"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

胃癌日記73

2013-02-28 18:54:48 | 闘病

                    胃 癌 日 記 73

               -スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 -2013年の正月3が日はファミリーで長兄宅訪問に初詣にハイキング-

 2013年の正月を迎えた。元日の午後からは恒例の兄J宅へ連れ合いと2人での訪問。元旦はJの誕生日でもあり、年賀をかねての訪問だ。J宅に到着後まず父母と長兄の仏壇に参り、後はJとの話。Jは今年も旨そうに酒を飲みながら、昔の思い出話や最近の福祉切捨て、弱者切捨ての政治経済に怒り、相変わらずの矛盾だらけの政治への義憤、最近のいろんな気になることや心配事などをたくさん話した。酒を飲まない私は、たまに突っ込みを入れるがもっぱら聞き役。酒を良く飲むのは心配ではあるが、この歳になると頑張って酒を止めなくても、肝機能もそう悪くもならず酒が飲めるということで健康で幸せなんだなーと、最近そう思う。それにしても、私よりほぼ9歳上だが、物事の本質を見抜く力は老化することなくまだまだたいしたものだ。

 2日はファミリーで北野天満宮へ初詣。現在中学3年生の上の孫Yの高校合格祈願と下の孫の習字の上達祈願。わがファミリーは全く無宗教、無信心ではあるが、願いがかなうように形の上だけでも祈願をして、ある種安心感を実感する為の初詣か。

 私自身も、スキルス胃癌の手術後、転移もなくほぼ順調に健康を回復してきていることへの感謝、家庭円満への感謝などを形だけでもしておきたいといった気持ちがある。

 という訳で2013年1月2日、連れ合い、長女、孫Y、孫Tと私の5人で京都の北野天満宮に出発した。西院から歩いて白梅町へ、そこで次女と合流し北野天満宮に向かった。北野天満宮では、上の孫の受験がうまく行くよう祈願し下の孫は書初め。

 「私も」

 と言って、連れ合いと次女も書初めをする。私は、スキルス胃癌を無事乗り越えられてきていることに感謝し、健康と体力回復と家庭平和とこれからの人生の幸運を、柄にもなく神頼みした。

 初詣の後は円町にある次女の家に寄り、お餅で遅い昼食を採ってその後再び西院まで歩いて戻り、大阪の家に戻った。

  翌1月3日は恒例の正月ファミリーハイキング。今回はポンポン山へ、メンバーは連れ合い、次女、下の孫Tと私の4人。上の孫のYも、昨夜ボソッと、

 「俺も行こうかな。」

 などと言っていたが、とりあえず受験でもあり今年は残念ながら不参加。何かと自立していく年代なので、最近は家族と一緒にどこかへ行くといった機会があまりないのだが、Yも小さいときにはよくハイキングに連れて行っており、やっぱり山が好きなのかなあと思ったりした。まあ、試験が終われば、ハイキングなりびわこバレーにスキーにでも連れて行ってやるか、と思った。

(続く)

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胃癌日記72

2013-02-27 18:32:32 | 闘病

                     胃 癌 日 記 72

           ‐スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々‐

 -今年の年末は充実か超多忙か-

 仕事は年末に入り何かと忙しくなってくる。そんな合間にも来年の私の継続雇用の意思確認があった。仕事についての意見を聞かれたが、若手の職員の頑張りを褒めた。ただ、仕事のスタイルがマニュアルに沿った仕事や、プレゼン資料の作成、パワーポイントでの資料作成など実に真面目に一生懸命頑張っているのだが、気になるのは職場での若者に限らず、大げさに言うなら多くの日本人ビジネスマンの仕事に『理念』や『ポリシー』を感じないことだ。  

 だから日本人はリーダーシップが発揮できないとか、他人とコミュニケーションやディペートができない。理念・信念やポリシーも無いままに、真面目に闇雲に一生懸命頑張れば頑張るほど病気になるリスクも高くなる。日頃何かと若手から相談を持ちかけられることも多いが、心身ともにオーバーワークにならないように本当にマイペースを意識して仕事をするように、同僚たちに言っている旨を課長に話した。

 冬期休暇に入ると今度は家庭の用事で忙殺される。年賀状の作成に始まって風呂のカビ掃除、墓参り、台所掃除、包丁研ぎ、換気扇の洗濯、ドライクリーニングの洗濯物の洗濯、照明器具の掃除、大晦日は正月用の巻き寿司を作ったり雑煮や年越しそばの準備等々。去年は退院が12月26日で家に帰っても体力回復優先ということで何もしなかった。だから2年振りの正月支度だ。

 最近は正月を迎えるといっても掃除、洗濯、料理、等々をしない家庭が増えている。私は、2年ぶりの垢や埃を、何となくいとおしいような複雑な気持ちも感じながら、せっせと正月準備に励んだ。正月準備をせっせとあわただしくこなせられるのも健康のおかげ。そう思うとなんだか多忙ではあるが充実したような日々ではある。そうして、退院の日(2011年12月26日)から1年が過ぎ、2回目の正月を迎えることとなった。

(続く)

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胃癌日記71

2013-02-25 20:01:02 | 闘病

                     胃 癌 日 記 71

            ‐スキルス胃癌手術から1年半(2012年6月9日)までの日々-

-肝機能異常についての後日談-

 1年を過ぎての後日談になる。12月14日は、仕事の振替休日だった。朝、家でゆっくりとしていると、連れ合いが話しかけてきた。

 「肝機能の血液検査の結果はどうなったの?」

 「今度22日が診察日やから、そのとき聞いてくるわ。肝機能が悪くなるような覚えは何もないんやがなあ。」

 「そう言っているうちに肝炎や劇症肝炎になったら苦しんで死ぬわよ。何か飲んだり食ったりしているのとちがうの?」

 私が薬を飲もうとしていたら、

 「何の薬?」

 「水虫の薬。」

 「それが原因と違うの?」

 と言われてアッと思い当るふしがあった。

 「そういえば、水虫の薬を処方してもらうときに、H皮膚科のH先生が『血液検査をしましょう。この薬を飲むと肝機能検査値に異常が出ることがあります。』と言ってはったわ。その時は10月に職場で健康診断がありますので結構ですと断った。」

