"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑳

2006-08-07 22:21:16 | 遍路
 四国88ヶ所自転車遍路の旅8-5 通産20回目です。結願(けちがん)目前でリタイアしようか路線バスに乗って結願(けちがん)しようか。

 ついに結願。ただし、歩き通せなかったのが大変心残り… JR高徳線で発心の寺霊山寺へお礼参り。走馬灯のように駆け巡る思い出

 二〇〇三年八月六日、いよいよ結願の日である。朝五時四十分に起床し、身支度を整え六時二十分に朝食を頂く。六時四十五分に「民宿ながお路」を出発し、 いよいよ結願の大窪寺をめざした。 県道三号線を、痛む足を引きずってただ黙々と歩く。足の浸潤液は止まることなく、朝に足を見た時はべっとりと血液混じりの浸潤液で濡れていた。マメができ た程度なら、五分も歩けばそれなりの「歩きのリズム」ができてきて普段どおりの歩きができるのだが、今回はどうもまずい。ますます痛みがひどくなり、ズキ ズキと疼く。
 もはやずり足で歩いても痛みがますますひどくなってくる。
 いろんなことが頭をよぎりだした。

 『リタイヤして、次回長尾から歩き直すか』
 『次回はいつか、年末か、来年の夏か』
 『こんな、単純なミスをしてただただ悔しい』
 『悔しくて情けなくて泣きたい気持ちだ』
 『自転車にしておけば良かった』

 等々が交錯する。 ついに、七時三十分、“連れ合い”に
 
 「もうだめ。歩けないので長尾の駅から大阪へ帰ろう。」
 
 もう両足が痛い。足を引きずるようにして、県道をUターンし長尾の町へと引き返した。八時過ぎに長尾に戻ると、琴電長尾駅の近くの県道に面して大川バス のターミナルがあり、ひょっとしてそこから大阪行きのバスが出ていないか聞きに入った。案内所の人は親切丁寧に対応してくれたのだが、ついでに大窪寺へは バスでいけるのかどうか訪ねてみた。するとなんと九時五分に、ターミナルから大窪寺行きのバスがあるとのこと。しかも、町からの補助金が出ており、百円で 行けるとのことである。折角ここまで来たのだ。“連れ合い”と相談し、いずれリベンジはまとめてするとこととして、今回はバスに乗って、とにかく結願を果 たそうということになった。そうすると、一番札所鳴門の霊山寺にもタクシーとJRを利用して行ってしまおう。時間表を見て、前山ダムサイトにある「おへん ろ交流サロン・へんろ資料展示室」にも立ち寄って、そこからタクシーでJR造田駅に行き、高徳線で板東駅へ、そして霊山寺へと、急遽行程の立て直し。
 タクシーの予約をお願いして、バスの待合室に移動した。九時五分発のバスを待っている間に、地元の若い女性に

 『御接待をさせてください』
 
 とペットボトル入りの良く冷えたお茶を頂いた。遠慮するわけにもいかず、ありがたく頂いたが、歩きとおせなかったことや、すばらしい信仰心があるわけでもないことやらで、気恥ずかしい思いがする。 九時五分の定刻に大窪寺行きのバスは発車し、長尾の町中を通り抜け、やがて前山ダムのダムサイトを通り、山の中へ。いくつかの集落や学校があり、バスの乗客も地元の人や小学生、中学生が七~八名、それぞれの停留所で乗降する。
 やがて、九時四十三分に大窪寺のバス停に着いた。 足を引きずって、バスを降りたらすぐ目の前が結願の寺、四国第八十八番札所「大窪寺(おおくぼじ)」である。バス停から少し回り込むと、大きくて立派な朱塗りの仁王門がある。仁王様も金箔を張った立派な姿である。
 ここから境内に入るとまず大師堂があり、その横に金剛杖の奉納場所があり、たくさんの金剛杖が納められている。本堂はまだ奥にあり、並びが不自然である のだが、実はこの仁王門は最近建立されたとのことで、昔の仁王門はちゃんと本堂の前にあり、後に女体山を従えた本堂を仰ぎ見られるようになっている。新し い仁王門はどうも観光客向けのセットのような感じがしないこともない。
 ともあれ、お参りを済ませ結願の納経帳への記帳を頂いた。“連れ合い”は私に結願の感想を求めてきたが、いろんなことが思い浮かび、まとまった思いが抽出されるわけではない。 感激というより、むしろやりのこしたことや後悔したこと、心残りなことが浮かんでくる。

 「最後に歩けなかったことが痛恨の思い」
 「次回は歩き(自転車でも良いが)で通し打ちをしたい」
 「焼山寺には次回には自分の足で登る」
 「もっとたくさんの人たちと出会い、触れ合いたい」
 「中抜けになっている薬王寺から甲浦の間を歩かねばならない」

 等などである。やりとおした充実感というものはなぜか余り湧いてこない。反省ばかりが心をよぎってくる。そんな気持ちを抱きながら、激痛の足を引きずって境内を歩き散策した。
 バス停に戻り、十時三十五分大窪寺発のバスに乗り、十時五十分に前山ダムで下車。ダムサイトの道の駅のレストランで少し早めの昼食にうどんを食べた。こ れで今回四国へ来て三回目の昼食だが、全てうどん。さすが讃岐の国だ。うどんが食べたくなる雰囲気がある。昼食後、「前山地区活性化センター」にある「へ んろ資料展示室」に立ち寄る。へんろの歴史とか、古文書も含めたくさんの資料が展示されている。ゆっくりと見学していると、ここでも御接待ですといって会 館の職員の方から缶ジュースを頂いた。

                          (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑲

2006-08-03 22:48:16 | 遍路
 四国88ヶ所自転車遍路の旅8-5 通算19回目です。いよいよ、
 結願(けちがん)までカウントダウンですが、身も心もダウン寸前・・・

 
長尾寺への道は国道十一号線と交叉する交通量の多い県道三号線をひたすら南を目指して歩いて行く。最初の頃は志度の町並みで、県道の両側はコンビニやスー パーマーケット、商店、住宅などが並んでいたが、やがて高松自動車道の高速道路の高架を過ぎる頃からは、人家も絶えてくる。いよいよ激痛となってきた足 を、ごまかしごまかし歩く。木陰を探しつつ、排気ガスと照りつける太陽に辟易としながらもくもくと歩きつづけた。
 一時間ほど歩くと、県道か ら左手のほうに旧道が繋がっている地点に着く。旧道は遍路道となっており、そこを歩きやっと排気ガスから解放された。遍路道といっても交通量の多い国道や 県道を辿る道も結構多く、特に真夏の暑い季節には余り快適ではない。さて、旧道をしばらく行くと、玉泉院という寺の前を過ぎた。玉泉院の門前は、立派な藤 棚があり横手のほうには、第八十七番札所の長尾寺の奥の院との掲示が出ている。高校生ぐらいのグループが玉泉院の中に入っていったが、合宿でもしているの だろうか。
 玉泉院を過ぎ三十分ほど行くと、ふたたび県道三号線にぶつかるが、それを横切り、川の土手の上の道を歩く。標識が出ており長尾寺 までは二.三キロメートルとのこと。土手の道を一キロメートルほど行くと「へんろ橋」があり、そのたもとに「お遍路さん休憩所」の東屋がある。時刻は十五 時四十分。長尾寺まではあと一.三キロメートルであり、時間は余裕を持って間に合った(ケーブルカーと琴電のおかげか)ので、しばし休憩。少しすると若い 男性の歩き遍路さんが到着した。

  私
  「ご苦労様。一番から通し打ちをされているんですか。」
  遍路さん
  「いえ、私は家が松山で、松山をスタートして予定では一国打ち(それぞれの県ごと、四回に分けて回りきる遍路の仕方)で歩いています。仕事の都合で毎月人に合わねばならず、通し打ちはちょっとできません。」
 私
  「最近は、若い人が遍路をするのが多いですね。特にこんな真夏は年配の人はほとんど見かけませんが、そのかわり夏休みを利用してか、学生さんのような人も多いですね。」
  遍路さん
  「そうですね。先ほど志度寺で見かけられたでしょうが、自転車で遍路をしている学生さん。あの自転車はお接待で貰ったそうですよ。もっとも終わったら返しに行くといってましたが。」
 
  そういえば、志度寺を出発する時、ママチャリに荷物を一杯積んだ学生風のお遍路さんと挨拶を交わした。しかし、彼はもうすでに私たちを追い越してずっと先まで行っているだろうと思う。
 
  遍路さん
  「しかし、いろいろと話を聞いても、通し打ちの遍路さんは誰も仕事をしていませんよ。学生さんか、リストラに遭われた方、リタイアされた方などで、現職を持った社会人は通し打ちはおろか、区切り打ちでもなかなかできるものではないですよ。」
  私
  「それはそうだと思います。私は大学職員ですので、比較的長期間のゴールデンウィークや夏期休暇があります。だから今まで区切り打ちの自転車遍路ができたので、幸せなことだと思います。」

  お互いの今後の奮闘を励ましあって、男性の遍路さんは先へと歩き出した。 「遍路橋」を渡ると、長尾の町に入っていく。長尾の町は土壁の旧家があちこちに在り、古い町の雰囲気が残っている町である。町中をしばらく歩くと、第八十 七番札所の側門があり、正面の仁王門のほうに回り込むと本日の宿泊地「民宿ながお路」がある。「民宿ながお路」の前にご婦人が立っており、挨拶をするとそ の人が女将さんであった。
 荷物を置かせてもらい先にお参りとする。十六時十五分に第八十七番札所「長尾寺(ながおじ)」に 到着。梵鐘が吊るされた仁王門を入ると広い境内に本堂と大師堂がある。本堂の長押には立派で迫力のある龍が彫られており、この寺の個性がにじみ出ている。 お参りを済ませ納経帳に記帳を頂こうと納経所へ入ると、先ほどの歩き遍路さんがくつろいでいた。これ以上行動する気配は殆どなく、どうやらここに泊まるよ うな雰囲気である。
  「民宿ながお路」に戻り、早速靴下を脱いで足を見るとちょっと重症の感じである。右足の小指は爪が奥から剥れて浮き上がっており、しかも化膿している。浸 潤液が止まらず出血もあり靴下はどろどろ。指が白蝋化し壊死の状態である。左足の小指も、爪は剥れてはいないが浸潤液が止まらない。やはり壊死のような状 態。さらに両足とも親指のつけねから足裏にかけて「立派な」マメができている。よくこんな足で歩いてきたものだと感心しつつ、サイズのきつい登山靴を履い てきたことへの深刻な反省と、明日いよいよ結願への最後の旅をどうしたものかという不安が交錯する。
 ”連れ合い”のほうも数箇所に「立派な」マ メを作っている。ただ、マメだけなら何とかはなる。とりあえず入浴し、風呂から上がってバンドエイドで手当てを施した。その後、町に出て消毒薬やらバンド エイドを買い込もうと思い薬局を探したが、すでに閉店していて買えず。明日が気がかりである。「民宿ながお路」に戻り、夕食を頂いた後で女将さんに頼み、 消毒薬をわけてもらった。とりあえず、どうしようもないのでコインランドリーで洗濯後早々と就寝とした。 本日の歩行距離は約二十六.八キロメートルであった。     
                                             (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑱

2006-07-30 11:23:20 | 遍路
   四国88ヶ所自転車遍路の旅、8-4 通算で18回目です。   


  本日も、真夏の太陽で猛烈に暑い。壇ノ浦に注ぎ込む川沿いをしばらく歩き、やがて橋を渡り対岸に出る。壇ノ浦から離れ洲崎寺を過ぎ、石材店や石の加工場が両側に続く町中のバスのとおる道を山手のほうに五剣山を目指して歩いて行くと、やがて大きな鳥居があり、その右手には八栗寺まで登るケーブルカーの駅がある。あまりの暑さと、かなり足が痛くなってきたのと、時間の短縮ということで、ちょっと「カンニング」で十時十五分発のケーブルカーに乗ることとした。
  十時三十分ちょっと後ろめたい気はするが、「難なく」第八十五番札所「八栗寺(やぐりじ)」に到着。 八栗寺は、急峻な岩壁によって突き上げられた五つの峰、五剣山を後に従えた荘厳な雰囲気のする寺である。境内は結構参拝の人が多くにぎやかである。境内のベンチには若い男性の歩き遍路が二人で談笑している。

   「夕べは丸亀の友人に花火大会に連れて行ってもらった」

  などといっている。二人とも結構マイペースで歩き遍路をしているようだ。この時期は暑さが厳しく、歩き遍路は年配の方はほとんど見かけず、夏休みを利用した学生や、若い人が多い。 八栗寺でお参りのあと記念撮影。十一時に八十六番札所へ向けて出発。
  遍路道は、ケーブルの終点を過ぎて、裏参道を下っていく。裏参道といってもアスファルトの車道で、車での参拝はこの道を辿ってくるようだ。裏参道はかなり急坂で、二十%の表示が出ている個所がそこここにある。二十%というと、千メートルの距離で二百メートルの高度差があるということで、これが五百メートルも続くと自動車でも結構厳しい。
  私は、足のまめに気を遣いながら、少しきつめの登山靴で歩いていた。八栗寺から三十分ほど歩いて下っていると、突然右足の小指が「ムニュッ」という感じで、「空踏み」したような感じになった。小指のまめが表皮ではなく、かなり深いところにできていたのだが、そこから爪ごとめくれてしまったようだ。
 
  私
  「アチャー、足の小指の爪が剥れたみたい。」
 “つれあい”
  「だから、アスファルトの上でなく端っこの土の上を歩いたら、と言ったでしょう。それに登山靴でアスファルトやコンクリートの上を歩くのは駄目よ。一体どうするの。」
  私
  「こんなことになるとは思わなかった。前回も登山靴で横峰寺も登ったし、雲辺寺も自転車を押して登ったのにな。まあ、何とかごまかしごまかし歩くしかないね。」

