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磯部浅一(いそべ・あさいち、1905 - 37 )。
「『近代』天皇はその機関でしかない」という部分に異論はあるが、基本的に、松本の指摘するように「近代」天皇には、「天皇個人」と「天皇体制」との2面があったことは間違いがない。
「磯部(浅一)は、天皇個人と天皇体制とを混同して考えている。古代天皇の個人的な幻想のみがあって、天皇絶対の神権は政治体制にひきつがれ、『近代』天皇はその機関でしかないことが分らない。天皇の存在は、鞏固なピラミッド型の権力体制に支えられ、利用されているからで、体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部らは知らない。『朕は汝を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ其親(したしみ)は特(こと)に深かるべき』という軍人勅諭の〈天皇←→軍人〉という直結的な図式は、軍人に天皇を個人的神権者に錯覚させる。」(松本清張『昭和史発掘9』「二・二六事件 五」)
つまりは、前回の拙稿「『愛国者は信用できるか』 その4」で触れた、「存在(ザイン)としての天皇」と「理念(ゾルレン)としての天皇」である。
「存在(ザイン)としての天皇」が、自分たちの都合のいいような「姿」「あり方」をしていれば、何も問題は起こらない。
というより、むしろ、「存在(ザイン)としての天皇」を「理念(ゾルレン)としての天皇」に近づけるべく努力した、元田永孚のような「天皇親政論者」もいたし、一般国民には、そのような「姿」「あり方」をしているものとして押し通した。
ところが、両者が矛盾した場合には、深刻な懐疑が発生する。
その懐疑が天皇制のあり方に対する、深い考察に結びつけばいいのだが、多くは、「存在(ザイン)としての天皇」を否定して、心理的安定を図る方向に向かう。
前回触れた、磯部浅一(二・二六事件での中心人物の1人。「陸軍士官学校事件」がらみで免官され、事件当時は軍籍にはなかった)の、
「天皇陛下 何と云う御失政でありますか 何と云うザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」ということばにもつながる心理である。
同じ構造が、昭和天皇の「A級戦犯靖国合祀不快発言」問題をめぐっても見られるのは、いまだに「天皇制」を理論的/心理的に克服していない証拠なのか。
「存在(ザイン)としての天皇」と「理念(ゾルレン)としての天皇」を「簡単に分けられない」と言ってしまうのが鈴木邦男氏の「論」としての甘さだと思うのですが、
一方で、その問題自体に無自覚な人が現代にもたくさんいるということをハッキリ示してくれたのが、今回の「A級戦犯合祀不快発言」だったのかな、と、思っています。
私は「天皇制」の価値がどうしてもわからない人間なのですが(理屈としていくら学んでも、心情的に「どうでもいいじゃん」と思ってしまう)
「存在(ザイン)としての天皇」には、普通に幸せになっていただきたいなぁ。
>私は「天皇制」の価値がどうしてもわからない人間なのですが
と、おっしゃるのも、
この問題、宗教に似ているんじゃあないでしょうか。
どうしても、外から見ると、
特定の宗教の「価値」は
分らない。
今度は信者になると「価値」は分っても、
その客観的意味は分らない。
そこからが、小生はgegengaさんと
違って、しつこいところ(笑)。
>心情的に「どうでもいいじゃん」と思って
しまえないんですねえ。
何か隔靴掻痒なところがあるのが、
どうしてもイヤなのね。
靴を破いても
痒いところを掻いてしまう。
ということで、
今しばらく、「靴を破く」ようなことを
していきたいと思っています。
他の人にはどうでもいいことかもしれないけれど、
どうしても、日本の近代の見直しというのを
やってみたいものですから。
では、また。