一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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実感ある倫理は個人のもの

2007-04-07 05:03:02 | Opinion
「~すると気持がいい」「~すると気分が良くない」ということが誰にでもあると思います。

極端な例では、やはり人を殺す/人が殺されるのを目撃することは、とてつもなく「気分が悪い」ことのようです(それをたび重ねることによって、無感覚に近くしていくのが、兵士への教育のようです。しかし、それにも無理があって、戦場から帰ってきた兵士には PTSD:心的外傷後ストレス障害が残ったりする)。――この辺りに「汝、殺すべからず」という倫理の根があるんじゃないかな。

もっとも細かいことになると、人によってこの感覚は違っているようで、「朝、太陽に手を合わせる」ことを「気分がいい」と感じる人もいれば、「机の上の文房具類をいつもと同じ場所に置いておく」ことを「気分がいい」と感じる人もいる。
それは、「思想・信条」というよりは、その基礎になる「倫理(?)感覚」と言ってもいいのかもしれません。
いずれにしても、「思想・信条」とても、このような体感・感覚の裏づけがないと、借物となってしまい、比較的容易に変節していきやすいのではないでしょうか(昭和戦前期の「転向」問題を想起)。

これ、だけど行動主義心理学でいう「オペラント条件づけ」*とは違っているのね。
むしろ、「オペラント条件づけ」に近いのは、「~すべし」「~すべからず」という徳目を、そのつど「賞賛」(強化刺激)や「罰」(嫌悪刺激)を与えることによって教え込もうという「道徳教育」の立場じゃないかしら。
*「オペラント条件づけ」:「その行動が生じた直後の環境の変化(刺激の出現もしくは消失)に応じて、その後にその行動が生じる頻度が変化する行動」。

前回述べたように、「倫理感覚」を形づくる過程は、個別的であり、かつ一回的なものでもあります(各人の人生が個別的かつ一回的であるように)。
ことばを換えれば「実存的」と言ってもいいかもしれないね。
それを公権力がとやかくしようというのは、傲慢でもあり、とてつもない誤りでもある。

教育勅語の復活を懸念するが故ではなく、今日的な「倫理」の問題として、教育再生会議第一分科会の合意に反対する由縁であります。

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