  えらく情けないことになってしまった。それ以降は文字通り「ごまかしつつ」歩かざるをえなくなってしまった。 それにしても、裏参道からは牟礼の町が一望で、爪がめくれたことを忘れると、結構景色を楽しめる。
 正午前になり、本日も夏の太陽が照り付け、「ジリジリ」と音さえ聞こえてきそうな暑さである。遍路道は裏参道からだんだんと牟礼町の旧市街地に入っていき、海が近くなってくる。しばらく行くと、遍路道は国道十一号線に合流する。国道十一号線の手前に琴電が走っており、その信号のすぐ横が琴電「しおや」駅がある。

  私
  「『しど』まで三駅だから、琴電に乗っていこう」
 “つれあい”
 「電車に乗ったら、平賀源内の旧邸の前を通らないんじゃないの。」
  私
  「それでも琴電に乗って行こう。十七時までに第八十七番札所へ着かなあかんし、明日足が持つかどうか分からんし、暑いし…。」
 “つれあい”
  「そんなんでどうするの。」

 なんとも、日和見で情けないことであるが、このころ足は「激痛」になってきている。とにかく当面はどんな手段を使っても前へ行かねばならない。ということで、琴電に乗車。 「しど」は終点の駅である。自分の足の小指に少しでも体重がかかると、足が思いきり踏まれているような「痛さ」であり、その「痛さ」をごまかしごまかし歩いていると「歩きのリズム」ができてくる。それまでに四~五分はかかる。
 志度駅からやっとの思いで改札を出て、志度の町並みに足を踏み入れた。駅から左へ進み、一つ目の交差点が志度街道であり、古い町並みが続いている。志度寺へは右のほうへ行き、左のほうへ戻ると平賀源内の旧邸だが、戻る気力も余り湧いて来ず、右へと道をとり、志度寺へと向かった。
 駅から約十分、立派な五重塔をもつ第八十六番札所「志度寺(しどじ)」に十三時に到着。 志度寺は町中の寺で、境内には木が多い。五重塔があったり、回廊の跡のような構造物があり、きっと昔は立派な寺であったのだろう。しかし、とにかく暑い。木陰で休んでいても、汗が出てくる。少し境内を回り、納経帳に記帳を頂き、十三時二十分に出発。十分ほど歩くと、交通量の多い国道十一号線に出る。国道をわたると、ちょっと綺麗な讃岐うどんのセルフサービスの店があり、飛び込む。昨日もそうだが、香川県はさすが本場で「讃岐うどん」の店がたくさんある。私と”つれあい”は「ざるうどん」を賞味し、身体をたっぷり冷やし、十四時ちょうどにいよいよ八十七番札所長尾寺を目指して出発した。      
                                             
                                             (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑰

2006-07-29 08:38:08 | 遍路
 四国88ヶ所自転車遍路の旅8-3 通算で17回目です。

 十四時四十分一宮寺を出発。八十四番札所へは十七時までに到着するのはちょっと無理なので、本日はできるだけ屋島に近いところまで行っておこうということにした。 
 一宮寺から交通量の多い県道に出てそこを右折し、高松市を南北に貫く幹線の国道百九十三号線まで行き左折。この国道沿いに、私が民間の会社に勤めていた頃のトップクラスの得意先である問屋の高松営業所がある。その営業所は移転したのだが、まもなく問屋自体が倒産してしまった。移転前の営業所は今でも、社名の書かれた看板がでており、事務所も倉庫も以前のままに残っていたが、敷地には杭が打たれ、鎖で閉鎖され、「管理物件」の看板が立てられ、全く人気もなくアスファルトの割れ目からは雑草が生え茂っている。懐かしさというより、悲哀感や無常感が漂っていて、複雑な心境となった。
  この先の道は国道に沿って栗林公園の前などを通り、高松の市街地へと入っていく。予定では余裕で行くつもりであったが、なにしろ車の排気ガスと炎天下。しかも歩き出して初日であり、さらに実は登山という程のことも無いと思い事前のトレーニングもしていない。私の方はちょっときつめの登山靴ということもあり、足に「まめ」ができだしている。“つれあい”のほうも調子がいまいちの様子である。
 栗林公園の背後に聳える「紫雲山」が見え出した頃、とにかく喫茶店があれば入って休憩しようと決めて歩き続けたが、なかなか見つからない。十五時三十分にやっと見つけた喫茶店に飛び込み、たっぷりと水分を補給し、身体を冷やした。明日以降が思いやられる。十六時十分に喫茶店を出て、再び歩きつづける。栗林公園を過ぎると、国道から離れて商店街へと入っていった。田町商店街を歩き、途中からは一筋東のライオン通りの商店街へと行き、ちょうど薬局があったのでシップ薬(“つれあい”の足に貼る)とバンドエイドを買い込む。やがて、琴電の「片原町」駅から、港方面に出て、いくつかのビジネスホテルがあるのだが、それらを通り過ぎ屋島に一番近い「東宝イン高松」に十七時三十分過ぎにチェックイン。
  部屋に入り靴を脱いで見ると私は両足の小指の全体と親指の付け根に、立派な「まめ」ができている。“つれあい”はというと、
 
  「食べに出るのも億劫。ねえ、コンビニで弁当買ってきて。」
 
 とのこと。痛い足にふたたび靴を履いて、ホテルの向かいにあるローソンまで買出しにでかけることとなった。“つれあい”も小ぶりの「まめ」が何箇所かにできている。「まめ」くらい破って消毒してバンドエイドを貼り付けて、我慢して歩くかとあきらめるが、靴の不調とトレーニング不足には大いに反省。 さっさと入浴、洗濯のあと私は「まめ」を破り、くだんの処置をして、明日の宿泊予定の民宿「ながお路」さんに予約の電話を入れた後、一階のレストランに食事に行く。“つれあい”は部屋でコンビニ弁当。なんともはや…。 本日の歩行距離は、ガイドブッグによると約二十七.五キロメートルであった。

  屋島寺、壇ノ浦から五剣山八栗寺の山寺を越え、東高松を歩く。足の爪が剥れ、  ちょっと「やばい」ことに… 
 
   二〇〇三年八月五日は、五時三十分に起床。さっさと本日の行動準備を整え、昨夜買ったバナナ一本を朝食とし、六時二十分にホテルをチェックアウト。足のほうは少しはましで、とりあえず本日はなんとかなるだろう(と思った)。
 第八十四番札所屋島寺は、高松市の東に位置する標高約三百メートルの溶岩台地である屋島の頂上にある。屋島は朝日を従えて、シルエットになって浮かび上がっている。それを目指して、まだ早朝で余り交通量のない幅の広い海岸道路を歩き出す。この海岸道路はもう少し時間がたつと、大型トラックなどが頻繁に行き交う幹線道路である。
 屋島の向こう、東側の入り江は壇ノ浦で源平の最終盤の合戦の地となったところである。この地で、平家の擁する幼帝安徳天皇が入水して亡くなっている。乳母(だったと思うが)の建礼門院も入水するが助けられ、後に出家し京都大原の寂光院で終生平家の霊を弔っている。那須の与一が扇の的を射抜いたのも壇ノ浦である。
 さて、屋島を目指してしばらく行くと幾筋かの川にかかる橋を渡り、海岸道路から離れ民家のある地元の町の生活道路に入っていく。五分ほど歩いたところで、年配の男性に屋島寺に歩いて登る道を尋ねたら、丁寧に教えてくれた。教えられたとおり二つの溜池の間の道を抜け、小学校の前を通ると急坂となってくる。地元のご婦人やお年よりも屋島の山頂に登るのか、結構多くの人が急坂を歩いている。そのほとんどの人と挨拶を交わし、屋島寺を目指した。途中に杖が置いてあり「使ったあとは返してください」と書いてある。道は整備されており、所々に休憩所も作られベンチが置いてある。
 私たちは、杖を借りて、休憩をとることも無く一気に屋島寺を目指した。 七時五十五分第八十四番札所「屋島寺(やしまじ)」に到着。屋島寺は屋島山頂の境内が広くきれいな寺で、この時間帯には参拝客はおらず、静かな雰囲気であった。本堂、大師堂とお参りを済ませて納経所のほうへ行くと、始発のケーブルカーで登ってきたのか、団体の遍路さんがやってきた。混雑する前に納経帳に記帳を頂こうと納経所に入ると先客がおり、その人が大量に掛け軸やら納経帳を持っている。しばらく待って納経を済ませ、歩き遍路の道を尋ねると、旧遍路道を教えてくれた。
  八時十五分に屋島寺を出発。旧遍路道は昔の仁王門を出て、ケーブルカーの山頂駅から続いている道を辿り、山頂の周遊道路のような道に出て、少し行くと丁石があり、遍路道の札がかかっている。そこから降りていくのだが、まるで崖のような急斜面を直滑降するようなきつい下り坂だ。屋島の頂上を越えて、登ってきた道の反対側の崖を壇ノ浦を目指して駆け下りていくのだが、所々階段状に整備されているところもあるが、足が弱くてはちょっと危険である。ただ、眺望はよく、行く手には壇ノ浦を挟んで、これから向かう五剣山が対岸に聳えている。
 「崖下り」を四~五十分ほどするとだんだんと傾斜もゆるくなり、やがて一般道へと出た。民家の間を通り、壇ノ浦の海沿いに入り江の最奥部まで歩いて行くのだが、さすがに歴史の地で、源平に縁のある跡地、安徳天皇を祀った神社、義経の弓流し跡、洲崎寺等の旧跡がたくさんある。                         

                                             (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑯

2006-07-25 22:52:51 | 遍路
  四国88ヶ所自転車遍路の旅の8-2 通算16回目です。本日も写真がアップロードできません。タイトルは「自転車遍路」ですが、今回は「歩き遍路」の悪戦苦闘です。  
 
  八月四日は、七時に朝食。七時五十分に出発。八時ちょうどに、白峯寺に到着。お参りは昨日済ませているので、さっそく納経帳に記帳を頂く。写真撮影等をすませ、出発しようとした時境内で中年男性の歩き遍路さんと行き交い挨拶を交わす。おそらく朝一番で八十番の国分寺から登ってきたのだろう。
  仁王門を出て左に続く遍路道を辿る。道はすぐに山道となる。山道といってもハイキングコースとなっていて結構整備されており、案内の看板は要所要所に出されており、階段状に道が整備されていたり所々に休憩場所があったりする。道の途中に「陸軍用地」と書かれた石の苔むした「境界標」があり、歴史を感じさせる。現在も自衛隊の演習場があるようだ。しばらく行くと今度は、若い男性の歩き遍路さんと行き交った。同じように朝に八十番札所国分寺から登ってきているのだろう。八十一番から八十二番札所への遍路道は、国分寺からの合流点まで「打ち戻り」となっている。
  さて、“つれあい”のにわか知識で「遍路中はいかなる殺生もしてはいけない」とのことである。しかし、虻がうるさくつきまとって三箇所刺されてしまい、ついに辛抱たまらず殺生してしまった。”つれあい”に戒められて、「南無大師遍照金剛」。 一時間ほど歩くと一般自動車道路と出会うが、横断してすぐに併行する遍路道を再び歩き、九時三十分に第八十二番札所「根香寺(ねごろじ)」に到着。いまのところ、快調で順調である。
  根香寺は、立派な仁王門が印象的だ。中に入ると正面に石段があり、それを登ると本堂がある。本堂は回廊式になっており、回廊を通って正面の奥の本堂に行き、「南無大師遍照金剛」を何回も”つれあい”に教え、二人でお参りをする。バスツアーの団体客がいるわけでもないが、納経所にはたくさんの掛け軸や納経帳を持った青年が二人、手際よく納経をしてもらっている。きっと、売り物にするのだろう。横で待っていると、途中で記帳をしている若い僧から「どうぞ」といわれ、納経帳に記帳を頂いた。
  仁王門を出て、右手の斜面の木立の中に「牛鬼」の石造が置かれてある。ユーモラスな表情が良くて、思わずデジカメで写真を撮った。十時丁度に、根香寺を出発。根香寺からは五台山の舗装された車道を下りていく。余り車も通らず快適にぶらぶらと降りていくが、真夏の日差しが猛烈に暑い。なるべく日陰を選んで、往ったり来たりである。しばらく歩くと高松西高等学校が見え出し、やがて車道が右折路のある三叉路の場所にきてそこを右折、盆栽を育成している家々の間を通り抜ける。やがて高松西高校の前を通り過ぎ、県道に出る。
  この辺の地名は鬼無(きなし)といい、県道を横断するとすぐにJR予讃線の踏切を渡る。踏切のすぐ高松寄りはJR鬼無駅である。ここからは古い町並みを右左折していくと丁石があったり、岩田神社という古い神社があり、それなりに遍路道の雰囲気がある。それらを過ぎていくとやがて再び交通量の多い県道に出て、炎天下と車の排気ガスに辟易とする。その県道に沿って右折すると、七~八百メートルほど先に国道十一号線とその上を高架で走る高速道が見える。一宮寺への道を、自転車に乗った地元のご婦人に聞くと二つ先の信号を左に曲がって橋があるので川沿いに行けばよいとのこと。そのとおりに行くと、やがて香東川の土手に出た。
  土手を登ると道は河原に降りて行き、川面近くに潜水橋がかかっている。それを見ながら河原の木陰で小休止。目の前の木立に油蝉が止まって、暑そうに「ジーー・ジーー」と鳴いている。目の前にいるものだからちょっと手づかみで捉まえて、逃がしてやった。孫の勇輝(ゆうき)がいれば喜ぶのになーと思いながら。
  潜水橋を渡り、対岸の土手に登ると、すぐに国道十一号線と高速道の交差点である。国道を横断すると丁度セルフサービスのうどん・弁当の店があり、身体を冷やすのもかねて飛び込み、十二時五十分におにぎりと冷やしうどんの昼食を摂る。私は、もりもりと食べたのだが、”つれあい”の方は余りの暑さの為か、少し食欲がなさそう。この店で少し休み過ぎたが、身体を冷やし、たっぷり水分を補給し、約1時間後に再び出発。
  香東川の右岸の狭い舗装道路をずっと歩いていくと、成合橋というところに出る。そこには遍路道の目印も、丁石もなくどうしようかなと思っていると、ご婦人が自転車で通りかかり、一宮寺への道を尋ねた。橋を渡って対岸へ行き、二つ目の信号を左折ししばらく行くと良いとのこと。対岸へ戻るには多少の抵抗はあったがその通りに行った。後で分かったが、その道は自動車を利用する人の道で、歩きの時は、土手の道をずっと直進していけばよかった。かなり回り道をしてしまった。十四時二十分、第八十三番札所「一宮寺(いちのみやじ)」に到着。
  一宮寺は町中の寺で付近の町に溶け込んだ雰囲気の寺である。“つれあい”と二人でお参りを済ませ、納経帳に記帳を頂き少し休んでいると、朝に根香寺へ行く山中で行き違った歩き遍路さんが来た。一時間以上の差があったと思ったのだが、我々は余りに昼にゆっくりしすぎたのか、回り道のせいか、追いつかれてしまった。私も“つれあい”も結構足には自信があるのだが…。
                         
