(一)日の丸
大臣などが記者会見するため壇に上がるとき、正面に掲げられた日の丸に最敬礼す
る光景はすっかり見慣れた。日の丸は、赤い丸が描かれた布地である。つまり物質、
物体である。それに最敬礼する。その大臣がその日の丸に敬意を抱いているか、崇拝
しているかはわからない。しかし、ありていに言えば「物神崇拝」みたいなものであ
る。
M小学校2年のとき日中戦争が始まった。教室で一人一人が小さな日の丸を作っ
た。紙や棒は支給され、クレヨンで赤丸を書いた。それをかざしながら、先生に引率
されて駅に出世兵士を送りに行った。「勝ってくるぞと勇ましく」や「天に代わりて
不義を討つ」で始まる軍歌、「天皇陛下のためならば何の命が惜しかろう 死んで帰
れと励まされ」と歌いながら激しく日の丸を振る。ときどき旗が根元からち切れてし
まう。半年が経ったその冬は大雪だった。屋根下ろしされた雪が、道路いっぱいに一
階の軒の高さまで達する。その高みにできた細い道を、長靴に藁縄を巻いて歩く。手
に持った日の丸は学校に帰ってきてゴミ箱に捨てた。次に行く時にはまた作る。
箱根駅伝で最終ランナーがゴールインする場面を見た。沿道に応援する人たちは手
に手に日の丸を振っていた。終わった後、あの日の丸はどうするのだろう。もし日の
丸が、大臣が最敬礼しなければならない程のものなら、あの日の丸の数ほど、人々は
最敬礼をしなければならない。それとも、あの大臣が上がる壇上の日の丸と、一般市
民がうち振る日の丸とは価値が違うのだろうか。
転校してきたA小学校には体育館も講堂もなかった。全校集会は校庭で行う。校舎
は南面、その前に校庭、生徒は校舎に向かって並ぶ。全校生徒が号令によって右を向
く、つまり東を向くと、そちらに奉安殿、つまり天皇と皇后の写真(御真影)の格納
庫と日の丸や校旗の掲揚台が設置してある。何のために東を向くかというと、東の方
角に宮城(皇居)があるからである。つまり、宮城遥拝のために向くのである。これ
が新潟県なら南を向くだろう。宮城には生身の、つまり写真でない本物の天皇がおわ
します。この儀式の時には当然のことながら奉安殿の扉は閉まっている。日の丸が掲
げられ君が代がスピーカーから流れる。一同は日の丸に最敬礼しているのではない。
御真影にでもない、遥か遠くの宮城にいます天皇に最敬礼をするのである。日の丸は
儀式のための飾り物にすぎない。A小学校の東は田んぼが広がりその向こうに民家、
その先遠くに低い山があった。これが、校庭の隣に高いビルが建っていたり質屋の看
板があったりしたら、宮城遥拝といっても、それらに礼拝しているようでさまになら
ない。
私の記憶する限り、日の丸に最敬礼をしたことはない。日の丸はその場を飾り盛り
上げる道具に過ぎなかったのではないか。日の丸に文字を書いたり(出征兵士に贈る
日の丸に寄せ書きをするのは当たり前だった)、鉢巻きにしたり、最後は手ぬぐい代
わりに使ったりしたのだろう。
ドラマ「水戸黄門」で、格さんか助さんか知らないけれど、葵の紋の入った印籠を
は高く掲げて「このご紋が目に入らぬか」というと、悪者どもがみんな跪く。葵の紋
は徳川権力の象徴であった。今日では大きな日の丸を背にして政府高官が「直ちには
健康に被害を与えるものではない」などと言う。日の丸を背負った偉い人が言うのだ
から間違いないだろう・・・。
印籠は単なる物質に過ぎない。象徴は視覚で捉えられないものを、他の物質によっ
て視覚化する。校旗や校章などはその例である。現在、日本国・日本国民統合の象徴
は天皇という生身の人間である。明治憲法では、天皇は「元首にして統治権を総覧」
した。宮城はその象徴の一つだった。だから宮城礼拝には意味があった。敗戦時、何
人もの高級軍人が宮城前で腹を切った。御真影は象徴ではなく文字通り「真の影」で
ある。だから校長は死を賭してでも御真影を守らなければならない。日の丸を死を賭
して守った話など聞いたこともない。体育館で紀元節や天長節などの儀式をおこなう
とき、正面に安置された御真影に最敬礼し、校長の「教育勅語」朗読は鼻水をすすり
