ただの偶然なのですか

私のお気に入りと日々の感想  

「We are SMAP !」コンサートの感想

2010年08月03日 | お気に入り
おととい、SMAPに会いに行ってきた。
いや、正確には「会った」とは言えないかもしれない。私はただ、そこにいた数万人のファンの内の一人にすぎなかった。
ドームの客席からは遠くの人の顔は見えないけれど、数万個のペンライトの灯りに満たされたその空間で、確かに私達は「We are SMAP」だった。
みんなの波動がひとつになったのを感じた。
コンサートのテーマが「地球」だったこともあって、宇宙や生命とのつながりに共鳴しながら、自分が今ここに存在していることの不思議さを感じていた。
SMAPとしてそこにいる草くんは光輝いていて楽しそうだった。
いろんなことがあったけれど、「最近、幸せ」だと草くんが言っていたので、ほんとうによかったと思った。
『ありがとう』を歌う草くんの姿を見ていたら涙があふれてしまった。
「小さな幸せでいい 僕らにずっと続きますように」と私は祈っていた。


映画「月に囚われた男」の感想

2010年06月04日 | 映画
もし一番行ってみたい場所はどこかと聞かれたら、私は「月」と答えたい。
独りで月面に立って、孤独と静寂のなかで暗闇に浮かぶ地球を眺めてみたい。

そんな私の願望を叶えてくれたかのようなこの作品。
主人公は、月でたった一人でエネルギー資源を採掘する仕事を任されています。
地球とのリアルタイムでの交信もできず、唯一の話し相手のロボットでさえ人間の形を模倣したものではなく、ロボットの画面に映し出されるその表情は絵文字みたいな簡単なイラストです。
そして、主人公は基地内で観葉植物を育てたり、故郷の街の模型を作ったりして孤独を紛らわせています。
このように他の生き物や街の営みから完全に隔絶された場所こそが、原題の「MOON」が示すとおりこの作品のテーマの象徴であり、主人公の身に起こった事態は地球上でも起こりえる設定ですが、やはりその舞台は月である必要があったのです。
これはSF映画というより、あえて言うなら哲学映画と呼びたい作品です。
意外な真実が明らかになっていく過程やクライマックスでも、BGMや過剰な演出はなくて、あくまでも静寂のなかで、静かに真っ直ぐに本質を見つめていく姿勢に作り手の潔さを感じました。
そして次々と問いかけられる本質的なテーマにより、最初から最後まで見事に緊張感が続いていきます。

絶対的な孤独と静寂のなかで、「個」とは何か「記憶」とは何かということを見つめていく。
とてもいい映画だと思いました。




映画「第9地区」の感想

2010年04月19日 | 映画
なんとも不思議な光景です。頭上の空に停止したまま浮かんでいる巨大な宇宙船。
高度な科学技術の象徴である宇宙船を見るとワクワクしますが、その真下の地上には汚いスラム街が広がっているのです。
そのスラム街にはエビが巨大化したような大量の宇宙人が難民として隔離されていて、このエビ星人達はスラム街でゴミをあさって暮らしていたりして、見た目も醜悪です。
そして、その状態が20年以上も続いているのです。

そんなスラム街を一掃するため、エビ星人達を別のキャンプ地に移住させる役目を負わされた主人公。
そしてこの主人公は、SF映画の主人公には似つかわしくないほど普通の凡人です。
しかし彼が凡人だからこそ、奇想天外な設定であるにもかかわらず、この映画にはリアリティがあって、主人公がまるで自分であるかのように感じることができました。
彼は私と同じように、汚くて粗暴なエビ星人を嫌悪し、エビ星人の卵や幼虫(?)を焼き払ったりもします。

しかしエビ星人達にしてみれば、宇宙船が難破したうえに隔離されて劣悪な環境に置かれたのは災難なことですし、街がスラム化したのは彼らの責任ばかりではありません。
しかし、相手の立場になって想像することは難しいことです。
そんなに想像力がないならと、不本意ながら身をもって相手の立場を思い知らされていくことになる主人公の姿に、監督の骨太の批判精神が感じられました。

