静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

二千年の基礎

2013-07-14 12:46:40 | 日記

(一)

レジェス・ドゥブレの言葉を引こう。

 「世界はジュゼッペ・ヴェルディのスローガン『過去の方を見よう。それがまえへ進むということだ』に心の奥底でずっと従ってきた。・・・断固として近代的であるために、勇気をもって古風であろう。フランス革命時代の自由に取り憑かれた男たち、あの偉大な過去賛美者たちは、十八世紀を後ろ向きにまたぎながら、すべての同時代人たちの先を行ったわけだが、彼らがそうすることができたのは、古代ギリシア・ローマを復活させることによってだったのである」(『思想としての<共和国>』)。

  ドゥブレによると、フランス革命の自由主義者たちは、古いもの(アンシャン・レジーム)をさらに古いもの(古代ギリシア・ローマ)によって打ち負かしたという。歴史は、時には、大きくジャンプするためには後戻りをしなければならない・・・そう言っているようだ。そこには自由主義的資本主義への批判がこめられている。フランスにはジャンプすべき歴史があった。フランスは古代のガリアであり、ローマ社会の重大な成員であった。残念ながら日本には帰るべきより古いアンシャン・レジームがない。 

 ドゥブレはまた次のようにも言っている(同書・三浦信孝との対話)。

 「過去を現在に存続させ、歴史的アイデンティティを構築することを可能にするのは、記憶であり、記憶の技術であり、モニュメント化である・・・」。

 だから彼は言う「共和国においてもっとも重要な徳は何かといえば、それは記憶である」「共和国では図書館に最大限の敬意が払われるが、デモクラシーではテレビが重要視される」。「わたしは大きな図書館を作ることを約束する」が選挙の公約になるのが共和国のシステムだという。事実、フランソワ・ミッテランはルーブル美術館の改造・新しい図書館の建設などを手がけた。

(ニ)

 プリニウスは、人生において記憶が極めて必要なものであると説いて、その記憶力の優れた人物のことを書いた。たとえば、キュロス王は自分の軍隊のすべての兵士の名を言うことが出来たとか、22の民族の王であったミトリダテスは、通訳なしに各民族の代表と話をしたとか、ギリシアのカルマダスという人物は、図書館にあるどんな書物の内容でも暗誦できたという。

 だがプリニウスは言う。「人間の諸能力のうちで、記憶力ほどもろいものはない」と。そして、病気や事故、その他によって突然記憶力を失った人たちの例を挙げている。

 プリニウスは、すべての人びとがすべての時代に、ある人がどんな種類の人間であったかを知りたがるということ以上に喜ばしいことはないとしたうえで、「ローマではこの習慣はアシニウス・ポリオ(前76―後5)に始まるのだが、ポリオは図書館をつくり、天才たちの述作を公共の財産にした最初の人であった」と述べた。プリニウスは、世界最初の図書館とは言っていない。こう言っている「こういう習慣がもっと早く、図書館をつくることでは猛烈に張り合っていたアレクサンドリアやペルガモンの国王たちとともに始まったのかどうかとなると、わたしには即答できない」(35巻)と書いている。プトレマイオス一世(前36頃-283)とアッタロス一世(前241-197)は両者とも図書館を建設したと伝えられる。プリニウスは「即答できない」などと口惜しそうである。

だが別の箇所(13巻)のパピルス紙発明のなかで、ウァロの言としながら「プトレマイオス王(在位 前181-145)とエウメネス王(ペルガモンの王、在位・前197-159)が図書館のことで敵対関係にあった」というエピソードを書いている。それによると、パピルスの生産国エジプト国王がパピルスの輸出を抑え、それに対抗してペルガモンで羊皮紙を発明したので争いが起きたらしい。此の両国は書物や図書館に関しては宿縁の関係だったという。プリニウスはこの間の事情について「そしてその後人類の不滅がそれにかかっている物質の使用が無分別にも普及していった」と注釈している。なお、蛇足だが、羊皮紙はラテン語でペルガメヌム、ギリシア語ではペルガメネである。