ながら聞いた。式場の真正面に日の丸が掲げられた記憶は全くない。むかし海上で国
籍を示す目印に日の丸を使った。目印であるからそうと決めれば何でも良かった。
日の丸が最敬礼の対象になったのは戦後で、それはアメリカの影響だと思う。アメ
リカ合衆国で国旗がどのように扱われているか、どうしてそのように使われるように
なったか、そのいきさつはよく知られているところだ。
(二)伊藤先生
伊藤先生は師範を卒業したばかりの、背の高い颯爽とした青年教師だった。卒業ま
で3年間受け持ってもらった。
あるとき伊藤先生は国史の時間にこういう質問をした。「楠木正成と平重盛とどち
らが偉いか」。当時は、足利尊氏や平清盛は最大の逆臣であり、楠木正成は最高の忠
臣だとされていた。子どもにとっても常識だった。重盛は天皇への忠誠心が厚かった
ので、父清盛への孝行と天皇への忠義との間に挟まれて苦悩した話をした後の質問だ
った。私は大いに迷ったあげく、重盛の方に手を挙げた。重盛に人間味があると思え
ること、日本一の忠臣正成とあえて比較するのだから、先生に何か意図があるのでは
ないかと勘ぐったからである。
重盛に手を挙げたのは私一人だけだった。実にバカなことをしたものだ。先生の腹
を探ろうなんて。こっぴどく叱られた。当然のことだ。重盛を評価しているなどと風
評が立てば、伊藤先生は苦境に陥ることは間違いない。先生のミスだ。こんな質問は
してはいけないのだ。
あるとき先生は、「神棚のある家」「仏壇のある家」「両方ある家」それぞれ手を
挙げさせた。「どちらもない家」、これは私一人だった。先生は私の顔をじっと見つ
めたが、それきりで終わって何も言わなかった。どちらもない家など想定していなか
ったに違いない。先生は言いたいことも言えなくなった、私一人のために。みんなも
拍子抜けのような顔をしていた。申し訳ないことをした。
あるとき先生は「歴代天皇の名を覚えてこい」と言った。それを点検する日がき
た。伊藤先生は数人指名して言ってみさせた。全部言えた者は一人もいなかった。指
名されたらどうしようと思っていた私は胸をなで下ろした。天皇名の暗唱点検はそれ
で終わり、伊藤先生は二度とそれには触れなかった。
あるとき、「視学」(今でいえば教育委員みたいなもの)(「視学」だったという
のは筆者の推測)の授業参観があった。伊藤先生は緊張していた。前日授業の予行練
習が行われた。先生の質問に挙手して答える顔ぶれも決まった。さて当日、何人もの
人たちが後ろに立っているのは気配で分かった。山場にきて先生が例の質問をする。
驚いたことに予定されていたメンバーが誰も挙手しない。再度先生が促しても同じ。
焦った先生の顔。仕方ない、私は低い声で「ハイ」と言って手を挙げた。そのときの
先生のほっとした表情。私は日頃から先生の顔色を伺うことに慣れていた。
翌日授業開始前、教壇の傍にある先生用の机で何か整理しているような格好で、わ
れわれには横顔を向けたまま「外山(筆者のこと)は体は小さいが肝っ玉が座ってい
る。潜水艦乗りになるといいな」。そのあたりにいる生徒たちに聞こえるような声で
一人ごとを言った。私はおっ魂消げたが、悪い気持ちではなかった。シャイな先生の
精一杯の謝意なのかなと思った。
あるとき、先生は私ともう一人の生徒を放課後に残し、天満宮の祭りに展示する絵
を描くよう命じた。そして自分は所用で出かけるので隣のクラス担任の指示に従うよ
うにと言って出かけた。隣の担任は花瓶に生けた百合の花を持ってきて、それを写生
するようにと言った。小学5年の時だったと思う。百合の花なんてとても難しい。単
純なものほど描きにくい。不満足だが仕方ない。
それ以前に、慰問袋に入れる絵を画くよう言われていた。わが家の壁に飾ってあっ
た絵を模写した。荒波の洋上で難破しかかっている帆船の絵である。戦地に送るのだ
から模写でもいいだろうと軽んじる気持ちがあった。翌朝、百合の絵とこの難破船の
絵を伊藤先生に提出した。最初に百合の花を見た先生は渋い顔をしたので肝を冷やし
た。だが次に難破船の絵を見てにっこりして、ご苦労さんとか何とか言った。