                                                                                             (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑮

2006-07-21 23:32:52 | 遍路

  四国88ヶ所自転車遍路の旅も、いよいよ最終章で、本日より8-1 通算で15回目のスタートです。 写真は沢山撮ったのですが、デジカメの感度を上げすぎて(1MB以上)アップロードできません。しばらくは写真なしです。

  第八回(「第八十一番白峯寺」から結願の寺「第八十八番大窪寺」へ。愛車のマウンテンバイクを置いて、“つれあい”と二人で歩き遍路の旅。)

 二〇〇三年の夏は、つかの間で気まぐれであった。長い梅雨が七月一杯から八月の始めまで続いた。八月八日から十日にかけて台風十号が日本列島を縦断し、さらにお盆に入ると秋雨前線の雨が降り出すありさまである。その後もぐずついた天気が続き、お盆が過ぎると時々夏の名残を惜しむかのように、「ヴアーット」暑い日差しがあり、そのときに一斉にそして大急ぎで蝉時雨が鳴り出す。西日本では、九月にはいって初めて「今年一番の暑さ」を連日記録する、そのような夏であった。 私の四国八十八ヵ所遍路の旅は、「つかの間の夏」であった二〇〇三年八月三日から七日にかけて、そして結願にむけて最終回ということもあり、今回は愛車のマウンテンバイクを置いて“つれあい”と二人で歩き遍路をすることとした。
  二千年の夏に自転車遍路を始めた頃は余り要領も得ず、また信仰心やら何かに帰依するというような純粋な動機も持っていなかったのだが、寺々をまわり、いろんなお遍路さんや、その土地の人たちと触れ合っていくなかで、最近では大団円の「四国曼荼羅」のような世界に自分が溶け込んで行くような実感が、じわーっと湧いてきている。最終回では、その実感を“つれあい”と「共有」したくて、また自分自身も歩き遍路をすることによって、その実感の「本質」に少しでも迫りたいという思いで今回の計画を立てた。
  この歩き遍路の旅の直前に、八十歳になる「幸月(こうげつ)さん」という、一人の俳人でもある歩き遍路さんにかかわって、事件があった。幸月さんは、二千日遍路という想像を絶する難行に挑みながら、感性に溢れたすばらしい俳句を詠み、それらを句集「風懐に歩三昧(かぜふところに、かちざんまい)」に記していた。その生き様をNHKテレビが取材し、「人間ドキュメント」で全国放映をしたのだが、そのときに本名も紹介し、それがきっかけとなって実はご当人は八年前に大阪で、殺人未遂という決して小さくない刑事事件を起こし、現在は逃亡者であることが発覚し、まもなく逆打ちの歩き遍路中に逮捕された。 この事件をめぐって、実に多くの意見や討論がインターネット等を通じて繰り広げられた。私もネットの「週間へんろ」関連のサイトで、以下のような意見を投稿した。

     『私は、区切り打ちで自転車遍路をしており、この夏には結願の予定です。俳句 集「風懐に歩三昧」をむさぼり読んで、幸月さんについていろんなイメージを抱きました。慈悲、慈愛、希望、あるいは虚無、刹那、等実に多様な表象があり、実はこれらの全てが抽象化されたところに、「真実の」幸月さんがあります。そしてそれは2000日遍路というバックボーンにも裏打ちされて、一種の神々しさを放っています。そのことは私にとってはかなり重要なインパクトでしたし、今も本質的には変わるものではありません。 一方、幸月さんには、刑事事件を起こした「逃亡者」という事実が発覚しました。しばしば、「真実」はほんの少しの「事実」によってもろくも「瓦解」してしまうことが有ります。世間では大変な人格者と思われていても、ほんの少しの虚偽で全てが失われてしまうことは珍しくありません。今回の「安物の」マスコミがとった態度は、その典型を走っているのでしょう。 私は、幸月さんが本名でTV出演したご本人の本意は知るすべもありません。ある種覚悟の上なのか、あるいは『もう大丈夫だろう』という思い上がりの気持ちがあったのか、あるいは第三者には立ち入ることが出来ない心情があったのか何も分かりません。第三者にいえることは、幸月さんは順序を間違えたことです。 私にとっては、幸月さんが「逃亡者」であったこと、この「事実」を自分なりに受け止めて、その上で、「風懐に歩三昧」の世界に再び浸ってみたいと思っています。 幸月さんが、再び旅に出て新たな「真実」を築いていかれることを願っています。 (54才男)』

  この事件をめぐって、いろんな人の感想がある。「人格者」と「刑事事件の逃亡者」を対極に置いて、幸月さんを全否定する意見は、多い。わが“つれあい”もどちらかというとそのような意見を持っている。ただ、この事件を興味本位にして、遍路の世界をパロディにしたり、あるいは「暗い過去を背負った人たち」の姿のように編集し、放送していたマスコミが少なくなかったことは、日本のマスコミの薄っぺらい実態もあわせて、実に大変悲しいことである。
  なにやらいろんなことがあったが、ともあれ今回の遍路の旅は、八月三日から七日にかけて、高速バスで坂出まで行き、八十一番札所「白峯寺」から歩き始め、高松市内、牟礼、志度、長尾と歩き、結願の寺「大窪寺」へと至る。そして発心の寺「霊山寺」へと戻り、徳島から高速バスで大阪へ戻る日程を決め、“つれあい”ともども気合を入れて「心の準備」を整えた。 一日目は、高速バスで「白峯寺」近くの簡易保険保養センターへ。二日目、崇徳天皇稜のある、鬱蒼とした「白峯寺」から五台山を歩き、「根香寺」から「一宮寺」へ 。
  二〇〇三年八月三日は、雨天を心配していたのだが昨日までと打って変わって真夏の空になった。十一時三十分大阪駅バスターミナル発の丸亀行きの高速バスに乗り一路坂出へと向かう。バスは明石大橋を越え、淡路島を縦断し鳴門大橋から四国へと入り、高松自動車道へ乗り継ぎ、さぬき市、高松市に入る。高松市からは高速道路を降りて、一般道を走る。市内中心部から五台山を回って、坂出市に至る道は、明日からの歩き遍路道と行き交うような感じだ。
  十五時二十五分のほぼ定刻にバスはJR坂出駅に到着。しばらくすると今晩の宿泊地である「かんぽの宿坂出」からの送迎バスがやってきた。バスは十六時三十分発なのでかなり時間があり、その間運転手さんと談笑。運転手さんは、もとタクシードライバーで、四国八十八ヶ所は所々歩きながら、車で回ったとのことで、いろんな寺のことを実によく知っている。 十六時五十五分に、送迎バスで「かんぽの宿坂出」に到着。ここから第八十一番札所「白峯寺(しらみねじ)」は一キロメートルほどしか離れていない。この時間では納経帳の記帳には間に合わないが、”つれあい”と相談して明朝は記帳を頂くだけにして、今日中にお参りしてしまおうということになった。さっさと部屋に荷物を置いて、白峯寺をめざす。
  十七時十五分白峯寺の仁王門に到着。境内は鬱蒼としている。時間も遅く、人もほとんどおらず、凛として静寂である。境内に入り右手のほうの石段を登りきると正面に本堂があり、その横に大師堂が並んでいる。四国八十八ヶ所遍路の旅で初めて”つれあい”と一緒に願を唱えた。彼女は一体何を唱えたのだろうか。石段を降り、境内を横切るようにして古径に出て、そこを右に行くとさらに鬱蒼とした雰囲気となり、やがて右へと登る石段があり、そこが崇徳天皇陵だ。「瀬をはやみ 岩にせかれる 滝川の われても末に あわんとぞおもう」という句を天皇寺高照院の時と同じように思い出した。ロマンチックな歌を作る割に崇徳天皇の晩年は、戦に破れ、追われて怨みに溢れていたそうだ。鬱蒼とした雰囲気は、崇徳天皇の怨みが現在になお感じられるかのようである。少し白峯寺の境内と周辺を散策し、十八時十分に「かんぽの宿」に戻り、温泉に入浴し、食事。明日からの歩き遍路にそなえ、多いに鋭気を養った。                           

                                             (続く)

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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑭

2006-07-19 22:33:40 | 遍路

          天皇寺高照院の門  
          崇徳天皇の無念がなにやら漂う雰囲気  
 

  さて四国88ヶ所自転車遍路の旅も7-6 通算14回目です。いよいよ結願(けちがん)が少し見えてきました。

  「この先 のバイクやさんのところで道が分かれているので、そこを右に折れ、すこし上り坂になっているところを登っていってください。しばらく行くと有名な『ところ てん屋』さんがあります。そこからは、道がふたつ有りますので『ところてん屋』さんで聞いてもらったほうが良いと思います。」
 

 と、懇切丁寧に教えてくれた。教えてもらったとおりに行くと、やがて「ところてん屋」さんに到着。石組みをし、水を蓄えた小さな池を配した涼しげ なところに床机を出し、そこに七~八名の客が居り、二名の歩き遍路さんもところてんを食べながら談笑をしていた。店で道を聞くと、「上の道も下の道もどち らも行けます」とのことなので、上が遍路道なので、そちらの方へ行くと、一分ほどで白峰宮の境内の裏に到着した。
 第七十九番札所「高照院(こうしょういん)」は 白峰宮と境内が隣接しており、遍路道から入ると白峰宮を通り抜けて行く。十五時三十分に到着し、境内を抜けて寺の正面に回ると、仁王門や山門はなく赤い鳥 居が立っており、看板には「崇徳天皇白峰宮」と書かれ、大きな石碑には「四国第七十九番霊場天皇寺」と記されている。寺号は「天皇寺高照院(てんのうじこ うしょういん)」というのがフルネームらしい。山号は金華山。名前の通り、この神社・寺は崇徳天皇を鎮魂しているとのことである。
 崇徳天皇は百 人一首の『瀬をはやみ いわにせかれる 滝川の われてもすえに会わんとぞ思う』の作者として有名。保元の乱に敗れ、この地に封ぜられ失意のうちに没したとのことである。怨念が漂うというほどのことはな いが、なんとなく鬱蒼とした雰囲気の寺である。納経所で記帳を頂いた後で納経所のご婦人から声をかけられた。
 

 ご婦人
「お遍路さん、歩いて回ってられるのですか。」
  私
「いいえ、区切り打ちですが自転車で回っています。」
  ご婦人
「そうですか、それではご接待をさせてください。」

  と言って、バナナを二本くれた。

  私
「それはどうもありがとうございます。納め札は持ち合わせてないのですが、大阪の五十川と申します。」
 ご婦人

 「結構ですよ。ご丁寧いにどうも。バナナでも食べて栄養を付けてください。」

  ありがたいことである。回り始めた頃は、何も知らずに御接待を返したりしていたのだが、こういうやり取りが、自然とすなおにできるようになったのだなと感じた。
 十五時五十五分「高照院」を出発。 JR予讃線の踏切を越え、農道を走り再び県道三十三号線に出て東へと走る。少し行くと国道十一号線が高架になって交錯していく。国道のほうは交通量も多いので、県道を辿りつづけることとする。
 十六時二十五分に第八十番札所「国分寺(こくぶんじ)」へ 到着。仁王門の前で年配の男性の自転車遍路さんが休憩しており少し話す。松山の人で、ママチャリで、悠々とマイペースでお遍路をしているとのこと。雲辺寺 の山門まで自転車を押して登ったことを話すと、あきれていた。ご本人は、下の道に自転車を置いておき、ゆっくりと歩いて上がったとのこと。ニコニコと笑顔 を絶やさない、心休まる自転車遍路さんである。「国分寺」は、聖武天皇が各国毎に建立した寺である。四国の札所も阿波、土佐、伊予、讃岐それぞれにあり、 なんとなく雰囲気が似ている感じがする。いずれの「国分寺」も里にある寺で、境内の庭が良く手入れされており、本堂も大師堂も立派で、往時には多くの伽藍 や塔中が建立されていただろうと思わせる雰囲気がある。讃岐の「国分寺」は、七福神の石像なども祀っており、すこしはなやいでいる。大師堂と納経所は同じ 場所にあり、お参りの後記帳を頂いた。
 境内に戻り、御堂の横で先ほど貰ったバナナを二本食べた。おいしかった。八十番札所を後にして、本日はこ こまでとし一路県道三十三号線を高松の市内へと走った。高松市には、かって何度も仕事で訪れており、自転車を漕いでいるうちに、だんだんと懐かしい風景に 再会してきてほっとした気持ちになってくる。香川大学を過ぎ、番町を通りフェリー通りから高松駅のほうへ行くと、玉藻公園や高松城址があり、屋島のほうへ 行くと競輪場がある。みんな懐かしい風景だ。のんびりと高松市内を回りながら、今回の自転車遍路の旅の最終日の宿泊場所を探したのだが、やはり、以前によ く利用した琴電「片原町駅」に近いビジネスホテル「高松キャッスルイン」に十八時二〇分にチェックイン。本日は最終日なので、洗濯もせずに入浴。入浴後外 出し、やはり以前によくいった商店街にある「お好み焼き屋」さんで、おいしいビールとお好み焼き(ライスつき)を食べ、ホテルに戻った。
 ずっと天気は快晴であったが、夕方からは雲が増え、夜半にはかなりの雨が降り出し、部屋の中まで雨音が響いてきた。しかし、ある種の達成感と、心地良い疲れとでゆっくりと睡眠をとることが出来た。
  

