"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

四国八十八カ所 自転車遍路の旅②

2006-06-29 22:13:15 | 遍路
 本日は、四国八十八カ所 自転車遍路の旅の②です。全体の文書の中では、徳島県の行程にあたる1-2から2-3までが未だ『工事中』ですので、いきなり飛び越えて、高知県の3-1へと行きました。
 いろんなレポートがありますので、お読みください。

四国八十八カ所 自転車遍路の旅 3-1

二〇〇一年八月五日、午後三時自転車に乗って茨木市の自宅を出発し、夜十一時二十分大阪南港発「甲浦 (かんのうら) 」経由「足摺」行きのフェリーに乗り、四国を目指した。今回の計画は徳島と高知の県境にある町「甲浦」から、「足摺」を目指す全行程約三百七十キロメートルの旅である。但し、今回の計画は、次の予定があるため日程が九日中には帰阪する必要があることと、自転車をフェリーに積んでフェリーで帰ること、要するに自動車やJRは利用しないので、エスケープやショートカットが出来ず、一切自力でやり遂げる必要がある。かなりハードな行程であり、もし予定通り行けなかった時は何処かで、何らかの『断念・中断』の判断をし、帰阪しなければならない。
「甲浦」には定刻の六日午前四時二十分に接岸、あたりは未だ真っ暗。大阪南港から乗船したのはかなりの数の車両と人だったが、「甲浦」で下船したのは、トラック五・六台と釣り客やサーファーあるいは営業の自動車五・六台、全部で約四~五十人程度だった。「JR高知駅」行きの路線バスが待機しており、それに地元の人と思われる七・八人が乗り込み、つかの間の着船時の喧騒はあっという間に過ぎ去った。これから、長い未知の「修行」の旅が始まる。


南国土佐は、稲刈りが始まり、はや農繁期の真っ只中。田園地帯の小高い山
の寺で、名古屋からの「自転車遍路」さんに出会った。

ひたすら、月明かりに導かれ、潮騒の音が激しい太平洋を左に感じて国道五十五号線を一路南へひた走った。午前五時頃だんだんと明るくなってきた。しかし、八月六日の朝は曇天で、残念ながら御来迎を見ることは出来なかった。どうせなら、一日中曇天が続いてくれれば走りやすくて良いのだがと思いつつ…。
海沿いの国道は、いくつかの小さな漁村を貫いてゆく。第二回の時に買った「同行二人」と書かれた頭陀袋を掛けているせいか、村のお年寄りが時々「ご苦労様です」「おはようございます」と声を掛けてくれるのが、全く不信心の私にはすこし気恥ずかしい思いがする。
一度の小休止をはさみ、午前六時四十五分に弘法大師が修行を積んだといわれる、「御蔵洞(みくらど)」に到着した。ここまでくればもう室戸岬の先端に近く、太平洋も雄大に拡がる。「御蔵洞」の中に入ってみると、小さな蟹と釣り餌になる“ゴカイ”がうんざりするほどたくさん生息しており、生くさい。この場所で修行するには、まず蟹と“ゴカイ”を掃除しなければどうにもならん、などと思った。さらに行くと、室戸岬遊歩道入り口の看板がいくつか並び、岬の最先端の部分には中岡慎太郎の銅像が遠く太平洋を睥睨している。この辺まで来ると、道中は「修行」の道と打って変わって観光地の雰囲気だ。
更に行くと室戸スカイライン入り口があり、その道端に自転車を止めてスカイラインを登り、第二十四番札所「最御崎寺(ほつみさきじ)」を目指し、遍路みちへの登山を開始した。この頃には早朝の曇天もすっかり晴れ上がり、猛烈に暑い。いくら冷茶を飲んでも次から次へと汗に変わる。道中、若い男性で元気一杯の歩き遍路さん (袈裟を着ており、修行の僧と思われる)が降りてきて、すれ違いに軽く挨拶。しばらくすると、今度は中年の男性の歩き遍路さんとすれ違った。最近歩き遍路がちょっとしたブームになっており、このような過酷な夏でも必ず出会うものだ。とくに、今のような朝の時間帯は、未だ活発に行動しているので、よく出会う。つづれ折れの道を汗を拭き拭き上りながら見晴らしの良い所から下を見ると、先ほどすれ違った元気な若い歩き遍路さんは、はや海岸の道を室戸の街の方へと、軽やかに歩いてゆくのが見えた。
「最御崎寺」には、午前八時に着いた。この寺は、室戸岬に突き出た小山の先端から、室戸岬灯台、海上保安庁の観測所と並んで建っている。昔から海の安全を祈願した地元の人たちの思いが、そのたたずまいから伺える。標高百メートルは越えていると思う。境内は明るく、本堂や大師堂は古刹の雰囲気であるが、境内の端の駐車場に面している所には、コインランドリーも備えた近代的な「遍路会館」が造られている。記帳を頂いて下山。次を目指して再び自転車に乗った。
「紀貫之寄港の港」と書かれてある石碑が室津港という小さな港町に建立されており、『おとこがすなる日記というものを女もしてみむとてすなり』だったと思うが、土佐日記の最初の一節を思い出した。
 
 第二十五番札所「津照寺(しんしょうじ)」 (または単に「津寺(つでら)」) は、 その石碑に近い所に山門がある。「津照寺(津寺)」は山の上ではなく街中の寺である。それでも百二十段を超える石段があり、上りきれば街が見下ろせる。この寺は豊漁や漁の安全を祈願する地元の人たちに慕われ続けてきた寺なのだろう。参道に並ぶ寄進を記した石柱の何本かに、漁船の名が記してあった。地元の船主さんからの寄進であろう。「津照寺」の山門は朱塗りで、唐風のモダンな感じがするが、ちゃんと仁王さんも鎮座しており、本堂はやはり古刹の寺である。「ヂイヂイヂイ…」という暑苦しい油蝉の鳴き声のうるさい木の陰で、地元のお年寄りと顔見知りと思われる歩き遍路さんが談笑していた。
続けて国道五十五号線を辿ってゆくのだが、午前十時前に道中のドライブインで遅めの朝食を食べた。甲浦で下船をして以降何も食べておらず、ボリュームのある漁村風朝定食を一気に平らげた。室戸半島の先端部に近いこのあたりは、山が海岸線に迫っており余り大きくない平野部の殆どが、水田となっている。未だ真夏の盛りに少し前というのに、その水田のあちこちで稲刈りを盛んに行っている。当地は二期作の国だから、早米の稲刈りかと思ったが、「米あまり」の昨今、二期作はほとんどしていないはずだ。それでも昔からの習慣もあってか、南国土佐は早稲の稲刈りで、今は農繁期であった。
第二十六番札所「金剛頂寺(こんごうちょうじ)」は海岸線から田園の中の道を辿り、小集落を抜けた所に遍路みちと車道の分岐があり、そこから遍路みちを標高百メートルほど登った山頂にある。集落を抜けるとき、農家のおばあさんに『ご苦労様でございます』と挨拶をされるが、実は不信心であるので気恥ずかしい気持ちがしているのだが、反射的に『ありがとうございます』と答礼する。遍路みちをしばらく漕ぎ上がり、やがて道端に自転車を止め、歩いて遍路みちを辿った。しばらく行くと、上から自転車を支えながら中年男性が降りてきた。すれちがいざまに挨拶をかわすと、どうやら『自転車遍路さん』らしい。それも、私のような不信心な人間でなく、「正真正銘」のお遍路さんのようである。
約十五分の登山の後、「金剛頂寺」山門に至る厄坂の石段に到着した。この寺は、他にも見られる“厄除け”の寺のひとつで、秘蔵の薬師如来が本尊である。「最御崎寺」を「東寺」と呼び、「金剛頂寺」を「西寺」とも呼ぶそうである。納経所の記帳は珍しく若い僧侶 (修行僧のようであるが) であった。木陰で歩き遍路さんが休息をいれており、私も汗びっしょりのタオルを浄めの水で洗っていると、山門の方が急に賑やかになってきた。観光バスでのツアーの「八十八ヶ所遍路」の人たちだった。おそらく朝の九時過ぎに室戸岬あたりの旅館を出発し、追いついてきたのだろう。他にも自動車で「八十八ヶ所遍路」をする人たちもかなりいる。「お遍路さん」にもいろんな形があるのだ。但し 「自転車遍路」さんは、昨年から八十八ヶ所参りをはじめて、実は本日初めて出会った。殆ど見かけない。
「金剛頂寺」を下山すると正午少し前。しばらく間、灼熱の土佐湾沿いの国道五十五号線を走ると、やがて「奈半利町(なはりちょう)」に入った。この町は国道沿いに開けており、南国の町らしく明るくて開放的な感じがする。今日は、朝の四時三十分から行動を開始、すでに八~九時間自転車を駆ったり、参拝登山をし続けており、初日でもあるので早めに奈半利町泊まりとすることとした。私は常時登山用のテントを持参し、頻繁に野宿やキャンプをするのだが、奈半利町に入ってすぐにビジネスホテルがあり、空き室が有ったので即チェックイン。ビジネスホテルにしたのは、かなり日焼けした体と、体内からの「火照り」を「水風呂」に浸かって癒すためである。湖や海が近ければ、夏は必ずそうする事にしている。更に言うなら、冷たいビールに不自由しないのが何よりも良い。初老の単独行の歩き遍路さんも、このビジネスホテルに宿泊しており、レストランでくつろいでいた。
水風呂に浸かり、水シャワーを浴び、缶ビールを飲みながら聞こえてくるテレビのニュースでは、本日の最高気温は、三十七度とのことであった。

                                  (続く)
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四国八十八カ所 自転車遍路の旅①

2006-06-28 22:48:13 | 遍路
 今回からは、四国八十八箇所 自転車遍路の旅を掲載します。
未だ、工事中のところもありますが、完成部分から順次掲載します。

 本日は、プロローグ。

四国八十八ヶ所 自転車遍路の旅 (1-1)
はじめに
一九九六年の夏、私は「自転車(ママチャリ仕様)」で大阪茨木市発着、二泊三日で琵琶湖一周の旅をした。このときの「紀行文」は、当時のR大学教職員組合機関紙『はみだしユニオン』に掲載されている。とくに琵琶湖一周のモチベーションがあった訳ではないが、若い頃から登山や、アウト・ドアースポーツが好きで、一九九六年五月にはテントをかついで、一日半で比良山縦走などもしている。いろんなアウトドアの楽しみ方の中でも、自転車での旅はその地方地方の『生活のにおい』や、『四季それぞれの香り』の中に、自分のペースでたっぷりと浸ることができるので、好きである。
比良山縦走は、JR湖西線「堅田駅」を午後出発する「梅ノ木」行きのバスに乗り「坊村」で下車し、「奥の深谷」を大橋小屋まで登りテント泊。翌朝一気に「武奈ヶ岳」からいくつかの山峰を越え「蛇谷ヶ岳」を踏破し、スキー場を縦断してそのまま林道・県道をひたすら歩き続け、午後七時過ぎに湖西線「近江高島」まで行った。
一九九八年夏には、やはり「ママチャリ」で「淡路島」一周の旅を茨木市午後発、翌日夕刻帰宅でやり遂げた。この時は、阪神大震災の震源地である「北淡」を訪ねてみたかったのと、ちょうど「明石大橋」の開通する年で、それまでキャンプや四国への出張でよく利用した甲子園フェリーが廃止になるというので、「去り行くフェリー」を利用するメモリアル・ジャーニーを味わうという動機もあった。この「淡路島」ママチャリ一周の「紀行文」は別に記してある。
一九九九年は所要で何処へも行かなかったが、内心、次は四国一周それも八十八ヶ所参りにしようと決めていた。理由は、私が民間の会社で営業マンをしていた一九九〇年から一九九五年の間、四国の問屋・商社を担当し、営業車で頻繁に出張していた時に、よく『四国八十八ヶ所 第○番霊場○○寺』という看板を見かけたことがある。よく見れば、あちこちに赤い色で『遍路みち』と書かれ、その横に『お遍路さんマークの模様』が描かれた小さな札がぶら下げてあったり、木杭に『四国のみち』と書かれた道しるべが随所にあったり、なによりも若者からかなりの年配と思われるお遍路さんが、一心に歩いているのを時々見かけたことが、たいへん興味深く、気になっていたからである。
そんな理由で、二〇〇〇年の夏季休暇を利用して、(主として)自転車で四国八十八ヶ所参りを始めだした。とはいっても、全行程は急峻な山道を含む歩きの遍路みちでも千二百キロメートル、自転車で走行できる道路を辿ってもでも千四百キロメートル余りあり、歩いて回るには約二ヶ月、自転車で一気に完結するには二十~二十五日程かかり、そんなに日程的な余裕が無い。そこで各県二回、一回あたり二~三泊(予備日一~二日)三~四日程度を目途に計八回かけて完結しようと決め、イメージを作った。但し、私の遍路には一切『宗教的』理由や『人生を見つめなおす』といったような崇高な理由は無かった。以前からそうであったように、何らかの完結性のあるアクションをやり遂げるのが好きであり、いわば四国一周スタンプラリーのオリエンテーションのようなつもりで、「納経帳」の記帳をチェックポイントのスタンプ替わりに、愛車 (台湾製の重たいマウンテンバイク) を駆って、たっぷりと『四国の生活のにおい』に浸りにいこうと思ったのが、素直な動機なのである。
以下、各行程ごとに『自転車遍路』の記録と感想を書きとどめてみた。なお、四国は歴史的な旧跡や、『つわものどもの夢の跡』が数多く残っている土地柄なのだが、今回の『自転車遍路』 にあたって、予め勉強をしていった訳ではない。感じたまま、思ったまま書きなぶったものであり、記述の不正確な部分があると思われるが、それらについては後日「思いや感銘」が大きく変わらない範囲で、加筆修正したいと思う。