 「それなら今日休みなんやからH皮膚科に行っておいでよ。ちゃんと相談しなさい。」

 「そうや。行ってくる。」

 と言ってお薬手帳を見ると、9月21日の処方でその日から服用し、職場での健康診断は服用から1ヵ月後の10月22日でその間ずっと飲み続け、現在も毎日服用している。私は早速H皮膚科へと向かった。

 H皮膚科で診察室に呼ばれると、私はH先生に職場での血液検査の結果を見せて言った。

 「先生。血液検査の結果を見ると、えらく肝機能が悪くなっていますが、これは、以前伺ってましたが、水虫の薬のせいでしょうか。酒も飲まないし、急に悪くなる覚えが全く無いのですが。」

 「おそらくそうでしょうが、しかしこれ位ならだいじょうぶです。数値が100を超えたら服用を止めることといったガイドラインです。Iさんの場合は70台ですので大丈夫ですが。」

 と言って患部の診察をした上で、

 「まだ、直っていないですね。大体水虫の薬は爪が生え変わるまでざっと半年は飲み続けないと直らないです。薬はどうしますか?」

 「もう止めます。たかだか水虫くらいで、肝臓がいかれたら嫌です。」

 「はい、分かりました。それでは今後は塗り薬だけにしましょう。」

 私は即座に内服薬を断った。

 肝機能の異常値の原因がほぼ分かり少し気分的にすっきりしたこの日は、皮膚科での診察の後は連れ合いと一緒に衆議院選挙の期日前投票、昼食、そして家に戻って登山靴洗いなんか結構忙しく用事をこなした後映画を見に行った。映画はクリント・イーストウッド主演の『人生の特等席』。ストーリーは大リーグのスカウトの話だが、バリバリの弁護士の娘との親子の関わりの少しサスペンス風な意外性や最先端のリーガル・クリニックで活躍する娘と時代遅れのアナログで老境を前にした父親の関係や葛藤を描き話を進めていく。肩の凝らない娯楽的な要素もあり、リラックスできる映画として、A評価。

 クリント・イーストウッドは私が小学生の頃、すっかり虜になってしまった深夜の連続テレビドラマ『ロー・ハイド』での若くて喧嘩早い準主役や、それ以降映画『荒野のガンマン』をはじめ数々の映画の主役をしたハリウッドの大俳優で、その後政治家も経験して今老境に至っている。声もすっかりしわ枯れたかすれ声で、その雰囲気は高倉健とダブってくる。

 肝機能の異常値の原因がほぼ分かり、少し気持ちはクリアーにはなったとはいえまだまだ気分は重たい。果たして肝機能の数値は正常に戻るのだろうか。そんな『引っ掛かる』気持ちを持ちながら、相変わらず超多忙な日々を送る。ラグビーの全国大会決勝リーグの第2戦は、日曜日であったが仕事のために応援に行けず。結果は関東4位のチームに快勝したとのこと。

 22日にはN先生の診察日。N先生は2週間前の血液検査の結果を診て、

 「Iさん。未だ少し高いけど、そんなに気にするほどで高くもないですよ。原因は分かりませんが、経過観察ということでいいでしょう。」

 見ると70台あった数値が40台に下がっていて、正常値から少し高い程度になっている。

 「先生。その原因がほぼ分かりました。9月21日から水虫の薬を飲みだして、10月22日に健康診断で、その薬のせいかもしれません。」

 「はーんそうですか。だから僕はその薬は嫌いなんですよ。分かりました。服用を止めて2ヵ月後に再度血液検査をしましょう。」

 ということになった。なお、電解質のカリウムは、手術以来始めて正常値に戻っていた。

(続く)

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胃癌日記70

2013-02-24 23:08:11 | 闘病

                                                        胃 癌 日 記 70

                   ‐スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々‐

 

-そしてスキルス胃癌手術から1年目を迎えた-

 相変わらず多忙な日々を過すうちに、12月8日には主治医のNクリニックのN先生に職場での検診結果を報告し、産業医の所見を預けた。連れ合いは、

 「ちゃんと見てもらいなさい。劇症肝炎になったらどうするの。」

 と、私を脅かすしかといって何故だか全く覚えがない。酒も昨年の12月7日の入院以来きっぱりと断ったし、5月のNクリニックでの血液検査もNP(ノー・プロブレム)であったのに、だ。

 「先生、産業医に所見を書いていただいて提出しなければならないです。」

 「ふーん。原因が分からないということだけれど、一過性のものかもしれんし、とりあえず血液検査をしましょう。」

 ということで、再度血液検査のための採血をした。

 スキルス胃癌の手術から1年目の2012年12月9日は、私はラグビーの応援に行く。応援しているチームが全国大会に出場し決勝リーグの第1戦が長居陸上競技場で開催されるのだ。対戦相手は九州のF大学。F大学の闘志溢れる闘いに、少し受身になる場面もあったが今年のチームはポリシーが崩れない。ひるむことなく、侮ることなく闘い結果は快勝であった。第2試合の関西リーグ優勝のT大学と関東の名門W大学の試合も観戦した。結果T大学は良い所無く、最大のポイントゲッターも完璧に封じ込められ完敗。昨年少し縮まったかと思われた関西と関東の差は再び大きく開いてしまった思いがする。

 ラグビーが終わり、梅田の好日山荘に寄ったあと、連れ合いとオフィスタワー15階で待ち合わせて、記念日と言うわけでもないが食事をすることとなった。待ち合わせて合流してから新装グランドオープンした阪急百貨店をぐるぐる回り、紀伊国屋でクリスマスプレゼント用の本を買ったあと32番街に戻りディナーの店を物色。結局昨年の入院前日に行った、ワインバーに1年振りに2人で入った。メニューもチーズフォンデュ、ピザ、野菜サラダ、チーズ盛り合わせ等々で昨年とほぼ同じ。1年前と同じくやはり窓際に座り、大阪城やOBP、生駒山、阪神高速の夜景や頻繁に着陸する飛行機の灯りを見ながら、スキルス胃癌手術後の検査も肝機能の異常値以外は無事クリアーした、ある種の思いや感慨を持ちながら手術後1年の夜を連れ合いと過した。