   いよいよ「結願」まであと八カ寺。最後は歩いて回ろうか。

 今回の自転車遍路の旅は一応ここまでで、四月三十日には我が家に戻り、ゴールデンウィークには次の予定がある。夕方に「ジャンボフェリー」の加藤 汽船に明日のフェリーの予約を入れようと思い電話をしたら、予約なしでも充分乗船できます。直接乗船場まで来てくださいとのことである。以前は大変人気の ある航路であったが、明石大橋開通後は便数も減り寂しい思いがする。これまでゴールデンウィーク、夏期休暇あるいは年末年始休暇を利用し、区切り打ちで四 国八十八ヵ所自転車遍路の旅を続けてきたが、いよいよ次回で「結願」である。次回は奥方とともに「歩き遍路」をしようかとも思う。いろいろとそんなことを 考えつつ、四月三十日十時三十分、船上の人となり、我が家への帰路についた。                       (この章終わり。次回から8 へ)

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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑬

2006-07-17 22:54:20 | 遍路

              道隆寺の本堂
             修験の行者さんが読経していた

 
 
本日は、四国88ヶ所自転車遍路の旅の7-5 通算13回目です。いよいよ「涅槃の道場」もやり遂げました。

  

「曼荼羅寺」より少し小高い岡の上に「出釈迦寺」がある。距離は五百メートルも離れてはおらず、十一時十五分には「出釈迦寺」に到着した。この寺もこじんまりとしたのどかな寺である。山手のほうを見れば、奥の院が見える。さらに奥には険しい行場があるとのことである。お参りと記帳を済ませ、今回は奥の院までは登らずに、十一時三十分に「出釈迦寺」を後にした。

再び来た道を県道四十八号線まで戻り、県道交差点を右折し東のほうへと向かった。約三キロメートル程走ったところに甲山が近づいてきた。第七十四番札所「甲山寺(こうやまじ)」は、地図を見れば標高八十九メートルの山にあり、また山頂まで登山だろうと思っていたが、実際は甲山を回りこんで北東側の麓に寺は建立されている。十一時四十分に「甲山寺」に到着。こじんまりとした里の寺である。お参りと記帳を済ませ十一時五十五分に寺を後にする。

「甲山寺」から一キロメートル程の距離にある第七十五番札所「善通寺(ぜんつうじ)」に十二時に到着。「善通寺」はさすがに大きな寺で、本堂や大師堂がどこにあるのか分からない。寺の西側に駐車場があり、そこに自転車を止め西の門から入ると案内看板があり、どうやら一番奥の東の方に本堂があるようだ。本堂の方へと参道を歩いていくと途中に立派な御影堂(大師堂)があり、さらに進むと、公道がありそれを一度横断してまた寺の東側の境内に入っていく。さらに歩いて東に突き当たりの手前左側に、本堂がある。門から露店がぎっしりとにぎやかに並んだ参道を約七分歩いた来た。お参りの後、露店のおばさんに本堂をバックに写真を撮ってもらった。この旅では、初めて自分の姿を写真に写したことになる。本堂から戻って大師堂(御影堂)に参り、ここでも男性に写真を撮ってもらう。大師堂は、弘法大師生誕の場所と言われ、地下には戒壇めぐりがあり、真っ暗闇の中を手探りで進む。そして、暗闇の中から弘法大師が語りかけてくるという(入館料五百円)。今回は戒壇めぐりはせずにお参りだけとし、そのあと納経所で記帳を頂き、十二時二十五分に「善通寺」を後にした。この辺は、讃岐平野の平地に札所の寺がたくさんあり、どんどんと札所をまわっていく。

  善通寺市街地を北東へと走り予讃線を越え、国道三百十九号線に出る。国道を左折し西北方面に向けて走る。「善通寺」から約四キロメートルで「金倉寺(こんぞうじ)」に十二時五十分に到着。「金倉寺」も広い境内で、本堂も大師堂も大変立派だ。往時には立派な伽藍が多く建立されていたのだろうと思われる。十三時五分「金倉寺」を出発。

「金倉寺」から第七十七番札所「道隆寺(どうりゅうじ)」へは県道を通らずに、農道や住宅街の中をとおる遍路道を走る。途中に案内の看板があり、善根宿で有名な「まんだら屋」さんの近くを走っているのが分かった。さらに走っているうちに、住宅街の中で遍路道を見失った。ちょうどお父さんと二人の子どもの家族連れが自転車で走っており、「道隆寺」への道を尋ねると、「一緒にきてください」とわざわざ自転車で同走し、寺までの一本道の通りまで案内してくれた。四国の人たちは遍路が道を尋ねると本当に丁寧に教えてくれる。そのことがまた、気持ちの触れ合いとなってくる。

第七十七番札所「道隆寺」へは十三時四十分に到着。「道隆寺」は里にある寺で、その裏は交通量の多い県道三十三号線になっているのだが、修験道の寺である。仁王門をくぐって境内の突き当たりにある本堂で、十人ぐらいの山伏が法螺貝と錫杖を大きく鳴らし、二十人ぐらいの信者というか、善男善女とともに大声で般若心経を唱えている。ちょっと圧倒されて、読経が終わるまで待ってから本堂と大師堂におまいりをした。大師堂の横では大護摩法要をするのだろう、多くの護摩木が積み上げられ、その前で寺の檀家か信者と思われる人たちが、護摩木やお供え等の受付をしていた。お祭りのような雰囲気で、なにやら懐かしい日本の原風景である。十三時四十分出発。

「道隆寺」の仁王門を出て寺の裏へ回り、交通量の多い県道三十三号線を走り、第七十八番札所を目指す。途中丸亀市の市街地を通り丁度丸亀城下の商店街の入口で、すしとうどんのセット昼食を大急ぎで食べ、再び自転車を漕ぎ、ひたすら走った。

十四時四十分、第七十八番札所「郷照寺(ごうしょうじ)」に到着。「郷照寺」は宇多津の市街地から少し山の手に入った小高いところにある。こじんまりとした寺であるが、境内には小ぶりだがよく手入れされた庭園がある。境内から鐘楼超しに寺の門の方向を見ると、遥かに瀬戸大橋が見える。瀬戸大橋が見えると、本州とくに大阪との距離感がぐっと接近してくる。そして遥かなる四国八十八ヵ所自転車遍路の旅もいよいよ終章が近づいてきたという実感が、ぼんやりと湧いてくる。十四時五十五分お参りを済ませ、納経帳に記帳を頂き「郷照寺」を出発した。

再び県道三十三号線に出て、少し走ると瀬戸大橋から続く高速道路の高架をくぐり、坂出市の市街地となる。瀬戸大橋を時々横目で見ながら市街地を一気に走り抜け、JR予讃線と並走しやがて右手の方に入り予讃線の踏切を超え、少し山手の方へと入っていく。JR「やそば駅」の裏手の道は比較的広く、旧街道のような町並みである。第七十九番札所への道が分かりにくく、軒下で談笑していた年配のご婦人に道を聞いた。

             

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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑫

2006-07-14 23:05:20 | 遍路

                        68番神恵寺と69番観音寺は同じ場所            

                 仁王門も仲良く共有

  

 

  本日は四国88ヶ所自転車遍路の旅7-4で通算12回目です。

  いよいよ「涅槃の道場」讃岐路です。  

 

  ここからは一気に九百十メートルの下りだ。延々と自転車を押して登ってきた尾根道も、あっという間に県道八号線の「曼陀トンネル」口の広場に戻った。ここから讃岐の国に入り、札所を回る。とりあえず県道八号線を一気に下り、国道三百七十七号線を目指す。県道はよく整備された舗装道路で、しかも交通量が少ない。今までのアルバイトで充分に火照った体には、一気の下りは『至福のとき』というか快適なツーリングのひと時だ。自転車は前田川に沿って走り、右手には今登ってきた雲辺寺山頂が頭上にかぶさってくる。「五郷渓温泉」「五郷ダム」「雲辺寺ロープウェイ乗り場」への分岐道を次々に越え、どんどんと走って行くとやがて下り坂の山道からだんだんと讃岐平野の平地になってくる。そこからしばらく走りつづけるうちに、やがて国道三百七十七号線の交差点に至り、そこを右折。そして第六十七番札所を目指して、東へと走った。しばらくして、どうやら国道三百七十七号線の旧道を走っているようで、左のほうに広くて交通量の多い道が併走している。しかしそれもやがて合流するところが五差路になっていて、「山本町」に入っていく。そのまま国道を直進し、陸橋をくぐりしばらく走ると第六十七番札所「大興寺(だいこうじ)」の案内看板が出ており、それにしたがって田園の中の道を辿ると、やがて寺が見えてくる。

  十六時に第六十七番札所「大興寺」に着いた。田園の中の落ち着いた雰囲気の寺である。石橋を渡って門をくぐり、手口を清め、本堂にお参りした。大師堂にお参りしようと思うと、本堂を挟んで大師堂が左右二か所に分かれている。どうやら向かって左の大師堂にお参りするようなのでそうした。後で聞くと、かつてこの寺は真言宗、天台宗の両方の伽藍が建立されており、大師堂はその名残で右が天台宗(というと最澄-伝教大師を祭っているのか)で、左が真言宗の大師堂とのことである。納経帳に記帳を頂いたこの寺の寺名は小松尾山という山号の「小松尾寺」と記帳していた。十六時十五分に「大興寺」を後にした。

  第六十八番札所と六十九番札所は同じ場所にある。十七時に間に合うか、微妙な時間である。来た道を戻り、先ほどの五叉路まで戻ると遍路道の道標がある。それに従い、観音寺市街地方面に向けて走り出す。途中で男性に、

 

   「すみません、ちょっとお尋ねしますが観音寺(かんのんじ)はどう行けばよいのでしょうか?」と尋ねると、

  「そうですね、この道なりに行くと観音寺(かんおんじ)駅のほうに出ますので、そこからすぐですのでもう一度観音寺(かんおんじ)を尋ねてください。」

 

  といわれた。以後私はこの旅の間「かんおんじ」と発音したが、寺も駅もそう読むのが正解らしいが、使い分けについてはよく分からない。とにかく指示された道を急いだが、結局十六時五十分に予讃線の観音寺駅に着いた。ここから十分ほどかかるということなので、とりあえず本日は断念し、駅に近い「ビジネスホテル・サニーイン」にチェックインすることとした。大変充実はしたけれど、火照った体を癒しつつ風呂に入りながら、本日も汗まみれの衣類の洗濯をした。とはいえ、昨日の洗濯物の生乾きの物を乾かすのが優先で、干場に苦労した。夕食はホテルでお造り定食と、おいしいビールを頂いた。

  早朝に、「神恵院(じんねいん)」「観音寺(かんおんじ)」に参り、弘法大師の生まれた讃岐平野の寺々-涅槃の道場を駆け巡る 二〇〇三年四月二十九日朝、五時四十五分に起床。本日も五月晴れである。ただ夕方には天気は崩れ、雨も降るだろうとの予報である。この二日間で随分と日焼けしたが、本日もより一層焼け増すのだろう。起床してすぐに出発の準備を整え、朝食前の六時二十分に昨日お参りできなかった六十八番と六十九番の札所へ、頭陀袋だけを肩から下げて出かけた。

  六時三十分、第六十八番札所「神恵院」第六十九番札所「観音寺」に到着。途中二人の歩き遍路さんを追い越し、挨拶を交わす。「神恵院・観音寺」と二つの寺名の書かれた看板をかけてある門をくぐり、石段をあがると、いくつかの堂が境内に建立されている。左端から「神恵院」大師堂、そして鉄筋で新築された本堂、少し右に「観音寺」の本堂、そして大師堂と並んでいる。手口を清め、順番とおりにお参りしている内に、次々とお遍路さんがやってきて六~七人になった。お参りを済ませ、二つの札所共通の納経所で待っていると七時丁度に「お待たせしました」とご婦人がやってきた。さっそく納経帳に記帳を頂いた。

   七時十五分にホテルに戻り、二十分からバイキングの朝食。いつものように結構満腹を感じるまで頂き、本日のエネルギーを補給する。朝八時に七十番札所を目指して出発した。観音寺市内を「財田川」という川が流れている。その右岸の堤防を上流に辿っていけば、第七十番札所に至ることとなっている。ホテルを出てしばらく走り「財田川」土手の上に出ると、遠くのほうに五重の塔が朝の霞の中に見える。その方向を一路目指して走りつづけているつもりだったが、そのうち「財田川」の支流の土手を走っているようで、どうもだんだんと遠ざかっているようだ。方向を修正し、田んぼの中の作業農道を通り本来の土手の道に戻ると、「本山寺(もとやまじ)」はすぐそこであった。境内のほうから、リズミカルで力強い太鼓の音が朝の空気を裂いて聞こえてくる。

  午前八時二十五分第七十番札所「本山寺」に到着。「本山寺」は「財田川」の土手の方から入って仁王門があり、仁王門をくぐると広い境内の奥に本堂がある。その左手に歴史のある立派な五重の塔が配せられている。少し高音で乾いた感じの音のする太鼓は、本堂の前で、男性のお遍路さんが韓国の民族楽器の太鼓を叩き、奉納していたのだった。心地よいリズムで、他のお遍路さんや地元のおばさんたちとともに、しばらくの間聴衆となっていた。広い境内は、かっては多くの塔中や伽藍が建立されていたのだろう、そんな名残が充分に残っている。お参りを済ませ、納経帳に記帳を頂き、出発の準備をしていると、ご婦人のお遍路さんが、納経所のご婦人に、「本山駅」の場所を尋ねている。JRやバスなどの交通機関を利用して遍路をしているのだろう。お遍路さんもいろんな回り方がある。八時四十分出発。「本山寺」から第七十一番札所「弥谷寺(いやたにじ)」までは、国道十一号線を十二キロメートル以上の距離を走る。たいしたアップダウンもなく走りつづけてきたが、「鳥坂峠」という百メートル弱の峠を上り詰めるると、国道から離れ、左へと入っていく案内看板がある。看板に沿って左への下り坂を一気に降りると、三叉路がありそこを右に折れ、今度は再びかなりの傾斜の上り坂を登っていく。途中で自転車を降りて押して登って行く。いく手はちょっとした山があり、どうやらまた山登りのようである。