                            (続く)
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家族の第2の原風景 満州・文官屯(ブンカントン)を訪ねて⑤

2006-06-27 22:57:42 | ファミリー
 今回は、このシリーズの最終回です。少し長いですが、我慢して呼んでください。

中国・東北地方雑感

 私は、実は中国旅行は今回がはじめてであった。今回の旅行は、長姉が健康で活発に行動できるうちに家族の第二の原風景である中国満州を訪ね、家族のメモリアルを記録し、それぞれの家族の子供や、孫たちに残しておきたいと思ったからである。特に、私は第二次世界大戦も中国の満州も知らない世代である。私の世代は、親や兄姉の戦争の体験を繋いで、次の世代に戦争を語り継ぐ義務もあると思うし、そのために家族の原風景をこの目に焼き付けておかねばならない。その自覚も大きくあったが、一方では、はじめての中国、それも社会主義から自由経済に移行しようとしている「ダイナミック・チャイナ」にも大いに興味があった。それらのこともあわせて、今回の中国旅行で印象に残ったことを、綴ってみた。

① “勿忘九・一八” 「 九・一八記念館」を訪ねて (瀋陽にて)
瀋陽(旧奉天)の郊外に、「九・一八記念館」がある。瀋陽北駅から文官屯方面へ行く鉄路(旧満鉄)が、一九三一年九月一八日の深夜に関東軍の謀略によって爆破され、それが中国の仕業であるとでっち上げることによって、日本軍が中国大陸に侵略していく契機(口実)とした「柳条湖事件」の勃発した地点近くにある。
中国では、日本の侵略戦争に対する抗日戦争の勝利を記録する『記念館』『博物館』『展示館』のようなものが実にたくさんある。今回の旅行でも一日目の北京の歴史博物館、二日目の長春の「偽満州国国務院」、三日目の「偽皇宮陳列館」、そして四日目の「九・一八記念館」と毎日一回は訪問コースに入っている。いずれも、執拗なまでの抗日、反日の画一的なプロパガンダで、「断頭台」や「斬首現場」「婦女子への残虐行為」や「平頂山事件」「南京事件」などの大量殺戮による山のような遺骸の写真など、旧日本軍の残虐さをこれでもか、これでもかと見せつける。そして、中国共産党の創設と八路軍による抗日戦争と、粘り強い戦いでの勝利と解放の喜び。慈悲深い中国共産党と毛沢東主席は「満州国」の「偽皇帝、愛新覚羅溥儀」を助命し、その後国務院議員になったことなどが画一的に、延々と説明されている。大体どこの『記念館』もそのような内容であるが、日本人観光客向けに、日本語の説明文(時には英文も)が併記されている。ところが、その日本語が非常に不正確でたどたどしいのだが、逆にそのことが妙に展示物のリアリティを演出している。
ついでに日本人観光客を目当てにしている証に、どこの『記念館』『博物館』も『友誼商店』などの土産物店を併設している。しかし『友誼』とは名ばかりで、実際の商品のほとんどは粗悪品で、展示を見て「反省した」日本人に売りつけようとしているのが見え見えで、気の良さそうな人なら法外な値段を請求するという、他の途上国の下町の闇市場とやっていることはたいして変わらない。
ただ、瀋陽の「九・一八記念館」は、建物も新しく、しっかりした日本語と英語の説明看板がつけられてあり、展示内容も他では展示されていない、満州軍閥の張学良への評価と連携や、国民党蒋介石との合従連衡など、文化大革命の時期には抹殺されていた歴史が紹介されている。また、展示場の出口付近には日本のかつての「満州棄民」が寄贈したという『慈母の像』が建立されている。終戦時の「満州棄民」であった子供たちを、心優しい中国の人達が引き取り、暖かく幸せに育てていただいたことに感謝して、後日寄贈された像ということである。涙が出るほど情感にあふれた像であった。ただ、一方では、その何百倍も何千倍もの子供たちの「満州棄民」が、中国の貧農に引き取られ、牛馬のごとくこき使われて、やがて失意と無念のままに満州の土となった人たちがたくさんいることも歴史の事実であり、その責任の所在をあいまいにしてはならないことも忘れてはいけない。
「九・一八記念館」は、建物も新しく近代的で、壁に書かれた、華国鋒の見事な揮毫による“勿忘九・一八”の文字も調和している。中国も近代化に向けて、歴史を正面に見据えようという姿勢の表れと思うが、反日の感情はどこの『記念館』でも一貫したテーマであり、歴史的事実をわれわれは糊塗することはできないだろう。今は、日本の国が、日本人が歴史を正面に見据えなければならない時だと思う。

② 長春・鉄嶺・瀋陽そして大連への鉄道の旅
中国のそれも東北地方(旧満州)の悠久の大地は地平線まで続く一面の緑で、いろんな花が咲き乱れているというのが、姉Hの満州の思い出であった。私もそのことを聞いており、大いに期待して二日目早朝に北京空港からのCA(中国航空)機長春(旧新京)行きの飛行機に乗り込み、わざわざ窓際の開いている後部座席へと移動した。
 飛行機は、やがて高度八千~九千メートルくらいになった。地上のほうを見るとやはり日本と違って、都市や町、水田や森林が殆ど見えない。川と言っても細い幾筋かが水路のようで、あまりきれいでない流れを作っているようだ。地上はというと、四月の末というのに『一面の緑』ではなかった。地平線まで続いているのは、『くすんだピンク色』『少し明るめの黄土色』である。何なんだろう、一面に桜が咲いているのだろうか、などと思っていた。
 二時間弱のフライトで、CA機は長春空港に着陸した。長春空港は、ターミナルビルもなく、トイレも不潔で、また滑走路脇には旧日本海軍のゼロ戦のような雰囲気の戦闘機や、旧式のミグ戦闘機が駐機していたりして、軍事用の空港のような感じである。中国のローカル空港は、どこでもこのようなものなのかとも思ってしまう。長春(旧「新京」)は、旧満州国の旧皇宮があり、愛新覚羅溥儀が執政を行った都市で、日本の施設も多く残っている。旧日本の施設の多くはどこでもそうだが、堅牢で、現在でも中国の政府機関、市、中国共産党の施設として使用されている。大きな都市の駅前には大体「旧 大和ホテル」が現存し、今も活用されている。
 今回のレポートは、それぞれの都市での散策や、観光についていろいろと思うところはあるのだが、少し省略して、わが一行が長春到着の日とその翌日に観光した後、三時間鉄路で、「鉄嶺」へと移動し、そのあとバスで「瀋陽」へ、そして翌日には「瀋陽北駅」から「大連」まで四時間三十分の鉄路の旅を経験し、その印象を残したいと思う。
長春から鉄嶺への旅は『軟座』(昔でいう一等車。二等車は『硬座』という。)の指定席で、長春駅では「軟座」専用の待合から通路を通って列車に乗り込み、快適な汽車の旅であった。ところが、二日目の瀋陽北駅からの汽車は『軟座』の指定席であったのだが、始発の瀋陽駅からすでにデッキに溢れるほどの大勢の中国人乗客が乗り込んでおり、なんとわれわれの指定席はすでに中国人一行に占拠され、大声で怒鳴り合うように話しているではないか。わが一行のガイドは彼らと激しく遣り合っている。普通の感覚では、われわれが指定席を確保しているのだから、彼らは文句を言わずに退けば良いのだが、『ひょっとすると指定席券の二重発券かな』と思うほど、彼らの剣幕は激しい。ところが、しばらくするとあきらめたのか、捨て台詞のようにぶつぶつ行って、席を立っていった。
指定席はデッキの近くにあり、席に座っていると、今度はデッキのほうで別の中国人がまるで喧嘩をしているかのように言い合っている。相手は女性の車掌である。ガイドの話では、切符なしで乗り込もうとしているとのこと。中国人は、ものすごい剣幕で怒鳴っているが、女性車掌もまったく負けていない。五分位の恐ろしいやりとりの挙句、中国人はあきらめて下りていったようだ。『ここは中国なんだ。中国のネゴシエーションはこうなんだ。おとなしくしていると負けだ。』と、つくづくと改めて思った。

さて、長春から鉄嶺、瀋陽北から大連への鉄路の旅で、地平線まで続く緑の草原はどこにもなかった。『くすんだピンク色』は中国の大地の色。空から見た『くすんだピンク色』は、実は『淡い黄土色』で、それは中国の大地の色だった。今は四月三十日~五月一日であり、日本の感覚では新緑が萌え出す季節である。ところが汽車の窓からは、所々集落があり、その周辺は荒れた土地とか禿山しかない。思うに、第二次世界大戦後、人民公社や合作社が『開墾』のために、木を切り倒し、山を焼き、ありとあらゆる大地を掘り起こしたのではないだろうか。その挙句、大地の保水力もなくなり、雨も降らなくなってきたのではないか。鉄嶺への旅で雨が降っていたが、今年になってはじめての雨ということである。
鉄路に沿って、有刺鉄線が張られている。その有刺鉄線に野積みにされたポリ袋に入ったゴミがいっぱい絡み付き、大陸の風にあおられている。最初はなんだろうか、ちょっとした装飾かと思ったが、よく見ればゴミ袋とゴミの山である。インフラが整備されていない。近代化を目指す中国の大きな課題だろう。

③ ビル建設の「猛ラッシュ」
今回訪問した都市は、北京、長春、鉄嶺、瀋陽、そして大連等であり、それぞれの都市で観光と散策を行った。どこの都市も新しい中国の経済発展を象徴するかのように、ビル建設の『猛ラッシュ』であった。それも高層・超高層のビル群で、一方では古ぼけた家々や胡同(フートン・古い集落)が壊され、瓦礫となって行き、その喧騒さに輪をかけているようだ。人々は町に溢れ、中国独特の大声の騒々しさで大変な賑わいで活気に溢れていた。長春では自動車とリヤカーの接触事故が目前であり、見ているまに大勢の野次馬が周りを取り囲み、関係ない人までもが、大声で怒鳴りあっている。
 中国は市場経済や近代化に進んでいるとはいえ、未だ社会主義国である。土地などの私的所有は認められていない。いったいあの建築ラッシュのビル群の『オーナー』や『資金源』はどうなっているのだろうかということは、私の大いなる疑問であった。
 ガイドの話によると、資金源は『国債』ということであり、その引き受け手は政府や市の高官、市長、万元戸などだそうである。と言うと日本でいう第三セクターとも違った、公設、公営のビルとなり、それを一部中国企業や、日本をはじめとした外国企業へのテナント貸し、公共機関等に活用されるのだろう。『オーナー』にとっては『信託事業』のようなものかもしれないが、一方では『国債』の償還がある。数十年先に償還するとなれば、今後の中国は『ハイパーインフレ』の道を歩まねば仕方がないだろうし、また外国資本が導入されていれば、元の引き上げもされなければならないだろう。
 いずれにしても、それぞれの都市には新しい中国の熱気が溢れ出している。市場経済化と近代化の道を歩みだし、人的資源、天然資源の豊富さによって、二十一世紀の第三世界の核となるであろう中国の発展を私は望んでいる。そして、日本との古き友人として、今後のパートナーシップが太くなっていくことを、望んでいる。


-ゆかりの地としての中国東北地方旅行の全行程-

4月28日 8:00関西国際空港集合⇒10:00JAL785便⇒12:05北京空港着 (現地時間-日本との時差はマイナス1時間) ⇒13:20昼食 (美女キ都大酒店) ⇒15:00北京大学散策⇒16:25中国革命博物館・歴史博物館 (但し、タイムアウトのため外から見学) ⇒16:35天安門広場・故宮(タイムアウトのため外から見学)散策⇒17:10革命博物館内友誼商店⇒18:10王府井散策⇒19:00宿舎「廣西大厦」チェックイン