(続く)

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胃癌日記69

2013-02-20 20:37:08 | 闘病

                      胃 癌 日 記 69

           ‐スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)から1年の日々‐

-悶々とした日々の中でも-

 気持ちの中でもやもやしたものを持ちつつも、多忙な仕事をこなしつつ12月1日にはまた連れ合い、次女、孫Tとの4人でハイキングに出かけた。今回の目的地は京都北山の峰床山。峰床山は京都府下で2番目に高い山で標高970m。朝7時20分に車で家を出発し、8時30分に京都の次女宅に寄り北山の峰床山へと向かった。

 あいにくの小雨模様が八瀬大原を過ぎた辺りから本降りの模様で、さらに進んで花折トンネルを越えると霙になってきた。さらに鯖街道を北へと走り登り口の中村小学校を少し過ぎて9時30分に坊村へ着いたときは、すっかり雪がしんしんと降っていた。小4の孫もおり装備、服装も十分でなく、本日の峰床山登山は断念と決定。さてどこかドライブしておにぎりをどこかで食べるか、それとも大原に行って温泉に浸かるか、朽木まで行って温泉に浸かるかあれこれと皆で思案をしていたが、ふと

 「そうだ。大原の金毘羅山へ行こう。金毘羅なら雨も少しはましだろうし、何よりハイキングと言っても登山靴を履いて登っても全然おかしくない。」

 と、アイデアと同時に言葉が出た。次女も賛成し、少しの雨なら装備も十分でおにぎりを食べるのに山中の神社に屋根付きの拝殿があったと思うとのこと。早速車をUターンさせて金毘羅山へと向かった。

 10時10分金毘羅山麓の江文神社(えぶみじんじゃ)着。私は若い頃には労山に入っていて金毘羅山のバリエーションたっぷりの岩場で大いにロッククライミングのトレーニングに励んだ。ロッククライミングは勿論アイゼントレーニングや岩場でのビバーグなどの訓練も積んだ。この山は京都のみならず近府県のクライマーが産声を上げたメッカだ。ただ、私の場合才能が少し足りないと言うか、肝心なところで『ビビリ』と言うか、本番のクライミングは大岩壁を登攀したわけではない。せいぜい剱岳の源次郎尾根や八ッ峰、登攀具を使った沢登り程度だが、それでも30数年ぶりの金毘羅山に入ったことが懐かしく、嬉しく少し身震いがした。ただし本日は勿論ハイキングコース。

 雨も殆ど止みかけで、神社を少し散策の後10時45分にスタート。皆にロックゲレンデを教えようと思い、岩場へのアプローチの道を行く。直ぐに山道に入るが、どうも岩場にも行かないし、ハイキングコースでもない。なにしろ30数年ぶりなので道が分からない。それでも行け行けで登って行くとやがて尾根に近づき、道も不明瞭になってきた。かれこれ1時間ほど登って、

 「これは、ハイキング道でも岩場への道でもないね。林業の作業道見たいやね。」

 と言って、スタート地点までバック。12時過ぎにスタート地点に戻り、神社の看板をみると、ハイキングコースは拝殿の手前を逆のほうに登るように案内がある。そういわれれば地図もそのようになっている。気を取り直して12時15分に登りなおし。今度ははっきりした道で、ピッチを上げ12時45分には山中の金毘羅新宮に到着した。途中また雨が降り出し雨具を着てのハイキング。金毘羅新宮は無人の小さな神社だが、次女の言うとおり屋根のある拝殿がある。そこに上がらせてもらって、少し遅めの昼食のおにぎりと、カップ麺、行動食等を頂いた。この日は雨でもあり頂上の祠までは行かず、昼食後山を降りた。

 帰りには北山通りの喫茶・ケーキ屋さんでコーヒーとケーキを食べて次女を家まで送り、大阪の自宅へと帰った。

 翌12月2日は職場のハイキング。

 9時半に出町柳集合で、貴船から鞍馬にいたる簡単なコースだ。例年紅葉狩りと称して11月下旬に開催するが今年は仕事の企画が満載でこの時期になり、参加者も4名プラス子供1人と少し寂しいハイキングとなった。貴船神社におまいりした後、鞍馬に向けて一山超えるのだが、さっさと早足で登ってしまったが私と小学生の子供は息も切れず平気だった。鞍馬寺の散策の跡鞍馬温泉に向かい、お食事処でゆっくり昼食を堪能し、子供と楽しく遊びその後温泉に浸かり16時過ぎの叡電に乗り帰途へとついた。2日連続のハイキングだったが、肝機能の異常ということで悶々とした思いを持ちつつも、ストレスフリーの休日であった。

(続く)

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胃癌日記68

2013-02-18 21:41:29 | 闘病

                        胃 癌 日 記 68

           ‐スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々-

-鎌倉から帰ると健康診断結果で肝機能が異常値-

 11月中旬は仕事が忙しく、個人的なタスクとしても科学研究費補助金の申請書類の作成等多忙を極めるが、それでもマイペースでそれなりに充実した日々を過した。

 11月18日の日曜日には、新調した登山靴の慣らしも兼ねて、連れ合い、小4の孫Tとの3人で六甲山へハイキングに行く。朝8時半過ぎに少し遅めの出発。阪急芦屋川駅からロックガーデン経由で六甲山頂から魚谷道(ととやみち)を有馬温泉に至る人気のハイキングコース。人気のとはいっても芦屋川の標高ほぼ0メートルから山頂の931メートルの標高差を登るから、そこそこのコースである。 

 9時20分に芦屋川駅発。昨日の土曜日が雨であったのと丁度紅葉のシーズンが重なった為、コースは『満員』の状態でロックガーデンではボーイスカウトのグループも奮戦しての大渋滞。今日は有馬温泉でゆっくりできるかどうかと思いながら、通常のタイムより40分ほど遅れで11時に風吹岩、12時10分に雨が峠。峠でお弁当の後、13時20分一軒茶屋、小休止後40分に六甲山頂。孫のTは本日も元気。夏の大峰山・弥山、八経ヶ岳以降自信も付いて山が好きになったようだ。55分に山頂を発ち一路有馬温泉へ。午後3時10分有馬温泉着。

