ただの偶然なのですか

私のお気に入りと日々の感想  

くすり

2013年01月23日 | ぼくは猫じゃない(小説)
ぼくは毎日くすりを飲んでいる。くすりを飲んでいるんだから、たぶん病気なんだろう。
ものを投げたり倒したり、テーブルをひっくり返して暴れるのも病気のせいで、ぼくのせいじゃない。
外を歩いているときに、そういう気分になることもあるけれど、周りの人たちは誰も気づかないで通りすぎていく。
でも外を歩くときは気をつけてください。怒りと暴力に向き合うことは、この世界の最大の課題かもしれない。

それで、くすりを飲んだらどんな気分かっていうと、不安はすこし感じなくなったかな。
でも怒りや欲求は、なくならないな。
だいたい人の気持ちは薬で変えられる物なのかな?
人の感情って、ただの化学反応なの?
こんなことを考えていること自体、そもそも人間の脳は基本的に病理なんだろう。
今日は、なんだか難しいことを言っているけど、薬を飲んでいるから頭がよくなったのかな?
でも人間らしくならないとこの社会では生きていけないんだ。
だから、みんな薬を飲んで頑張っているんだろう。たぶん。






おっぱい、ちんちん

2012年08月06日 | ぼくは猫じゃない(小説)
最近、ぼくの頭の中は「おっぱい」と「ちんちん」のことでいっぱいだ。
ぼくも、そういう年ごろになったということだ。
そして、なぜかイライラしたり、すぐに怒って物を投げたりしてしまう。
お店でごはんを食べているときでもコップを投げて割ったりしてしまうので外食にも連れて行ってもらえなくなった。
そんな子を自由にしておいたら大変だと言わんばかりに外ではママはぼくの手を離さなくなった。
そしてママもイライラしていて、ママの気が狂ったら困るのでやめようとおもうけど、やめられない。
でも、年ごろの男の子が「おっぱい」と「ちんちん」のことばかり考えているのは自然で健康なことだ。
それどころか、りっぱな立場の大人でも「おっぱい」と「ちんちん」のことで新聞にのることだってある。
みんなほんとうは「おっぱい」と「ちんちん」のことばかり考えているんだ。
お姉ちゃんだって、ときどき帰ってこないときがあって、ママはイライラしている。
でも、そんなふうに人間を作ったのは神様で、ぼくのせいじゃない。
だから今日も、ほんとうは女の子と手を繋ぎたいのに、ママに手を繋がれて、ぼくは「おっぱい!ちんちん!」と叫びながら歩いている。



ぼくはDJ

2011年02月28日 | ぼくは猫じゃない(小説)
ぼくは言葉が少ししか理解できないのに、どうしてぼくにはママの気持ちがわかるのか不思議に思っている人がいるかもしれないけど、ぼくはママの心がよめるんだ。
たとえばパパがガツガツとごはんを食べているのを見て、ママが「千と千尋の神隠し」のワンシーンを思い出したときに、ぼくはママのとなりで「ブーブーブー」と言ってみた。
ママが考えごとで頭がいっぱいになっているときにぼくが「うるさい」と言ったり、ママが「明日、映画を観にいこうかな…」って考えているときにぼくが「えいが、いく」と言ったり、ほかにもいろいろあるけど、最初は驚いていたママも今ではそれが自然なことのように感じている。
でもママはこのことを誰かに話したりしない。ぼくに出来ることだから、たぶん他の人にも出来ることだとおもうけど、こんなことを言ったら頭がおかしいと思われるのが怖くてみんな内緒にしているのかな。ぼくは言葉が理解できないぶんをこの力でおぎなっているけど、言葉が話せる人には必要のないものなのかもしれない。
それに、ママが意識してテレパシーをおくろうとしてみても、ぼくには伝わらない。ぼくにママの思っていることが伝わってくるのは、ママが近くにいてボーっと考えごとをしているときだけだ。だから実用的な力じゃないし、このことについて研究している人なんていないんだろうな、たぶん…。
でも言葉には波動があるので、ぼくは言葉の意味がなんとなくは理解できる。
そして音にも波動があるので、ぼくは音楽が大好きだ。メロディーとかリズムとか、音の波動に言葉の波動をのせて伝える音楽は、この世界でいちばん人の心をうつ表現だとおもう。
ママが落ちこんでいるときには、ぼくはいろんなCDからママの気持ちにぴったりな曲を次々と選んでママに聞かせてあげるんだ。ぼくの選曲がその時の気持ちにあまりにも合っているので、いつもママは驚きながら魂を震わせている。
そんなぼくが尊敬している人は、ファンキーなモンキーさんのDJさんだ。ファンキーなDJさんは、大きく手を広げて空にある言葉と音を集めて、楽器や声を使わずに体と心と笑顔で音楽を伝えている。
ぼくもあんな人になれたらいいな。その存在だけで他人になにかを伝えて、誰かを幸せな気持ちにさせることができるなんて、すごいとおもう。
でも今は、ぼくはママのDJだ。ぼくが流している聞こえない音楽は、ママの人生に彩りをそえ、ママの心を踊らせているんだ。