4月29日 6:30宿舎発⇒8:00北京空港よりCA (中国航空) 1609便⇒9:45長春空港 (約25分離着陸の遅れ) ⇒水口氏ゆかりの学校(現在、人民解放軍の士官学校)望見、バスより旧「満州国」施設の観光 (殆どが、現在も中国共産党や、吉林省政府施設として使用しており一般公開していない) ⇒10:40偽満州国国務院見学⇒12:00昼食⇒13;10南湖大橋⇒14:00長春電影宮 (旧満映、当時は東洋最大の映画のオープンセット) ⇒15:20喫茶⇒16:00實城子跡見学 (SGさんの祖父の弟、画家金山氏が描いた旧駅舎) ⇒16:50旧日本人街吉野町等散策後、宿舎「春誼賓館」チェックイン。その後再度宿舎南方面散策、旧室町小学校 (現在も使用) 、新京神社跡等

4月30日 8:00宿舎発⇒9:00偽皇宮陳列館(吉林省博物館はリニューアル工事中)見学⇒11:00昼食 (春誼賓館、迎賓楼) ⇒12:20長春駅発 (鉄路にて) ⇒15:20鉄嶺着⇒16:00鉄嶺第一小学校、市内をバスにて観光後、高速道路を瀋陽へ⇒17:15文官屯 (瀋陽の北部市街地) 五十川家ゆかりの地を散策⇒18:30宿舎「鳳凰飯店」チェックイン

5月 1日 6:00北稜公園散策⇒8:00宿舎発⇒8:15九・一八記念館見学⇒9:40瀋陽故宮博物院⇒10:50土産物店⇒11:40昼食⇒13:40瀋陽北駅発 (鉄路にて) ⇒18:10大連駅着⇒18:40宿舎「国際酒店」チェックイン、夜中山広場散策

5月 2日 7:00大連市内散策⇒9:00宿舎発⇒9:15大連港役場⇒10:30東北財経大学⇒11:10大連自然博物館⇒12:00フェアウェル・ランチ⇒13:00大連空港、搭乗手続き⇒14:15大連空港よりJAL790便⇒17:10関西空港着 (日本時間、中国との時差プラス1時間)

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家族の第2の原風景、満州・文官屯(ブンカントン)を訪ねて④

2006-06-22 22:27:21 | ファミリー
 本日は、満州・文官屯を訪ねての第4回目の寄稿です。

兄J (一九四〇年一月生 )は大変な腕白であった。文官屯の官舎は金網のフェンスが張り巡らされていたが、その金網を乗り越えて「満州人」の集落まで行き、「満州」の子供達と遊んだ。パンや饅頭のようなものをよく貰った。神社の大木に登りカラスの卵を取ったりして子供たちの「ガキ大将」であったが、母親の心配は並大抵でなかったようだ。カラスの卵は青色で、卵を取っている最中には必ずつがいのカラスが襲ってくる。それを、はらいのけて取った卵を飲んだのだが、受精卵のため、羽毛の生えた雛が中にあることも良くあったとのことである。小学校一年生の時授業が終わると姉の教室の前まで行って待っていた。兄が一年生の時に終戦を迎え、子供たちは集団で官舎まで登下校したが、学校帰りに官舎の門番のおじさんにいつも兄だけ肩車され、かわいがられた。もっとも、父親がかなりランクの高い技術者であったことも、「ひいき」の要因の一つかもしれない。兄の記憶では、「文官屯駅」は客の乗降用の駅ではなく、物資・貨物の集配駅とのことであるが、今回の訪問で兄の記憶の方がイメージが重なるように思う。兄は、敗戦で「引き揚げ」の時、腸チフスの一種で「満州チフス」といわれた病気に罹患し、高熱・血便で真に生死の境をさまよったが、卓抜した生命力で耐え抜いた。これも、母親にとって「引き揚げ」の極めて困難な状況下のことであり、先に述べたように「異国の地で死なせてはならない。日本海に流してはならない。何とか家族全員生きて日本に戻れるように」と、大変な心労と、プレッシャーであったことだろう。

長兄H(一九三七年三月生)は、「引き揚げ」後大阪で中学校、高等学校と進学したが、一九五四年七月、一八歳の時に盲腸炎をこじらせ、腹膜炎を併発して病死した。我慢強く責任感の強い人間で、自分の学費の一部にと夜間に日本経済新聞社でアルバイトをしながら家計を支えていた。腹痛にも我慢に我慢を重ねていたのであろうが、現在の医学ではまず死に至ることは無いだろう。痛恨の思いである。同時に文官屯の思い出の大事な大事な視座も、一つ欠落してしまった。

父 (明治四十年・千九百七年生) は一九六七年七月、三度目の脳溢血の発作で死亡した。父にとって満州は自分の夢とロマンを思いのたけ実現させる事のできた、最高のフィールドであり、ステージであったのだろう。敗戦後、否応無く迫られた現実の環境とのギャップに、器用に自分を調和させることができなかったのだろうが、随分と自分勝手な生き方をしてきた。一九六一年に最初の脳溢血で倒れた後、家でリハビリをしながらテレビで「満州」の画像や、「引揚者」達の話題が放映されると、涙を流し、時には嗚咽しながら凝視していた。

姉T (一九四四年十月生 )は、現地で出生。乳飲み子のまま、新しく増えた家族として「満州」から「引き揚げ」てきた。その時は、姉Hがずっと背負ってきたとのことである。

私は、戦後の混乱がまださめやらない一九四八年十二月、「大阪市大淀区大仁本町一丁目一〇一番地」の小学校を利用した「引揚者用合同住宅」で出生。
姉Tが出生した時には、すでに日本は第二次世界大戦に敗れ「満州」全域は「ソ連軍」や「八路軍」が侵攻し、中国大陸の新たな勢力再分割が怒涛のように押し寄せてきていた。母は、乳飲み子のTを片時も離さず、家族離れ離れになることなく翌一九四六年六月の「引き揚げ」に必至の思いで辿り着くことができた。「引き揚げ」の時には、兄Jの腸チフス(「満州チフス」)の発症という過酷な精神的重圧にも耐え、飢餓などの大変な苦労を乗り越えてきた。そして、舞鶴到着後、父市太郎の本家筋の故郷である、石川県鹿島郡能登中島に七月十二日に到着し、兄Jも何とか小康状態となり、新たな家族史が始まるが、その軌跡は別の機会に記録する。
この母親を軸とした家族の絆は、家族それぞれが生命の重みを持って経験し、共有し合ってきたことによって、今ある家族の絆の珠玉の原点となっているといえよう。「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八」はその意味で、私達の家族にとって第二の故郷の原風景の場である。

翌早朝六時、メーデーの休日でにぎわう瀋陽市北稜公園に、姉と連れ合いと私の3人で散歩に出かけた。雑踏の喧騒がつぎからつぎへと溢れ出てくる瀋陽の休日の公園、その朝の空気をたっぷりと吸い込み、この地の名残とした。

                           (続く)
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家族の第2の原風景、満州・文官屯(ブンカントン)を訪ねて③

2006-06-21 21:57:27 | ファミリー
 本日は、満州・文官屯での家族の原風景をたどる、第3回目の話です。

 ‘いそ’の家族の満州・文官屯追想のメモ
(家族の文官屯追想メモ)
母 (明治四三年・千九百十年三月生) の「満州」文官屯にまつわる記憶は、釜山から「奉天」への汽車の車中に始まる。車窓の田園地帯には当時日本では見られなかった、黒い豚の群れが放牧されていた。二~三日後に「奉天」に到着、そのまま「文官屯」へ向かい、昼過ぎに到着後隣家の山田さんに簡単な飲食物を頂き一息ついたこと。翌日、共栄会へ日用品や食物等の配給物資を買い出しに行き、家族の「満州」生活がスタートした。「満州」では子育てに忙殺されつつ、現地でTを妊娠出産した。父親は「南満砲兵工廠」で第四位にランクされる技術者で、それなりの高額所得であった。軍属であり長靴を履き長剣を拝刀していた。「将校」クラスの軍人に付き、よく軍馬の後から着いて歩いていた。仕事では、満州中を駆け回っていた。母は、夫と家族の無事を祈って毎日近所の「藤見神社」へお百度参りをしていた。敗戦後父と同時に発疹チフスを発症、入院していた病院は、ソ連軍の侵攻とともに爆破されたが、父とともにリヤカーで避難した。その後ソ連軍の略奪行為等の難をのがれ、子供たちを守りながら、一九四六年六月に何とか「引き揚げ」に辿り着くことができた。「引き揚げ」のときは、「奉天駅」の公衆便所前の瓦礫化したレンガ囲いの中で、二日間雑魚寝して汽車を待った。汽車といっても無蓋貨物車であり、雨に降られ病気でぐったりとし、動けなかった当時小学校一年生の兄Jの耳の中に雨水が溜まっていたのを見て、情けなく、悲しかったことを昨日のように思い出す。姉H、兄Hは母親とともに毛布や布団、当座の着替え、干飯などを小学生ながら持てるだけ持って「引き揚げ」て来たというのに、父は自分のそろばん、計算尺、書類入れ、硯、筆等、それに「お金」と称して新聞紙を切ったものを箱に詰めて大事に持ち、家族の共有物は何一つ持っていなかった。もともと、自分勝手な性癖はあったが、敗戦のショックで一時期精神のバランスを崩していたようだ。
「引き揚げ」のとき、兄Jが腸チフス、当時「満州チフス」と言われた病気を発症した。あの、大変な腕白の兄が、四十度以上の高熱と血便に、泣く元気すらなく、ぐったりとして母の膝に顔を埋めていた。「引き揚げ船」の中で病気等で亡くなった人たちは、「戸板」に載せて日本海へ流し、水葬に付したのだが、母は「Jを決して海に流さない」と、「引き揚げ船中」片時も兄を放さず抱いていたのである。

姉H (一九三五年六月生 )の記憶は、「すずらん」や「女郎花」等が咲き乱れる地平線まで続く一面の草原。官舎の裏にはとてもきれいな小川が流れており、魚や川海老が泳いでいた。国民学校の遠足は歩いて日露戦争の記念館へ行った。家族で歩いて奉天の競馬場へ競馬見物にもいった。「文官屯駅」からは、「南満砲兵工廠」の方面に向かって「戦車」が何列も縦隊になって行進できる、まるでパリの凱旋門通りのように広い道が続いており、その左側の歩いて十分ほど奥まったところに「藤見神社」とその斜め向かいに「国民学校」があった。官舎はそのまだ奥にあった。敗戦後ソ連兵が侵攻し、略奪、暴行行為が繰り返された。母も姉も頭髪を丸刈りにし、男に扮し難を逃れた。父は、ロシア語が少しできたので、ソ連兵が侵攻してきた折に「案内人」として刈り出された。本人は非常に「嫌」であったが、やむなく「旧関東軍の憲兵隊」の家等に「案内」し「通訳」をしたが、ソ連兵が向かう方向には予め知らせ、避難するように連絡していた。「引き揚げ」は「満鉄」を乗り継ぎ「葫芦島(コロトウ)」から海路舞鶴へ向かった。七日間かけて舞鶴に到着したが、「引揚者には虱がわいている」といわれ、二日間待機させられ、「虱」駆除のため頭からDDTを散布されたことや、舞鶴到着後風呂に入れたが、「入れ」の号令後すぐ「上がれ」と言われ、浸かるひまも無かったことなどを記憶している。なお、「葫芦島」は現在では中国の海軍基地がある。
                            (続く)

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家族の第2の原風景、満州・文官屯(ブンカントン)を訪ねて②