 帰りは3時50分発の梅田行きバスに乗ろうと思い温泉は断念。バス待ちの時間に土産など買った。ところがバスがなかなかターミナルに来ない。何でも紅葉シーズンのせいか、高速道路の大渋滞で遅れているとのこと。結局バスがやっと到着して、折り返し梅田に向けて発射したのは1時間以上遅れの4時55分。この日はどこもここも大渋滞の一日だったが、帰りに梅田で食事をしたりして連れ合い、孫とともにハイキングを十分楽しんだ。肝心の私の体力のほうだが、大渋滞のせいで相当ゆったりペースであったため大してしんどくもなく、まずは順調か。

  11月23日の夜行バスで、連れ合いとともに鎌倉の姉Hのもとへ訪問。24日朝横浜着で朝食後鎌倉に向かい9時過ぎにH宅着。そこで甥のYと合流し、江ノ島に向かう。私は湘南は辻堂にある松下政経塾には3回行ったことがあるが、江ノ島にはHが鎌倉に転居後も行ったことがない。当日は少し脚が弱っていているHの激励も兼ねてなるべく歩く距離を多くして、と言うことになった。湘南モノレールに乗ったり、江ノ電に乗ったりしてすこしレトロな雰囲気を味わった。江ノ島では弁財天のお参りには登るのは良いが下りが危ないので断念。帰りは江ノ電長谷駅からH宅迄約50分ほど頑張って歩いた。Hも元気で頑張って何よりだった。夜は甥のYとわが夫婦の3名で大船で美味しくて安い回転寿司を食べた。

 翌25日は途中名古屋に立ち寄り大阪へ帰るのに、在来線の東海道本線で帰ることとした。大船発8時25分で、熱海、島田、浜松、豊橋、と乗り継いで14時に名古屋着。5時間35分、天気も良く車窓からの景色を延々と見て楽しい旅だ。名古屋では名古屋城を見学。名古屋城に入って天守閣に登ったのも私は初めてだった。16時30分過ぎまでゆっくり見学の後、40分ほど歩いてJR名古屋駅に戻り、約束していた甥が店長を勤める駅近くの沖縄料理の店を探しながら行った。店で自慢の沖縄料理を頂いたが、大変美味しく、味も料理の種類もオリジナリティたっぷりで、1時間以上楽しい一時を過させてもらった。家への土産も作ってもらい、甥には激励を言って別れJR名古屋駅に戻り再び在来線の旅で19時30分の電車に乗り、米原、高槻と乗り継ぎ結局23時前に家に帰着。結構アクティブで忙しくも楽しい旅だった。

 連休を利用した旅も終わり仕事に行く。11月26日の午後に10月22日に受けた健康診断の結果が返ってきた。カリウムの数値は気になっているが今回の検査項目には無く、各検査項目がどれほど『正常値』になっているかを確かめる、ある種余裕の気分で封筒を開けて検査の結果に目を通した。

『えーっ。何でや!!』思わず衝撃を受けた。肝機能の3項目が異常値、内2項目はかなりの異常値となっている。何回見直しても血液、血清、電解質、腫瘍マーカー等々は正常値なのに肝機能の異常が目に焼きつくように赤色で印字されている。産業医の所見と指示が同封されていた。肝臓の異常が指摘され、主治医に受診の上精密検査を指示されている。なんということだ。

(続く)

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胃癌日記67

2013-02-16 18:26:44 | 闘病

                    胃 癌 日 記 67

       ‐スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)までの日々‐

-術後2回目の腹部CT検査-

 11月10日にはラグビーの試合の応援に行く。対戦相手はD大学。かつての名門強豪校である。前半は順調にリードしていたが、後半は殆ど防戦一方で反則も多く取られあまり快適な気持ちでは見られなかったが、それでも負ける感じは無かった。結果ノーサイド寸前に決勝のペナルティゴールを決め辛勝。点差はPGの分だけだが、攻撃に守備にポリシーを持った本当にいいチームになった。仕事でもそうだが、マニュアルやノウハウがいかに器用にできても、それだけを熱心に一生懸命やったところで、ポリシーや哲学のない人間に魅力はない。ちょっと褒めすぎかもしれないがそんな思いを起こさせるチームかなあといった感じを思わせる。

 11日は京都に1年上で既に退職した元同僚Kの写真展を見に行く。実はTは重篤な病気に侵されており予断を許さない状態だ。

 ギャラリーとなっている喫茶店に行くと奥さんがいた。奥さんの話では、再入院しているが小康状態で比較的元気とのこと。作品の写真を凝視していると、Kがこの世に生きている証を強烈に印象付ける魂の写真で、写真を通じてのKのメッセージに圧倒されそうになった。『訪問ノート』に記帳し、パラパラとめくると幅広い人たちがメッセージを残している。多くの同僚、先輩・後輩、教授、先生、社会運動家、知識人、文化人、著名人も記帳しており、彼の人望が十分に伺えた。のこされた人生を充実して悔いなく生きて欲しい、心からそう思いながら自らの怠惰を戒めなければならないと身を引き締められる思いがした。

  13日は5月に引き続いて手術後2回目の腹部CTの検査。

 午前中は図書館に行って科学研究費補助金の申請書類の作成に集中し午後2時半過ぎにSI病院に図書館から直行した。検査前の説明書には3時間前から食事をしないように書いてあるが、残滓が残れば嫌なので朝から何も食べていない。検査は3時から開始して10分ほどで終了した。その後検査結果の所見とCTのフィルムを貰い退出。

 午後5時過ぎにクリニックに持参し、N先生の診断を受けた。結果はNP(ノープロブレム)で今のところ全く心配無しとのこと。ほっと安堵し、気持ちの緩む感じがした。スキルス胃癌の手術後1年の検査は、2回の腹部CT、脳動脈瘤も含めて全てクリアーした。後は職場の健康診断での検血の結果を見るだけだが、おそらく大丈夫だろう。ある種『自信』のような思いを持った。

(続く)

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胃癌日記66

2013-02-14 19:38:53 | 闘病

                    胃 癌 日 記 66

           スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々

 

