国人が登ってきた。

This water is good for drink”Thank you”

などといい、続けて「どこから来ましたか」「昨日はどこにステイしていましたか」と尋ねると、スウェーデンから来て昨日は岩尾別のユースホステルに泊まっていたとのこと。一番最後から登ってきた青年と話すと、その青年は北海道大学に留学中とのことで、実は日本語堪能。お父さんと兄さんがスウェーデンからバカンスでやってきて北海道を楽しんでいるとのことであった。お父さんは若かりしころのクリント・イーストウッドに少し似た雰囲気の人であった。

さて、いよいよ羅臼側に向けて下山の開始である。なるほど、たくさんのパーティや登山者がいるが、羅臼側に下山するのは、わが一行のみで、ほかには誰もいないではないか。それほど人が通らないのか。自然と静寂に対する期待とともに、Iさんがいるとはいえ少しの緊張を覚える。

 

いきなり急斜面のガレ場・ザレ場に緊張。遥かなる厳しい羅臼への道

十二時三十分、直進すれば羅臼平、右にルートを取れば羅臼町側の分岐を右に取り、しばらく行くとザレ場ともいえる細かいガレ場がルートとなる。このガレ場が難所で、下りの斜度は三十五度以上はある。四十度以上かもしれない。スキーの斜面の感覚で言うと「崖」である。石が小さいのだが、「ステップを切って」など優雅なことを言っておれない。とにかく滑落しないように、慎重に、慎重に下っていく。ルートのめどとしてロープが張ってあるが、バランス確保や滑落防止などには使えない。

約四十分ガレ場を下山し、やっと普通の地道となったところで振り返れば、やはりいつ崩落するかわからないような‘崖’であった。ガレ場の下部からは、地道ではあるが笹に覆われた道が続く。

十三時二十五分、左側は高さ三十メートル~五十メートルぐらいの岩壁が約五百メートル続いている『屏風岩』の始点から、小さい沢を挟んだ迷いやすい道を進み、十三時四十五分『屏風岩』の終点に至った。ここから沢を渡渉し、笹に覆われたふみ跡程度の細い道を辿り、先が崩落している本来の道を離れ、急斜面に急遽付けた様な微妙なふみ跡を慎重にトラバースし、やがて十四時五分に『泊場(とまりば)』に到着。ここでのルートはガイドさんがいなければ、まず迷っていただろう。

『泊場』は二本の沢が合流するY字状の交点の小高い丘状の場所だ。合流してから下流のほうへの流れは、羅臼町へと流れていく。右の沢も左の沢も強烈に硫黄が沈殿しており、下流に向かって左の沢には飲用可能な湧水があるのだが、周りの硫黄臭が強く漂い、さすがにあまり飲みに行く気にはならなかった。『泊場』で十四時三十分まで大休止とし、わが一行は行動食のパン、チーズを賞味した。

 十四時三十分、「泊場」発。「泊場」まではおおむね尾根筋の道をずっと辿ってきたが、ここから先は、谷筋に入っていく。谷筋といっても底部ではなく、急な斜面に取り付けられたトラバース道を辿っていく。樹木は茂ってはいるが、斜面が急なので結構緊張しながらトラバースを続けた。時々は視界が拡がり、周りの山を見渡すと、かなり標高も下がってきているようで、大体二百~三百メートルぐらいかと思われる。

時々、熊除けのためにガイドのIさんが「ヒュー」という喉笛のような声を出し、手をパンパンとたたいている。先に書いたようにこの夏羅臼町のキャンプ場に熊が出没し、女子中学生が寝ているテントを外から叩き、妹のいたずらと間違えた女子中学生が蹴り返しているうちに、熊が退散してしまった、という事件が起こっている。ここは、熊の生息地域なのだ。熊さんの領域なのだと再認識。

そのうち熊ではなく蝦夷鹿がトラバース道の少し上方に現れ、鹿のほうがびっくりして一瞬立ちすくんでしまうようなことにも遭遇した。Iさんの「ヒュー」もますます頻繁になってきた。