2006-06-20 22:16:29 | ファミリー
 本日は、満州・文官屯での原風景と、それぞれの家族の思いを綴りました。

  “文官屯”の風景と家族それぞれの記憶の重なり
ハルピンと瀋陽を結んでいる瀋哈高速道路沿いに、女真族で清王朝の祖ヌルハチの陵墓である東陵がある。この付近には「ミステリアス・スロープ」といい、引力に逆らって上り坂はエンジンを切ってもどんどん加速度がつき、下り坂は自転車なら必至に漕がないと下がれない坂があるそうだ。日本でなら聞き流す話だが、ここは悠久の大地中国大陸である。思わず「本当だろうか?」と素直に思ってしまう。東陵を過ぎて、中国で数少ない高速道路の「サービスエリア」を過ごし、まもなく瀋陽の東北部郊外にある浦河インターチェンジを降りた。二〇〇一年四月三十日は、先刻の鉄嶺以来ずっと雨が降り続いている。この雨は今年に入って始めての雨、すなわち二十一世紀に降った初めての雨で、作付け前の大事な時期に私たち一行が雨をもたらしたかと勝手に思い込みながら、ほっとした気分になる。
浦河インターチェンジからしばらく一般道を走り、やがて右折した。道路標識に「金山路」とあり、おそらく西方に向いて走っていたがすぐに左折し、また右折して鉄路を横切った。この鉄路が「旧満鉄」の「奉天」から「新京」(現長春)へ向かう鉄路(但し、本線ではなく「引込み線」と思われるが)であり、「文官屯」はもうこのあたりであることは十分に感じる事ができた。姉Hは車窓からこの辺の風景を凝視している。道なりにほぼ西方面に走っているのだろうが、踏み切りから三・四分程走ったところで、対向車線越しのレンガ塀に囲まれた敷地に「鳥居」が残っているのを発見した。「鳥居があった」と私は叫んだのだが、バスはそのまま通過した。そして二・三分走行した後少し広い通りを南方面へと左折し、工場の方面へと向かった。左手は近代的なマンション群、右手はわずかに古い街なみの雰囲気が残っている。しばらく行くと小さなロータリーがあり、それ以上は立ち入り禁止である。姉は、必死に自分の記憶を辿り寄せようと、ずっと風景を凝視しつづけているが、街の変わりように自分の記憶とあまりオーバーラップしない様子である。
小さなロータリーをUターンし、先ほどの通りに戻り右折し、まず「文官屯」の駅の確定と「鳥居」の確認に戻った。「文官屯駅」は、地元の人たち二~三人にたずねるとすぐに分かった。先ほど横断した鉄路の延長上にあり、現在は小さなプラットホームのようなものはあるが、旅客の乗降場はなさそうである。旧駅舎なのか、古いレンガ造りの建物が残っており、あたりは小さな製材所と、貯木場であった。道路をはさんで錆びた鉄のアーチ状のものがあり、その下を「駅前通り」とでも言うような、二十メートル幅ぐらいの道路がやはり工場方面へと続いている。その道路の右側のレンガ塀で囲まれた中に、「鳥居」が敗戦後の風雪に耐え抜き、「文化大革命」の大破壊行動にも耐え、まるで昭和史の証人のように、一人「満州」の地に忽然と残っていたのだった。ここは「藤見神社」の跡だった。終戦後、本日私達が「藤見神社」を訪れるまでに、おそらく幾人かのこの地にゆかりのある日本人が訪れていることだろう。「鳥居」は歴史の記念碑として、又この地で果てた「満州棄民」のエピータフ(墓碑銘)として、朱塗りは剥げてしまっているが、粛然として屹立している。本殿の建物は全く跡を留めていないが、「鳥居」の手前には、兄が登ってカラスの卵を取ってきたであろう戦前からあったと思われる大木も現存していた。
「藤見神社」跡の隣は、姉や兄が通った「国民学校」の跡地であるが、現在は「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」となっている。そして道をはさんで東南側に、家族の第二の故郷である「南満砲兵工廠官舎」が存在していたのだが、かつての居宅の現存については確認できなかった。「遼寧兵器工業大学」「瀋陽工業学院」の南端から先はやはり、「立ち入り禁止区域」で、それ以上は近付けず、そこから右折し北西方面へと現地の生活道路を走った。進行方向右側は漆喰の土台のレンガ塀だが、後日兄Jにその写真を見せると、このような風景のところを通学したとのことであった。やがて最初に工場方面に右折した少し広い通りに合流した。「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」は、戦後に作られた学校であるが、その門柱は、姉や兄が通った「国民学校」の門柱を使用しているとのことであった。
姉は、駅から工場に至るまるでパリの凱旋門通りのように広い駅前通りから、向かって左の方へ歩いて十分ぐらい奥まった所に、神社・学校が有ったという。その更に奥に、「官舎」が有ったとのことである。今回旅行から帰った後、兄Jと話したが、やはりおなじ記憶であった。おそらく、最初に工場方面に左折した少し広い通りが、かつては姉の言うような凱旋門通りのような広い駅前通りであったのかも知れない。「文官屯」駅もその場所にあったのかもしれない。あるいは「駅前大通」ではなく、駅から少し離れた大通りであったのかもしれない。その方が、記憶とのオーバーラップがよりフィットするようだが、じっくりと歩いて実感し検証する事ができなかった。「立ち入り禁止区域」が多く、厳重な警備が行われているからである。「もう少し早い機会に、母も兄も一緒に訪問しておればよかった」と心底思った。きわめて健康ではあるが、九二歳の母親とともに今回日本に残った兄のために、文官屯の風景を精一杯心の中に焼き付けた。
私達は、しばらくの散策後思いのたけを胸いっぱいに吸い込み、第二の故郷文官屯をあとにした。
                               (続く)
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家族の第2の原風景、満州・文官屯(ブンカントン)を訪ねて①

2006-06-19 22:52:39 | ファミリー
 大峰山行は、一旦お休みします。8月下旬に「パート3」再開の予定です。

 今回からしばらくは、2001年5月に訪問した中国東北地方(旧「満州」特に文官屯…ブンカントン)の紀行文と、家族の原風景を紹介します。
 私の家族は、第二次世界大戦中は、中国東北地方(満州)に仕事で派遣されていました。私は5人の兄弟の末っ子で、私以外はすべて満州からの引き上げの体験をしています。現在では、父と長兄はすでに死亡していますが、母は、96歳で健在です。 母は、家族の原風景を語るのには少し年齢が行き過ぎました。しかし、この文書を作成したときはまだ元気で、多くの体験談を聞かせてもらうことができました。他の兄弟もだんだんと年を重ねてきていますが、何よりも家族の核となる母親の老いが、家族の原風景を共有することをなかなか難しくしてきます。
 私は、戦争を知らない世代(1948年生)ですが、父や母や兄弟たちの戦争体験を自分も知り、そして私たちの子や孫に、戦争に翻弄された家族の原風景を語り継いでいく責任があると思い、中国東北地方を訪問し、この文章を記しました。

 地図にない町、満州(中国東北地方)・文官屯(ブンカントン)を訪ねて
-「ゆかりの地としての中国東北地方旅行」に参加して-(ファミリー版1稿)

中国東北地方の大地は、私の家族にとっては第二の故郷である。

私の父 (明治四十年生・千九百七年生) は、砲兵器製造に関わる優秀な技術者であった。一九三〇年代に、大阪砲兵工廠に技術者として勤務し、砲兵器の発明・改良で数度にわたって「天皇表彰」を受賞している。父は、設計能力も優れていたのだが、おそらくメンテナンス(修理・修繕)技術が卓抜していたのだろうと思われる。全く動かなくなった大砲を分解し、完全復旧させる事などは、得意だったと聞いている。
父は、第二次世界大戦の旧「日本軍」の多方面にわたる戦線の拡大展開にともない、東南アジア各国の最前線に単身赴任し砲兵器のメンテナンスに従事するようになった。家族の記憶だけでも、インドネシア・シンガポール・「マレー半島」・「ビルマ」・タイ・台湾等に赴任している。やがて一九四〇年以降、中国東北地方(旧「満州」)に赴き、「関東軍」の戦線拡大とともに「満州」各地を転々と移動し、砲兵器のメンテナンスを行うようになった。「満州」でも遥か北西部、ハルピンはおろかチチハルやハイラル、黒龍江方面まで赴き、民間人であったのでロシア人との接触もあり、ロシア語が少し話せたようである。それが、一九四五年の終戦にともなう「ソ連軍」の「満州」侵攻の際、本人の本意ではないが、「案内人」として利用されたりした。
一九四三年六月に「内地」より家族を呼び寄せ、「腰を据えて仕事に従事するように」との社命により、父は母、長女H、長男H、次男Jの四名を大阪まで迎えに来た。家族総勢五名は、大阪から汽車で下関まで行った。下関では、大陸に渡航しようと何日も待機している商売人や、開拓農民らの人たちでごった返す中を、軍属であった家族は、時間待ちすることもなく、二等船室に案内され、そこから海路釜山へと向かった。釜山到着後、鉄路「満鉄」を乗り継ぎ、数日後の一九四三年六月に、当時は「満鉄奉天駅」の次の駅であった「文官屯」に到着した。「文官屯」到着後、歩いて官舎まで行った。自宅として用意された官舎の隣家は「山田さん」という方で、到着後簡単な飲食物を頂き、ほっと一息ついたとのことである。
翌日は、「共栄会」という市場のような商店に、日用品の買出しに行った。当時は「配給制」であったが、そのときは、たくさんの「ロシアケーキ」「お菓子」等の甘いものがあり「多い目に配給された」ことや、米は馬車でのちほど配達されてきた思い出がある。このようにして、家族の「満州」生活は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八南満砲兵工廠官舎」から始まったのである。
なお、大阪砲兵工廠は、戦前は国鉄大阪環状線の「京橋駅」と「森の宮駅」以東にかけての南部と、大阪城の北部に囲まれた一帯の広大な敷地に威容を放って聳えていたが、戦時中の大阪大空襲でとくに徹底的に集中爆撃され、焼き尽くされた。戦後、私の中学校時代までは、赤茶けた鉄骨がまるで枯れ木のように不規則に、かろうじて立っていた。現在は植栽や植林もすっかり落ち着き、瀟洒なJR「大阪城公園」駅があり、大阪城ホールや、太陽の広場のある、広大な府民の憩う公園となっている。

このたび、SGさんを「団長」とする「ゆかりの地としての中国東北地方旅行」に参加し、家族の、波乱万丈の「家族史」の中で、とくに第二の故郷としての原風景を培ったであろう中国東北地方( 旧「満州」) を実姉H、連れ合いFとともに総勢7名で訪れることとした。


“文官屯”という街
瀋陽 (沈上ハ:旧「奉天」) は現在は、中国遼寧省省都で人口は六百万人余、中国東北地方随一の都市である。戦前から、撫順の石炭や東北地方の豊かな資源、あるいは鞍山の「旧昭和製鋼所」で精錬された鋼材等をアッセンブリーした重工業で代表的な都市であった。現在もなお中国有数の重工業都市であるが、一方天然資源のほうは、撫順の石炭はかっては露天掘りで採れるほど豊富にあったのだが、最近では枯渇の状態とのことである。
私達が訪問した四月三十日は年初来初めての雨、すなわち二十一世紀始めての雨が降った日であった。文官屯は瀋陽市街地の北部にあり、郊外との境界に近い街である。瀋陽駅(旧「奉天」駅)からは、戦後新しく建設された瀋陽の玄関口である瀋陽北駅を経て、長春に向かう鉄路(国営の鉄道)の一駅目が、かつての「文官屯駅」であるとの姉の記憶であるが、今回訪問して、この鉄路は本線ではなく、工場への「引込み線」ではないかと思われた。現在では廃駅となっているようだが、その場所には駅舎跡と思われるレンガ造りの建物と材木の製材所兼小規模な貯木場がある。「文官屯」の近辺には旧日本軍の満州への本格的な帝国主義的侵略の引き金となった謀略事件である柳条湖事件勃発の地がある。柳条湖事件は、一九二八年の「満州某重大事件」といわれた「関東軍」河本大佐の策略による「満州軍閥」張作霖爆殺事件に引き続いて、「満州事変」の泥沼に突入してゆく直接の契機となった、「関東軍」の仕業による謀略事件で、一九三一年九月十八日夜に引き起こされた「奉天」郊外柳条湖での「満鉄」爆破事件である。中国では「九・一八事件」といわれている。また、「文官屯駅」から車で二十分程西に行ったところには、女真族で清朝の祖ヌルハチを次いだ太宗ホンタイジと孝端文皇后の陵墓のある北陵公園がある。北陵公園は現在世界文化遺産の認定を目指し、環境の整備を行っている。ちなみに、ヌルハチ自身の陵墓は郊外にあり、東陵と言われている。

文官屯は、地図に無い街である。
今回の中国旅行に先立って、「地球を歩く」等のガイドブックはもちろん、図書館でかなり詳しい地図や中国図書の「産業図鑑」等を調べてみたが、ついに「文官屯」は見つけることができなかった。余程小さい街なのか、それとも戦後の中国では忌まわしい「満州国」時代の負のメモリアルであり「禁句」となっているのか、その理由は全く分からなかった。
一九四三年から一九四六年の間、家族は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」に住んでおり、当時の戸籍謄本も現存している。今回の旅行にあたって、戦時中の「満州国」作成の「奉天」市街地地図以外に、多くの旧住所表示と現在の住所表示の対照表を入念に調べたのだが、市の中心部に「藤町」はあるが「文官屯藤見町」は記載されていなかった。「旧南満砲兵工廠」は八千人の日本人を中心に二万人以上が、機関銃や大砲を主とする旧日本軍の兵器製造に携わっていたといわれる。いろいろと推測の結果であるが、おそらく「文官屯」は基幹軍需工場の街であり、軍事機密のため地図への記載や、住所表示すらも無く、郵便物等は軍用郵便扱いで事務的に処理されていたのではないかと思われる。
なお、現在の「文官屯」も地図に無い。「旧南満砲兵工廠」の、当時としては「超近代的」で大規模な施設跡は、戦後中国によって最大限に有効活用され、「産業図鑑」によると、現在では西安にある人工衛星等の製造もおこなっている重航空機製造工場と並び、航空機やその部品製造を行っている、中国における二大航空機製造工場となっているようだ。その工場には数万人の技術者・製造工員等が働いており、工場の周辺を彼らの住宅である近代的なマンション群が取り巻いている。実はマンション群も含め、その一帯は現在も立ち入り禁止区域であり、今回の旅行も、周辺の散策とならざるを得なかったのである。
                                (続く)
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大峰奥駈道2-4