天満神宮の祭りの当日、展示されている絵を見に行った。どうだろう! 百合の花
ではなく難破船の絵が飾られていた。先生がこの絵を見てにこっとした理由が分かっ
た。百合の花は戦地に行ったのである。
(三)綴り方教室
担任の先生が休みのときは、校長か教頭が話をしてくれることが多かった。みんな
面白かった。教頭先生の「イルカ」の話など今でも覚えている。
伊藤先生も昼休みの時間を利用して本を朗読してくださった。猿飛佐助や太閣記な
ど。どうも講談本だったらしい。どういうわけか太閣記は途中で朗読を止めてしまっ
た。私は母に太閣記を買ってくれとせがんだ。買ってきたのは吉川英治の『新書太閣
記』第1巻だった。これしか売っていないという。不満だったが読み始めるととても
面白い。ちょうど『新書太閣記』が単行本として出版されたばかりの時だった。2巻
目からは本屋さんが順次配達してくれた。それがどれほど待ち遠しかったことか。本
を開くととてもいい匂いがする。香水でもつけているのかなと思った。今までの生涯
で、こんなすばらしい香りのする本にはお目にかかったことはない。
戦後焼け跡ばかりで本がないとき、私がこの本を持っていると聞いたF中学のK校
長が貸してくれと言ってきた。私はそのころ、「本は絶対他人に貸してはいけない、
決して返って来ないから」と書いてある本を読んだ。誰の何という本だか忘れたが、
田中菊雄の本だったかも知れない・・・これには自信がないが。だから本は貸さない
ことにしていたが、どうしても断りきれない人もいる。結局、ついに返って来なかっ
た。
伊藤先生は「綴り方」の時間には「面白い本」ではなくて、真面目な「綴り方」を
読んでくださった。誰の書いたものか、今はわからない。だが、そこに書かれていた
のは私には想像もつかない極貧の、惨めな生活であった。ショックだった。これが生
活綴り方運動と関係があったのかどうかは知らない。だがこれは紛れもなくその運動
の中から生まれた文章であったと、私は今は確信している。周知のようにこの運動は
日中戦争勃発直後あたりから弾圧され逮捕者も出た。教室でそれを読むことは危険で
はなかったのか? もちろんその頃の私は、そんなことは露ほども知らない。
昭和16年の夏、A町ではパラチフスが大流行した。秋になって下火になったが、
私はその秋になってから罹病してしまった。町はずれの田んぼの中に建つ僻病院に入
院した。広い病室に患者は私一人ベッドに横たわった。毎食与えられるのはリンゴを
すり下ろしたもの、それに梅肉エキス。それ以外は薬も何も与えられない。腹が減っ
て腹が減ってどうしようもない。医者は、パラチフス菌も兵糧攻めにして殺してしま
おうと思ったのだろうか。通知表を見るとそのとき35日欠席している。ほんの最後
の頃になってお粥が与えられ、少しずつ元気を回復した。しかし退院するまでベッド
から一歩でも下りることは許されなかった。
病室に付添人の寝泊まりする部屋があり、祖母が来てくれた。祖母は林芙美子の『
放浪記』を持ってきた。中央公論社の分厚い文庫判だったと思う。祖母は子どもの読
む本ではないと取り上げようとしたが私は読んだ。驚くべきめちゃくちゃな貧困と混
濁の生活が展開していた。私がこの本を読み切ることが出来たのは、伊藤先生の綴り
方教室のお陰だと思った。
退院後私は自分が変わったと感じた。もう子どもではない! 学校では中学受験志
望者対象に課外授業が始まっていた。私もその授業に出たが、場違いのような感じを
受けた。12月8日、朝礼があった。校長は日米の戦争が始まったことを告げた。あ
んな大きな国と戦って勝てるはずがないと瞬間思った。だが、続いて真珠湾攻撃で多
数の米軍艦を撃沈させたと聞いて、勝てるかも知れないと思い直した。今の言葉でい
えば、マインドコントロールされたのだ。課外授業はいつの間にか廃止された。筆記
試験ではなく口頭試問になったのである。私はA中学に入学した。
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