 少し緊張したトラバース道も過ぎ、また尾根沿いの緩やかな道となり、這松帯を過ぎてしばらく行き、やがて十六時二十五分に休憩用の木製のベンチ・テーブルのある『里見台』に到着。ここで十分間の小休止とした。『里見台』からは羅臼町側の展望が開けている。標高は百メートル少し位か。「ビジターセンター」の建物が遠望できる。いよいよ羅臼岳山行も終わりに近づいた。ここでIさんも交えてしばし「ご苦労さま」の記念撮影。

 『里見台』からは樹林帯の中を歩いていく。途中温泉の湧水地などを経て、そして熊出没のため現在は閉鎖している例のキャンプ場の横をとおり、十七時二十分にビジターセンターに到着した。十二時間にわたる登山はここで終了した。わが一行が到着すると同時に、センター横にある間欠泉からお湯が噴水のように吹き上がってきた。まるで

 『羅臼岳登山ご苦労さんでした。そしてようこそ羅臼町へ。』

 とでも言っているかのように。

 センターでIさんと、

「また是非ともご一緒したいですね」

などと、別れを惜しんだ。今回の山行は、Iさんというすばらしいガイドさんについて貰って本当によかったと思う。はじめは「熊対策」などと思っている部分もあったが、結果、厳しい登山を十分サポートして頂いただけでなく、知床横断羅臼岳登山という懐の深い山行と、まさに大自然を十分に堪能させていただいたし、本当に心に残る登山となった。

  センターには本日別行動の三女も迎えに来ていたが、わが一行はIさんの車に乗せていただき、本日の宿泊地である、『民宿いしばし』へと向かった。

                                                      (終わり) 

                                                         

                                      

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羅臼岳山行②

2009-03-13 18:32:25 | 

 羅臼岳頂上直下から羅臼平を経て、三ツ峰・知床連山

 

 やがて七時二十五分に『弥三吉水(やさきちみず)』の水場着。ここは湧水を樋で引いており飲める水。一口飲んでみたが湧水独特の‘甘味’があまりなく、単純なミネラルウォーターの感じであった。『弥三吉水』で十五分間の中休止。ここまで下りの難路を考えゆっくりしたペースだが、全員快調に登山を続ける。登山者も多く休憩中にやがて下のほうから十名以上の高校生のワンゲルか山岳部かのグループが三名の先生に引率されて上ってきた。引率の女性教師は

「私はここで待っているから、みんなで登っておいで。」

と息を切らしながら話している。『弥三吉水』の広場は登山者でいっぱいになってきたので、わが一行はお菓子を食べてから出発。

林間の道から、時々は山頂方面への見晴らしのある、森林限界に近くなってきた道を登り続け、八時二十五分に『銀冷水(ぎんれいすい)』の水場着。ここの水は飲用には適さないとのこと。湧水ではなく雨水のよう。ここでは五分間の休憩。

 『銀冷水』を発って、中高年のグループと抜きつ抜かれつの本当にゆっくりしたペースで登り続ける。やがて山頂部の展望が開け、木々も低木となってきて森林限界となってきたところで、視界も大きく広がったところが『大沢』の谷の基部。『大沢』は枯れ谷で岩場。途中鎖場もあったりする。沢の頂上部は鞍部になっており、左の山は『三ツ峰』で右の山がわが一行の目指す『羅臼岳』、鞍部が『羅臼平』である。大沢の岩場を登っているとIさんが、

「今度はシマリスがいますよ。知床には先ほどの蝦夷リスとシマリスの二種類のリスがいますが、

今日は両方とも見られて、本当によかったですね。」

右手の大きな岩の上にかわいいシマリスが座っている。人を恐れる様子もなく周りをキョロキョロと見ている。今度はデジカメを取り出し、焦点を合わせズームアップし、きっちりと写真撮影に成功した。下からは高校生のパーティが登ってきて、シマリスを教えるとワーワーキャーキャー。それでもシマリスは逃げる様子もなく岩の上に座っていた。

『大沢』を登り続け、やがて鞍部の平坦地『羅臼平』に九時二十五分に到着。東は『三ツ峰』そして西は何やらルートの厳しそうな『羅臼岳』。時折雲に覆われるが、くっきりと聳え立っている。『羅臼平』にはテントが一張り。長逗留の様子である。Iさんが、

「このテントはたぶん先輩のガイドさんのものだと思います。山の雑誌の取材で記者の方たちと一週間ほど山に入ったきりです。」

わが一行は、生活の臭いがたっぷりと漂うテントの横で、簡単な行動食を採ることとした。

 

