本日は、四国八十八カ所 自転車遍路の旅の②です。全体の文書の中では、徳島県の行程にあたる1-2から2-3までが未だ『工事中』ですので、いきなり飛び越えて、高知県の3-1へと行きました。
いろんなレポートがありますので、お読みください。
四国八十八カ所 自転車遍路の旅 3-1
二〇〇一年八月五日、午後三時自転車に乗って茨木市の自宅を出発し、夜十一時二十分大阪南港発「甲浦 (かんのうら) 」経由「足摺」行きのフェリーに乗り、四国を目指した。今回の計画は徳島と高知の県境にある町「甲浦」から、「足摺」を目指す全行程約三百七十キロメートルの旅である。但し、今回の計画は、次の予定があるため日程が九日中には帰阪する必要があることと、自転車をフェリーに積んでフェリーで帰ること、要するに自動車やJRは利用しないので、エスケープやショートカットが出来ず、一切自力でやり遂げる必要がある。かなりハードな行程であり、もし予定通り行けなかった時は何処かで、何らかの『断念・中断』の判断をし、帰阪しなければならない。
「甲浦」には定刻の六日午前四時二十分に接岸、あたりは未だ真っ暗。大阪南港から乗船したのはかなりの数の車両と人だったが、「甲浦」で下船したのは、トラック五・六台と釣り客やサーファーあるいは営業の自動車五・六台、全部で約四~五十人程度だった。「JR高知駅」行きの路線バスが待機しており、それに地元の人と思われる七・八人が乗り込み、つかの間の着船時の喧騒はあっという間に過ぎ去った。これから、長い未知の「修行」の旅が始まる。
南国土佐は、稲刈りが始まり、はや農繁期の真っ只中。田園地帯の小高い山
の寺で、名古屋からの「自転車遍路」さんに出会った。
ひたすら、月明かりに導かれ、潮騒の音が激しい太平洋を左に感じて国道五十五号線を一路南へひた走った。午前五時頃だんだんと明るくなってきた。しかし、八月六日の朝は曇天で、残念ながら御来迎を見ることは出来なかった。どうせなら、一日中曇天が続いてくれれば走りやすくて良いのだがと思いつつ…。
海沿いの国道は、いくつかの小さな漁村を貫いてゆく。第二回の時に買った「同行二人」と書かれた頭陀袋を掛けているせいか、村のお年寄りが時々「ご苦労様です」「おはようございます」と声を掛けてくれるのが、全く不信心の私にはすこし気恥ずかしい思いがする。
一度の小休止をはさみ、午前六時四十五分に弘法大師が修行を積んだといわれる、「御蔵洞(みくらど)」に到着した。ここまでくればもう室戸岬の先端に近く、太平洋も雄大に拡がる。「御蔵洞」の中に入ってみると、小さな蟹と釣り餌になる“ゴカイ”がうんざりするほどたくさん生息しており、生くさい。この場所で修行するには、まず蟹と“ゴカイ”を掃除しなければどうにもならん、などと思った。さらに行くと、室戸岬遊歩道入り口の看板がいくつか並び、岬の最先端の部分には中岡慎太郎の銅像が遠く太平洋を睥睨している。この辺まで来ると、道中は「修行」の道と打って変わって観光地の雰囲気だ。
更に行くと室戸スカイライン入り口があり、その道端に自転車を止めてスカイラインを登り、第二十四番札所「最御崎寺(ほつみさきじ)」を目指し、遍路みちへの登山を開始した。この頃には早朝の曇天もすっかり晴れ上がり、猛烈に暑い。いくら冷茶を飲んでも次から次へと汗に変わる。道中、若い男性で元気一杯の歩き遍路さん (袈裟を着ており、修行の僧と思われる)が降りてきて、すれ違いに軽く挨拶。しばらくすると、今度は中年の男性の歩き遍路さんとすれ違った。最近歩き遍路がちょっとしたブームになっており、このような過酷な夏でも必ず出会うものだ。とくに、今のような朝の時間帯は、未だ活発に行動しているので、よく出会う。つづれ折れの道を汗を拭き拭き上りながら見晴らしの良い所から下を見ると、先ほどすれ違った元気な若い歩き遍路さんは、はや海岸の道を室戸の街の方へと、軽やかに歩いてゆくのが見えた。
「最御崎寺」には、午前八時に着いた。この寺は、室戸岬に突き出た小山の先端から、室戸岬灯台、海上保安庁の観測所と並んで建っている。昔から海の安全を祈願した地元の人たちの思いが、そのたたずまいから伺える。標高百メートルは越えていると思う。境内は明るく、本堂や大師堂は古刹の雰囲気であるが、境内の端の駐車場に面している所には、コインランドリーも備えた近代的な「遍路会館」が造られている。記帳を頂いて下山。次を目指して再び自転車に乗った。
