一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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山崎正和における「保守性」

2006-10-26 02:51:49 | Opinion
10月25日付け「朝日新聞」朝刊「保守とはなにか」欄に、山崎正和がインタヴューに応えた記事が掲載されている。
「近代社会には〈政治的な保守〉というものは存在しないし、存在しえない。」
との言説についての小生の意見は、しばらく保留することにする(それにしても、現状を変えようとする場合に採る態度によって、良し悪しは別にして〈政治的保守性〉というものは立ち現れてくるのではないのか)。

しかし、後段の「文化的な保守」に関しては、ちょっと考察するに値する意見が載っているので、ここで紹介する。
「靖国は明治政府が、近代政府の生み出す負の面である〈国家のための戦死者〉を慰めるためにつくった。政治的イデオロギーの産物であって、信仰ではない。現に、靖国には日本人が文化として愛する人々がまつられていない。西郷隆盛、白虎隊。いずれも〈賊軍〉とされたからだ。
(中略)
靖国参拝を支持する〈保守派〉の一部は、『第2次世界大戦は日本にとって正しい戦争だった』と気勢をあげているが、先ほども言った通り、第2次世界大戦が正義の戦争だなどと言う主張は、きわめて革新的な意見だ。」
「政治的イデオロギーの産物であって、信仰ではない」という点には異論がある。
むしろ「政治的イデオロギーの産物でもあり、天皇信仰でもある」というのが妥当な認識ではないだろうか。この辺りは、政治と文化とを分けるという山崎の認識が妥当かどうかにも関わってくる。
また〈賊軍〉が祀られていないのは、「天皇にまつろわぬ者を排除する」という文化=信仰の問題でもあるのではないのか。

より面白いのが、
「いわゆるナショナリズムは、すべて革新の主張だ。歴史を見ても、慣習に従った長老支配が続く集団でナショナリズムを叫んだのは、旧体制を否定する青年たちだった。(愛国心を養おうとする政策は)保守化(的?)ではない。
また、伝統的には愛国心などというものはなく、みな〈うちのムラ〉が好きだっただけだ。後者は文化であり、保守にもなじむ。だが、『この国はこういうものだ』と名を付け、理念的な使命感を与えて『こっちに進むことが愛国心だ』と言ったら、これはまさに進歩主義だ。しかも少し、きな臭い。」
との意見。

前段は、やはり政治と文化とを分けて考えようとする山崎の思考法に、若干の問題なしとはしない。
それに対して、後段は、ほぼ妥当だろう。

近代化=進歩化こそ、ムラ=共同体を破壊した元凶だからだ。ムラ共同体を壊さない限り、近代国家(ナショナル・ステイト)は成立しなかったから。
したがって、「我が国と郷土を愛する」という表現は、そもそも成立不可能なのである。

古くは足尾鉱毒事件で谷中村が廃村となった事実から、今日の地方都市中心部商店街の衰退(「シャッター通り現象」)、高速道路建設や米軍基地建設による環境破壊、等々という事実にいたるまで、「郷土」を破壊しているのは「近代国家」なのでないか。

単純に「郷土」を愛することが、「国家」を愛することである、と考えている輩は「幸い」なり。

また、文化的にも「保守派」と考えられている山崎(本人も「文化の面では、どちらかと言えば保守的な人間」と認めている)が、次のような発言をしているのは、興味深い。
「(教育基本法の改訂論議で)伝統の継承もうたわれているが、空疎な言葉だ。今の日本人にとって伝統とは何か。三味線よりベートーベンに親しみを抱くのが実態だろう。『古いものにも価値がある』という意味で伝統一般を愛するのはいいが、日本列島という地域で生まれた伝統に限って尊重しようというならば、それは愚かな発想だ。」

山崎の意見には若干の「ねじれ」があり、真意が取りずらい気味があるもののの(彼とよく対談する丸谷才一の分りやすさと対照的)、今までの山崎の言動を知らない輩には、これらの発言はどのように思われるのだろうか。

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