プリニウスは、ローマの図書館に、金銀製でないにしても、ともかくも青銅製の肖像を立てておくという新しい習慣が始まったことに注目している。それは、その不滅の精神がわれわれに語りかける人々の記念として作られた。ホメロスのような、どんな容貌かも伝えられていない人物の像さえもつくられた。先述のように、図書館に像を飾るという習慣はポリオに始まるのだが、それに限らず、肖像に対する強い情熱が昔にもあったことは、この問題を論じたアッティクスやマルクス・ワァロの発明によって証明されるという。ヴァロは自分の諸著作の中に700人の有名人の肖像を挿入したという。プリニウスは、そういう点ではワッロは神々にさえ羨まれるような恩恵の発明者であり、彼は不死を与えたのみならず、それを全世界に広げ、彼が扱った人々を神々のように偏在的なものにさせることができたと称えた。神々というのは神話上の神だろうが、神の実在を信じなかったプリニウスの思い切った皮肉である。

人間にとって記憶というものが如何に大切か、しかし記憶は壊れやすい。書物、図書館、そこに飾られた偉人の立像・・・それらはローマとそのローマを築き上げた偉大な人びとの永遠の記念になることを願った気持ちが現れている。 

(三)

 橋本万平氏の著『素人学者の古書探求』に「プリニウスを買う」という一文がある。氏は科学史でプリニウスに関して20年近く講義を続けたそうである。氏はプリニウスについてこのように語っている。「古代を知る唯一の資料といってよいこのプリニウスの『博物誌』の内容が、いい加減なことが多いということを強調しているように受け取れる書き方の本が非常に多い。たとえば足の甲が広くて、雨のときに笠の代用にする人種があるとか、小さい小判鮫が、疾走しつつある帆船を止める力があるとかという話を例に引いて、『博物誌』の荒唐無稽さを示している」と。

 そしてこのように続ける。

 「私はプリニウスの『博物誌』を高く評価している。たまにばかばかしい話が書いてあっても、百科事典であれば当然であり、許さるべきである。当時の人々の口の端にのぼる話題を網羅してこそ、辞典としての価値があるのである。自分の狭い頭で事の真疑、正邪を判断し、ふるいにかけて項目を整理するようでは、正しい辞典ではないというのが私の主張である」。

 私はこの橋本氏の主張に何ら意見をはさむ立場ではないが、ただその率直な書きっぷりに敬意を表したい。ところで橋本氏は井上書店というところで(氏は神戸在住の神戸大学名誉教授だったから、多分神戸の書店ではないかと推測)、プリニウスの英語訳を24万円で購入した経緯を書いている。何年に購入したか不明だが1992年以前であることは間違いない。今から20年以上前のことである。

 1923年の関東大震災の日、寺田寅彦は科学者の冷静な目で被災状況を観察した。その日の夜には東京帝国大学の様子を見に行った。図書館の書庫が燃えるのを窓ガラス越しに眺めた。あたりには人影もなく、野良犬が一匹あたりをうろうろしていた、そう寅彦は日記に書いた。(このことはブログ「シネマ随想」で書いたことがある)。1892年に建築された中期ゴチック様式の木造桟瓦葺の図書館は全焼した。国際連盟は図書館復興援助の決議を採択し、海外30数カ国から図書の寄贈を受けた。今日の総合図書館の蔵書目録を見ると随分多くの寄贈があったことがわかる。とくに英帝国や英王室からのものが多かったように思う。新しい図書館は1928年に完成した。ゴチック風の鉄筋コンクリート造り、大中小いくつもの、それぞれインテリアデザインの異なった閲覧室があり、ゆったりしたテーブルと椅子、落ち着いて読書できる雰囲気がある。幸い第二次大戦でも戦火を免れた。