  しばらく自転車を押していると、やがて九時十五分に「弥谷寺」の参道に着いた。参道と道路を挟んで「道の駅」と「ふれあいパーク」があり、そちらのほうは結構家族連れで賑わっている。平地かと思っていたが「弥谷寺」は「弥谷山(標高三百八十一.五メートル)」に作られた山寺である。山のあちこちにいくつもの塔中が建立されており、修験場である。本堂へは合計五百二十段の階段を登らなければならない(数えて登った)。九時四十分に本堂到着。山寺の狭い本堂でお参りを済ませ、本堂横の磨崖仏に手を合せた。少し下にある大師堂は、岩盤をくりぬいた場所に建立され、中はひんやりとして気持ちがいい。お参りの後納経帳への記帳を済ませ、参道の麓にある茶店(「俳句茶屋」というらしい)で「オロナミンC」を飲み、十時二〇分に「弥谷寺」を後にした。

  再び国道十一号線に戻り、七十二番七十三番札所を目指した。国道の「鳥坂峠」まで戻り、左折して東の方面へと走るとまもなく、第七十二番札所「曼荼羅寺(まんだらじ)」第七十三番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」の看板が出ている。それにしたがって国道を離れ県道四十八号線を右折して走りさらに地道に右折して入って行くと、まもなく「曼荼羅寺」の門が見える。寺の横にはお遍路さんがよく利用する民宿門前屋(もんまえや)さんがある。十一時に「曼荼羅寺」に到着。この寺は田園地帯のこじんまりとしたのどかな寺である。寺には大きく枝が張った立派な松があり「笠松」と言うそうだ。お参りを済ませ、納経帳への記帳を頂いた後、ベンチに座って荷物を整理していると、村のおばあさんから「ご苦労様です。頑張ってください。」と声をかけられた。                       

                                                                             (続く)

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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑪

2006-07-12 22:58:58 | 遍路

         雲辺寺への道途中。ベンチがありここで昼食。  

  本日は四国88ヶ所自転車遍路の旅の7-3.通算⑪です。いろんな出会いがあります。  「雲辺寺」は香川県の最初の札所であるが、実際の住所は徳島県池田町ということである。自転車は香川県と徳島県の県境の尾根を延々と行くことになる。九時十五分に「三角寺」を出発して国道百九十二号線を目指し、一旦平地まで一気に降りることになる。せっかく三百メートルほど登ったのだから、そこから「登り足せば」楽なのだが、雲辺寺山は平地を走る国道を挟んだ反対側に聳えているため、一旦全ての「貯金」を使い果たさなければならない。

  弘法大師が病封じのために椿の杖を地面に突き立て、それが椿の木になったという伝承のある「椿堂」を経由して国道に出ようと思ったのだが、「椿堂」にいたる分岐道が分からず、整備された舗装道路を道なりのまま国道百九十二号線の交差点に出てしまった。そこから、右折し徳島県池田町方面へと自転車を漕ぎ出した。国道は徐々に登り坂になっていく。しばらく走ると「椿堂」からの道が右手から合流し、距離的に二~三キロメートルくらいは遠回りした感じである。五月晴れのうえ、気温も結構高く、だらだらとした登り勾配を延々と漕ぎつづけ汗がどんどんと流れてくる。一時間程度自転車を漕ぎつづけたが、登りの傾斜がだんだんときつくなり、いよいよ自転車を降りて押して登る。一般的に、峠とかトンネルとかがあると、その手前四~五百メートルぐらいからだんだんと傾斜がきつくなる場合が多い。十~十三パーセント位かと思う。それで私のパワーでは漕ぎきれず、押して登りということになるのだが、程なく峠やトンネルに到着することが多い。

  しばらく、自転車を押していたら、「七田」という地名のところがあり、「四国の道」の標識が建てられていた。傍らの案内板には「雲辺寺」への道が記され、そこから国道を離れて舗装道路が左のほうへと降りていっている。 この「四国の道」は遍路道ではないのだが「雲辺寺」へのショートカットの道のようで、この道を行こうかという誘惑にかられたが、二万五千分の一地図を見ると、どうも途中からは山道のようだ。トライアル仕様の自転車ならともかく、荷物を積んだツーリング姿の自転車では山道を行くのは不可能だ。最初の予定通りに国道百九十二号線を自転車を押して登りつづけることとした。すぐに愛媛県と徳島県の県境を横切る「境目トンネル」の入口が見え、ほっと一息着いた。「境目トンネル」は道幅が狭く、歩道はあるのだが七~八十センチ程度でやはり狭い。大型トラックが頻繁に行き交い車道を走るのは危険だし、かといって歩道上を走るのも狭い上にガタガタなため困難。仕方なく、かなり窮屈ではあるが歩道上を自転車を押して歩くことにした。それでも大型車が追い越していく時にかなりぎりぎりに迫ってくるので、大変緊張しながら約十分間かけて「境目トンネル」を通過した。

  トンネルを出ると徳島県池田町佐野の集落で、国道は下り坂になる。久しぶりに自転車に乗って下っていくと食料品店があり、そこで香川県道8号線の「曼陀トンネル」への道を尋ねた。「雲辺寺」へは、佐野から県道8号線を辿り、県境の尾根に向かって戻って登って行く感じである。丁度「境目トンネル」と「曼陀トンネル」に挟まれたあたりが愛媛・徳島・香川の三県の県境であり、今度は徳島県と香川県の県境を横切る「曼陀トンネル」目指し、それを超えて香川県側から「雲辺寺」にいたる県境の尾根道に出るのだ。佐野から「曼陀トンネル」までは最初のうちしばらくは漕いで登ったが、後は殆ど自転車を降りて押して登る。二~三十分ほど押して登ると、「曼陀トンネル」入口に着いた。このトンネルは歩道がないが、交通量が少なく、大型トラックは殆ど通らないので、そのまま自転車に乗り込み、快適に通過した。トンネルを越えると少し広場になっており、案内板がある。「雲辺寺」まで九キロメートル以上ある。尾根道に向かって自転車を漕ぎ出したが、最初のうちは山の斜面を縫うようにして九十九折れの道を走るが、傾斜もゆるく、自転車で漕いで登った。山の斜面に沿って徐々に高度を上げ、しばらく走りつづけるとやがて、「七田」からの「四国の道」との合流地点に着いた。この地点は登ってきた道、この先斜面を尾根に登って行く道、「四国の道」と作業用の林道の四叉路になっている。「四国の道」のほうを見ると、結構な山道である。通ってこなくて正解であった。時計を見ると午前十一時五十分。丁度休憩用の丸太のベンチがあり、適度な木陰にもなっているので、ここで昨夜仕入れてきたロールケーキとチーズパンを食べ大休止とすることとした。

  ここからは斜面を尾根に向かって登って行く道となり、傾斜も急になる。再び自転車を降り、押して登る。しばらく登るとやがて尾根道に出て、高圧送電線・鉄塔と並行して走るようになる。尾根道になると比較的傾斜の緩やかなところや、ほんの数箇所だが短い下り坂があり、そんなところでは自転車に乗り距離を稼ぐ。やがて、前方遥かに「雲辺寺山頂」広場と鉄塔とロープウェイの駅が見え出した。

   このあたりからは、自転車は押して登るばかり。天気は快晴で気温はかなり高く汗が滴り落ちて来る。道は一応舗装はしているのだが整備されておらず、路面はいたんででこぼこであり、道幅もかなり狭くなるところもある。この道は到底バスではこれない。自家用車やタクシーでも「難路」となる。したがって、ツアーの団体遍路さんは、ロープウェイを利用して登ってくるのだ。私は、ひたすら自転車を押して登った。尾根道に沿って「四国の道」の標識がたくさん立てられてあり『雲辺寺○.○キロ』と書かれた標識が、大体二~三百メートルごとにある。両側が高原野菜の栽培地域というところまで来るとあと二~二.五キロメートルくらい。自転車を置いて身軽になっていこうかとも思うが、ここまで「苦労をともにした」相棒という感じがして、どうしても山門までは連れて行ってやろうという気が湧いてくる。「四国の道」の道標で、「雲辺寺」がだんだんと近づいてくるのが励みになってくる。

   あと一キロメートルを過ぎたあたりに、「鮎苦谷川」方面から上がってくる道路との交差点に着いた。結構整備された舗装道路で、おそらく自動車遍路さんはこの道路から上がってくるのだろう。そういえば、延々と登ってきた尾根道では、農作業用の軽トラック以外一台の乗用車にも出会わなかった。 やっとのことで、十三時五十分第六十六番札所「雲辺寺」山門に到着。傍らに愛車を止めて記念撮影。八十八ヵ所で一番標高の高い(九百十メートル)寺で比較的境内も広く落ち着いた寺である。ロープウェイで登ってきた一般の参拝者も多い。本堂と大師堂にお参りし納経帳に記帳を頂いた後境内を歩いていると、朝の「三角寺」で出会ったアゴヒゲの若い歩き遍路さんが追いついてきて、再会した。

 

  私「やはりまた会いましたね。早いですね。」

  アゴヒゲ遍路さん「こんな登り道なら、殆ど歩きと時間が変わらないですね。ただ,予定では十五時頃到着でしたので、随分早く着きましたが。」

  私「境目トンネルの手前の七田から入られたのですか。」

  アゴヒゲ遍路さん「いや、境目トンネルを越えて、佐野から遍路道を上がってきました。」

  私「私は曼陀トンネルから尾根道を、相棒の自転車も押して登ってきて、山門まで連れてきてやりました。」

  アゴヒゲ遍路さん「ええ、山門のところで見かけました。」

  私「ところで、学生さんですか?」

  アゴヒゲ遍路さん「いえ、教師をしているのですが、一年契約でして、今年は契約を断って遍路にやってきました。社会の教師をしているのですが、遍路することによって、学ぶところや得るところが多いと思いましてやっています。」

  私「私は、大学職員をしていますが、仕事の都合上区切り打ちを自転車でしています。次は歩いて通し打ちをして、自分を見つめなおしたいと思っています。」

  アゴヒゲ遍路さん「今回の遍路では、ここから先はもう自転車には追いつけませんが、いつの日かまた四国のどこかでお会いできればいいですね。」

 

  このアゴヒゲの若い歩き遍路さんは、お参りする時も声高に読経するわけでもなく、物静かになにやら念じてそしてそっと納め札を納めている。宗教に熱烈に帰依するという感じでもなく、なにやら心に期するところがある感じである。遍路での一期一会はかけがえのないことなのだろうが、旧知のように語りあ得るようになるには、何か重たい雰囲気が邪魔をしてなかなか難しい。 「雲辺寺」の境内にはこじんまりした水堂があり、中に入るとセンサーが働いて水が竜口から出てくる。井戸水とのことで『お大師様の井戸です。飲んでください。』と書いてある。一口飲んでみたが、あまり冷たくはないが、湧水独特のあっさりした甘さがあった。身も心もリフレッシュして、十四時二十五分「雲辺寺」を後にした。                                 (続く)

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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑩

