伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

3.11の日に

2022年03月11日 | 羽生結弦

3月11日には何も書かずにいようと思っていた。


1.17、阪神淡路大震災の時にも何も書かなかった。
関西の人間には、阪神淡路大震災の方がリアルだ。
でも何も書けなかった。
何を書いていいか分からなかったからだ…。


けれども・・・


日刊スポーツ
https://news.yahoo.co.jp/articles/889e687a5767a2d7a6c22fa7226d25bc0b1cfd14
羽生結弦「11年たった今の世界で命の意味と尊さを考えている」
東日本大震災11年でメッセージ


被災地・仙台出身の羽生結弦選手が地元のテレビにメッセージを送ったという。
羽生ファンの間で拡散されていた。

 

3月11日のあの日、あの時もパソコンの前にいて画面を見ていたと思う。

そして地震が起きた時、
ふと、
あの子は確か仙台の子だったはず、どうしただろう、
無事だっただろうか、
と考えたことを覚えている。


その頃からもちろんフィギュアスケートを見ていた。
そして羽生結弦というスケーターがいることも知っていた。

だから地震が起きた時、
いちばんにその子(まだ10代だった)のことが頭に浮かんだのだ。

 

その子がその後、まさか震災によって、
苦しい葛藤をずっと抱え続けて来たことなどは知る由がなかった。


羽生結弦選手にとって、あの震災は自分の宿命として、
自分の身に引き受けるべきものと考えているのかもしれない…











「11年がたった今の世界で、命の意味と尊さを考えています。
あらためて、今までの11年間、何ができてきたのだろうかと考えています」

「本当は、金メダルをまた持ち帰ってこられるように、
と努力を重ねてきました。皆さんにお見せできるように、
と思って頑張ってきました」

「僕は挑戦することをやめず、前へ進み続けましたが、
成功するところまでいくことはできませんでした」

「悔しい、苦しい気持ちもありますが、そんな姿からでも、
皆さんの中で何か意味のあるものになれているのであれば、
本当に幸せだなと思っています」

 

「前へ進み続けることは大変はことであり、報われないこともある。
それは、震災のことでも同じことがあると感じています」

「苦しくて、楽しくて、悲しくて。
そんな皆さんの日々の中でも、応援してくださり、
本当にありがとうございます」

「僕も、これからもずっと、応援させてください」

 


羽生結弦選手はやっぱり金メダルを取りたかったのだ。
当然だろうな…出ると決めたからには金を取りたい。

それは自分のためでもあると同時に、同じくらい
被災地、東北、故郷のためにも取りたかった。

金メダルを取ることが、東北のため、被災地を応援することになる、
と思っていたのかもしれない…、
だから悔しかっただろう。切ない…。。

 

北京五輪の試合後、NHKの単独インタビューに答えていて、
その中で、被災者への思いを聞かれた。
憮然として答えていたのが、今も心に残ってる。


「僕は皆さんに問いかけたいです。
僕は皆さんの何かになれましたか」

 

金メダルを取れなかった悔しさ。被災地に届けられなかった無念さ。


でも…。
いちばんなのは羽生選手が競技や試合に出て、演技をすること、
それだけでみんなの励みになっているんだと思う。

 

東北の人、故郷の人たちはどう考えているか分からないけれど、
きっと羽生選手のスケートを見るだけで、力になってると思う。
みんなの何かに絶対なっている。

あの演技、美しい演技、スケートを見るだけで。
それだけで意味がある。
羽生選手を見ることがみんなの喜びだと思うのだ…








羽生結弦選手は競技の時は豪胆で度胸があるが、
一方で、すごく純朴で繊細な面もある青年だと思う。

こうしてずっと震災について心を寄せつづけ、
そして自分に何が出来ているか、時には悩んでいるのだろう。
有名になったからこそ、出来ることがあるはず、と。
だから
震災の記憶を風化させないために毎年こうしてメッセージを送る。

一途で健気すぎる…。








羽生選手が震災のことを語るだけで、意味がある。

テレビも新聞も特集を組んでいる。
それ以上の役割を、羽生選手は果たしていると思うのだ。