-脳動脈3D CT検査の後、映画-

11月にはいると仕事が忙しくなってくる。忙しくなれば余計に休みの日はリラックスしたくなってきて、大学ラグビーのリーグ戦の応援に行ったりしている。

そんな中、11月9日はやはり体のメンテナンスとしてT病院で脳の3D CTの検査を受けた。私は2006年3月6日に未破裂脳動脈瘤クリッピング手術を受けた。この時も破裂前の発見で大事に至ることが無かった。考えようによっては本当に運が良い。術後経過も順調なのだが、現在Nクリニックでケアを続けてコントロールがうまくいっているとはいえ、もともと高血圧のうえに父親、兄が脳卒中に罹患している。そんなこともあって年1回の脳検査は継続している。

9日当日は8時15分に連れ合いとともに出発し9時15分にT病院に到着。10時に脳の3D CTの検査開始。検査は10分程度で終わって、そのあと結構待たされ、ようやく名前を呼ばれて連れ合いと一緒に診察室に入った。ドクターは執刀していただいたI先生。I先生は先ほど撮影した3Dの映像データをいろんな方向から凝視している。3Dの画像データは少し不気味なオブジェのような感じで脳動脈を映し出している。やがてI先生は、

「Iさん。良いですね。動脈瘤はありません。」

と言って、データをいろんな角度から見せてくれて、クリップなどの説明をしてくれた。私が、

「先生。薬で血圧のコントロールをしていますが、順調です。」

「どれくらいですか。」

「上が125、下が80を超えることは殆どありません。」

「良いですね。来年からはMRAにしましょう。」

と言うことになった。またひとつ心配の種がクリアされた。11時30分にT病院を退出し、途中連れ合いと別れ、私は映画に行った。映画は吉永小百合主演の『北のカナリアたち』。少しサスペンス風で、生徒それぞれの人生ドラマがオムニバス風に展開していく。少しフィクションぽくはあるが、木村万作の画面や吉永小百合の哀愁のある存在感などが映画全体を作り上げていて、よくできた映画だと思った。

(続く)

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胃癌日記65

2013-02-13 19:28:50 | 闘病

                                  胃 癌 日 記 65

              -スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々-

(-親友と集う 3-)

翌日は再び4人で本宅に向かい手作りの朝食を頂く。美味しい朝食を頂いた後U邸を散歩する。茶室と称する別邸にUさんと2人だけで訪れる。そこでは家族のこと、孫のことや、やはり生きがいのことなどいろいろと話した。昨夜と異なり酒も入っておらずゆっくりと話すことができたが、Uさんはことを成し遂げる条件が整っているにもかかわらず、どう成し遂げるか、ステージのアップした自分の哲学を模索しているのだろうか。

少しゆっくりして12時20分にU邸を後にして帰路に着いた。帰りのサービスエリアで昼食。但し私は明日年1回の大腸ファイバーの検査日のため、固形物は食べずにコーンスープの缶詰のスープのみ2缶とソフトクリームが昼食。再び高速道路を走り3時15分に解散地点に到着した。皆との別れを惜しみつつも、今回のU邸訪問の一番の目的であった心配事が何事もなかったことに、全員安堵する。楽しくも刺激的だった旅は終わった。

 

-大腸ファイバー検査-

U邸訪問の旅の翌日、10月30日は、年1回の大腸ファイバーの検査日。7年前の潜血による検査の時に少し大きなポリープを切除し、ポリープから腺癌が発見された。そのときポリープが少し大きかったので3日間の入院となり、S病院での初めての検査・診察が入院になってしまった。それ以降毎年のメンテナンスとして10月か11月にはS病院で大腸ファイバーの検査を受けている。最初3~4年は検査のつど小さなポリープを取った。昨年からはポリープもなく細胞を穿刺して生検することもなくなった。要するにNP(ノー・プロブレム)の状態になった。

慣れたとはいえ、検査前の腸をきれいにする為に大量の腸洗浄薬を飲んでのトイレ通いという難行苦行を午前中一杯強いられて午後にはS病院へ。検査はもう7回目でしかも昨年がNPで、すっかり慣れてしまったこともあってリラックスしていた。あまりリラックスし過ぎたのか、いざ本番の検査が始まると麻酔を注射するのだが、その麻酔であっけなく寝てしまった。何時ファイバーを挿入されたのかも分からずモニターを見ることもなく、

「Iさん。終わりましたよ。お疲れさまでした。」

と言う看護士さんの声に目が覚めた。当然頭はふらふらしているが、大ベテランのA先生が写真を見ながら、

「問題ないです。」

と、ぼそっと話しながら、主治医のN先生に所見を書いている。後日N先生に所見を渡して結果を聞くと、今年も細胞生検もせずNP(ノー・プロブレム)とのこと。スキルス胃癌の転移も再発もなく、まずは一安心だった。

(続く)

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胃癌日記64

2013-02-12 19:45:10 | 闘病

                           胃 癌 日 記 64

                     スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々

(-親友と集う 3-)

 話は最近の経済情勢の話も出てくる。わいわいがやがやなので論理的一貫性はあまりない。それでもグローバル化への対応や消費税、消費不況などいろんな話が出てくるうちにY先生が

 「ぼちぼちIやん、喋りだそうとして、腹に溜まってきてるやろ。」

 と振ってくる。それではと、円高ドル安圧力の一方で日本がアメリカの国債等を買い支える(圧力を受けている)ことの矛盾やそのおかげで本来紙切れであるドルが相変わらず国際的に信用を裏付けられて通用していること、アメリカはドルをバンバン刷って証券化商品やデリバティブ、オイルや穀物の投機を際限なく拡大していること、それらの背景に新自由主義があり何の理念や理想もなく目先の利益のみを希求していること、等々を喋った。さらにそのために人件費をカットし若者の40%が非正規雇用であったり、電機業界の13万人のリストラ、パナソニックの2万人・本社総合職4千人のリストラ、そのことによってパナソニックの株が一瞬高くなりその後ストップ安となったこと、それによってごく一部の『選ばれた』連中は『売り逃げ』『空売り』でダブルで儲けていること、そんな退廃が日本資本主義を駄目にしていて、このことによる構造的不況は相当な間回復することはないだろう、ひょっとすると日本資本主義は潰れるかもしれない等を喋り捲った。私以外は皆『資本家』であるのだが、意外なことに誰も反論がなかった。

