静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

普遍的人間主義と愛国心

2009-10-11 19:38:45 | 日記
 家永三郎は憲法押し付け論への反論の一つとして、両院で反対者がいた事実を指摘した。マッカーサー草案は占領軍の発想だけではなく、日本国内の民間憲法草案の内容が大幅に取り入れられたことも指摘した(『歴史のなかの憲法』)。この憲法が近代民主主義の歴史の中で醸成された憲法思想・条項を継承したことはいうまでもない。
 カントは『永久平和のために』のなかで、国の施策は国益からではなく法的義務から出発すべきだと説いた。この思想は日本国憲法前文にも反映している。では法的義務とは何か、それは正義の実現であるという。国家間に問題が生じた場合は、各国元首はいかにしたら自然法に適合できるか考えることが義務だとカントは言う。
 古代ギリシアの国家(ポリス)では、しばしば外国人を招いて法律を作ってもらった。ルソーも『社会契約論』でそれが習慣であったと言っている。それだけでなく、近代イタリアの諸共和国も、しばしばこの習慣の真似をしたし、ジュネーヴ共和国もそうして旨くいったと言う。ルソー自身が頼まれて『コルシカ憲法草案』を作った。(注:古代では憲法というものはなく、それに相当するものがあるとすれば自然法だといえるかもしれない。自然法に国境はない)。
 他国人に任せたほうがいい・・・これが今日でも通用するなら、たとえば国連に憲法起草委員会をつくり、各国の要請に応じて憲法案、憲法改正案などを作成したらどうか。モデル憲法なども用意しておくとよい。EU憲法という各国憲法の上位法も考えられている時代なのだから。
 そこでの憲法草案には国益や愛国心は必要ない。必要なのは戦力や戦争の放棄である。古代ローマは幾多の欠陥を抱えながらも人間主義を基本とする世界市民思想を生み出した。だがその普遍性はルネサンスにおいても見事に欠落したままだった。今日の国家思想は近代以降の国民国家、民族国家のものである。今日の愛国心はその産物である。いま必要なのは真のグローバリズムであり、カントの言うように、すべての人間を手段としてではなく目的とみなす普遍的人間主義なのである。 
 かつてクーランジュは『古代都市』のなかで、愛国心を次のように論じていた。(『田辺貞之助訳による)。考えを発展させる上でたいへん参考になる。少し長いが記載させていただく。

 愛国心というものは、制度、風俗、信仰、法律などの変化につれてその性質を変更してきた。この変更はローマの偉大な進歩を招来するのに最も貢献した事実のひとつとなった。都市国家の初期における愛国心は宗教の一部をなしていた。人びとは祖国の守護神を愛し、祖国の市長館と聖火と聖典と祈祷と賛歌があるために、また祖国を離れては神々も祭祀ももてないために祖国を愛した。だが、支配の実権が神職階級から奪われると、この種の愛国心もすべての古い信仰とともに消滅した。ただ祖国の法律、制度、祖国が国民に与える権利や安全性のためにだけ祖国を愛した。
 アテナイ人が祖国を愛したのは、アテナイが法律の前には全市民が平等であることを欲するからであり、全市民に自由を与え、名誉への道をひらくとともに、公の秩序を維持し、行政官に権威を保障し、弱者をまもり、全市民に精神教育の糧となる観覧物や祭典を与えるからである。
 だが各都市が不安定な状況に陥ると制度・法律も頻繁に変化したから、愛国心もそれぞれの環境によって変化する不安定な感情となった。人びとはその政治制度が自分の意にかなうあいだだけ祖国を愛し、ひとたびその法律が悪いものと思われるようになれば、もはや祖国に愛着する何物も認めえなかった。都市的愛国心はこうして衰微の一途をたどり、次第に人の心から消滅していった。・・・イタリアでも事態はギリシアと同じ経過をたどった。