「紀貫之寄港の港」と書かれてある石碑が室津港という小さな港町に建立されており、『おとこがすなる日記というものを女もしてみむとてすなり』だったと思うが、土佐日記の最初の一節を思い出した。
第二十五番札所「津照寺(しんしょうじ)」 (または単に「津寺(つでら)」) は、 その石碑に近い所に山門がある。「津照寺(津寺)」は山の上ではなく街中の寺である。それでも百二十段を超える石段があり、上りきれば街が見下ろせる。この寺は豊漁や漁の安全を祈願する地元の人たちに慕われ続けてきた寺なのだろう。参道に並ぶ寄進を記した石柱の何本かに、漁船の名が記してあった。地元の船主さんからの寄進であろう。「津照寺」の山門は朱塗りで、唐風のモダンな感じがするが、ちゃんと仁王さんも鎮座しており、本堂はやはり古刹の寺である。「ヂイヂイヂイ…」という暑苦しい油蝉の鳴き声のうるさい木の陰で、地元のお年寄りと顔見知りと思われる歩き遍路さんが談笑していた。
続けて国道五十五号線を辿ってゆくのだが、午前十時前に道中のドライブインで遅めの朝食を食べた。甲浦で下船をして以降何も食べておらず、ボリュームのある漁村風朝定食を一気に平らげた。室戸半島の先端部に近いこのあたりは、山が海岸線に迫っており余り大きくない平野部の殆どが、水田となっている。未だ真夏の盛りに少し前というのに、その水田のあちこちで稲刈りを盛んに行っている。当地は二期作の国だから、早米の稲刈りかと思ったが、「米あまり」の昨今、二期作はほとんどしていないはずだ。それでも昔からの習慣もあってか、南国土佐は早稲の稲刈りで、今は農繁期であった。
第二十六番札所「金剛頂寺(こんごうちょうじ)」は海岸線から田園の中の道を辿り、小集落を抜けた所に遍路みちと車道の分岐があり、そこから遍路みちを標高百メートルほど登った山頂にある。集落を抜けるとき、農家のおばあさんに『ご苦労様でございます』と挨拶をされるが、実は不信心であるので気恥ずかしい気持ちがしているのだが、反射的に『ありがとうございます』と答礼する。遍路みちをしばらく漕ぎ上がり、やがて道端に自転車を止め、歩いて遍路みちを辿った。しばらく行くと、上から自転車を支えながら中年男性が降りてきた。すれちがいざまに挨拶をかわすと、どうやら『自転車遍路さん』らしい。それも、私のような不信心な人間でなく、「正真正銘」のお遍路さんのようである。
約十五分の登山の後、「金剛頂寺」山門に至る厄坂の石段に到着した。この寺は、他にも見られる“厄除け”の寺のひとつで、秘蔵の薬師如来が本尊である。「最御崎寺」を「東寺」と呼び、「金剛頂寺」を「西寺」とも呼ぶそうである。納経所の記帳は珍しく若い僧侶 (修行僧のようであるが) であった。木陰で歩き遍路さんが休息をいれており、私も汗びっしょりのタオルを浄めの水で洗っていると、山門の方が急に賑やかになってきた。観光バスでのツアーの「八十八ヶ所遍路」の人たちだった。おそらく朝の九時過ぎに室戸岬あたりの旅館を出発し、追いついてきたのだろう。他にも自動車で「八十八ヶ所遍路」をする人たちもかなりいる。「お遍路さん」にもいろんな形があるのだ。但し 「自転車遍路」さんは、昨年から八十八ヶ所参りをはじめて、実は本日初めて出会った。殆ど見かけない。
「金剛頂寺」を下山すると正午少し前。しばらく間、灼熱の土佐湾沿いの国道五十五号線を走ると、やがて「奈半利町(なはりちょう)」に入った。この町は国道沿いに開けており、南国の町らしく明るくて開放的な感じがする。今日は、朝の四時三十分から行動を開始、すでに八~九時間自転車を駆ったり、参拝登山をし続けており、初日でもあるので早めに奈半利町泊まりとすることとした。私は常時登山用のテントを持参し、頻繁に野宿やキャンプをするのだが、奈半利町に入ってすぐにビジネスホテルがあり、空き室が有ったので即チェックイン。ビジネスホテルにしたのは、かなり日焼けした体と、体内からの「火照り」を「水風呂」に浸かって癒すためである。湖や海が近ければ、夏は必ずそうする事にしている。更に言うなら、冷たいビールに不自由しないのが何よりも良い。初老の単独行の歩き遍路さんも、このビジネスホテルに宿泊しており、レストランでくつろいでいた。