人生全般の話になってくる。

 「なあIやん。何のために生きとるんやろ。」

 とUさん。Uさんは本業の日用雑貨品製造、開発、販売は在宅勤務でマネージメントをしており、そんなに派手ではないがオリジナル商品の強みで会社は堅実に経常利益を上げている。一方で株のデイトレードや、投機ではなく投資もしている。新事業への投資も真剣に検討している。

 「俺はスキルス胃癌をやってかどうか、最近自分の生きているか生きてきたのかの証を残さなあかん、残したいというのが意識的なのか本能なのかどうか自分でも分からんけど、とにかく充実して生きようとしている実感はありますね。」

 「ふーん」

 「自分の価値観を自己実現することが、生きてるというとなんでしょうかね。」

 「100億円の商売をしようと思えば、直ぐにでもできる。ほんとにそんなに頑張らんでも100億にできる。できるけどそれがどうしたん、という思いやねー。」

 「やりはったらどうですか。やろうと思っても皆できないですよ。100億円をマネージメントできる人には100億円の金が集まってくるんですよ。」

Y先生が仕事と絡めてUさんに新事業展開の話を初め、ビジネスチャンスであるとサジェッションすると、

「そんなに面白い話なら自分でやったらええやんか。」

とUさん。するとY先生、

「人にはそれぞれ役割がある。俺には俺の仕事があり、Uはビジネスで生きるべきで、IやんにはIやんの役割がある。Iやんお前さんは理事長になったらええ。Tさんは世界一の真空ポンプにこだわったらええ。」

えらい話が飛び出してくるが、親友同士で尊敬し合う者同士が世の憂さを取っ払って話す、案外まともな話だなあ、と、一人酒を飲んでいない私の感想だ。

太陽光発電の事業や関連メンテナンス事業やら、相当高いレベルでの話しに花が咲きやがて日付も変わり、再びY先生、T社長、G社長と私の4人は保養所に戻り、大浴槽の風呂に入り話の余韻を味わいやがて就寝。

(続く)

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胃癌日記63

2013-02-08 17:52:18 | 闘病

                       胃 癌 日 記 63

       ‐スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)から1年の日々‐

(‐親友と集う 2‐)

 10月28日昼12時に集合して、現役でベンチャービジネスの会社の社長であるTさんとGさんも合流し、私とY先生の乗用車2台で、Uさん宅に向かう。車で3時間弱の距離があるが、途中サービスエリアで昼食のそばを食べたり、スターバックスのコーヒーを飲んだりして、結局3時30分にUさん宅着。本人は至って元気で、少し病気がちだった奥さんも元気で、挨拶や車の誘導に出てこられていたって元気そう。ご家族も変わりなく元気とのことで、『ひょっとして』は全くの杞憂であって、本日の訪問の大きな懸念は雲散霧消した。後は持参のドンペリ他の飲み物で大騒ぎするだけだ。もっとも私はアルコールを飲まないが、とにかく盛り上がろうと思った。

 「何や、遅いやないか。12時発と言うから2時半には着くと思ってたのに。」

 「お前さんはええ年して、相変わらずいらちやからな。」

 そんなやりとりで大歓迎の雰囲気。Uさんは料理が得意で、以前は時々ご馳走になったが、われわれ一行への歓迎の挨拶で、

 「今日は、準備と片づけが大変だから、何か作ろうと思ったが仕出しにした。仕出しを食べてくれ。」

 「なんや、手料理を期待してたのに仕方ないな。」

 「それと、寝る場所は下の保養所に準備してあるから、まず荷物を置いてきて、こっちへ戻ってきて夕食にしよう。」

 と言うことで、本宅の下にあるUさんの会社の保養所に向かい、保養所では同行してきたUさんから、暖房や台所、風呂、寝室等々の説明。2つの寝室には4人分の寝具が用意してある。

 Uさんが住まいを大阪市内から150Km以上離れたところに転居したことは随分以前に聞いていたが、訪問したのは初めてだった。山ごと高級別荘地として開発されたところに、2万坪、9区画の住居・土地を所有しており、その中には本日宿泊する会社の保養所も含まれている。そのスケールには正直驚いた。彼は本業のメーカー・商社のマネージメントをしつつ、資金・資産運用で少なくない利益を上げている。保養所でくつろいだ後再び本宅へ車で向かった。

 本宅では既に結構な仕出し弁当とビュッフェ式で山海の珍味が用意されていた。われわれ『押しかけ客』4名にUさん奥さんを交えて、賑やかな晩餐となった。一通り近況報告の後、最初の話題の中心は仕事のことやUさんもY先生も共通の喫緊の課題となっている、息子に継がせるかどうかの『代替わり』のこと。2人とも『継がせない』『会社経営の能力がない』『価値観が違う』とか、自分の息子に対してはぼろくそに言うが、相手に対しては『お前の時代と違う、息子のほうが社員に信頼が有る』などの応酬をしている。酒が入り、T社長やG社長も参入し、結局相手の息子を褒めて友人同志は貶しあうといったパターン。さすがに奥さんは息子びいき。酒も飲まず炭酸飲料で、『跡継』の心配のしようのない私は、ニコニコとしていたり人の尻馬に乗って相槌をうつ。仕出し弁当や山海の珍味が美味しいのと楽しい話の応酬に、ストレスも忘れ楽しい気分に浸る。

 跡継ぎの話からだんだんと政治や経済の話が混ざってくる。T社長は

 「俺は京大のときに学生運動をしている連中に正面から反対して、学生大会でも演説した。日本と日本人の心を大事にしないといかん。俺は右翼と言われ一目置かれていた。」

 と言う。T社長の華奢な体からはあまりそういった屈強な国士的雰囲気はマッチしていないような気もするが。まあ、場はだんだんと言いたい放題になってきている。Uさんは私に対して

 「Iやんは、革新系やし、ヘルメットかぶって学生運動をしていたんやろ。」

 と振ってくる。

 「ヘルメットはかぶってなかったけど、学生運動はかなりしていたよ。そら、人それぞれの価値観もあれば世界観もあるよ。そこそこのリーダーやったし、生き方はいまだに正しいと思とるよ。」