強い風の中、羅臼岳に登頂。そして羅臼に向けて下山開始

 『羅臼平』で行動食後九時四十五分に頂上目指して出発。十五分ほど行くと最後の水場である『岩清水』着。ここの水は湧水で飲用可。ここでIさんが、

 「皆さん大丈夫ですか。ここで疲れていたり、膝が痛かったりしたら羅臼側への下山は無理です。今日のコースは登り五時間、降り六時間のコースで、ルートの厳しさも登りの道とは比較になりません。ここまではゆっくりしたペースできましたが、これで疲れているようなら羅臼側ルートは無理です。大丈夫ですか。」

 の念押し。ここまではペースもゆっくりでほとんど疲れもなく、わがファミリーはノー・プロブレムの返事をする。そのようなやりとりの後山頂目指して行動再開。

『岩清水』を左に捲くと道は急峻な岩場になってくる。岩場といっても一枚岩ではなく大小の岩が山頂に向かって積み重なっている大中の石のガレ場状態である。ところによっては三点支持で慎重に登らねばならなかったり、落石に注意をしたり少し緊張する場所もある。山頂直下の最後のアルバイトで、これが結構な仕事であった。とはいえ、多くの中高年のパーティや小学校高学年くらいの子供、その引率のかなりのご年配のご夫婦などいろんな登山者が登っている。

山頂から降りてくる人たちとのすれ違いで待機したりしながら、やがて十時五十分に、羅臼岳山頂(千六百二十一メートル)に到着。岩かげから十五人ほどが居れる山頂に出たとたん、かなりの風にあおられ、思わず身が締まった。羅臼平でもそうであったが、オホーツク海側から太平洋へ、ここは風の通り道である。眺望は北にオホーツク海、南には羅臼の町から国後島、東には三ツ峰、硫黄岳と連なっていく知床連山が、雲が時々吹き飛ばされる瞬間に、壮大で美しい景色を見せてくれる。

山頂では、Iさんと、羅臼平でテントを張っていたIさんの先輩のガイドさんとのご対面。山岳雑誌の記者さんの取材のガイドで同行し、五日間キャンプしていたけれどシャッターチャンスがなかった、食料も無くなったので本日これから下山するとのこと。山頂で連れ合い、次女、そしてガイドのIさんと記念写真を何枚も写し、名残惜しい思いをしながら、十一時十五分に下山開始。

                                                                                              (続く)

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羅臼岳山行①

2009-03-06 19:33:58 | 

 羅臼岳頂上 遠景は知床ウトロとオホーツク海

二〇〇八年八月八日

羅臼岳山行

二〇〇八年八月八日、私と連れ合いと次女のいつものメンバーで、知床半島羅臼岳登山にチャレンジした。今回は定年前の最後の夏休みであること、結婚して釧路に在住している三女と合流して道東の旅行を楽しむことなどいくつかの目的を持った旅行で、その一環としての登山である。

八月七日から十一日までの四泊五日のフリープランのツアー旅行で、七日は関空から女満別空港へ、空港からレンタカーで沿線を観光しながら網走、小清水原生花園等経由JR知床斜里駅で三女と合流。その後知床ウトロの『ホテル知床』へ。その日は『ホテル知床』に泊まり、八日の登山に向けて英気を養った。三女は八日は一人でレンタカーを駆って知床散策後知床横断道路を通り、わが一行の到着地点である羅臼の民宿までレンタカーと荷物の移動係りである。

五時に行動開始、多少の雨は降ったけれど快調なペースで羅臼平まで

今回の登山はガイドさんをお願いした。ガイドさんはIさん。結果的にガイドさんについてもらって正解だった。登路はなんということはないが、降路の羅臼側は道もルートもかなり厳しく技術もルートファインディングも上級、ベテラン向きで、ガイドさん抜きでは相当難儀したであろうと思う。