2006-07-10 23:04:10 | 遍路
            三角寺の仁王門。梵鐘がある。寺の中は
            きれいな花畑。

 今回は、四国88ヶ所自転車遍路の旅7-2で通算で⑩です。

 約四十分で山道を降り、広場まで戻って六十一番札所へ向かう準備を整えている間、地元の人が入れ替わり湧水を汲みにきていた。広場から国道十一号線までは一気の下り。国道十一号線の大頭の交差点に出ると今度は来た道を戻る。高速道路の小松インターチェンジにつながる高架橋を過ぎ、やがて少し大きなショッピングセンターがあり、そこから再び右手に入り五~六百メートル行ったところに「香園寺(こうおんじ)」がある。
十時四十五分第六十一番札所「香園寺」に到着。「香園寺」は遠くから見ると体育館かホールかと見間違うほど立派な近代的建物である。広い境内に鉄筋三階建ての建物があり、二階が本堂となっており、立派な金色の大日如来が祀ってあって、その横に弘法大師が祀ってある。講堂のようになっていてたくさんの椅子が置かれ、ツアーの団体遍路さんが一心に読経をしており、まるで大寺院の伽藍のようである。「香園寺」の隣にはちょっとしたホテルのような立派な宿坊があり、設備は行き届いているようにみえる。さきほどの「横峰寺」と比べるとまるで別世界である。ツアーの団体遍路さんも多く、にぎやかではあるが、お参りを済ませ納経帳に記帳を頂いた後境内を見ると、地元のお年寄りが日光浴などをしていたりして、天気もよくのどかな雰囲気であった。
「香園寺」を済ませふたたび国道十一号線に出て、東へと朝に来た道を再び戻る。まもなく第五十九番札所「国分寺」や東予市方面より左側から合流する今朝通ってきた国道百九十六号線との三叉路に出会い、百九十六号線とは離れて、今度は東の方へと直進して走った。
第六十二番札所「宝寿寺(ほうじゅじ)」へは十一時十五分に着いた。「宝寿寺」は国道十一号線に面しており、JR予讃線「伊予小松」駅の近くにある。国道十一号線は交通量も多く走るのに結構気を遣うのだが、さらにツアーの団体遍路さんのバスと競って走る形になり落ち着かなかった。
実は私はこの「宝寿寺」と次の第六十三番札所へは以前に訪れたことがある。私が立命館大学に就職する前に勤めていた民間会社の営業で、四国を担当していた時にこの国道十一号線は営業車で何度も通っている。そのときに、国道上に掲示された「四国第六十二番札所 宝寿寺」の看板を見て、何とはなしに気になって車を停めた。車を降りて寺の境内を見ると歩きお遍路さんが一心に読経をしていたり、また他のお遍路さんは地元のお年よりと談笑していた。空海が生きつづけ、そして広めた「庶民宗教」を、今も脈々と息づかせているお遍路さんたちの世界に興味を持ったものである(自分もなろうとまではおもわなかったが)。お遍路さんたちはもちろん遍路に旅立つ動機はそれぞれ複雑ではあろうが、「同行二人」の世界に浸り、修行の中で自分を再発見し、各々が遍路を楽しんでいるように思えた。こうしてお遍路さんたちが「同行二人」の世界に浸っている様子は「四国遍路曼荼羅」を見ているようであった。
「宝寿寺」を出て第六十三番札所「吉祥寺(きっしょうじ)」へは十一時三十分着。六十一番札所から六十三番札所まで三キロメートル程しか離れていない。「吉祥寺」もやはり国道十一号線に面し、JR予讃線「いよひみ」駅の近くにある。両寺ともこじんまりとした里寺で、地元の人たちがお参りに来る寺なのだろう。「吉祥寺」の本尊は寺の名前からして吉祥天かと思うが、そうではなく毘沙門天であるとのこと。四国唯一らしい。そのようなことが寺の案内看板に書かれてある。
ツアーの団体遍路さんとぶつかり、お参りの後納経帳に記帳してもらうのに長い順番待ちになりそうだったが、私は一人だけなので先を譲ってくれた。ありがたくお礼。
「吉祥寺」を出て再び国道十一号線を約四キロメートルほど走り、右手に「石鎚神社」の大鳥居を越え、左手に「石鎚温泉」のあるところを右折し、約五百メートルで第六十四番札所「前神寺(まえがみじ)」に着いた。時間は正午ジャストで、快調なペースだ。
「前神寺」は国道からわずか五百メートルほど山手のほうに入っただけであるのに、樹林に囲まれた閑静な寺である。寺の沿革を記した看板には石鎚修験道場として歴史を刻んできた寺であると書かれてある。寺のすぐ隣には広大な「石鎚神社」があり、山上の「成就社」、第六十番札所「横峰寺」とも合せ、石鎚山を核とした山岳宗教の壮大な営みが充分に感じさせられる。「前神寺」の本堂は石段を登った奥に、緑の森を従えて建立されている。本堂を取り囲む樹木の若葉が、鮮やかな萌黄色に色づいておりに、まるで燃えているようであった。
「前神寺」から第六十五番札所までは、石鎚山系を離れて国道十一号線を東へ延々と四十キロメートル以上走る。JR予讃線と並行して走るが、主な駅でいうと「伊予西条」から「新居浜」を通り過ぎて「伊予三島」までの距離にあたる。実は、出来得る限り本日中に第六十五番札所のお参りと記帳を済ませておきたい。そのためには十六時五十分までには次の札所に到着しておく必要がある(記帳は十七時まで)。そして明日は朝一番から標高九百十メートルの「雲辺寺(うんぺんじ)」を目指し、余裕を持って登りたいと考えていた。そのため、一心に自転車を漕ぎ続けた。途中、中華料理屋であわただしく焼飯を昼食にとったりしながら、結局「伊予三島市」の市街に十五時四十五分に到着。
第六十五番札所「三角寺(さんかくじ)」までは標高差二百八十メートルほどあり、記帳に間に合うかどうかかなりきわどい時間であるが、まずビジネスホテルにチェックインし、状況を聞こうと思った。駅前通にある「三島第一ホテル」にチェックインし、フロントで「三角寺」までの所要時間を聞くと『自転車でなら一時間以内、四~五十分くらいです』とのこと。それではとばかり、ホテルに荷物を預け、身軽になって出発した。ところが、ホテルで貰った観光ガイド地図を見ながら、教えられた道を行ったのだが目印の施設・建物が全く見当たらない。どうやら、地図が古いか不正確なようで、そのうち隣接の川之江市に入ってしまった。時間は十六時を回り、気はあせる。地図をあてにせず、山のほうに向けて走り出した。しばらく走り、国道バイパスを越え、やっと遍路道が見つかった。山に向かって一心に自転車を漕いで登り出したが時間が気になる。雑貨屋さんで遍路道を尋ね、道を確認した。「松山道」の高架をくぐり、麓から見えていた変電所を過ぎ、しばらく行くと公園がある。年配のご婦人が二人談笑していた。


「すみません。ちょっとお聞きしますが、『三角寺』まで、どれくらいかかるでしょうか。」
ご婦人
「さー、あと五キロメートル以上あるし、途中坂がきついので自転車押して上がらんならんと思うので、一時間以上はかかるんやないですか。」

「いま、午後四時二十分ですが、五時までには着けないでしょうか。納経帳への記帳は五時までなんですよ。」
ご婦人
「いやー、それはなんともいえません。」

と、言われつつ傍らの看板に「三角寺まで四・七キロメートル」と書かれてあるのを見て内心あきらめざるを得なかった。大体が、ホテルから四~五十分というのは、自動車での時間だ。余り役に立たない観光ガイド地図といい、いいかげんな案内をされたものだと思ったが、文句をいっても仕方がないか、とあきらめつつホテルに戻った。十六時五十分ホテル着。
ビジネスホテルで、火照った体を冷やすため、超ぬるめの風呂に入りながら、汗まみれの衣類を洗濯。その後外出し夕食にラーメン、ライスと餃子を食べる。また、明日の「三角寺」から「雲辺寺」にいたる道中には適当な店がないようなので、近所のスーパーマーケットで昼用のロールケーキとチーズパンとパック入りカフェオーレを仕入れた。


「三角寺」から四国札所最高所にある「雲辺寺」へ、長く厳しいみちのり。
そこから一気に讃岐平野へ。そして涅槃の道場へ。

二〇〇三年四月二十八日(月)は朝六時に起床。本日も爽やかな五月晴れだ。ビジネスホテルの朝食は七時からなので、それまでに出発準備を整えておき、朝食後すぐに出発しようと思った。七時朝食。本日はかなりのアルバイトなので、結構満腹を感じるほどまで食べた。朝七時三十分出発。
昨日一度途中まで行った道を再び走る。伊予三島市街地を抜け、国道バイパスを横切り、県道を辿り、やがて遍路道へと合流する。しばらく走ると本日も登校中の小学生から「おはようございます」と挨拶をうける。当然挨拶を返すがすがすがしいものである。「松山道」の高速の高架を越えると、先を行く、アゴヒゲの若い歩き遍路さんがおり、自転車で追い越しざまに「おはようございます」と挨拶を交わした。変電所を過ぎ公園に着くと今度はご夫婦の歩き遍路さん。挨拶を交わし、ご主人は気合を入れるかのように「南無大師遍照金剛」と唱えた。ここから、山道となる遍路道(寺まで四・七キロメートル)と、舗装路(寺まで五・二キロメートル)に分かれ、私は舗装路を自転車で漕いで登る。かなり上まで漕いで登ったのだが、やがて急傾斜となり、自転車を降りて押して登る。二百メートルほど押して登ったところで道は平坦になり再び自転車に乗って走る。
八時四十分に第六十五番札所「三角寺」に到着。ホテルから一時間十分かかったことになる。結果的に昨日は無理だったのだが、ホテルの案内がそれほど大きく違っているというわけでもなかった。山門の下の駐車場で、先ほど下で挨拶を交わしたアゴヒゲの若い歩き遍路さんが先に山門に着いており、再会。


「えらく、早いですね」
アゴヒゲ遍路さん
「それほど急いでいるわけではないのですが。遍路道はショートカットで近いですし、登り坂の場合でしたら自転車でしたら漕いで登るのも、押して登るのも、歩きと変わらないか歩きより時間がかかるかもしれませんね。」

「そうですね。雲辺寺でまたお会いするかもしれませんね。」

そんなやりとり。
「三角寺」は観光バスのコースマップの看板なども出ており、にぎやかな寺かと想像していたが、早朝のせいもあってか、山間の閑静な寺であった。少し変わっているのは、石段を上がった仁王門に釣鐘が吊るしてある。ありがたく鐘を一突きし境内へと入った。境内は花壇がよく手入れされており、花が一杯植えられている。お参りを済ませ納経帳に記帳を頂き、山門の石段を降りる途中、下の公園で挨拶を交わしたご夫婦の歩き遍路さんがいた。やはり遍路道は早いようだ。ご夫婦は寺前の食料品店で、「雲辺寺」までの道中の食べ物を仕入れていた。その食料品店で国道百九十二号線への道を訪ね、九時十五分にいよいよ「雲辺寺」に向けて出発した。

                               (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑨

2006-07-09 23:31:16 | 遍路
            第60番札所 横峰寺への山道の遍路道の入り口
            ここは、自転車では無理で、歩いて登った。


 本日は、四国88ヶ所自転車遍路の旅の7-1、通算⑨です。


第七回(「第六十番横峰寺」から「第八十番国分寺」までいよいよ讃岐涅槃の
道場へ-自転車遍路讃岐路の旅ヘ)


第七回は、自転車遍路讃岐路の旅である。とはいえ、前回の旅で菩提の道場伊予の国六十番横峰寺から六十五番三角寺までを残しており、実際は六十六番雲辺寺からが涅槃の道場讃岐路となる。また、この六十番の横峰寺が難所であると案内書には記されている。
今回のアプローチは、二〇〇三年四月二十六日夜に大阪南港から四国オレンジフェリーに乗船し、愛媛県東予市で下船する。そこから前回断念した横峰寺を目指し、小松方面に向けて走る。横峰寺から先は再び国道十一号線へと下り伊予三島へ、そこから国道百九十二号線を徳島県阿波池田町方面へと走る。愛媛と徳島の県境のトンネルを抜けると尾根道まで戻り、その尾根伝いに四国八十八ヵ所の最高所(九百十メートル)にある雲辺寺を目指す。雲辺寺の後は一気に山を駆け下り、国道十一号といくつかの県道を走り、讃岐の札所を走り巡る。一路高松方面へと走り、そして結願(けちがん)へ秒読みのところまでとし、今回は四月三十日に高松からジャンボフェリーで神戸まで帰ることとした。
二十五日までは、全国的に雨天の日が続き二十六日は雨はやんだものの、どんよりと曇った空であった。ただ、明日からは晴天が続くと天気予報は告げている。新緑の若葉が鮮やかな四国のこの季節は、やはり五月晴れが良い。そんなことを思いながら、今回の自転車遍路讃岐路の旅が始まった。


すがすがしい五月晴れの朝、四国最高峰の石鎚山がくっきりと見える。東予から
石鎚山の前峰に構える「横峰寺(よこみねじ)」を目指す

二〇〇三年四月二十七日午前六時十分の定刻に、大阪南港からの四国オレンジフェリーは愛媛県の東予港に接岸した。きのうまでとは打って変わって、本当にすがすがしい五月晴れである。フェリーを降り、しばらく桟橋沿いの道を走ったところで出発準備を整えた。南の方には、朝日を従えた四国の最高峰石鎚山(千九百八十二メートル)がその独特の荒々しい稜線をくっきりと浮かび上がらせている。石鎚山は山懐が深く、麓からあまりきれいに見えることは少ないのだが、今日の石鎚山は特別だ。
今回の自転車遍路の旅も、きっとすばらしいものなるのだろう。そんな予感を抱きながら、第六十番札所「横峰寺(よこみねじ)」を目指し、国道十一号線へと向かった。横峰寺は前回の自転車遍路の時に、道を見過ごし松山方面の景勝地「桜三里」まで延々と行き過ごし、結局時間切れで断念した札所だ。
国道十一号線沿いに、「いしづち」という村の雑貨屋さんのようなアットホームなコンビニエンスストアがある。前回は昼前に寄って、たっぷりと海苔を巻いた手作りのおにぎりを買って食べたのだが、とてもおいしかった。今回も山登りの前に手作りのおにぎりを買っておこうと思っているのだが何しろ朝の六時三十分過ぎで、開店しているかどうか心配であった。もし開店していなければ、朝食抜きの空腹での登山という悲惨なめにあうところであったが、行ってみると幸いにも開店しており予定通り昆布入りの手作りおにぎりとペットボトルのお茶を仕入れ、朝食を確保した。
横峰寺へは国道沿いの大頭(おおと)という集落から石鎚山の前峰の方へと左折し、山道へと入っていく。四国では小中学生はお遍路さんに出会うと挨拶をする。集落の道を走っていると、日曜日だというのに制服姿で登校中の小学生たちにすれ違い、大きな声で「おはようございます」と挨拶をされた。頭陀袋はかけているが白衣を着ているわけでもないのに、多少気恥ずかしい思いがしつつも自分もお遍路さんの雰囲気になってきたのかなあと思いつつ、挨拶を返した。
まもなく山道となり結構なアルバイトを強いられる。しばらく漕ぎつづけ、体のウォーミングアップも充分に出来上がったところで小休止を取り、仕入れてきた手作りのおにぎりを食べた。やはり大変おいしかった。再び自転車を漕ぎつづけ、湯浪という地名のところを越えてやがて十二~三パーセント(十パーセントは千メートルの水平距離で百メートルの高度差)程の急な登り坂となり自転車を降りて押して登り始めた。そこから二百メートル位押して登ったところで舗装された道路は終わり、遍路道となっている山道の登り口に七時五十分に到着。登リ口のあるところはちょっとした広場になっており、トイレと休憩所があり山側には湧水が出ている。地元の人がポリタンクに湧水を汲みいれていた。広場で山に登る準備を整え、自転車を置いて午前八時に出発。
山道は、階段状に整備されたところも多くそれほど難渋するわけではないが、結構急斜面だ。山道のいたるところに『南無大師遍照金剛』と書いたのぼりがたててあったり、へんろ道保存会の目印の札が木の枝に吊るされてあったりする。山道は最初は清流に沿った谷道であったが、やがて斜面を登り始め、どんどんと高度を上げ尾根に近づくにつれ丹原町や東予市の麓の景色が拡がって行く。
やがて尾根道に出て、しばらく歩き八時五十分「横峰寺」山門に到着。山門は遍路道を歩いてきたところに有り、歩き遍路へのウェルカムゲートであり、自動車やバイクで来た場合は通らないことになる。案内書などでは寺まで一時間三十分の登りと書いてあるが、五十分で登りきった。「横峰寺」は標高七百五十メートルに位置し、八十八ヵ所の寺では雲辺寺、焼山寺に次いで三番目の標高に位置している。また、整備された舗装道路が完備しておらず、寺の生活道路のような道が六十一番の札所の方から繋がっているだけである。したがってツアー客は多分タクシーかマイクロバスに乗り換えて、逆方面から上がってくるのだろう。そんなこともあって、境内には団体客もおらず、歩き遍路さんが三~四人と、おそらく自動車での遍路さんが五~六人いるだけで、静かな雰囲気であった。若い僧衣の歩き遍路さんが日当たりの良いベンチに座り、年配の歩き遍路さんに和やかに話しかけている。