2006-06-16 21:43:06 | 
 本日は、大峰奥駈道の第4回目で、最終回です。
「大峰奥駈2-4」

2005年8月14日 前鬼裏行場を廻る。「山よさよなら ご機嫌よろしゅ。またくるよ」

前鬼は私も良く知らなかったのだが、集落の呼称ではない。五鬼助さんの母屋と五鬼を祀るお堂と宿坊である「小仲坊」それにトイレなどの付属施設、一戸だけのバンガローがあるだけで、ご主人の五鬼助さんは名前の通り昔開かれた前鬼の守護代の御子孫である。普段は大阪の寝屋川にお住まいで土日などに当地にこられて、前鬼の管理や運営を行われている。ほかには人家も何もない。普段は「小仲坊」も無人であり、無人宿泊所として修験道の行者や登山者の憩いの場となっている(有料)。今回は丁度土曜日であり、盆休みも重なり、「小仲坊」も営業をしており、後を継ぐ予定の息子さんも一緒にお見えであった。
朝は五時に起床、付近を散歩する。少し森の中へ入ったり、キャンプ地の芝生の感触を楽しんだりして朝の清々しい空気を満喫した。これらの管理は大変だなと思う。
六時に朝食を頂く。母屋でご主人と、奥さんと語らいながらの温かい朝食であった。本日行動予定の「前鬼裏行場」の様子を伺う。台風等の影響で少し荒れていることや、「垢離取場」(こりとりば)は渡渉しなければならないこと、谷を渡るときに道を間違えないことなどをうかがった。
朝食のあとリュックを「小仲坊」に置き、飲み物だけを持って、六時五十分に出発。母屋の裏から山の中へと入っていった。道はしっかりと踏み跡があり、目印の杭やテープも巻かれ、迷うことはない。しばらくはずっと登りの道で、山の麓らしく、トカゲやら蛇などがうろちょろしている。道を登りきると峠に小さな祠が有る。そこからは今度は谷への降り。しばらく歩いているうちに川の音が聞こえてくる。道はだんだんと荒れてきて、所々崩れていて斜面をまいたり、橋が落下していて谷へ下りて対岸へ渡ったりしなければならない。
そのような繰り返しで、やがて七時五十分に「垢離取場」についた。北股川の清流の小さな滝の下に、深さ五十~六十センチメートルぐらいで白い石が敷き詰められているようになっている。そのようなところが十畳分ぐらいある。行者はここで水垢離をし、身を清める。河原の巨岩と「垢離取場」の白い石とコバルトブルーの川の水のコントラストがなんともいえない神聖さを漂わせている。
「垢離取場」でタオルを絞ったりして、小休止のあと靴を脱いで渡渉。さらに奥の行場「三重滝」(みかさねたき)を目指した。すぐに標識が出てきて「三重滝」まで四百メートルと書いてある。そこから階段があり、登っていく。階段やら架橋やら道は作られているのだが荒れている。しばらく行くと階段や梯子を下りる道となる。「三重滝」の音がだんだんと聞こえてくる。やがて木の間から、立派な「三重滝」が見え出した。もう少し先まで行くと、滝が良く見えた。時間が現在八時二十五分で、どうも滝壺まで行くと時間がぎりぎりになりそう。今回は、ここで「三重滝」を眺めて、戻ることとした。
来た道を戻る。「垢離取場」ではまた靴を脱いで渡渉。迷いやすい谷へ降りる道には気をつけて渡った。峠の小さな祠では、今回の山行の無事を感謝して合掌。十時十分に前鬼に帰着。「三重滝」まで行ったことをご主人に告げると、時間が速かったのか少し驚いた様子であった。朝食の時には四時間かかると言っておられた。
下山の支度をしているうちに、昨日「深仙山小屋」で分かれた僧侶さんが山から降りてきた。十四時四十七分のバスに乗るとのことで、先に出発された。私たちはご主人に見送られて前鬼を十時五十分に出発。息子さんは釣に行っているとのこと。ここからは林道をひたすら約三時間歩き続けるだけだ。しばらく歩いて行くと二十メートルぐらいにわたって林道が大きく谷底へ崩れ、一メートルほどしか残っておらず、とても車の通れない場所があった。崩落場所の前鬼側には、軽トラックがあり、崩落場所の向こう側には多分五鬼助さんの自動車と思うが、大阪ナンバーの四WD車が駐車してあった。ここまで荷物を運んできて、車の通れないところを歩いて運び、反対側の軽トラックに積み替えて、前鬼まで運んでいるのだろうと思う。私たちに少しも不便や不自由さを感じさせない前鬼の管理運営に腐心されている五鬼助さんのご苦労に、本当に頭の下がる思いがした。
林道の車止めを過ぎ、三ヶ所の前鬼トンネルを過ぎて十一時五十分に、滝見台に着いた。ここから見る「不動七重滝」は実に壮大で立派な滝である。ここで記念撮影。本来はここから滝まで遊歩道があり、さらに進むと前鬼まで続いているのだが、台風で道が荒れていて通行不可能の掲示が出ている。春に大峰山行をしたときも「みたらい渓谷」で同じように通行不能になっていた。なかなか修復が追いつかない現状のようだ。
このあたりまで来ると、自動車がかなり入ってきている。撮影後再び林道を歩き始める。途中、谷から湧水をくみ上げ、ホースで引いている場所があり、そこにちょっとしたベンチが置いてあり、「本州製紙前鬼温泉」と看板が出ていたと思うが、十二時三十五分にそこで昼食とした。本日の昼食は持参のもので、連れ合いとAはシーフードヌードル、私はカップチャンポンメン。前鬼から持参の水を沸かし、おいしく食べた。
昼食後再び林道歩き。延々と歩いている。前鬼川はすでに池原ダムとなっており、ダムで水没した集落の「成瀬跡」の記念碑などを見ながら通り過ぎていく。やがていくつかの峰を隔てて池原ダムに架かる前鬼橋が見え出した。「もうすぐ前鬼口のバス停だよ」と連れ合いとAに声をかける。十四時十五分ようやく前鬼口バス停に到着した。昼食時間を除いて、二時間四十分の林道歩きであった。前鬼のご主人は三時間かかるといっておられた。
バス停前の自動販売機で、久しぶりの缶コーヒーを飲む。バス停前の閉まっている売店の前にあるベンチにリュックを下ろし、ストレッチをしていると、心地よくも充実感のある疲労感に全身が浸ってくる感じがする。ストレッチを終え、登山靴の紐を緩めベンチに座り、対岸のの稜線をぼんやりとみていると、そのうち本当にスローテンポで、自然と「山男の歌」の最終節が出てきた。

『山よさよなら ご機嫌よろしゅ また来るときにも 笑っておくれ』

連れ合いは、ガレ場、岩場(カニの横ばいのような、鎖場や梯子がたくさんあり)、ブナの原生林やササの多い茂った尾根歩きなど、とても面白い山行だったとのこと。Aは、これからは「趣味は登山とする」とのこと。
十分ほどすると、先行の僧侶さんがバス停にやってきた。林道をはずれ、山道を歩いてきたとのことである。
十四時四十七分発の「湯盛温泉杉の湯」行きのバスが五分ほど遅れてやってきた。旧バス停(?)で座っていた連れ合いとAも降りてきて、バスに乗る。国道百六十九号線の谷あいを縫って走るバスの、それと同じ行程の稜線をわれわれは縦走してきたことになる。思えばよく歩いたものだ。バスの中では僧侶さんとひとしきり、山談議。
一時間強でバスは柏木の集落に入っていく。柏木のバス停でわれわれはバスを降り、僧侶さんを見送った。駐在所に行きブザーを鳴らしたが不在の様子。下山届けを手帳の紙に書いてポストに投函。
その後Oさん宅にいき、駐車の御礼と三泊分(千五百円)の支払い。車のところで靴を履き替え、帰る準備。帰りに「杉の湯」で温泉に入っていく計画であった。
十六時三十五分「杉の湯」着。ところが「ホテル杉の湯」では「日帰り入浴は午後二時間まで」とのこと。交渉したが入れてもらえず、どこかにないかと聞くと、五分ほど吉野のほうへ行くと「中荘温泉」があるとのこと。「ホテル杉の湯」で「陀羅尼助」を買い、「道の駅杉の湯」で土産を買い込み、再び車に乗って「中荘温泉」を目指す。十七時に「中荘温泉」到着。吉野川の川底七十メートルからくみ上げている温泉とのこと。早速入浴。前鬼では湯をかけ流していただけなので、湯船につかると、生き返る思いがする。たっぷり洗って、たっぷり浸かった。

十八時十分、「中荘温泉」を出て、帰路に着く。国道百六十九号線、橿原から国道二十四号線、西名阪自動車道から近畿道に乗り継ぎ、たいした渋滞に巻き込まれることもなく、二十時四十分、孫たちの待つ我が家へと帰着した。

 二〇〇五年夏の、大峰奥駈道の山行報告は以上です。この続きは、二〇〇六年夏~秋にかけて「南奥駈」を目指し、最終は、熊野本宮大社まで行き、その記録を報告する予定です。
 そのアップまでの間、来週から中国東北地方と家族の原風景、四国八十八カ所自転車遍路の旅などを順次掲載していきますので、どうぞお読みください。

                             (一旦 完)         
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大峰奥駈道2-3

2006-06-15 21:46:52 | 
昨日は所用のためアップできませんでした。
本日は、「大峰奥駈道2-3」を掲載します。

二〇〇五年八月十三日 ガスの中、近畿地方最高峰の「八経ヶ岳」を越え、前鬼へ日没との競争

八月十三日は五時に起床。女性の二人連れは早々に出発していった。荷造を整え、われわれは六時に小屋の朝食。おかずはふりかけや佃煮等々。それでも腹いっぱい食べて、出発準備を終え小屋の前でストレッチ。今日は濃いガスの中で、どうも一日中こんな感じがする。小屋周辺で記念撮影のあと六時三十五分出発。「八経ヶ岳・前鬼」と書かれた石標のある道を進む。いったん道は降り、鞍部から再び登りだす。あちこちにフェンスで囲いをしてあり、フェンスに開き戸がついている。「熊よけのため開放禁止」などと書かれてある。七時三分に「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)に登頂。ここは近畿地方の最高峰である。近畿地方以西には二千メートル以上の山はないので、西日本でも高いほうの山である。日本百名山の一つ。ここで少し写真撮影だが、あいにくの濃いガスのため景色はまったく見えない。この先ルートファインディングにも少し苦労をするかもしれない。
「八経ヶ岳」から先のルートはやはり尾根筋を辿る。「明星ヶ岳」を過ぎ、「禅師の森」といわれる原生林を越え、ひたすら歩き続ける。道は細く、ところどころは踏み跡を辿ったり、倒木が道をふさいでいたり、崖の途中をトラバースしたり、道が崩れていたりして必ずしも楽な道ではない。また、ガスのせいもあり、ルート探しには気をつかう。
九時に「舟ノ垰」(ふねのたわ)といわれる鞍部というか、窪地に到着し五分の休止。再び歩き出し九時四十分に無人小屋の「楊子ヶ宿小屋」着。「弥山小屋」で同宿の僧侶の人が先着してここで休憩しており、挨拶を交わす。僧侶はしばらくすると先に出発した。ここで十五分間のおやつ休憩。この小屋もログハウスで十五人程度が泊まれそうな、比較的きれいな小屋であった。
再び、稜線上の道を辿る。このルートの基本は尾根筋であることを徹底し、谷へ降りる道や踏み跡は辿らないことが鉄則である。「仏生ヶ岳」(千八百五メートル)、「孔雀岳」(千七百七十九メートル)のピークだけは西側を巻きやがて再び尾根に戻る。十一時四十分に「孔雀覗」の崖上に出るが、濃いガスのため何も見えず。本来なら前鬼川の渓谷の展望が望めるところであろう。しばらく行くと、「両部分け」の岩場があり、金剛界、胎蔵界と呼ばれている岩崖が望まれる。
その後道は細い稜線上に出る。道がT字状になっていて、自然と右の岩場のほうへと行った。道はすぐに大きな岩壁を右手に見ながら谷へと下っていく。踏み跡がそれも新しいのが結構ついてあり、辿っていくとやがて岩壁の下部に出た。これ以上行くとどんどんと谷のほうへと降りて行く。『これは道をはずしたな』と思い、連れ合いとAをその場に留まらせ、降りてきた道をT字状のところまで戻った。逆方向の道を見ると目印の赤テープが木に巻きつけてあった。大声で連れ合いとAを呼び、ルートに戻す。もっとすばやく鉄則に戻らなければならないのに、少し行き過ぎた。この道をはずしたために三十~四十分時間のロスをした。少し時間が気になりだした。
岩場を過ぎて十三時十五分に鞍部になったところの道端で昼食。このあたりが「橡の鼻」といわれるあたりかと思う。「弥山小屋」で作ってもらった弁当で、梅干に佃煮ふりかけ等。ご飯ばかりという感じで結構ボリュームがあったが、三人とも全部平らげた。十三時四十五分出発。ここから岩壁の上を辿り、鎖場やへつるところもあり、「行者還岳」付近と並んで行場らしいところだ。結構スリルがあるだろうなと思うが、濃いガスのため何も見えず、高度感もスリルもほとんど感じないのだが、かなり強い風が吹いており、時々突風となり、飛ばされれば危ないので、緊張が走る。
鎖場を過ぎ、急坂を上りきり、十四時十分に、大きな釈迦の像が置かれた「釈迦ヶ岳」(千八百メートル)の頂上に立つ。ここは視界がよければ「弥山」「八経ヶ岳」が一望で、北は大峰山脈、南は熊野にいたる山々、東は大台ケ原と絶景だそうだが、本日は残念ながら何も見えず。釈迦像は前に傾き、像自体にも亀裂が入って痛んでいる。修理しなければならないなと思う。時間も気になり頂上では簡単な記念撮影をして十四時十五分出発。
そこから先は鎖場もなく普通の尾根道で、それでも滑って転んだりしながら十五時丁度に「潅頂堂」と呼ばれるお堂と並んで、無人小屋の「深仙山小屋」の有る広場に到着。山小屋には人影が見えるが、先行の僧侶であった。