この作品はSF映画のようでありながら、実はかなり風刺の効いた社会派ドラマです。
醜い宇宙人達の姿よりも強烈なのが、人間達の非人道的で暴力的な欲望です。
もちろんSF映画らしい高度な科学技術を使った武器や乗り物での戦闘シーンもあってテンションは上がりますが、その戦闘シーンが繰り広げられる場所は埃が舞い上がりそうな土の上です。
宇宙船が泊まっているのは大都会ではなくて汚いスラム街。その光景のギャップが何かを象徴しているようで、使われている音楽も土の匂いが感じられる民族音楽のような曲で、とにかくドラマにリアリティがありました。

それにしても、人間はどうしてここまで相手の立場になって考えることができない生き物なのでしょう。
私たちの身代わりになって相手の立場を教えてくれた主人公は可哀想ですが、主人公が追い詰められていくうちに、たまっていた怒りが爆発したように反撃するシーンにはテンションが上がりました。

そしてラストショットでは、エビ星人が可愛く見えてしまいました。













母と娘

2010年04月08日 | いろんなこと
「母ったら、四十過ぎた私を今でも支配しようとするのよ」と友人がぼやいた。
私の母も、そうだった。すべてのことに干渉してきて、母の思い通りの行動を私にさせようとした。
でも、私は母が嫌いではなかった。面倒なことはすべて母が決めてくれたし、結婚するまで自分の下着の洗濯まで母にやってもらっていた。
学生時代は親元を離れて生活していたこともあったが、いつも親の視線を感じている気がして、親の許可が得られないようなことはしてはいけないと思っていた。
そして私は母の友人が紹介してくれた相手とお見合いをして結婚した。
結婚してからも、母は私の一番の相談相手だった。母は、たまに私の家に遊びに来ると家具の配置まで変えたりした。
大人になってからも精神的に母に依存していた私は、母が亡くなったとき「これから私は生きていけるのだろうか」と思ったほどだ。
それと同時に私を監視する人は誰もいなくなった。私は自分のやりたいようにやっていいんだ。
母が亡くなってから12年。私は、ちゃんと生きてきた。自分一人で何かを決めるのは苦しいこともあるけれど、それが大人になるということだ。
今は母にもう一度会いたいとは思わないし、母との優しい思い出もあったはずなのに思い出せない。

でも最近、母のことをよく考えるようになった。それは私が高校生の娘との関係に悩んでいるからだ。
その昔、ある人が「娘は私の作品です」とおっしゃったと聞いたことがあるが、私にはこの心理がまったく理解できない。もしそうなら、私の育て方が悪かったということか。
私も母と同じように、娘にガミガミ言ってばかりで干渉し過ぎている。
私がそうだったように、娘は私のことを口うるさいけど面倒なことはすべてやってくれる都合のいい家政婦くらいにしか思っていないだろう。
自分が育てられたようにしか育てられないものだ。恐ろしい。
人が人を育てるのは、この世で最も重要で難しい仕事だと思う。それは自分の子どもがいなくても同じだと思う。どんな立場でも、大人は後輩を育てなければならない。
娘は私とは正反対の性格なので、親の思い通りになるような子じゃない。
今の孫娘の様子を見たら、「しっかりしなさい」と母は私のことを怒るだろう。
「でも、今の時代は携帯電話っていう秘密兵器があるし、貞節なんて言葉は死語なのよ」と母に言いたい。
この年になって春の嵐に巻き込まれるなんて、人生でやり残した課題を突きつけられている気分だ。
そして私は恋愛をしたことが無いので自分の経験が役に立たない。

先月、母の十三回忌の法要をした。母の遺影は私の結婚式のときに撮った写真だ。
その写真の感慨と安堵と寂しさが入り交じったような少し誇らしげな笑顔を見ると、娘の結婚式は母親にとって卒業式みたいなものかもしれないと思う。
私にもそんな日が来るのだろうか。