 その寄贈された書籍のなかに、上述のホランド訳の『博物誌』があり、1923年英帝国から寄贈というサインがある。大震災があったら直ちに寄贈されたことがわかる。この図書館の貴重書になっている。閲覧するには、閲覧室の片隅にある総ガラス張りの小部屋に入らなければならない。

 この書は1601年刊行の初版本である。第一巻の扉にはいろいろな落書きがある。人名が三つ、うち二つは横線が引いてある。フィルモン・ホランドの孫と思われる人(不明な箇所があるので断言はできない)の短いコメントとサイン、その他少し。長い歴史を背負っていることがわかる。シェークスピアも多分ホランド訳に目を通しただろうが、この書にはシェークスピアの署名はなかった。いずれにしても貴重書であることに間違いない。このような貴重書をよくもイギリス政府は寄贈してくれたものだ。このホランド訳が何部印刷されたか知らない、だがイギリス本国にもそれほど多くは残ってはいないだろう。日英同盟があったにせよ、その度量の広さ、学問・文化を尊重する気骨に感銘を受ける。ついでに言うと、上記の落書きに並んで「T100」という記号が記されている。これはこの大学の貴重書というサインである。この無粋な記号も、この書の歴史を飾るのだろうか。

 (四)

橋本万平氏が入手したのは1634年の再刊本で、翌35年に販売されたものらしい。橋本氏の蔵書の実物もコピーも見ていないので確かなことは言えないが。いずれにせよ、初版本よりは多く出版されたようで、わが国にも複数の再版本がある。橋本氏は、「このホランドの訳本があまり紹介されていないのが不思議に思います。私の手近にある科学史の本の中にもホランドの名前が全く見られません」と書簡の中で書いていた。

いわゆるバブル期、円高とイギリスの経済的苦境が重なって、イギリスから歴史的な書物が流入してきたのではないかと私は秘かに思っている。文化は民族を越え国境を越えて伝播してゆく。互いにそれを学ぶことによって、人類は共通だという意識が生まれることはいいことだ。ミサイルやロケットを撃ちあうことより遙かにいい。戦争に慰安婦は付きものだと公言してはばからないような人物を、わが国第二の大都市の市長に選ぶ国民が一方にある。

先述のようにわが国には帰るべきアンシャン・レジームがない。ある人たちは「徳川の平和」をいう。徳川末期や明治初期に来日した欧米人の多くが、自分たちの祖国の状況と比べながら、当時の日本社会の長所をあげつらった。だがそれは日本人が帰るべきレジームでもないしまた帰れるレジームでもない。まして、明治憲法下の大日本帝国に戻れるはずもない。

 

このホランド訳をもとに『博物誌』の解説・入門書(邦訳『古代へのいざない・プリニウスの博物誌』)を上梓したヘルベルト・ニュートン・ウェザーレッドが、その著の序文に引いた2人の人物の一節と、それへのウェザーレッドのコメントを紹介しておく。 

「ヒライアー・ベロック(1870-1953、フランス生まれのイギリスの作家)は、尊敬すべきヨーロッパの土を踏むとき、足の下に二千年の堅固さを感じない人は、半人前の人でしかない、と言っている」「そしてヒューマニズムの視点からだけでも、かつてウォルーター・ペイター(1839-949、イギリスの批評家・作家・人文主義者)が指摘したような主張がある。それは『生きることによって夢を楽しんだこともなく、語るべき言葉も発言を封じられた神託を持ったこともなく、積極的な人間精神によって夢を楽しんだこともなく、何ものにも情熱を持ったことがなく、時間や熱意を浪費したことのない、全体として言えば生命力を失ったような、そのような男や女はけっしていないのだ』、この立派で完璧な主張はわれわれに、古代についての、汲めども尽きない感興を呼び起こしてくれる」

 ミッテラン大統領が作らせた図書館というのはどんな図書館だったのだろう。私たちも、過去の日本にそのような堅固な足元があったらと願わないではおれないのだが・・・。

 


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