水風呂に浸かり、水シャワーを浴び、缶ビールを飲みながら聞こえてくるテレビのニュースでは、本日の最高気温は、三十七度とのことであった。
(続く)
いろんなレポートがありますので、お読みください。
四国八十八カ所 自転車遍路の旅 3-1
二〇〇一年八月五日、午後三時自転車に乗って茨木市の自宅を出発し、夜十一時二十分大阪南港発「甲浦 (かんのうら) 」経由「足摺」行きのフェリーに乗り、四国を目指した。今回の計画は徳島と高知の県境にある町「甲浦」から、「足摺」を目指す全行程約三百七十キロメートルの旅である。但し、今回の計画は、次の予定があるため日程が九日中には帰阪する必要があることと、自転車をフェリーに積んでフェリーで帰ること、要するに自動車やJRは利用しないので、エスケープやショートカットが出来ず、一切自力でやり遂げる必要がある。かなりハードな行程であり、もし予定通り行けなかった時は何処かで、何らかの『断念・中断』の判断をし、帰阪しなければならない。
「甲浦」には定刻の六日午前四時二十分に接岸、あたりは未だ真っ暗。大阪南港から乗船したのはかなりの数の車両と人だったが、「甲浦」で下船したのは、トラック五・六台と釣り客やサーファーあるいは営業の自動車五・六台、全部で約四~五十人程度だった。「JR高知駅」行きの路線バスが待機しており、それに地元の人と思われる七・八人が乗り込み、つかの間の着船時の喧騒はあっという間に過ぎ去った。これから、長い未知の「修行」の旅が始まる。
南国土佐は、稲刈りが始まり、はや農繁期の真っ只中。田園地帯の小高い山
の寺で、名古屋からの「自転車遍路」さんに出会った。
ひたすら、月明かりに導かれ、潮騒の音が激しい太平洋を左に感じて国道五十五号線を一路南へひた走った。午前五時頃だんだんと明るくなってきた。しかし、八月六日の朝は曇天で、残念ながら御来迎を見ることは出来なかった。どうせなら、一日中曇天が続いてくれれば走りやすくて良いのだがと思いつつ…。
海沿いの国道は、いくつかの小さな漁村を貫いてゆく。第二回の時に買った「同行二人」と書かれた頭陀袋を掛けているせいか、村のお年寄りが時々「ご苦労様です」「おはようございます」と声を掛けてくれるのが、全く不信心の私にはすこし気恥ずかしい思いがする。
一度の小休止をはさみ、午前六時四十五分に弘法大師が修行を積んだといわれる、「御蔵洞(みくらど)」に到着した。ここまでくればもう室戸岬の先端に近く、太平洋も雄大に拡がる。「御蔵洞」の中に入ってみると、小さな蟹と釣り餌になる“ゴカイ”がうんざりするほどたくさん生息しており、生くさい。この場所で修行するには、まず蟹と“ゴカイ”を掃除しなければどうにもならん、などと思った。さらに行くと、室戸岬遊歩道入り口の看板がいくつか並び、岬の最先端の部分には中岡慎太郎の銅像が遠く太平洋を睥睨している。この辺まで来ると、道中は「修行」の道と打って変わって観光地の雰囲気だ。
更に行くと室戸スカイライン入り口があり、その道端に自転車を止めてスカイラインを登り、第二十四番札所「最御崎寺(ほつみさきじ)」を目指し、遍路みちへの登山を開始した。この頃には早朝の曇天もすっかり晴れ上がり、猛烈に暑い。いくら冷茶を飲んでも次から次へと汗に変わる。道中、若い男性で元気一杯の歩き遍路さん (袈裟を着ており、修行の僧と思われる)が降りてきて、すれ違いに軽く挨拶。しばらくすると、今度は中年の男性の歩き遍路さんとすれ違った。最近歩き遍路がちょっとしたブームになっており、このような過酷な夏でも必ず出会うものだ。とくに、今のような朝の時間帯は、未だ活発に行動しているので、よく出会う。つづれ折れの道を汗を拭き拭き上りながら見晴らしの良い所から下を見ると、先ほどすれ違った元気な若い歩き遍路さんは、はや海岸の道を室戸の街の方へと、軽やかに歩いてゆくのが見えた。
「最御崎寺」には、午前八時に着いた。この寺は、室戸岬に突き出た小山の先端から、室戸岬灯台、海上保安庁の観測所と並んで建っている。昔から海の安全を祈願した地元の人たちの思いが、そのたたずまいから伺える。標高百メートルは越えていると思う。境内は明るく、本堂や大師堂は古刹の雰囲気であるが、境内の端の駐車場に面している所には、コインランドリーも備えた近代的な「遍路会館」が造られている。記帳を頂いて下山。次を目指して再び自転車に乗った。