母が亡くなる前に最後に私に言った言葉は「元気でね」だった。
そうだ、元気でいよう。いつでも、どんなときでも。



映画「ハート・ロッカー」の感想

2010年03月10日 | 映画
爆発物処理の現場にあるのは隣り合わせの生と死。すべては一瞬で分けられ、一瞬で片が付きます。
映画の舞台は戦場ではありますが、お互いの主義や主張や戦闘相手の心情などは描かれていないので、なぜ爆弾が爆発しなければならないのか、その理由も背景もわかりません。そして映画を観ている私は安全な場所にいるのです。
極限の状況の中では人間は、闘争本能に火がつくタイプと、恐怖心に囚われてしまうタイプがあるようです。私は後者のほうなので、この映画の主人公の生きている感覚が理解できませんでした。
それは正義感や使命感などではなく、勇気とも違う、「死」と隣り合わせの刹那的な感覚によってのみ実感できる「生」なのでしょうか。
この映画を観て感動する人はいないとおもいますが、興奮する人はいるかもしれません。
でも私には、わからないです。私には考えないでいるなんて出来ないので、不安と闘いながら生きていくしかなさそうです。



ビューティフルワールド

2010年03月04日 | いろんなこと
子どもの頃は卒業式で泣いたことなんてなかった。冷めた目で周りを見ながら、自分は感受性にどこか問題があるんじゃないかと思ったほどだ。
それが大人になった今では、我が子が卒業するわけでもないのに、卒業ソングを聴いただけで涙があふれてしまう。
卒業ソングの歌詞に描かれている世界観。希望を持って未来を信じ、友達を信じ、この世界を信じ、なによりも人間を信じている。
特別支援学級の子ども達を前にして、校長先生の「この子たちは大丈夫です」という根拠のない断言にさえ涙が出てしまう。
声を合わせて歌う子ども達の無邪気な笑顔を見ていると「この子たちに幸あれ」と祈らずにはいられない。
卒業ソングに描かれている理想の世界は確かにここにあるはずだ。誰もがそう願っているからこそ歌はあるのだとおもう。

見えない金メダル

2010年02月26日 | 日記
今日は、みんなで集まってオリンピックの放送を観た。


他人とコミュニケーションをとるのが苦手で同級生から苛められている我が子が可哀想だと泣いていたお母さん。

窓ガラスを破って何度も家から脱走して車道に飛び出し警察に捜索を依頼した我が子を施設に預けたお母さんも「子どもを離したくて手放したわけじゃない」と泣いていた。

子どもがウンチを食べるようになり、うつ病になってしまったお母さんは今日は来られなかった。


オリンピック選手のように賞賛されることもなく、スポーツ選手のように自ら選んだ道ではないけれど、人知れず困難な道を歩いている人たち。
そんな人たちにこそ私はエールを送りたい。




ダークマターって何だ?

2010年02月23日 | いろんなこと
ちょっと古い記事ですが、1月17日の読売新聞のサイエンス欄に暗黒物質(ダークマター)についての記事が載っていて、それによると、この暗黒物質は宇宙全体の質量の23パーセントを占めているのに、その正体が不明で見えない物質だそうです。
私たちの体などを作っている原子などの物質は宇宙全体の質量の4パーセントにすぎないと知って驚いてしまいました。
それで、その見えない物質を検出するためのプロジェクトが始まっているようです。
いつも漠然と疑問に感じていることなのですが、人間は五感で感じることができない世界を知ることができるのでしょうか。
この世界は人間の感覚器官によって受け取られた情報によって脳内に作られた世界であって、そもそも感覚器官がなければ光も音も臭いも存在せず、この宇宙も人間の脳内にしか存在しない世界のような気がしているんです。
もしかしたら自分のすぐ近くに感じることはできないけれど別次元の世界が存在しているかもしれないような気がします。
暗黒物質が見えないのは他の粒子とほとんど衝突したり反応したりしないからだそうですが、単独ではその存在が証明できないという点においても、やはり何かが存在するためには、それを受け取る存在が必要だということでしょうか。
自分を知るには他者との関わりが必要なことも、なんだかこれに通じるように思えます。
そして、それ以上に驚いたのが、残りの73パーセントを占めているのが正体不明の暗黒エネルギーとされていることです。
暗黒エネルギーってなんですか?神様の意思エネルギーですか?(妄想しすぎ?)
そもそも何で「暗黒」なんですか?イメージ暗いです。どうせならレインボーパワーとか呼んでください。73パーセントなんですから…。
なんだか自分でも何を言っているのかわからなくなってきたので、このへんでやめておきます。
物理学の専門家の方は「何言ってるんだ、このおばさん」とお思いでしょうが、スルーしてください。