「へー、そんなところもまわってはるの。すごいね。旅人やねー。」

年配の歩き遍路さんは、穏やかに笑っている。本堂の右には遅咲きの八重桜が咲いていて、周りの山々に調和している。こういう山の寺は落ち着いて本当に良い。本堂と大師堂にお参りし納経帳に記帳を頂いて、少しゆっくりした後名残をもちつつ下山することとした。

                                (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑧

2006-07-07 23:46:38 | 遍路
         仏木寺仁王門前でアイスクリーム売のおじさんに撮ってもらう


 四国88ヶ所自転車遍路の旅、本日は5-3、通産⑧回目です。

仏木寺の門前は、はなやいだ雰囲気で賑わっていた。仁王門に向かって左側に一間四方位の真新しい東屋があり、そこで数人の歩き遍路さんたちと自転車遍路さんが和やかに談笑し、その輪にアイスクリーム売りのおじさんも加わっていた。話の中心は若い(二十歳前後に見えた)女性の歩き遍路さんで、テントを担いで野宿もしながら回っているとのこと。中年の歩き遍路おじさんと道中追いつ追われつして顔なじみのようで、仲良く話している。

「昨日は、公園の芝生にテントを張って泊まったんですよ。」
「ひえー、よくやるね。私は民宿とまり。」
「テントのほうが安上がりですし、よく眠れますよ。」
横からアイスクリーム売りのおじさんが話しに入り込んできて、第四十三番札所へ行くのに峠越えが良いか、トンネルを抜けていったほうが良いか等のアドバイスをしている。東屋では他の歩き遍路さんと自転車遍路さんが、ニコニコしながら話を聞いている。丁度のども渇いてきたところなので、お遍路さんたちの話の頃合を見てアイスクリームを買い、ついでに仁王門をバックにおじさんに記念写真を撮って貰った。仏木寺は古刹で、鐘楼は茅葺であった。納経帳への記帳は、若い高校生ぐらいに見える男性であった。梵字で記帳してくれるのだが、有り難いのやらどうやら。
第四十三番札所への道は、仏木寺の前の県道を山のほうへ向かって登って行く。少し行くとすぐに急な登坂が始まり、ギアを最低速に落としエッチラホッチラと上りだした。しばらく漕いでいると、先ほど東屋にいたロードレーサーの自転車遍路さんが後から追いついて来て「お先に」と追い越していく。結構パワフルに漕ぎあがっていく。歯長峠のある歯長トンネルまでは地図を見ると距離三キロメートルほどで標高三百メートル以上(十パーセント以上)登らなければならないようだ。これは漕ぎ続けるのには荷物も結構重たく、私のパワーでは少々きつい。何度目かのヘアピンカーブで、ついに自転車を降りて、押しあがり。それでも十分程押していると歯長トンネルの入口が見えてきた。
長さが七~八百メートルほどの歯長トンネルを抜けると、今度は標高約五百メートルから約百五十メートルの宇和川まで一気に下り、宇和町に入って行く。県道をしばらく宇和川に沿って走ると、やがて第四十三番札所への看板があり、看板に導かれ県道から右折した。深い山の中というわけではないが、樹木の茂ったところに第四十三番札所明石寺の仁王門にいたる参道がある。参道はかなり傾斜のきつい上り坂となっており、ここでも自転車を降りて、押して登ることになってしまった。
十六時三十分、第四十三番札所「明石寺(めいせきじ)」着。明石寺は古都宇和町に似合った、郊外の里山の寺で本堂、大師堂とも歴史を感じさせる立派な木造建築である。納経帳に記帳を頂いていると、歯長峠手前で追い抜かれた自転車遍路さんに出会った。


「歯長峠の坂道を漕ぎ上がったのですか。」
自転車遍路さん
「なんとか漕いで上がりました。」

「タフですね。十二パーセント位の坂ではなかったですか。」
自転車遍路さん
「そんなもんですかね。私は自転車が軽いですし。しかも、ここで出会うんですから、スピードもたいして出なかったんでしょう。」

「今日は、どこまでいかれる予定ですか。」
自転車遍路さん
「大洲までの予定です。」

大洲市まではまだ一時間以上はかかる。この自転車遍路さん、通し打ちで徳島から自転車で来ており、あと一週間以内に回りきる予定とのことである。私は、今回の自転車遍路は、ここまでの予定で、宇和町の街中に戻りビジネスホテルに泊まる予定だ。写真を写してあげたあと、お互いの健闘を祈り合い、仁王門で別れた。
宇和町の県道まで戻り、やがて国道五十六号線に合流するところにビジネスホテル「第二松屋」があった。そこに十七時二十分にチェックイン。部屋に荷物を置き、宇和町の散策に出かけた。宇和町の中心はJR予讃線の駅「卯之町」である。鉄道が通っているところでは、駅は町の中心になっているところが一般的には多い。そう思い「卯之町」駅に行ってみた。駅前にはちょっとした広場はあるが、飲食店や商店がほとんどない。「鉄筋」のビルもなく、あまり活発な生活の息吹が感じられなかった。木造のレトロな駅舎に入ると宇和島や、予土線の窪川駅に行く汽車や、反対に松山方面に行く汽車の時刻表が張り出してあるが、一時間に一~二本の運行であり、随分と遠くへ来たものだと実感した。
宇和町は「卯之町」駅から国道五十六号線を挟んで、二筋の旧道路が国道と並行している。この旧道路が、宇和町の歴史を記しつづけている古い町並みである。町の案内パンフレットによると、蘭学者の高野長英の隠れ家とか貝塚とかがあったり、かなり古い時代に開設された開明学校などが現存している。町並みは格子戸の家や白壁の家があり、薄暗くなりかけた町を子供たちがおしゃべりをしながら歩いていたり、地元に人が荷台の大きな自転車に乗って走り去って行く。夕暮れ時のモノトーンの景色に、セピア色した日本の原風景に出会ったようだ。しばらくぼんやり、のんびりとどこか懐かしい町並みを散策をし、町の外れ近くのところから再び国道に戻った。
夕食を食べてからビジネスホテルに戻ろうと思ったが、あまり適当な食事をする店がない。仕方なく、コンビニに立ち寄り夕食用の弁当と、明日の朝用のパンと牛乳を買い込んで、ホテルに戻った。


朝からの雨の中、八幡浜へ。フェリーを乗り継ぎ、大阪に帰る。

昨日の夕方から、雨がすこしばらついていたが、二〇〇二年五月一日は朝から雨が降っていた。考えたら二〇〇〇年に自転車遍路を始めてから、高知の五台山で少しばらついたのと、フェリーの乗船待ちの時に猛烈な雨に見舞われただけで、走行中としては初めての本格的な雨だ。昨夜仕入れたパンと牛乳で簡単な朝食を済ませ、午前八時に自転車遍路では始めての「雨装備」をし、ビジネスホテルを出発した。
国道五十六号線は交通量が多く、雨も降っており気を遣いながらの走行である。宇和町の市街地を走り抜けしばらく行ったところでコンビニに立ち寄り、ペットボトルのお茶を仕入れた。三十分ほど走ると、大江という三叉路があり国道五十六号線を直進すれば大洲市、左の県道を辿れば八幡浜市である。まだまだ余力があり、名残りが惜しいのだが今回の自転車遍路の旅はここから左折し帰路に向かわなければならない。五月三日には、孫に潮干狩りに連れて行く約束をしている。そのため、八幡浜市からフェリーで別府にわたり、フェリーを乗り継いで夜の大阪南港行きの関西汽船フェリーに乗船しなければならない。
大江からは県道を再び漕ぎ登る。国道と違い自動車が殆ど通らないのんびりした道路を、雨に降られながら三十分ほど登ったところに、峠のトンネルがある。宇和町が標高百五十メートルほどで、この峠までの県道の登りが約二百メートルはあるだろうか。あわせて約三百五十メートルの峠からは海抜〇メートルまで一気の下りだ。爽快な気分で自転車に乗りながら、今回の旅の余韻に浸っていた。
今回の旅は、鮮烈な「色」が印象に残る。まるで燃えているように鮮やかな新緑の萌黄色に興奮し、吸い込まれそうな群青色の宇和海に感動した。その中で、人との出会いもあった。信仰心で始めた自転車遍路というわけでもないのに、この頃は「南無大師遍照金剛」とすなおに三度唱えてから、自分や家族の健康などを祈念するようになってきた。自分の重要な生活体験の一部となってきている。
いろいろと思いにふけりながら街中に入ってきて、やがて午前九時二十分に八幡浜のフェリー乗り場に着いた。十時十五分発のフェリーに乗船し定刻に出帆、延々と続く佐田岬半島にそってフェリーは進んだ。やがて佐田岬を離れ豊後水道に、そして定刻の十二時五十五分に別府観光港に接岸した。
一旦別府に降り、夕方までの時間を港の近くにある「河童の湯」という温泉の銭湯でのんびりとすることとした。
入浴、休憩後別府観光港に戻り、十八時に関西汽船に乗船、十九時に出帆し帰路へとついた。

                      (この章終わり。7-1に続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑦

2006-07-06 22:00:26 | 遍路
            メディタレインニャンブルー、きらきら光る宇和海


  今回は、四国88ヶ所自転車遍路の旅の⑦です。

 JR土讃線の高知側は三十七番札所岩本寺のある「窪川」が終点になる。そこから先は第三セクター「土佐くろしお鉄道」となり、しばらく行くと「宇和島」から続いているJR予土線の終点駅と合流するが、「土佐くろしお鉄道」の方はさらに南下して四万十川の基点中村市を経由し、足摺岬のちょうど太い付け根にあたる部分を流れる四万十川とその支流である中筋川を遡る。そして終着駅「宿毛駅」に至る。「宿毛駅」から先はJR予土線「宇和島」まで約七十キロメートルの間は鉄道がない。従って「宿毛駅」は究極のターミナル駅となる。きれいな駅舎に入ると次の電車を待つ五~六人の客がおり、横の待合室には今夜一夜を過ごすのか、婦人の歩き遍路さんが二人静かに座っていた。
一時間ほど散歩し、宿舎に戻った。宿舎一階の「回転すし」屋さんで夕食を摂っていると、七十歳台の九州から来ているという男性の『区切り打ち』(一度に回りきるのではなく何回かに分けて八十八カ所を回る)の歩き遍路さんと同席した。既に三回八十八ヵ所を回っており、今回は四回目の歩き遍路の途中とのことである。


「お仕事は現役でいらっしゃますか?」
歩き遍路さん
「小さな会社をしていますが、歩いて遍路をするのが楽しみです。」

「まだ、現役で仕事をされているのでしたら、なにか期するところがおありなんですか?」
歩き遍路さん
「道楽です。しかし道楽でお遍路参りができるのは、ほんとうに贅沢ですよ。」

「本当ですね。健康であるということは最高の幸せですね。(健康という意味かと思っていた)」
歩き遍路さん
「もちろん健康もそうですが、結構経費もかかります。私は『区切り打ち』なのでいつでも好きな時に四国へ入り、好きなだけ歩いて九州に帰ります。自分で自分の時を作れます。健康で、小銭があって、いつでも気が向けばお大師様に会いに来れると言うのは本当に贅沢なことで、いつも感謝しとるのですよ。」

四国八十八ヵ所には、いろんなお遍路さんが集まってくる。


コバルトブルーの宇和海を見て宇和島に入る。昔の仲間のお接待に感謝…。
仏木寺(ぶつもくじ)を過ぎ、急坂を漕ぎあがれずに押して登る。峠のトンネ
ルを過ぎれば一気に下り、郷愁漂う日本の原風景「宇和町(うわちょう)」へ。



四月三十日は朝六時に起床し、宿舎で七時からの朝食を摂った。食堂で四十才台半ば位の男性二人
が話しているが、どうやら二人で自転車遍路をしているようだ。一対二なので話し掛けにくく、それ
とはなしにただ話し声が耳に入ってきた。
七時四十五分出発、第四十番札所「観自在寺」を目指す。先ほどの二人連れは三十分ほど前に早々とロード・レーサーに乗って出発していった。私は、「宿毛駅」に立ち寄り、駅舎を撮影後国道五十六号線を、いよいよ「菩提の道場」愛媛県へと自転車を漕ぎ出した。
しばらくは緩やかなアップダウンを繰り返し、少し大きな峠を越えると愛媛県へと入った。一本松町を越えてさらに五十六号線を漕ぎ続け、やがて御荘町(みしょうちょう)に入った。御荘町と看板の出ている交差点を右折し、九時二十分に第四十番札所「観自在寺(かんじざいじ)」に到着。この寺の門前の参道にも民宿の遍路宿がある。三十九番から四十番まで三十キロメートル弱あり、歩き遍路さんは一日がかりで辿り着き、この地でまた一夜を過ごすのだろう。観自在寺の仁王門を通り、境内に入ると、「文旦」や「甘夏」などを地元のご婦人が、露店を出して売っている。伊予宇和路の街、のどかな雰囲気に浸った感じの寺であった。ここから第四十一番札所龍光寺(りゅうこうじ)までが五十キロメートル弱。歩きだと二日がかりの距離である。
観自在寺で納経帳に記帳を頂き、参道を出て国道五十六号線をしばらく漕ぐと、海沿いの道になる。海沿いのアップダウンの道から少し山手を走り、ちょっとした峠を越えると目の前に「ヴァーと」宇和海がひろがってくる。ここから内海にかけての宇和海の色は、日本の海の色とはちょっと思えない。これが本当のコバルト・ブルーというかメディタレインニャン・ブルーというのか、海中に吸い込まれていきそうな深い群青色をしている。沖合いの群島は「鬼のような形をした島」や「矛を立てたような形をした島」がある。海には「真珠いかだ(と思うが)」が浮かんでいたりして、「エーゲ海」はこんな雰囲気なのかなと思うような風景と色彩である。
更に、国道五十六号線を辿り、やがて山道を登り始めた。いくつかのトンネルを過ぎ、最後に「松尾トンネル」という少し長いトンネルを抜けると、「宇和島市」の看板が飛び込んできた。後は下り坂を一気に宇和島市街地を目指す。

