一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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道徳教育と倫理

2007-04-06 09:26:54 | Opinion
教育基本法の改悪に引き続き、道徳教育を「正式な教科」と位置づけようとする動きが出てきています。教育再生会議第一分科会の合意です(詳しくはこちらで)。

どうやら、社会の混乱を招いているのは、すべて道徳の軽視が原因であり、道徳教育がきちんと行なわれていないせいだと思っている人がいるみたい。

確かに、社会の変化が激しい場合、ルールづくりが間に合わないという面があるでしょう。ルールの確立までの間、個々の「倫理」に任せなければならないのでしょう。

しかし、その「倫理」は、「~べし」「~べからず」という徳目教育で形成されるものなのかしら。
「資本主義そのものがルールのグレーゾーンを開拓するよう、動機づけているのだ。堀江社長が連発した〈想定内〉という言葉は、資本主義の本質にかかわっている。他の人々が〈想定外〉に置く事柄をいち早く〈想定内〉にしてしまった人が、儲かるシステムだからだ。そしてルールが改定されるまでの期間、何をして良いのかは当事者の倫理に任せるしかない。『牛の飼料に肉骨粉を混ぜる』と牛乳が増量されるというが、BSE(牛海綿状脳症)の原因となることが判明する以前でも、それを〈不気味〉と感じるセンスがここで言う倫理である。(松原隆一郎「犠牲容認する利益社会―〈純粋な資本主義〉の先に」)
との意見に、小生、頷ける部分が多い。
というのは、個々の倫理感覚(引用で言う「〈不気味〉と感じるセンス」)に基づいて、自らの行動を律するのが「行動倫理」だと思っていますから(かつて「〈恥の感覚〉雑考」「倫理観と〈美/醜〉感覚」で多少取り扱った)。

このセンスをつくる過程は、およそ「教育」なるものとは相反するのかもしれません。
というのは、センスは人間が育っていく/生きていく中で、体感され育まれていくもので、誰かから与えられるものではないのですから(ましてや、公権力の恣意によって選ばれた価値観などを押し付けられることではない)。

そう考えると、「道徳教育」自体、余計なお世話ということになりますし、また、個人の「思想・信条」に公権力が手を突っ込むことは、批判されるべきでありましょう。

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