僧侶「ご苦労様です。」
私 「道を間違いまして、時間がかかりました。今からだと前鬼には遅くなりますね。」
僧侶「私は今日はこの小屋に泊まります。明日「大日岳」に登って、前鬼まで降りて、昼のバスで帰ります。」
私 「それはどうも。ところで水場は大丈夫ですか。」
僧侶「少しボウフラがわいていますが、大丈夫でしょう。」

そんなやり取りの後、お互いのカメラで写真を撮りあう。僧侶は「家で『どこ行ってるの』といわれるので、証拠の一枚です。」とのこと。十五分ほどゆっくりしたのだが、実は内心前鬼への道を考え、あせっていた。前鬼への降り道は山の東斜面で日没が早い。しかも谷沿いになっている。「これは日没との競争になりそうだ。」そう思いながら、「太古の辻」へと急いだ。十五時四十分に「太古の辻」に到着。ここは写真ポイントなので手早く写真撮影を済ませ、四十五分に前鬼へと急いで出発した。コースタイムでは前鬼まで一時間半(連れ合いの本では一時間五十五分と書かれてあり、順調に行っても十七時十五分(四十分)着だ。これまでのペースを考えると十七時五十分ごろになるかもしれない。ここは思い切り引っ張る必要がある。
「太古の辻」からの道はしばらくは尾根上を降る。地図によると道が迷いやすいとの記号が記されている。長い階段があちらこちらにありルートの目安になる。それに目印の赤や黄色のテープが木に巻きつけてあり、それを忠実に辿るようにした。やがて「両童子岩(二つ岩)」と呼ばれる大きな岩のある場所に着く。そこから階段を降りると、だんだんと「白谷」といわれる谷へと降りていく。時間は十六時十五分を過ぎ、谷へ降りるにつれてだんだんと薄暗くなってくる。どんどんと道を稼ぐ。連れ合いは靴が小さくて足の親指の爪の痛みを言う。Aも「膝に来ている」という。それでもごまかしごまかし、どんどんと降りていく。十六時四十分過ぎになるとかなり暗くなってきて、だんだんと目印のテープを探すのに苦労をする。ルートもはっきりしない。Aと連れ合いが少し遅れて列が伸びる。それでもどんどん引っ張るが、なかなか目的地が見えない。
『これは、とりあえず二人をこの場所から動かさないで、私だけ先に降りて、荷物を置いて、迎えにこなければならないかも』とちょっと考えがよぎる。
暗くなってきている中で、慎重にかつ急いで目印や踏み跡を探しながら、降り続けた。時間は十七時をまわり、森の外の木漏れ日が頼りで下り続けていると、やがて小さな祠が二つ並んでいるところへ来た。祠と祠の間には、しっかりとした道というか踏み跡がある。
『よし、やった。ここからは懐中電灯をつければ、迷うことなく前鬼に着くだろう。』
内心ほっとした。連れ合いとAに「もうすぐ着くよ」と声をかける。今までと違って「普通の道」を安心して歩き続けていると、やがて森が開け前方が明るくなってきて、前鬼の「小仲坊」が見えてきた。少し歩いていくと前鬼の全体(といっても、母屋とお堂と宿坊の「小仲坊」とトイレなどの設備だけ)が見えてきた。十七時二十分に「小仲坊」の前へ到着。先行していた若い女性二人連れがおり、
「わー、ごくろうさまです。今お風呂を頂いたんですよ。」
といって迎えてくれた。ご主人の息子さんがいて
「お疲れ様でした。ゆっくりしてください。」
とねぎらってくれる。
「遅くなりましてすみません。宜しくお願いします。」とあいさつ。
森を出るとまだまだ明るいのだが、やはり前鬼のご主人の五鬼助さんは、心配しておられたとのこと。ご心配をかけましてすみません。
「お風呂にどうぞ」といわれ、連れ合いとA、そのあと私も入る。三日ぶりの入浴に本当にくつろぐ(ついでに着替えを余分に用意していなかったので、簡単に洗濯もさせていただいた)。入浴後に夕食。本日の宿泊客は宿坊に泊まるわれわれ三名と女性二人連れ、それと母屋に泊まるご主人の知人が三名。夕食は宿坊泊まりの五名が一緒に、奥さんの心のこもった焼き魚やゴマ豆腐などの手作りの料理を頂いた。ご主人の五鬼助さんは七月に朝日新聞で大きく紹介されていて、その話などに話題が弾んだ。「釈迦ヶ岳」のお釈迦さんが傾いていて、亀裂が入っていることや、熊の糞があったこと、奥さんは熊に出会ったことがあることなど、また女性二人組みとは自転車レースのことやら、山行きのことなどにも話題が弾んだ。そのうち、庭で息子さんが花火を始め、にぎやかな中での夕食となった。心和む時間であった。夕食後宿坊の前で、明日のお茶を沸かす。
女性二人連れは、明日朝七時台のバスに乗り吉野の「青根ヶ峰」を登山し、吉野を見物してその日のうちに東京、横浜に帰る、そのために朝四時に宿坊を出発するとのこと。
夜九時過ぎに一同就寝。
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大峰奥駈2-2

2006-06-13 22:27:29 | 
 本日は「大峰奥駈」の2回目の第2報です。
 大峰奥駈2-2

二〇〇五年八月十二日 大峰奥駈の修行の道を「弥山」を目指す。途中に熊のフン発見。

風の音で早くから目は覚めていたが、明るくなってきた五時に起床。ガスがかかっている。修行の行者は誰も通らなかった。修行場の真髄ともいえるこのコースに、しかもお盆休みにもなっていようかというこの時期に、行者にまったく会わないというのも少し肩すかしの感じではある。とにかく朝食準備、といってもパンを手早く食べるだけである。肌寒いぐらいで、熱いお茶を沸かし回し飲みをした。
朝食後、テントを撤収し、六時十分に出発。リュックの荷物の重さにも(水が無くなったが)だいぶ馴染んできた。六時二十分、「和佐又分岐」を過ぎ、六時二十五分に「大普賢岳」(千七百八十メートル)頂上着。写真撮影をしたが、ガスがかかっており景色のほうは残念ながらほとんど見えない。
ちょっとした鎖場などを通過し七時三十五分に「稚児泊り」という少し広くなった鞍部に到着。子供はここまでで、これ以上はだめですよという意味の地名かなと思いつつ、ここで小休止。八時に「国見岳」(千六百五十五メートル)を越え、「七ツ池」という水はないが大きな窪地の横を通過し、八時十五分に「七曜岳」(千五百八十四メートル)を越える。それからずっと尾根上を歩き、八時四十五分に十五分間の小休止。
小休止の後、「行者還岳」を目指す。稜線上を歩き、縦走路と山頂への稜線の分岐にかかり、そのまま稜線を辿り、九時三十五分に頂上に錫杖の立てられている「行者還岳」(千五百四十六メートル)に登頂。十分間ほど記念撮影。まだガスが晴れず、視界はあまりよくない。
頂上からもとの縦走路に戻る。しばらく行くと鎖場や梯子が連続し、ガレ場も続き、まさに修験道場そのものである。途中の梯子の横に、水場があり二本のホースで水を引いているが、そのうち一本は枯れ、もう一本からチョロチョロと水が流れ出ている。ここでペットボトルに水を補充。なかなか水がたまらず、汗にぬれたタオルを流したりもして二十分間の休憩となってしまった。少し休みすぎか。しばらく行くと無人小屋の「行者還小屋」の下部に出た。「行者還小屋」は最近改築されたようで立派なログハウスで、中には毛布も置かれてありきれいに使われている。三十人くらい泊まれそうで、柏木で駐在さんが「行者還小屋」まで行って泊まればよいといっていたのもなるほどだが、柏木から一日の行程としてはちょっと無理かと思う。山地図によるとこの辺りに関電鉄塔と送電線があるように書かれているが、見当たらない。調べなおす必要がある。「大普賢岳」から「行者還小屋」まで、地図のコースタイムでは二時間四十五分になっているが、我々は休憩込みで三時間三十分。少しかかりすぎなのか、コースタイムが早すぎるのか。この尾根歩きの間に天候は晴れだしてきて、昨日に引き続き快適な山行となってきた。
小屋を過ぎると、「天川辻(北山越)」という、昔の天川村と北山側を結ぶ要衝がある。小さなピークをいくつか越えるが尾根伝いに比較的緩やかな道で、やがてきれいなブナ林の中を歩いていく。連れ合いとAは、「きれいねー、ロマンチックやねー」などといっている。そこに、突然(人間のより)大きな、真っ黒い、しかもまだ比較的新しい獣の糞が出てきた。「きゃー、これ何」とAの声。「さー、ひょっとして熊の糞かも知れんね」(いのししかも知らんが)と私。そこからしばらくは、連れ合いは熊よけの鈴を鳴らしっぱなしで、「ラジオもつけて」とのこと。せっかくのブナ林もそさくさと駈け抜けた。尾根上のところどころで、これから目指す「弥山」「八経ヶ岳」の雄姿が望まれる。
途中、「行者還トンネル西口」からの尾根の登山道との合流を過ぎ、十一時四十五分に「一ノ垰」(いちのたわ)の避難小屋に到着。避難小屋は倒壊寸前で使用不可能。小屋の横の平地で昼食とする。昼食も行動食で朝と同じくパンにバターを付けて、おかずにソーセージとチーズ。昼食を食べていると、がさがさという笹を掻き分けて何かが近づいてくる。先ほどの糞のことがあり一瞬ドキッとしたが、単独行の登山者が軽快に通り過ぎて行った。十二時十五分出発。
トンネル西口からの谷側の登山道の合流点を過ぎる。トンネル西口に駐車し、この登山道から「弥山」に登山する人が結構おり、この行程で数組のパーティに出会った。やがて十二時四十五分に「弁天の森」(千六百メートル)のピークを過ぎる。「弁天の森」は広葉樹林帯で静寂であり、印象に残るきれいな森だ。
十三時五十五分に「聖宝ノ宿跡」着。ここから「弥山」頂上までが標高差約3百メートルのいよいよ胸突き八丁だ。コースタイムでは五十分、看板には一時間と書いてある。呼吸を整えて出発。連れ合いとAには、『先に登っていいよ』といってある。重荷を担いでいるので、あまり無理せず確実に登っていく。今日登ってきた山々が時々一望に見え、景色を眺めつつ急坂を登る。途中から長い階段となり、一歩ずつ登ってゆくと、やがて「弥山小屋」が見え出した。十五時十分に「弥山小屋」到着。連れ合いとAは十分前に到着していて、私をお出迎え。「はい、皆さんご苦労様でした。」
まず、小屋に荷物を置いて「弥山神社」に行き、よく冷えた缶コーヒーを一気に飲んで、チョコレートを食べた。「弥山神社」には立派な祠があり、そこが「弥山」(千八百九十五メートル)の頂上である。先客がおり、写真を撮っておられた。祠の裏手は大峰山脈の一大展望所であり、「大普賢岳」「国見岳」「七曜岳」「行者還岳」の登ってきた山々、「大普賢岳」の奥には「阿弥陀が森」から「山上ヶ岳」「稲村ヶ岳」、などが一大パノラマであり、南を見れば明日登る「八経ヶ岳」「明星ヶ岳」が間近に望まれる。
「弥山小屋」は、きれいな小屋で、庭に丸太で作ったテーブル・ベンチが置かれ、清潔で雰囲気がいい。夕食までの間、連れ合いとAは体を拭いたり着替えたりしている。一息ついて外のベンチで明日用のお茶を沸かす。さすがに千九百メートルに近い標高であり、涼しいを通り越して寒いくらい(もっとも私はあまり寒さはこたえないが)。おかげで沸かしたお茶がすぐに冷えてペットボトルに移し変えることができ段取りが良い。十七時には少し早めの小屋の夕食。おかずは、焼き魚とオムレツとあと煮物。ご飯は固めだがおいしかった。きっと水がおいしいからだろう。
食後、再びお茶沸かし。薄暗くなると、少しガスがかかってきた。今日の同宿者は男性が単独行の河内長野からの僧侶の人(弥山神社での先客で写真を撮っていた人)、予約なしで来た人で夕食を何とかしてくれと頼んでいた人、天川川合の役場に自動車を止めて登ってきた二人連れの中高年登山者、女性が若い二人連れと連れ合いとA。僧侶の人と若い女性二人連れは明日、前鬼へ行くわれわれと同じコースとのこと。女性二人連れは、一人は大学時代にワンダーフォーゲルをしていたとのことで、もう一人は現役のクラブチームの自転車レーサーで、今回も大峰登山前に紀伊半島の山を自転車で登ってきたとのことで、バリバリの現役。十九時ごろに留学生の外国人が二人、テントを設営したいといって小屋に来た。やはり、前鬼まで行くとのこと。ここでもやはり修験道の行者はいなかった。なにやら肩透かし。明日に備え、早々に睡眠。
                               次回に続く
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大峰奥駈道2-1