 Uさんは、中小企業で本業のほうはきっちりと経常利益を上げているが、昨今の消費不況で大儲けとまではいかない。若いときに家業を継げば、自分が世間の市場をリードする大ヒット新商品を世間に先がけて開発し販売ルートに載せ新規定番商品として世に送り出すことが出来る能力も実績もある人なのだから、何も苦労することはなかった。にもかかわらず自分で独立し、日用雑貨品の開発販売の会社を独立させたのだ。当然「人」「物」「金」の全て、特に「金」には苦労の連続で、大変な思いを長い間経験してきた。T社長もG社長も、厳しい状況がずっと続いている今日の状況ではあるが、きっちりと会社を経営している。小規模企業ながら独自の技術やノウハウやロイヤリティを保有している。Y先生はそういったポリシーや哲学を持った会社経営者への理論的、情緒的アドバイザーでありサポーターでも有る。有能で著名な人物である。私も会社経営者であった頃、丁々発止でやりあった仲間たちの20年以上振りの再会だ。

(続く)

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胃癌日記62

2013-02-07 17:34:44 | 闘病

                             胃 癌 日 記 62                  

                     スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々(4)

-健康診断と出張-

 10月22日は職場での健康診断。検尿、検便、胸部X線、心電図、聴力・視力、血液検査、内科検診と一通りの検査に加えて、インフルエンザの予防接種も受けた。今年は殆ど正常値だろう。

 10月23日から25日の間富山に出張に行った。今回の出張は、中小企業の経営者との様々な意見・情報交換と会社訪問。

昨今、電機業界の13万人のリストラ、パナソニック2万人のリストラなどがマスコミで散々言われている。若者の雇用状況のみならず、もはや日本経済や製造業は没落か、雇用・労働環境は全くの暗闇かのような報道がセンセーショナルに吹聴されている。また一方では『勇断・経営判断を評価する』などといわれ、一瞬株価が上昇し今度は速やかにストップ安になるまで株価が下がる。そして『売り逃げ』『空売り』でダブルで莫大に儲ける輩がほくそ笑む。真面目に頑張ってきた労働者がいわれもなくリストラされる裏ではこのような魑魅魍魎の営みがある。退廃の極みだと思う。

今回の出張では、多くの頑張る真面目な中小企業の経営者と情報や意見を交換することができた。マスコミや一部評論家たちは『世も末』かのようにアナウンスし、真面目な若者たちは自らの雇用について大変な不安感を持っているのだが、私はそうではないと思っている。人間が大事にされる世の中を希求して、自分や会社の未来を信じて、志を共有し企業の将来を支える若者を求めている会社や経営者が実際は圧倒的に多いということを、今回の出張を通して本当に実感した。中小企業とはいえこのような会社や経営者の皆さんとともに頑張って、夢の有る社会を実現したいと本当に思う。そのような中小企業経営者の皆さんと交流ができて、今回の出張は有意義であった。

 

-親友と集う-

 10月28日29日は、私が小さな町工場の社長をしていた時の親友との旧交を深めた。ことの発端は私がかつて人生最大の陥落で大ピンチであったときに、私の人生立ち直りのために物心ともにサポートしてくれたUさんが、ある日突然に高級果実を送ってきてくれたことに始まる。最近ここ数年はお互い連絡もなく、突然のことなので最初は『何のことだろう』と考えた。だんだんと推測しているうちに人間の性か、あまり良いことは考えない。逆の方に思いが行ってしまう。私は共通の友人で、やはり私の人生建て直しのために物心両面に渡るサポートを頂いたYさんに電話をかけた。

「Y先生。ご無沙汰です。」

「おお、Iやんか。久しぶりに何かいい話か、良い物でもくれるんか?」

と、いつもと変わらず馬鹿げた挨拶。

「良い物のことやけど、昨日Uさんから高級ぶどうを贈ってきてくれたんですわ。」

「ああ、それなら俺のところにも贈ってきたわ。足らんからもっと贈れと言おうとおもっとる。」

ここまでは、ジョークの挨拶。

「先生、それやったらええんですけど、Uさんなんかあったということはありませんか。誰か病気とか、ひょっとして亡くなったりと言うことは聞いてませんか?」

Y先生、少し真面目に、

「いやー、最近音信不通やけどそんなことは聞いてないし、ないやろ。」

Y先生は、人間関係に関しては徹底した合理主義ではあるが、それとは裏腹に大変鋭い感性と熱い人情を持っている。人情の裏返しとして、外見の印象は少し近寄りがたい雰囲気ではある。何よりも頭脳の回転が人並みはずれて速くて、自分のポリシーがぶれない人だ。私の電話の意図を測察知したのだろう。

「近いうちにU宅へ行って、ぶどうの足らん分を食わしてもらって、ついでにご馳走を食べさせてもらいの行こうか?Iやん、Uと連絡とってセットしてくれるか。よう儲けてるみたいし、金の遣い道に困っとるやろ。遣いに行ったろ。」

「了解。」

と、そういったやり取り。早速Uさんに電話をしてアポイントをした。

(続く)

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胃癌日記61

2013-02-05 19:26:35 | 闘病

               胃 癌 日 記 61

      スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々(3)

 -仲間たちとの懇親旅行-

 鎌倉・藤沢から戻って翌日の10月20日は、学生時代の仲間たちの集まりK会の懇親旅行で、福山・鞆の浦・尾道への懇親旅行に参加。大忙しの日々といったところ。これも生きている、生きている証を残そうとしている意志の現れか。

 朝8時5分梅田発の高速バスで参加組は6名。現地集合とあわせて12名の懇親旅行となる。思い出せば1年前の10月14日は、同志であったS  君が薬剤ショックで急逝しその通夜でK会の仲間が集まった。その翌日に私は胃カメラで、そしてスキルス胃癌が発見された。今年の4月には花見で仲間が集まったが、心を許す仲間たちとの集まりは本当に楽しいものだ。だんだんと彼岸に発つ仲間が数えられるようになってきて、余計に何時までも旧交を確かめ合おうという気持ちが年々強くなってくる。