彼に振り回されるのはもうこりごりだけど

2010年02月16日 | 音楽
突然一方的に別れを告げてファンクラブの会費を返してきた彼。
その彼が、また突然帰ってきました。ラジオで「ぼくに人生を預けてください」なんて言ってたけど、信じていいんですよね?
でも私は今回のCDは買いません。そこまで都合のいい女にはなりたくないので。
でもアルバムを製作中のようなので、それは買うつもりです。コンサートにも行きたいです。でも『蒼いバラ』を買わないと先行予約の案内が手に入らないんですね…。まあいいや、遠い席でも…。玉置さんのことは男性として好きなわけじゃないので。
2002年に安全地帯を再結成したときに出したアルバムは、暗い精神状態からの再起を目指しているような曲も何曲か入っていましたが、今回の再々結成では原点回帰をコンセプトにしているのでしょうか。全国ツアーに向けてリクエストを募集しているので、安全地帯の往年のファンにはたまらない懐かしい曲が聴けそうです。
でも、私は玉置さんがソロになってからの曲のほうが好きなんですよね。今でも週に一度は玉置さんのアルバムを聴いていますし、もはや私にとって玉置さんの音楽は人生の一部です。
「もう恋の予感はない」なんてテレビで言っていましたが、『蒼いバラ』はバリバリ恋の歌ですよね。
やっぱり玉置さんには歌しかないと思いますし、恋にしか生きられない人のような気がします。
これからも恋に生きて、いい曲をたくさん作ってくださいね。


食品売り場が嫌いな主婦

2010年02月09日 | いろんなこと
スーパーの食品売り場が嫌いなんです。
その一番の理由は、私は料理をするのが嫌いだからです。毎日ちゃんと料理をしていますし、栄養士の資格を持っているので栄養のバランスには自信がありますが、作る料理はシンプルなものが多いです。そもそも食べることにあまり興味がないので、創作意欲が出ません。グルメ番組を見せられても、食べてみたいと思わないんです。
でも毎日、私はスーパーに行きます。食料品の確保は生命維持の根幹です。
命がけで狩をしたり自分の手で田畑を耕したりしなくても食べ物が手に入るなんて、自分の働き以上の楽な生活をしているような気がします。もし物流がストップしたら…なんて考えただけで恐ろしいです。
スーパーには色々な食品がたくさんあって、来ているお客さんも様々です。そこから、様々な人達の嗜好や生活の様子が感じられて、その営みのパワーには圧倒されそうになります。スーパーに行くたびにエネルギーを消耗させられたように感じてしまいます。
エンドレスで流れてくる販売促進のための変な曲が耳についてイライラさせられます。
分量と金額を比較してどちらの商品がお買い得かとか、あとどのくらい買えば割引クーポンがもらえそうだとか、そんなことに頭を使うのも嫌なんです。レジでお金を払うときにも流れに乗れなくて焦ってしまいます。
10台のレジがフル稼働で行列を飲み込んでいく様子を眺めていると、こんなに大勢の人間がこんなに大量に消費して、飲み食いして、排泄しているのかと思うと、いつか下水が溢れ出すんじゃないかと不安になってきます。
でも夜になって、マンション群の窓に灯る明かりを眺めていると、みんな頑張って生きているんだろうな…って愛おしく思えたりもするんです。