八月八日午前五時、Iさんがホテルに迎えに来る。前日ホテルが朝四時に朝食の用意をすると言っていたのに、連絡ミスで何もできていない。「お待たせしました」とあたふたしながらホテルの係員が持ってきたのは、何とコンビニのおにぎり一人二個とお茶一本ずつ。ばたばたしながらIさんの車に同乗し五時に出発。途中コンビニに寄ってもらい、行動食の副食を仕入れ、五時二十五分に羅臼岳登山口の岩尾別温泉『ホテル地の涯』に到着。ホテルの横を通り抜け、無人の木下小屋まで行き、そこでストレッチ等準備運動。木下小屋には宿泊の登山者が四~五名おり、それぞれが朝食の支度や登山準備をしていた。

五時四十分出発。天候は曇りだが登山には快適。最初のうちは林の中の登山道を辿り、徐々に高度を上げていく。天気予報のとおり途中から雨が少し強く振り出し、ザックカバーを被せレインコートの上着のみを着る。六時二十分に少し木立が途切れ、後方に視界が広がる「オホーツク展望台」着。一時オホーツクの展望を楽しむ。しかしこの場所には真新しい看板が据付けられ、その内容は「ヒグマ遭遇地」とのこと。何でも二週間ほど前にこの地で登山者がヒグマと出会ったとか。そういえば本日の到着予定地の羅臼町のキャンプ場でもヒグマが出没し、キャンプ中の家族のテントをまさぐったとのこと。そうなんだ、知床はクマさんの住処なんだと改めて実感。『クマさんごめんね。ちょっとの間登山させてね。その間出てこないでね。』と心の中でお願いしつつ、小休止

小休止のあと再び林の中の登山道を辿る。しばらく行くとIさんが、右手の木の上を指差し、

「あそこに蝦夷リスがいますよ。なかなか見ることができないのですが、今日は運がよかったですね。」

とのこと。見れば普通のリスよりかなり大きめで、色も黒っぽい蝦夷リスが木の枝を悠然と渡り歩き、なんだかこちらの様子を覗っているよう。写真を撮ろうとあわててデジカメを取り出し構えるがズームにしたりしているうちにどこかへ移動してしまった。そのうち熊除けの鈴を谷側に落としてしまった。長く使った愛用の鈴だったので少し残念。弱り目に祟り目で、なにやら先行き不安。

                              〈続く〉

 

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大峰奥駈けの道 Ⅳ-④

2008-10-23 10:03:41 | 

 玉置神社の出雲大社

 

      大峰奥駈の道 Ⅳ-④

 

      未明から雷交じりの暴風雨。早々に本日は十津川温泉まで

   エスケープと決定。大峰奥駈ファイナルは次回に持ち越し。

 五月六日未明、三時半頃であった。かなり強い風雨の音に雷鳴も聞こえ、目が覚める。うーん、うっとおしいな。どうしようかな。と思い巡らしながら布団の中で転寝しながら思案三昧である。そのうち四時になったので起き出して隣室に顔を出すと、すでにAさん一行は全員起床して車座になっていた。

 

  「Aさんどうする。ちょっとうっとおしいな。」

 「ああ、今日は駄目だ。エスケープに決めたよ。」

 

 と、あっさりしたものだ。よし、エスケープに決定。みんなで決めれば未練も残らない。

 みんなで三々五々朝食を摂り宮司さん、若い神主さんにエスケープすることとお世話になったお礼を言い、そしてエスケープルート確認のため周辺ハイキングマップを貰ってきた。部屋へ戻りAさんパーティにN氏も加わりエスケープルートを検討した。ルートは駐車場から林道切通しの道を横断し、折立・十津川分岐から山中を十津川温泉に向かって行くこととした。

 五月六日朝八時三十分出発。神社の生活道路を辿り、駐車場を横断し林道の切通しの道を横断し、九時十五分に折立・十津川分岐へ到着した。意外と時間がかかった、というよりのんびりペースである。分岐に立つとまっすぐ西方向へ下っていく折立への道には「自然歩道」の看板が出ている。左側へは十津川温泉へ行く(はずの)道が続いている。わが一行は予定通り左側への道を進んだ。

 しばらくは快適で順調に「道」を辿っていったが、やがて「道」はだんだんと険しくなってくる。私やAさんが交互にトップになり進んでいくが、行く手が不明になるたび何度か行きつ戻りつし、そのうちにやがて崖の上に出たり、藪漕ぎもできないにブッシュに行く手を遮られたり、急斜面にぶつかったりしてついに進退きわまってしまった。