 バスは乗り合いなので賑やかに騒ぐわけにもいかず、積もった話をひそひそとしているうちに、12時10分に福山着。地元で仕事をしていて今回はホスト役の一人であるK君が段取してくれた美味しい『鯛定食』を頂いた後、駅の裏にある福山城に上った。福山城ではボランティアガイドさんの説明を聞いて、その後もう一人のホスト役であるU君とK君の車に分乗し鞆の浦に向かう。2時30分鞆の浦着。鞆の浦は維新の群像が集った場所で、坂本竜馬の海援隊の艦船『いろは丸』が紀州藩の艦船と衝突し沈没した場所。竜馬が紀州藩と談判した場所跡もあり、灯台となる常夜灯や湾が一望できる丘の上に古寺があり、歴史が偲ばれる風情の有る町だった。確か、なんだったか(「関が原」だったかもしれない)歴史小説で、宮本武蔵がならず者を斬ったのも鞆の浦ではなかったかと思うが、そのような説明も案内も何もなかった。

 皆で記念写真を撮ったり歴史資料館に寄ったり、4時前まで十分に観光し、再び車に分乗し本日の宿泊地尾道へと向かった。本日の宿泊は温泉旅館U。U君の縁である。4時40分U着。少しくつろいだあと、近所のスーパーマーケットに本日の楽しみの2次会用の食料、飲み物の買出しに行ったり、温泉に浸かったり。6時30分に宴会開始、9時からは2次会、近況報告やら積もりに積もった話やら『愚だ話』で旧交を深め合った。私は胃癌手術(入院)以来アルコールをやめたので、回りの皆がどんどんヒートアップしていくのに付いていけずだが、そこは気心の知れた仲間。心ゆくまで喋らせていただいた。

 喋るほどに昔からよく言われていたが、T君から

「I。お前は昔から相変わらずナルシストやなあ。」

「ナルシストやないんや。自意識過剰で自己顕示欲が強いんや。」

 こんな話も仲間ならではで、なんやかんやと夜中の2時前まで喋っていた。

 翌21日は私はのっぴきならない所用で大阪に戻らなければならなかった。朝6時に起床、温泉に浸かって7時半には皆と一緒に朝食。昨夜の話の余韻を楽しみながら海の幸たっぷりの朝食を頂いたあと、本日尾道の街を楽しむ仲間たちと離れ私は尾道の駅へと向かった。尾道から福山へ、福山から新幹線で大阪まで戻り、午後の所要に間に合った。今年のK会の恒例懇親旅行も余韻を残しつつ終わった。

(続く)

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胃癌日記60

2013-02-01 17:53:18 | 闘病

         胃 癌 日 記 60

                   スキルス胃癌手術から1年(2012年12月9日)の日々(2)

 -鎌倉へ表敬訪問-

10月17日は仕事から帰り、晩御飯を食べてから夜行バスで鎌倉の姉Hのところに行く。今回は表敬訪問というより病気見舞い。少し病変が見つかり15日入院、17日に手術を受けた。それで18日19日と年休を取って見舞いに行くこととした。

 17日夜10時に大阪駅バスターミナル発横浜行きの夜行高速バスに乗る。18日朝6時50分横浜駅バスターミナル着。顔を洗い喫茶店でコーヒーとパンの朝食を食べ、8時前の東海道線に乗り藤沢へ向かう。駅からは25分の徒歩で入院先のF病院に8時55分着。病室へ行くと姉は手術後でドレーンなども繋がっていてすこし痛々しいが、それでも元気そうで何より。姉の息子で甥のYが付き添っており、病気や手術の様子を聞いたが、手術そのものは1時間ぐらいで、看護士さんもてきぱきとしていて信頼できるとのこと。順調な経過で21日の日曜日には退院の予定とのこと。暫く病気のことや家族のこと、世間のことなどを話しながら憂さ晴らし。午後1時前病院の食堂でYと一緒に定食を食べて、そのあとYはずっと付き添っていたのでチェンジ。Yは自宅に戻り私は病室へと戻った。午後には担当のドクターの回診があり、説明を聞いたが手術はうまくいって術後も順調とのこと。病室からは、見晴らしもよく海と江ノ島も遠望できる。個室なので今日はここで泊まって、ゆっくりと姉と話でもしようと決めた。夜は近所のスーパーで散らし寿司とサンドイッチを仕入れてきて食べた。

 19日は朝5時10分に目覚める。姉も起きだして朝の身支度をしている。8時には私は食堂にモーニングサービスを食べに行く。朝食を食べ終わり病室に戻ると姉も朝食を食べ終わっていた。点滴も終わったので、暫くゆっくりした後で姉を歩行練習に誘った。看護士さんに断って、隣の病棟へ続いている廊下を、手摺を持ってゆっくりと歩かせる。姉は口では「平気や」とか偉そうに言っているがやはり全身麻酔後始めての歩行なので足許がおぼつかなく、慎重に歩かせた。

 病室に戻って話をしていると主治医の先生が回診に来て、説明をしてくれた。手術は上手くいって回復も順調とのこと。ドレーンで繋いでいる痛み止めも中止してドレーンを抜くとのこと。処置が始まるので私は部屋の外で待った。やがて処置が終わり呼ばれて病室に入ると、姉はすっかり『身軽』になり、随分と楽そうな表情だった。

 9時半過ぎに、もう一人の姉Tがやってきた。姉H、Tと3人でいろいろと話す。母親の思い出話や家族のこと、苦労した時代のことや今日の、違った意味ではあるが苦労のことやその原因など、四方山話。考えれば10ヶ月前は私が逆の立場で、S病院に入院してしんどい思いをしていた。なんだか可笑しい感じがする。やがて昼食時間になりHが入院食を食べているあいだ、私はTと病院食堂へコーヒーを飲みにいった。食堂ではTから田舎の土地利用などいろんな相談を受けた。

 Hは順調で元気そうなので、コーヒーの後大阪へ帰ることとした。午後1時過ぎにHに挨拶して、F病院を後にした。歩いて藤沢駅に戻り駅2階で昼食のそばを食べ、土産を買って電車で横浜・新横浜へ、そこから16時09分発の、のぞみに乗って帰阪した。まずは一安心。

(続く)

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