一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『桃太郎』と日本の植民地支配

2005-06-25 00:11:16 | Opinion
大航海時代以後の植民地は、資源(貴金属を初めとした鉱物資源、および奴隷としての人的資源)の収奪の対象でしかありませんでした。――南米からヨーロッパへの銀の流出は、16世紀末までに2万トンという莫大な量で、これによってヨーロッパに「価格革命」と呼ばれる物価上昇をもたらす。また、貿易活動の中心もバルト海や地中海から大西洋に移り、リスボン・アントワープ・アムステルダムなどの都市が栄えるようになった。

しかし、帝国主義時代に入って植民地は、コスト・パフォーマンスの観点から、いくつかのグレードに分けられるようになったのです。
それは、あたかも他の会社を乗っ取る上で、完全に吸収して自社の1セクションとするか、子会社化するか、圧倒的多数の株を所有する株主として資本参加するか、を決定するようなもの。もはや、利潤のさして上がらない地域を武力をもって完全支配化する、などというのは流行らなくなっていました(「植民地経営」というタームを想起されたい。一時的な軍事力による意思の強制は有効でも、半永久的な軍事的支配などというのは、コスト・パフォーマンスが非常に悪い)。

幕末においても、日本人の大多数は、その辺りの事情を理解していなかったので、安土桃山時代(ヨーロッパでいえば大航海時代)の感覚。外国との通商を開始すれば、国土は奪われ、人々は「夷狄」に隷属させられると信じきっていた(彼らは知らなかったが、インカ帝国はそのような目に遭った)。その上、ペリーによる一種の「砲艦外交」が誤解を拡大させた(対抗するための「尊王攘夷」というスローガン。そして対抗軍事力整備)。

明治になって、今度は日本人がアジアへ進出するに当たり、「被害者」から一転「加害者」となっても、その感覚にさほどの変化は見られない。

いい例が『桃太郎』です(明治以降に書き直されたヴァージョン)。

桃太郎は、鬼が島を「征伐」に出かけ、鬼たち(現地住民)との戦いの末、しこたま「お宝」を持って帰る。「お宝」すなわち「貴金属を初めとした鉱物資源」であり、そこには植民地経営などという観点はありません。

日清戦争や日露戦争が自国防衛戦争だと、現代のリヴィジョナリストたちがいくら言っても、当時の日本の外国観・植民地観を考えれば、いくらおまけしたところで被害妄想に基づく過剰防衛としか考えられません。

また、他の列国も植民地支配をしていたのだから、日本だけが責められるいわれはない、とも彼らは言いますが、それは日本の植民地観がグローバル・スタンダードとはかなり異なるものだったという事実を捨象しての物言いでしょう
(日本の朝鮮支配が善政だったという例として、鉄道網の整備や教育の近代化を挙げる人がいるが、これも植民地経営ということを考えれば当たり前のこと。インフラストラクチャーの整備への単なる投資を、「善政」というには当たらない)。

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