宇和島は、気候が温暖で宇和島城があり古くから開かれた港町、城下町だが、最近悲しい出来事で世界的に有名になってしまった。二〇〇一年二月十日朝(日本時間)、宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」がハワイ沖で、急浮上してきた米原子力潜水艦「グリーンビル」に激突され、一瞬のうちに沈没してしまった。実習生四人、教官二人そして乗船員三人の合計九人の命が奪われてしまうという、なんとも凄惨な事故が、この町の高校に降りかかってきた。犠牲になられた人の無念さや、ご遺族や縁の方の悔しさ、やるせなさは如何ばかりかと察する。自転車を止め、道路を隔て宇和島港に面して建てられている宇和島水産高校の方面に向き、合掌した。

私は、大学を卒業して病院に勤務した。その時同期で同僚だった張り切りものの看護婦のMさんの故郷が宇和島市で、彼女は今は当地に戻り救命救急士の資格も取得しながら現役の看護師を続けている。さらには休みの時には旦那さんの経営するラーメン屋さんで「ママさん」も勤めている。昨年二月に京都で当時の所長であった姫野先生を囲む会で一緒になり、彼女に「四国八十八ヵ所自転車遍路の旅」の話をすると、『宇和島にきたら是非寄って』『オーケイ』ということになっていた。電話を入れるとちょうど店の「ママさん」をしている最中とのこと。店は宇和島市役所の南にあり、屋号は「らぐまん」。ベトナムの料理の名前ということらしい。店の場所が良く分からず、市役所横をうろうろしていたら、道路を挟んでMさんが手を振っているのが分かった。相変わらず元気者だ。再会を喜び合いながら、「らぐまん」へと直行。ちょうど昼の十二時三十分過ぎで空腹を感じていた。


Mさん
「ラーメン食べてって」

「ありがとう、そしたらコーンラーメン」
Mさん
「ねぎチヤーシユウが自慢よ」

「そしたらねぎチヤーシユウ、それと生ビール、水分補給ね。」
Mさん
「本当に四国八十八ヵ所を自転車で回ってるんやね、偉いねー感心するわ。一人で回ってるの?」

「あたりまえです。こんなしんどいこと、誰も一緒に連れてってなんて言わんよ。私は、奥方や家族と一緒に家族旅行には良く行くけれど、さすがにこれだけは、誰も一緒に行くとは言わんよ。自動車で回るのなら、一緒について来るだろうけど。」
Mさん
「まあ、そうでしょうが、それにしても偉いねー。」

と、感心しきり。その後、ご主人も交わり四方山話。Mさんとご主人とは京都にいる時に結婚しており、私も二人の「結婚を祝う会」に出席したのだが、今ではすっかりラーメン屋のご主人をしており、面影が重ならない。彼の兄が和歌山でラーメン屋さんをしており、そこで修行したとのこと。この先の道中の友にと、エアーサロンパスを頂いた。ラーメンの味の方は、自慢のメニューだけあって「ねぎチヤーシユウ」は大変おいしかった。支払いをしようと「お勘定」を聞けば、「不要」とのことで受け取らない。ありがたくお接待を頂いたこととし、感謝…。
「らぐまん」の前で記念写真を撮影後、第四十一番札所龍光寺へ向けて出発した。龍光寺と次の仏木寺は、宇和島市の高台にありここからは登り坂。しばらく国道五十六号線から外れ県道を登って行く。ひとしきり自転車で漕ぎ上がり、結構なアルバイトの末、高台に開けた盆地となり、やがて十四時十五分第四十一番札所「龍光寺(りゅうこうじ)」に着いた。
長い石の階段の奥には朱色の鳥居が見える。「稲荷神社」が鎮座しているようだ。良く見ると石段の中腹に、石段を挟んで両側にお堂のようなものが見える。それが「龍光寺」であった。下から見ると向かって右側が「大師堂」、左が「本堂」と「納経所」。神仏混合というより、石段を取り囲んでの「神仏大団円」と言った感じだ。 一般に、神社と寺の混合はそんなに珍しくもない。京都の泉涌寺のような大きな寺に大鳥居があり、明治天皇陵が有る。弘法大師のホームグランドの高野山にも、大鳥居が築かれている。しかし、稲荷神社と真言宗の寺院の共存というのは、珍しいのではないか。まあ、どちらも「庶民信仰」だからいいか、などとひとりで納得。
若い僧に記帳を頂いた後、第四十二番札所を目指す。道中は、山間の盆地で実にのどかな田園地帯
の雰囲気だ。アップダウンのない里道を走り、やがて十四時四十五分に第四十二番札所「仏木寺
(ぶつもくじ)」に到着した。

                               (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑥

2006-07-05 23:51:20 | 遍路
 四国88ヶ所自転車遍路の旅の4-1から4-3までは工事中です。
 今回は、四国88ヶ所自転車遍路の旅の5-1、通算⑥からです。

 
 第五回(「第三十九番延光寺」から「第四十三番明石寺」まで-自転車遍路「修 業の道場」高知県から「菩提の道場」愛媛県へ入る)


第五回は、遥かなる足摺を後にして、いよいよ「菩提の道場-愛媛県」への旅の始まりである。四月から五月にかけての連休を利用した自転車遍路は、初めて。季節としては大変絶好の時期であり、今回も最終日の宇和町から八幡浜市への移動時に雨に降られた以外は、気温も真夏ほど高くもなく適度な晴天であり、快適であった。
今回の自転車遍路の旅は、五つの札所と回る寺の数は多くない。フェリーの発着港の関係もあるが、日程上「菩提の道場-愛媛県」を二回に分けて遍路をやりきるために、札所間の距離が離れている前半部分を段取りとしてまず回っておく必要があるためである。夏期には少しまとまった休暇が取れるため、続く四十四番・四十五番札所から始まり、ある程度の時間をかけて一気に「菩提の道場」愛媛県を回りきってしまう計画である。
そこで、今回は二〇〇二年四月二十九日午後九時二十分、大阪南港発の「大阪・高知特急フェリー」に乗船し、翌三十日早朝高知港を経由して、十二時五分に足摺(土佐清水)に接岸。遥かなる足摺を後に、足摺岬のいわば「背骨」ともいうべき道を辿って宿毛へ、宿毛から宇和海に沿いながら、宇和島から宇和町(卯之町)まで回る。今回は、ここまでとし、宇和町から佐田岬半島の付け根にある八幡浜へと行き、そこからフェリーで別府へ、別府でフェリーを乗り替え、予定では五月二日午前中に帰阪することとした。三日には孫に潮干狩りに連れて行く約束をしているのだ。


遥かなる足摺を後に、以布利(いぶり)から下ノ加江(しものかえ)までは「打
戻り」。足摺の「背骨」を駆け抜け、山間のダム湖を横断し、「修行の道場」
高知県最後の札所「延光寺(えんこうじ)」を経て「菩提の道場」愛媛県へと…

二〇〇二年四月二十九日夜の大阪南港発高知経由足摺(土佐清水)行きのフェリーは、ゴールデン・ウィークということもあって、かなり混雑していた。二等船室は雑魚寝の状態で、ちょうど私が若いころによく行った、夏期の日本アルプスの山小屋のようで、早く足を伸ばして自分の寝るためのスペースを確保した者の「勝」という状態であった。私は、いち早く安らかな寝姿をとれるスペースを確保し、早々に熟睡した。
翌三十日早朝、船内放送で目覚めると長大な浦戸大橋をくぐり浦戸湾をゆっくりと航行しているところであった。午前六時三十分定刻にフェリーは高知港に着岸した。浦戸湾の風景、高知市遠望や五台山などの懐かしい風景を見ながら、もしかするとこの景色を見ることは最後かなと思うと、幾分感傷的になってくる。
高知港で、殆どの旅客と自動車が下船してしまった。混雑していた二等船室もがらがらの状態になり、大いに体を伸ばせるようになったのはいいが、地元の客に聞くとこれでも船客は普段より多いほうとのこと。普段は二十~三十人程度になることもあるそうだ。このフェリーは二〇〇一年十二月まで運行していた、大阪南港から甲浦(かんのうら)を経由して足摺に至る「高知シーライン」が廃止になったのにともない、別のフェリー会社の「大阪~高知特急フェリー」が高知から航路を延長し足摺まで運行するようになったものだ。しかし、これでは採算が採れず航行を維持するのが大変だろうと思う。満載に近い状態だったトラックや乗用車は十台程度となった。大阪南港から私の愛車の自転車一台とバイクが十台以上が搭載されていたが、引き続き足摺まで行くのはわが愛車のマウンテンバイク一台のみとなってしまった。
船は午前七時四十五分高知港を離岸し、桂浜にほど近い沖合いを航行し外海に出た。太平洋の波にかなり船は揺れながら航行し、昼近くには、足摺岬の沖を大きく回りこんで、十二時ごろ足摺港(土佐清水)に接岸した。下船後、この港を訪れるのも最後かもしれないと思いながら、自転車遍路の支度を整え、いよいよ出発。
足摺港からしばらくは土佐清水の市街地を通り抜け、以布利分岐の交差点から県道三百二十一号線を走り、以布利の集落のバス停のある三叉路まで行く。そこから下ノ加江までは昨年に回った道の『打戻り』だ(遍路道を順路と逆向きに戻るのを『打戻り』という)。以布利のバス停には歩き遍路さんが三人休憩していた。ここから先下ノ加江までの県道は昨年の師走に辿った道だが景色は随分と違っている。山の尾根は、いまは燃え上がるように鮮やかな萌黄色で染め、それが谷へ向かって走り降りてくるような風景だ。年末の時はくすんだ常緑広葉樹の単色で、モノトーンのため尾根が何層になっているかは凝視しなければ分からなかった。しかし今はハイビジョンの画像を見ているように、それぞれの尾根の色づきは、一つ一つの尾根を鮮やかに染め分けている。水田はすでに田植えを終えている。やはり、南国土佐の夏に向けての季節の移り変わりは早い。師走には全く人気がなくひっそりとしていた、高台にあるオーシャン・ビューのリゾートマンション(あるいは会員制のレジャークラブか?)にも、数組のグループが滞在しているようで、館外には車が駐車してあり、ロビーは照明が点灯されていてた。
十三時頃、潮干狩りの家族連れでにぎわっている双浜海岸を走り抜けた。やがて遠方に下ノ加江橋を臨む三叉路地点に着いた。ここから県道三百二十一号線を左折し、県道二十一号線へと入っていく。三叉路には延光寺を示す石の道標があり、しばらく走ると延光寺迄三十一.二キロメートルの木製の看板がかけられてある。そこからはいよいよ三原川に沿って山の尾根沿いの道までひたすら自転車で漕ぎ上がる。
エリアマップの等高線は百メーターごとになっており、海抜百メートルまではグリーン、百~二百メートルは黄土色、高度が上がるにつれて濃い茶色へと塗り分けてあり解かり易い。エリアマップによるとこの山の尾根沿いの県道は最高地点でも黄土色に接近する程度である(標高百メートルまで)。しかし実際自転車を漕いでみると標高二百メートルは優に超えているのではないかと思う。ほとんど尾根に近い部分を走っており、三原川は百メートルくらい下の谷底を音を立てて、渓流となって流れている。結構なアルバイトを強いられた。このあたりの三原川を挟んだ対岸の尾根の新緑の萌黄色は、まるで沸騰しているかのように湧き出し、実に鮮やかにむくむくと動いているようであり、まるで動画のようだ。
下長谷、来栖野等山間のいくつかの集落を抜け、やがて十五時五分にダムサイトに到着した。ダム湖畔の自然公園を超え二つ目のトンネルを抜けるとダム湖の上に架けられた橋に出る。そこで写真撮影。後は宿毛市の国道五十六号線合流まで一気の下りだ。十五時二十分、国道五十六号線にT字にぶつかる交差点に着き道端のバス停「平田」で小休止を取った。
小休止の後国道五十六号線を宿毛市方面に走り、やがて案内板に沿って参道へと右折し、十五時三十五分門前が民宿等で賑わう第三十九番札所「延光寺(えんこうじ)」に到着。山号は赤亀山(しゃっきさん)という。境内にはたくさんの地蔵さんが祀ってあり、その中に「目洗い地蔵」がある。その前には小さな井戸があり、井戸水は眼病に良く効くとのことである。「目を洗いますのでお金やお米を入れないようにお願いします」と書かれた札が立てかけてあり、そのことが効能や御利益をリアルに感じさせるようだ。寺の名前の「延光」と「目洗い地蔵」さんは、何らかの関係があるのだろうと、ふと思った。
境内に至る石段の上にはずっしりと歴史を感じさせる仁王門があり、その奥に落ち着いた本堂と大師堂が釣り合いよく配置されている。門前には数軒の民宿や土産物店があり、遍路さんのオアシスのような町ができている。「へんこつ屋」という屋号の民宿があり、歩き遍路さんは割安で宿泊できるらしい。「自転車遍路も割安になるのだろうか、安ければ泊まろうか」とふと思いつつも、やはり少しでも距離を稼いでおこうと思い、他にある数軒の民宿も横目に見ながら、宿毛市街地を目指して再び自転車を漕ぎだした。
一六時過ぎに宿毛の市街地に入り、数軒のビジネスホテルに立ち寄り、結局十六時三十分、宿毛の市街地にある「秋沢ホテル」にチェックイン。部屋に入りテレビのスイッチを入れると、ちょうど「柔道日本選手権」の決勝戦が放映されており、井上康生選手が優勝するのが見られた。その後宿毛市内の散歩に出かけ、「土佐くろしお鉄道宿毛駅」まで足を伸ばした。
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