「紀貫之寄港の港」と書かれてある石碑が室津港という小さな港町に建立されており、『おとこがすなる日記というものを女もしてみむとてすなり』だったと思うが、土佐日記の最初の一節を思い出した。
第二十五番札所「津照寺(しんしょうじ)」 (または単に「津寺(つでら)」) は、 その石碑に近い所に山門がある。「津照寺(津寺)」は山の上ではなく街中の寺である。それでも百二十段を超える石段があり、上りきれば街が見下ろせる。この寺は豊漁や漁の安全を祈願する地元の人たちに慕われ続けてきた寺なのだろう。参道に並ぶ寄進を記した石柱の何本かに、漁船の名が記してあった。地元の船主さんからの寄進であろう。「津照寺」の山門は朱塗りで、唐風のモダンな感じがするが、ちゃんと仁王さんも鎮座しており、本堂はやはり古刹の寺である。「ヂイヂイヂイ…」という暑苦しい油蝉の鳴き声のうるさい木の陰で、地元のお年寄りと顔見知りと思われる歩き遍路さんが談笑していた。
続けて国道五十五号線を辿ってゆくのだが、午前十時前に道中のドライブインで遅めの朝食を食べた。甲浦で下船をして以降何も食べておらず、ボリュームのある漁村風朝定食を一気に平らげた。室戸半島の先端部に近いこのあたりは、山が海岸線に迫っており余り大きくない平野部の殆どが、水田となっている。未だ真夏の盛りに少し前というのに、その水田のあちこちで稲刈りを盛んに行っている。当地は二期作の国だから、早米の稲刈りかと思ったが、「米あまり」の昨今、二期作はほとんどしていないはずだ。それでも昔からの習慣もあってか、南国土佐は早稲の稲刈りで、今は農繁期であった。
第二十六番札所「金剛頂寺(こんごうちょうじ)」は海岸線から田園の中の道を辿り、小集落を抜けた所に遍路みちと車道の分岐があり、そこから遍路みちを標高百メートルほど登った山頂にある。集落を抜けるとき、農家のおばあさんに『ご苦労様でございます』と挨拶をされるが、実は不信心であるので気恥ずかしい気持ちがしているのだが、反射的に『ありがとうございます』と答礼する。遍路みちをしばらく漕ぎ上がり、やがて道端に自転車を止め、歩いて遍路みちを辿った。しばらく行くと、上から自転車を支えながら中年男性が降りてきた。すれちがいざまに挨拶をかわすと、どうやら『自転車遍路さん』らしい。それも、私のような不信心な人間でなく、「正真正銘」のお遍路さんのようである。
約十五分の登山の後、「金剛頂寺」山門に至る厄坂の石段に到着した。この寺は、他にも見られる“厄除け”の寺のひとつで、秘蔵の薬師如来が本尊である。「最御崎寺」を「東寺」と呼び、「金剛頂寺」を「西寺」とも呼ぶそうである。納経所の記帳は珍しく若い僧侶 (修行僧のようであるが) であった。木陰で歩き遍路さんが休息をいれており、私も汗びっしょりのタオルを浄めの水で洗っていると、山門の方が急に賑やかになってきた。観光バスでのツアーの「八十八ヶ所遍路」の人たちだった。おそらく朝の九時過ぎに室戸岬あたりの旅館を出発し、追いついてきたのだろう。他にも自動車で「八十八ヶ所遍路」をする人たちもかなりいる。「お遍路さん」にもいろんな形があるのだ。但し 「自転車遍路」さんは、昨年から八十八ヶ所参りをはじめて、実は本日初めて出会った。殆ど見かけない。
「金剛頂寺」を下山すると正午少し前。しばらく間、灼熱の土佐湾沿いの国道五十五号線を走ると、やがて「奈半利町(なはりちょう)」に入った。この町は国道沿いに開けており、南国の町らしく明るくて開放的な感じがする。今日は、朝の四時三十分から行動を開始、すでに八~九時間自転車を駆ったり、参拝登山をし続けており、初日でもあるので早めに奈半利町泊まりとすることとした。私は常時登山用のテントを持参し、頻繁に野宿やキャンプをするのだが、奈半利町に入ってすぐにビジネスホテルがあり、空き室が有ったので即チェックイン。ビジネスホテルにしたのは、かなり日焼けした体と、体内からの「火照り」を「水風呂」に浸かって癒すためである。湖や海が近ければ、夏は必ずそうする事にしている。更に言うなら、冷たいビールに不自由しないのが何よりも良い。初老の単独行の歩き遍路さんも、このビジネスホテルに宿泊しており、レストランでくつろいでいた。
水風呂に浸かり、水シャワーを浴び、缶ビールを飲みながら聞こえてくるテレビのニュースでは、本日の最高気温は、三十七度とのことであった。
(続く)