 

 玉置神社境内にある地図の看板

  Aさん

 「あかん。戻ろう。」

 私

 「戻ろ。」

 ということで、切通しまで戻ることとした。この道はハイキングマップのみならず、登山地図にも明瞭に書かれているが、実際の道はあちこちで崩れていたりしてこの時点では通れない状態であった。

 N氏や他のメンバーはもっと早くから戻ろうといっていたが、私とAさんがぎりぎりまで引っ張っていったのだ。

 やがて、十時三十五分に折立・十津川分岐のある切通しの林道に戻った。私はさっさと舗装した林道を十津川温泉まで行くつもりであるが、今度は分岐のところで舗装道路でなく折立まで「自然歩道」を行こうとの意見が出てきて、しばし評定。Kさんあたりが「自然歩道を折立まで行こう」と主張していたらしく評定はかれこれ三十分ほど続いた。やがて話がまとまったか、全員が分岐からぞろぞろ降りてきて、結局舗装した林道を十津川温泉まで下りることとした。

舗装した林道などといっても、両側の崖から落ちてきた大小の石が道のあちこちに転がっており、落石に気を使うわ、雨はどんどんと降ってくるわでわいわいがやがやではあるが、結構大変なエスケープロードではあった。

 長いエスケープの末、やがて十津川に架かる「猿飼橋」を渡り、温泉と反対の「鈴入」の集落のバス停へと行った。しばらくは上り下りともバスはなく、雨はどんどんと降ってくるわ、雨宿りする場所はないわで結局十津川温泉のバスターミナルへ行くこととした。

 Uターンしてどんどん歩き、十津川温泉で温泉に浸かりビールをあおる目論見のAさん、Kさんと分かれ、やがて十三時五分に「十津川バスターミナル」に到着。ターミナルでやっと雨具を脱ぎ、待合のベンチに座り玉置神社で作ってもらった昼弁当の「めはり寿司」をいただき、ほっと一息。

  十三時四十五分発の新宮行きの奈良交通バスが十津川バスターミナルに到着し、わが一行はそれに乗る。十四時二十分本宮大社前に着。N氏はそのまま新宮まで向かい、紀勢線経由で東京まで帰るとのことで分かれる。本宮大社では雨も小止みになり、コーヒーを飲み孫たちへの土産を買う。十五時十分本宮大社前発JR白浜行きのバスに乗り、熊野古道の中辺路の道に平行しながら、やがて十六時十五分JR白浜駅着。

 

  十六時三十分発の「くろしお三十号」に乗り、大阪へ、家族の待つ茨木へと向かった。

(終わり)

                                        

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大峰奥駈の道 Ⅳ-③

2008-10-13 19:24:20 | 
    香積山山頂
 

           大峰奥駈の道 Ⅳ-③
    
 玉置神社の御神木    

 山道を歩いていくと再び林道が並行し、そこが「かつえ坂」の上り口だ。十四時二十五分着。ゆっくり目のペースだが順調に来た。ここまで来ると本日のゴールである玉置神社まではもう少し。右に林道、真ん中に尾根伝いに「かつえ坂」、左側に道が続きその道は「勧業の森」から玉置山の東側、「宝冠の森」へと続いている。
 我が一行は「かつえ坂」を上っていく。本日最後のアルバイトで十四時五十二分、ついに「玉置山(たまきやま)」頂上(標高千七十六メートル)に到着。頂上は開けており、時を告げる鐘が吊るされてある。我が一行が玉置山頂に着いたとき、山頂には学生のようだが、外国人と日本人の女性の二人連れが弁当を食べていた。
 山頂で小休止の後、玉置神社へと降りて行った。 玉置神社へ至る道には巨大な「御神木」がある。周りには樹齢何百年という巨木が鬱蒼と林立している。それは今までの大峰奥駈道とはまた雰囲気や空気の違う聖域に入ったという感じで、霊気が漂う気配だ。
 十五時八分に「玉置神社」に到着した。 「玉置神社」は千年の歴史を持つ由緒ある神社である。すべての建物は木造で、長い歴史を刻んでおり、昔から地元の人々の厚い信仰の対象となり、尊敬され守られてきた雰囲気が十分に感じられる。本殿に行き、予約をしていた旨を告げると、本殿の下にある宿泊所に案内され、Iさんから入浴や夕食、明日の朝食、お弁当のことなどの説明をしていただいた。Iさんは毎日日帰りで神社にお手伝いに来ており、庶務や泊り込んでいる宮司さんや神主さんのお世話をしている。「山彦の会」のYさんの言伝を言うと、懐かしそうに微笑んでおられた。建物は古いのだが、心のこもったおもてなしにかえって暖かさを十分に感じさせてくれる。