2006-06-12 22:31:51 | 
 
今回は、大峰奥駈の2回目、その1を掲載します。

山行記録 大峰奥駈の道 2-1

 山行記録 大峰奥駈の道 2

二〇〇五年八月、仕事の夏期休暇を利用して、いよいよ大峰奥駈の道②を目指す。今回は、大峰山東側の柏木から入山し、「阿弥陀が森」「小普賢岳」「大普賢岳」「行者還岳」「弥山」「八経ヶ岳」「仏生ヶ岳」「釈迦ヶ岳」「太古の辻」を経由して、前鬼にいたるコースを三泊四日(うちテント一泊)で辿ることとした。このコースは、近畿地方最高峰の「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)を越え、行場を越えるいわば大峰奥駈道の「真髄」ともいえるコースとなる。本格的な縦走コースであり、荷物もテント、コッフェル、バーナーなど、それに真夏の尾根の縦走で、また今年は水が少なそうなので、水を二リットルに食料と、荷物は二十キログラムを優に超え、「久しぶり」に「気合の入った」山行となった。参加メンバーは、私と連れ合いそれに今回は次女の、Aも参加した。七月には三人で比良釈迦ヶ岳へのトレーニング山行を行い、その後それぞれ体慣らし、ダイエットを心がけ、大峰奥駈に備えたのである。

二〇〇五年八月十一日出発 柏木から登山。小普賢岳と大普賢岳の鞍部でテント設営。

朝三時三十分に起床、本日の朝食・昼食用におにぎりを作る。やがて連れ合い、Aも起きだして出発準備をはじめ、四時五十分に我が家を車で出発。近畿道ではにわか雨が降り出し、天候が心配。西名阪も渋滞することもなく天理インターから国道百六十九号線を南下。県道を経由し吉野に至り再び国道百六十九号線を辿り、七時二十五分に柏木に到着。柏木の集落に駐在所があり、玄関のブザーを鳴らすとやがて駐在さんが起きだしてきた。早朝で申し訳ないと思いつつ登山届けを出し、自動車を十四日まで置かせてもらえる場所を聞くと、近所のOさんを紹介してくれた。但しまだ寝ているとのこと。起きるまで待つ間に朝食のおにぎりを食べ、ストレッチ準備運動。あらためて荷物の重さに多少の不安を抱く。
八時半にOさん宅の木戸をノックし、出てきた奥さんにお願いし自動車を近所の空き地に置かせてもらう。八時五十五分に柏木の石の標識のある大峰登山口から登山開始、最初は階段状の道を登る。天候は、早朝は心配したがここに来て快晴である。
九時三十五分に「大迫分岐」で少し立ち止まる程度の休止。準備運動をこなした感じだが、まだ荷物がしっくりとこない。十時二十分に「上谷分岐」に到着し小休止。小さな地蔵さんがある「上谷分岐」は標高約七百メートル強で、柏木が三百メートル程度なので四百メートルほどを一時間二十分で登ったことになる。コースタイムでは一時間半となっているので(後でわかったが、持参の山地図のコースタイムはあまり正確でなく、参考にならなかった)、今のところ順調なペースだ。但し、空き缶やガラス瓶の残骸が数箇所に捨てられているのには不快な思いがする。
ここからは、尾根上の道や踏跡を辿り高度を上げていく。途中千百六十六メートルのピークは西側を巻いていくが、大体は尾根を忠実に辿る。
途中二回小休止をとり、十三時十分に尾根から少し外れた谷で昼食休憩。途中、地図上に水場の記号が付けられている場所では、今にも枯れそうな水がチョロチョロと出ている。水は少なく、持参してきて正解である。家から持参のおにぎりをぱくついていると、単独の登山者が軽快に通り過ぎて行った。おにぎりを食べたあと、食料係り(連れ合い)から配給のお菓子を少し食べ、十三時四十分に出発。十五分ほど行くと再び尾根上に出たが、そこが「伯母谷覗」で断崖絶壁上のすばらしい展望所。谷を超えた対岸の「大台ケ原」「台高山脈」が一望である。先ほどの軽快な単独登山者が弁当を食べており、『われわれもここで食べればよかった』と後悔。ここで十五分ほど写真休憩(休憩取りすぎ)。ここから再び尾根を伝う。地図ではルートは点線になっているが、道の踏跡はしっかりついているし、少し気をつけて歩けばそんなに危険でもない。
十四時二十五分「阿弥陀が森分岐」に到着。標高は約千六百メートル。柏木からは約千三百メートル登ったことになる。ここには「女人結界門」があり、「山上ヶ岳」方面には女性は入れない。宗教文化か伝統か、いずれにしても時代遅れではある。
「上谷分岐」から「阿弥陀が森分岐」までコースタイムでは二時間半となっているが、われわれは休憩を加算せずに正味二時間四十五分かかっている(小休止、昼食休憩も含めると三時間五十五分)。荷物が多いとはいえ、時間がかかりすぎか、コースタイムがおかしいか。「女人結界門」で写真を撮って、十四時四十分に「阿弥陀が森分岐」を出発。
しばらく行くと「脇宿ノ跡」があり、お札などが並べてある。この先「明王ヶ岳」(千五百六十九メートル)付近に地図ではキャンプ場の記号があり、今日はそこでテントを設営する予定であるが、そんな平地が見つからない。さらに歩いていくと縦走路から少しはなれて「営管の行場」があり、連れ合いが一人で経箱石を見に行った。彼女は元気いっぱいだが私とAはトレース上で休憩。十分ほどで連れ合いが戻ってきて、再び縦走路を歩き、やがて「小普賢岳」のピークを超えた。ピークから少し降がったところが「大普賢岳」との鞍部で、ちょうどそのあたりの山道が少し広くなっており、十五時四十分にここのトレース上にかぶさってテントを設営しようと決めた(もう少し良いところがないか、荷物を置いて五分ほど先まで見に行ったが、平地がなかった)。
テントを設営後、「熊よけ」のためにラジオを鳴らしながら、水場がないので担ぎ上げた水で夕食準備や明日のお茶つくり。さすがに千六百メートル地点で、天気は晴れているが大変涼しくて快適。沸かしたお茶もすぐに冷えて、ペットボトルに移し変えた。十七時五十分夕食のボンカレーといわしの缶詰をおいしく食べる。ここはトレース上だから、明日は夜も空けきらないうちから修験道の山伏が枕元を通り過ぎていくだろうなと思いつつ、夕食後早い就寝。深夜になると、涼しいどころか、鞍部のため風の通り道となり、テントをたたく風の音や、風に鳴く笹の葉の音でバタバタ・ザワザワとうるさいこと。それでも心地よい疲れで結構熟睡した。
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大峰奥駈けⅠ-①

2006-06-10 21:57:06 | 
山行記録 大峰奥駈の道 ①

二〇〇三年八月に四国霊場八十八カ所を、八回に分けて自転車と歩きで結願した。四国曼荼羅の世界に同化し、心地よい充実感に浸りつつ「さて、次は何をしようかな」と考えていた。
二〇〇四年八月には屋久島に行き、西日本最高峰の宮之浦岳(一九三五メートル)に登り、翌日白谷雲水峡から縄文杉まで登山した。
次は、なんとなく「熊野古道」の踏破を考えていたのだが、どうせなら大峰奥駈道をという思いがだんだんとつのってきて、二〇〇五年になって連れ合いとの話で、いよいよ大峰奥駈を実行しようと決めた。但し、大峰山は「山上ヶ岳」周辺が「女人禁制」となっており、要所に「女人結界門」が設けられている。連れ合いは、「女人結界門」まで行き、そこを横目に見て奥駈道を辿ることにこだわっている。そんなことで二〇〇五年三月には、吉野から「青根ヶ峰」「四寸岩山」「大天井ケ岳」を縦走し、五番関の「女人結界門」を横目に見て洞川温泉までを踏破しようと計画を立てた。


二〇〇五年三月二十一日出発 阪急電車の始発に乗って、吉野へと

 二〇〇五年三月二十一日朝三時四十分に起床、本日の山行の朝・昼食のおにぎりやおかずを作り出す。ばたばたとしているうちに連れ合いも起きだして、準備を整えた。
 朝、始発の梅田行き阪急電車に五時二十分に南茨木駅から乗車した。車内は結構多くの人が乗っている。休日であり、仕事や商売で「ご苦労様の人」、遊びや趣味で「お楽しみの人」それぞれだ。西中島南方で阪急電車を降りて、地下鉄御堂筋線に乗り換え、天王寺下車。近鉄阿部野橋駅から六時十八分発の吉野線の朝一番の準急に乗り、一路「吉野」を目指した。
 近鉄もはじめのうちは結構混んでいたが、藤井寺あたりからは徐々に空いてきて、ぼちぼちと連れ合いと朝食のおにぎりを食べ出した。車窓の風景を眺めているうちに、やがて橿原神宮や飛鳥地方を通り抜け、吉野川沿いを走り出す。「上市」を過ぎて、電車は吉野山に向かい、八時一分に「吉野」に到着。
 観光地独特の雰囲気の「吉野」駅だが、まだ早朝のため、土産物の売店などはすべて閉まっている。駅舎を出るとすぐに吉野ケーブルがある。これは、ケーブルとはいうものの、実際はロープウェイ、というよりむしろ距離も短く、定員も八~十名程度で、遊園地にあるゴンドラのよう。今回は、距離も長く歩き、夕方も時間との競争になりそうなので、とにもかくにも時間を稼ぐために吉野ケーブルに跳び乗った。八時十分発で、一人の地元のおばさん乗り合いとなった。吉野を超えて大峰山、洞川温泉まで行くといったら、感心していた。
 ものの三~四分でロープウェイ「山上」駅に到着。奥の千本までバスで行こうかと思ったが、始発のバスが五十分後まで出発しないので、早速歩きだした。私も連れ合いも快調だ。宿坊や旅館・民宿、土産物屋などが軒を並べる、歴史のたたずまいのある吉野の街道を暫く行くとやがて仁王門があり、立派な伽藍を構える「蔵王堂」に到着。そこで記念撮影。「蔵王堂」を出て中千本の坂道を登っていくと、「勝手神社」や「竹林院」があり、この辺は記念撮影をしながら、ぶらぶらと通り過ぎた。有数の桜の名所であるのだが、開花にはまだまだ暇がかかりそうだ。まだ蕾が色づいてもいない。
 上千本に入り、九時十五分に「水分神社」(みくまりじんじゃ)を過ぎ、奥千本に至り九時四十五分に「金峯神社」(こんぷじんじゃ)に到着。神社の横手の道から、いよいよ山道となってくる。小休憩とした。


