一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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私の「正戦論」

2007-05-12 08:03:20 | Opinion
「正しい戦争」というものがあるのか、ないのかを問う前に、自分の覚悟を決めておいた方がいいでしょう。

というのは、小生の場合、次のようなことを基本的なルールにしておきたいからです。
 1.自分は死にたくない。
 2.人を殺したくはない。
このルールに著しく背反するのが、「戦争」なんですね。
というのは、「自分が死にたくなければ、他人を殺せ」という行動を権力が強制的に採らせる状況が「戦争」だと思っていますから(イデオロギーによって、それを採らせるのも「自発的」ではなく「強制的」でしょう)。

ここで、ルール1.に関しては、 jabberwockさんが上手く表現してくれています。
「『あなた』が生命を失うことによって、それによって何が守られようと、それがたとえ地球だろうと、そこに『あなたの生命』に釣り合うほどの価値はないからだ。」(「HERIKUTSUなる日々(by jabberwock)」2007年5月6日「37年目のサークルゲーム 」

もう、「正戦論」を打ち破るものとしては、凛々しい覚悟を含んだ、この表現に尽きていると言ってもいいくらいなのですが、多少の贅言を付け加えます。

ここでは、井筒和幸監督の特攻隊についてのことばを、御紹介しておきたい。
「あの人たちが死んでくれたおかげで平和があります? 失礼な話ですよね。あれは俺、許せないと思う。失礼でしょ。英霊に対してね。無理に死んでいったんだから。誰が考えたってわかりますよ。生きていていただいたら、どれほど(の?)提言を社会にしてくれたか。もっと理知的な知の日本になったと思いますよ」(井筒和幸、「PLAYBOY日本版」6月号)
毎年、夏になると、戦死者に対して、「あなたたちの尊い犠牲の元に、現在の平和がある」という言説がなされます。
しかし、そんな非論理的な理屈もありません。
まず、戦争犠牲者は、現在の平和のために死んだわけではない。当時の「自分が死にたくなければ、他人を殺せ」という状況にあって、不条理な死を遂げたわけです(不条理を乗り越えるためにつけた理屈としての、彼らの主観はともかくとして)。

サラリーマンとして、技師として、魚屋として、農民として、工場労働者として、それなりの日常生活が続き、そこでの充実感と成果があったはずなのに、それが断ち切られてしまった。その悔しさを受けとらなければ、意味がないでしょう。
つまりは、我々の想像力を、
「生きていていただいたら、どれほど(の?)提言を社会にしてくれたか」
という方向に持っていく方が、論理的だということになりますし、
「あなたたちの尊い犠牲の元に、現在の平和がある」
と声高に言うことは、慰霊にもならないということでありましょう。

次の段階としては、「自衛のための戦争」について考えなければならないのですが、それはまたの機会といたします。

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