   玉置神社本殿

 昨日同宿した東京からの単独行のN氏が先に到着していて、ちょうど風呂から上がってこられた。N氏は大峰奥駈の縦走をしており、今回は前鬼から入山している。

  「こんにちは。早かったですね。」
   「私は一人ですし、とくに寄り道もせずただひたすら歩くだけですか ら。しかし大峰の縦走は、アプローチも難しく、関東ではあまり知られ ていないのですが、すばらしい縦走路ですね。明日は熊野本宮まで 行き、感慨新たにしたいですね。」

  などと話した。連れ合いと次女は先に入浴。水道も通っていないところで、湧水のお風呂をいただけるとは贅沢至極。後でわかったが、お風呂はタイルに穴が開いてたりして、それなりに趣があった。

  「おおい、何だお前さんか。」

 突然新着の人から声がかかった。通路のほうが暗くて誰なのかよくわからない。ひょっとして失念しているのか、恐る恐る声をかけた。  

 「失礼ですが、どちらさまでした。」
  「なんや、失礼なやつやな。Aだよ。」
  「あっ、Aさんか。そっちは暗いのでよく見えなかったですよ。それに しても偶然とはいえこんなところでよくも会いましたね。単独行です  か。」
  「いや、四人連れ。Kもおるよ。みんな遅いから俺が先に来た。今日 は『平治の宿』からここまで来た。『花折塚』からここまで三十分で来 たよ。」

  と一気に喋る。しばらくするとKさんやら、仲間の皆さん方が元気なもの順番にバラバラで到着。なんちゅうパーティや。Aさん、Kさんは私の職場のアルペンサークルの仲間。お二人とも仕事は現職を退いておられるが山については大ベテランの現役。実は私はアルペンサークルは軟弱だ、と日頃のたまい、飲み会以外はほとんど例会に参加しなかったのだが、皆さん方の話と実際の行動を聞いていて、認識を改めた。
 この晩は、神社の神主の方に『ビールありませんか』と尋ねて、えらく顰蹙を買ったりしたが、何とかA氏持込の焼酎で、N氏もいれて、密かに小宴会。なつかしの面々と、そして初対面の人と、山談義。 折から雨が降り出してきた。天気予報では本格的な降りになるとのこと。
 外のほうでなにやら人の声がして、そして宿泊所を過ぎて、駐車場方面へと歩いていった。どうやら先生と教え子の三名パーティのよう。宿泊を断られたようだ。「玉置神社」では宿泊は修行の人、奥駈の登山者に限りそれも予約がなければ絶対に泊めないようだ。後で先生のブログで知ったが、その日はテント泊まりとして、翌日は、荒天のためエスケープしたとのことであった。
                                      (続く)
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大峰奥駈の道 Ⅳ-②

2008-10-06 20:06:00 | 

  地蔵岳を過ぎて尾根筋を行く

 

    大峰奥駈の道 Ⅳ-②

 

行仙宿山小屋から南奥駈道の稜線を辿り、玉置神社

まで。玉置神社で懐かしい仲間と偶然の再会。

 五月五日は朝四時過ぎに目覚め、朝食と出発の準備を始める。途中夜中の二時ごろには山岳マラソン系の登山者がごそごそと出発して行ったのに目覚めた。

 わが一行は五時四十分に「山彦の会」の三名の皆さんに挨拶し出発。小屋には、東京からの単独行の登山者と、先生と教え子のパーティが残った。出発のときにYさんから玉置神社でお手伝いしているIさんに、『Yは行仙宿の小屋に居てる』と伝えるように言付かった。