 「青根ヶ峰」を超え、「四寸岩山」へ。北面は残雪がいっぱいで雪渓登りのよう

 「金峯神社」を出て、尾根伝いの山道に入っていくと、「旧女人結界」の石碑がある。時代を感じさせる碑を横目に見て、どんどんと山道に入っていくと、やがて作業用のモノレールが敷設されている。吉野側つまりピークの北面は結構雪が残っており、『これはひょっとすると、難儀するかも』と思いつつ登る。暫く登り十時十五に「青根ヶ峰」(標高八百五十八メートル)の山頂に到着。ここまで来ると回りの山々の展望が開けてくる。「青根ヶ峰」を超えて十五分ほど行くとやがて山道は舗装された林道に合流する。舗装道ではあるが、まだ冬季通行止めのようで、車は通っていない。日差しも良くのんびりと歩きたいところだが、長い行程であり山道は余り良くなさそうなので、林道を跳ばして行く。
 
 十分ほど行くと、道は舗装道から再び山道へと入っていき、すぐに尾根筋となる。この尾根は「助四郎尾根」といい、これから目指す「四寸岩山」(しすんいわやま)のピークへと続いている。昔、修験道として多くの修行者が大峰山を目指したときに休憩したのだろう五十丁茶屋跡は、わずかな平坦地がその名残となっている。さて、山道は残雪が多くなってくる。地図では尾根を忠実に辿っていくのが正解だが、尾根上はところどころ雪に埋もれた作業用のモノレールと交錯している。道は雪に埋もれており、とにかく尾根のピークを辿るようにしているが、時々モノレールに浮いた雪を踏み抜いてしまう。本日の山行は、スパッツもアイゼンも冬装備は何も用意していない。少し難儀しそうだが、とにかく「せっせと」歩き続ける。
 やがて、十一時三十五分「四寸岩山」(標高千二百三十六メートル)に到着。山頂は「日当たり」が良く、雪は積もっていない。山頂で連れ合いと記念撮影。
 四寸岩山を越えると尾根は南斜面の下り坂となり、雪はまったくない。それでも前方にはこれから目指す大天井ケ岳、小天井ケ岳の北斜面が望まれ、どうやら雪はかなり残っていそうだ。登山地図では「アシズリ宿小屋」のしるしがあるが、それらしきものは山道ではわからなかった。


 アイスバーンの大天井岳北斜面に大苦戦。大天井を超え、五番関の女人結界門を横目に洞川へ。

暫く行くと舗装された林道に出、林道を斜めに横切って再び山の尾根道を辿っていく。やがて十二時四十五分に百丁茶屋跡の広場があり、そこに二蔵宿小屋がある。この小屋は現在も使用されていて、整備されており、時々は行者さんなどが使っている形跡がある。ここの小屋の前の広場で、昼食とした。昼食は家で作ってきたおにぎりと目刺しとウィンナーソーセージとゆで卵。
昼食を食べて十三時二十分に出発。ここの広場から道は二つに分かれる。稜線を登り大天井岳を超える道と、大天井岳の東側の巻き道だ。私は、早く洞川温泉に浸かりたいので『巻き道を行こう』と連れ合いに言ったら、彼女は『だめ。登る。』とのこと。ああ、えらいことやと思いつつ、渋々尾根へ続く山道へと歩き出した。
道は尾根を忠実に辿っていくが、残雪がだんだんと多くなり、そのうちに完全に積雪の状態になってきた。踏み跡はまったく無く、モノレールの上に積もった雪を踏み抜いたりで悪戦苦闘。高度がどんどんと上るにつれて雪が硬いアイスバーン状態になってきて、蹴り込んでもステップが切れなくなってくる。斜面も急になってきて、滑落しないように慎重に登り続ける。尾根上の五~六メートルの岩に張り付いたアイスバーンを、連れ合いは直登している。たいしたもんだと感心する。私のほうは、左のほうをまいて登るが、やはりアイスバーンで悪戦苦闘する。アイゼンを持って来ればよかったと、事前の情報収集と準備を怠ったことをつくづく後悔するが、いずれにしても滑落して怪我したり事故を起こさないように慎重に上り続けた。大苦戦の挙句、急斜面を這うように登っていくと、傾斜がやがて緩やかになってきて大天井ケ岳(標高千四百三十九メートル)頂上へ十四時四十五分に到着。普通なら一時間弱のコースと思われるが一時間二十五分かかった。頂上で、苦労の挙句の記念撮影後十分ほど休憩。
休憩後、南斜面を今度は五番関を目指して下ってゆく。南斜面になると、先ほどの苦労がうそのように雪が消えている。快適に行くうちに前方の山上ケ岳(標高千七百十九メートル)、稲村ケ岳(標高千七百二十六メートル)の山並みが一望に見えてくる。連れ合いと同行で、今回は女人禁制の山上ヶ岳には登らずちょうど鞍部にある五番関から洞川温泉に向かう予定である。
やがて、十五時四十分に五番関に到着。五番関には女人結界門があり、その横には女人禁制の説明の看板があり、身の丈以上の大きな置物の錫杖が置いてある。早速記念撮影。女人結界門から入って直登していくと山上ケ岳にいたるが、わが一行は女人結界門を横目に見て、洞川方面へと向かった。
十五時五十五分に林道との出合いに下りてきた。林道との出合いはトンネルの出口近くにあり、ちょっとした休憩所がある。本日の山行も殆ど終りに近づき、あとは舗装された林道を洞川温泉まで歩いていくだけ。この休憩所で十五分ほど休憩しお菓子を食べる。
林道は冬季通行止めで自動車は通らない。このあたりはまだ標高も高く道路の上にはシャーベット状や、日陰のところではアイスバーンの状態で、雪が残っている。早く温泉に浸かりたいので、どんどんと急いで歩くが、時々雪に足を滑らせる。毛又谷という谷道を歩くため、少し早い目に薄暗くなってきた十六時四十分にケマタ橋を渡る。このあたりはまだまだ雪が残っている。暫く歩いて本日宿泊予定の『旅館紀伊国屋甚八』に電話を入れて、「現在ケマタ橋を過ぎてそちらに向かっているので、到着はあと四十分くらいかかる」というと、自動車で迎えに来てくれるという。これはありがたいとお願いした。十分ぐらいすると、やがてワンボックスカーで青年が迎えに来てくれた。
合流地点から、「大峰山(山上ケ岳)の登山口へ行って見ましょう」と、今来た道を引き返し、ケマタ橋を渡らずに、二股になったもう一方の林道を直進し大峰登山口の駐車場、大峰大橋と女人結界門のあるところへ連れてくれた。開山の時期には山伏装束の行者さんでさぞかしにぎやかになるのだろうと思う。売店などが並んでいるが、今は一面に雪が残り、店は戸締りをしてひっそりしている。雪が多く大峰大橋まで行けなかった。自動車はUターンし、再びケマタ橋を過ぎ林道を走った。途中青年から大峰山の登山道の補修作業の苦労話や、昨年弥山への登山道で熊が出たとか山の話をいろいろ聞かせてもらったり、途中にある名水『ゴロゴロ水』の話を聞き、楽しい道中を過ごし十七時十五分に『旅館紀伊国屋甚八』に到着。おかみさんらのお出迎えを受け、まずは何より、早速温泉にゆっくりと浸かった。
 温泉の後、山の幸をメーンとしたおいしいご馳走を頂き、連れ合いと本日一日の反省などを話し、就寝。


 二〇〇五年三月二十二日(火) 洞川温泉の朝の散策から御手洗渓谷へ。

 三月二十二日は曇り空で、雨が降り出しそうな空模様。六時三十分に起床し朝風呂に浸かる。露天風呂に入ると山の冷気が心地よい。昨日の疲れが露天風呂の中に溶け込んでいきそうだ。
 八時においしい朝食を頂く。朝食後、宿で作っている揚げせんべいをお土産に注文し、その後連れ合いと二人で洞川温泉の町を散策することとした。洞川は水がおいしい。きっとコーヒもおいしいだろうと「洞川マップ」などで喫茶店を探したが、二軒ほどあるようだ。早速行ってみたが一軒目は閉店しており、どうも待っても開店する様子が無い。一軒目のコーヒをあきらめて、洞川の町並みを散策し、龍泉寺に立ち寄った。霧のような雨がしとしとと舞っている。護摩壇などもあり、修験道の歴史のある寺のようだ。
龍泉寺を出て、里山を登り、上のほうに架かっている吊り橋を目指した。十分ほどの登りで吊り橋の袂についた。吊り橋を渡りだすと結構高度があり、洞川小学校や、町並みが一望に見える。ここで連れ合いと記念撮影をする。
 吊り橋を渡り、里山の展望台を超えて山をぐるっと周り、「踏み跡」のような道を辿って下へ降りることとした。滑りそうな道の途中に地蔵さんが祀ってあり、地元の人たちの信仰の場なのだろう。やがて里山を降り、民家の裏に出て、犬に吠えられながら一般の道に出た。洞川小学校の角を曲がり、門に続く道をとると二軒目の喫茶店があるのだが、こちらのほうも閉店していて、コーヒを賞味できなかった。
 宿に戻り、土産を詰めたりして準備を整え、十時に宿を出発。本日は御手洗渓谷を歩き、約九キロメーター先の天川川合まで行き、そこからバスに乗り、近鉄下市口から帰路をとる予定。
宿から暫く行くとやがて橋があり、そこは、昨日登ってきた大天井ケ岳から沢を集める小泉川と、毛又谷、大峰登山口からの川瀬谷が一緒になる山上川が合流する場所で、その袂が御手洗渓谷の入り口だ。合流地点から先は山上川となって、山上川に沿った谷が御手洗渓谷で十時十五分に出発。


 御手洗渓谷を歩き、天川川合へ。そこからバスで下市口駅へ。楽しい山行でした。

御手洗渓谷は、洞川から白倉出合が上流部分で、白倉出合から天川川合までが下流部分になる。白倉出合は、洞川からの山上川、白倉山・稲村ケ岳の沢を集める白倉谷、そして行者還岳・弥山・八経ケ岳の大峰連峰の真髄からの沢を集める川迫川、弥山川の合流点で、大峰山の西斜面の水を一気に集めている。白倉出合から先が天ノ川となる。
二〇〇四年の台風で、御手洗渓谷の特に下流部分が斜面の土砂崩れなどでかなり傷んでしまい、復旧が追いつかず、通行できないとの案内掲示が出ている。白倉出合までは何とか行けそうなので、遊歩道を歩いていくこととした。天候は、小雨がしとしとと降っている。山上川は、大小の岩や滝、深い淵や滑滝があり変化に富んだ渓谷を創っている。遊歩道は、最初のうちは整備され、ぶな林の中の散策路などを通るが、やがて岩場やはしご場なども随所に出てくる。暫く行くと舗装路に合流し、アスファルトの道を歩く。稲村ケ岳への登山路のバス停も過ぎ、やがて再び山道へと入っていくが、山道への入り口には、やはり白倉出合より下流は昨年の台風で道が崩落していて通行できない場所があるとの掲示が出ている。山道に入ると、かなり急な岩場の下り斜面や木橋、吊り橋なども出てきて、遊歩道とはいえ、逆の登りなら結構厳しいルートになる部分が随所にある。三組ぐらいのパーティとすれ違ったが、それぞれ結構なアルバイトの様子であった。やがてミタライの滝、ミタライ渕にかかる吊り橋を渡り、十一時二十分に白倉出合に到着した。
白倉出合は、大峰連峰へのアプローチの交通の要所でもあり、駐車スペースと建物がありちょっとした広場である。白倉出合から下流部分は、いくつかの川を集めて天ノ川となる。ここから下流は掲示板にあったように御手洗渓谷の川沿いの遊歩道は通行止めとなっている。見ればかなりひどい崩落が放置されたままであったりして、残念である。
私たちは、対岸の舗装されたバス通りをひたすら天川川合を目指して歩いた。かなり空腹になってきており、宿で聞いた天川川合に一軒だけある食堂で、バスに間に合うように何とか昼食を食べようと、かなりのハイピッチで歩き続けた。約四キロメーターの距離である。途中変電所があったぐらいで、ただひたすら歩き続けていくうちに、ようやく人家が点在して、天川川合に近づいてきた。それからも暫く歩き、十二時十分に天川川合の三叉路に到着し、その「付け根」に食堂があったが、満員のようなので、立ち寄らず。すぐに天川川合のバス停があり、バスを待つこととした。
十二時三十九分発の「大淀バスセンター」行きのバスに乗り込んだ。バスは十三時四十分頃「下市口駅」に到着し、昼食を食べていないので近くのスーパーで弁当などを買い込み、駅で食べる。
十五時四十分発の「あべの橋」行き急行に乗り込み、帰宅の途についた。楽しい山行であった。
                                                                        (完)
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