準備運動の後登山開始。いくつかのピークを越え、朝から結構なアルバイトを強いられた末、七時十分「笠捨山」と書いた木札に出会った。ここに至るまでに、単独行の人に「お先に」と追い抜かれてしまった。後ろからは先生と教え子のパーティの声が聞こえてくる。本当の山頂はここから五分、七時二十分に標識のある「笠捨山」山頂(標高千三百五十二メートル)に到着。ここからしばらく行くと尾根道と並行して高圧送電鉄塔と送電線がずっと走っている。七時四十五分に葛川辻(くずがわつじ)着。尾根からはずれ左の谷筋を降りていくと、葛川の集落に下山できる。わが一行はさらに尾根筋を辿り、登り続けた。

 尾根をしばらく行くと、足場の悪い岩場が連続し、多くの鎖場が続く。連れ合いの薀蓄によると、この鎖場はある篤志家が個人で設置したとのことだが、本当にそのご苦労に対し尊敬の念を抱く。現在鎖は新しいものになっており、おそらく「山彦の会」の皆さんを中心に張り替えていただいたのだろう。鎖場を過ぎやがて八時三十分に「地蔵岳」頂上(標高千二百五十メートル)に到着。

 さらに尾根筋を辿り、九時に「四阿之宿(あずまのしゅく)」着、小休止。九時四十二分「香精山(こうしょうやま)」(標高千百二十二メートル)着。相変わらずのアップダウンでずっと尾根筋を歩いていく。ここから少し樹林帯となり十時十五分に岩に祠の彫り跡の残る「貝吹之野」その先の「貝吹金剛」に十時二十分に着。この辺りは登山地図によると『キャンプ適地』と書いてある。しかし実際は平地もほとんどなく、倒木やブッシュでとてもキャンプはできそうにもない。「水場」の看板もあることにはあるが、かなり道からはずれて遠そうである。

 しばらく登っていくと下のほうから拡声器の声がする。「何かな」と思って覗き込むと百五十メートル程右下、西側下に大きな駐車場が見え車が何台か止っている。どうやら国道四百二十五号線沿いの「二十一世紀の森」「森林公園」の駐車場のようだ。静寂さが破られ俗世間に引き戻された感じで、少し興ざめではある。さらに尾根を歩き続け、十一時に小ピークで昼食とした。いつものとおりパンとウィンナーソーセージとフルーツジュースの行動食。十一時四十五分に出発。少しゆっくりなペースである。十一時五十七分「如意宝珠岳(にょいぎぼしだけ)」(標高七百三十六メートル)着。樹林帯の中を歩き、やがて十二時二十分頃「稚児の森」に着く。小休止の後しばらく行くと、樹林帯が開け地道の林道に出会った。尾根筋の林道で展望がよく、北の方を望見するとはるか大峰の山々が小さくしかし延々と連なって見える。

        稚児の森林道からはるか大峰山脈を振り返る 

 「あれが多分弥山、八剣やろね。はるばるここまでよう着ましたね。」

 連れ合いと次女にそういいながら、しばし感慨に浸る。相変わらずのゆっくりペース。

 切通しになった地道の林道を横切り、再び山道へと入り尾根道を辿り続ける。樹林帯を行くのだがそのうち道というより踏み跡が不明瞭になってきて、しかも尾根から外れていく。このとき我が一行の先頭は元気いっぱいの次女。

 

 「おおい。道がおかしい。尾根筋から外れたらあかん。無理やりでも上に登れ。」

 と、後ろから私が大声をかける。私自身もブッシュと朽ち木の斜面を強引に這うようにして登っていった。ズルズルとずり落ちながらも何とか上に登りきると、案の定舗装した林道に出会った。連れ合いと次女も林道まで登ってきた。林道を少し行くと広場と、広場には木造の立派な展望台と簡易トイレがある。展望台からの山は南奥駈の峰々と、東を見ればおそらく台高山脈なのだろうが、なんと言う山なのか、名前まではちょっとわからなかった。林道をちょっと行くと大峰奥駈道の看板があり再び山道へと入っていく。山道をしばらく歩いていくとまた切通しになった林道に出る。林道を横切り山道に入り、少し行くと名前の通りきれいに整備された「花折塚」に十三時四十二分に到着した。ここで十五分ほど休憩し「花折塚」の由来の看板などをじっくりと読んで、大峰奥駈道に関わった昔の人々を偲んだ。

 

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