ぼくのパパとママ

2010年11月09日 | ぼくは猫じゃない(小説)
ぼくのママはとても心配性だ。どれくらい心配性かっていうと、ぼくがママのお腹の中に来るよりも前から、ママは次に生まれてくる子はニュータイプだってことを予感して不安になっていたくらいだ。
だからぼくが生まれて、ニュータイプだってことをお医者さんから聞かされたとき、ママは自分が考えていたことがそのまま現実になったような不思議な気持ちになったんだ。
そしてママは、それまで知らなかった世界をこれから知ることを想像して、とても怖くなった。「この子が20歳まで生きられる可能性は50パーセントです」ってお医者さんに言われて、パパにも言わなかったけど「死んでくれたら…」って悪魔みたいなことを思ったほどママは怖かったんだ。
とつぜん「しょうがいじ」の親というマイノリティー(少数派)になってしまったママは同じ立場の人と話がしたいと思ったけど、ママの知り合いには「しょうがいじ」の親は一人もいなかった。
でも、すぐそばに同じ立場の人はいたんだ。それはパパだった。
パパもぼくが突然変異のニュータイプだと聞かされて、ママと同じようにショックをうけたと思うけど、二人はお互いの気持ちを口にすることも慰めあうこともしなかった。
パパとママは同じ言語で話しているのに、なぜかママの言葉はパパに通じないことがあって「なにを言っているのかわからない」と言われることがときどきある。
まだ小さかったお姉ちゃんの前で泣くわけにはいかないので、ママは夜になると布団をかぶって声を出さないで泣いているときがあった。
でも今はママは元気になった。かわいそうな人と思われたらイヤだとママは思っていたけど、ママが思っていたほど大人は態度に表したりしないし、他人のことより自分のことでみんな精一杯みたいだ。
だけどパパとママは仲がわるいわけじゃない。けんかをしたことも一度もない。ぼくの進路のことについて話し合ったり、その日の天気について話したりなんかしている。
ママはパパよりもアイドルを愛しているみたいだけど、先日テレビを見ているときに「あなたは妻に愛されている実感がありますか」と聞かれて、パパは自信たっぷりに「ある!」と即答していた。でも、その後ろで驚いているママの顔をぼくは見のがさなかった。
夫婦って不思議だ。そして一生結婚できないらしいぼくには、夫婦のなぞがわかることはないだろう。









ぼくは猫じゃない

2009年11月28日 | ぼくは猫じゃない(小説)
ぼくは猫じゃない。名前はある。IQは30だから猫より頭はいいとおもう。
でもママは僕を猫かわいがりするんだ。ぼくの顔がとてもかわいいからだとおもう。突然変異のニュータイプなので日本人離れした顔なんだ。
性格は犬っぽくて人なつこいので、道を歩いているときに知らない人に「こんにちは」って言ってみたりする。すると優しそうなおばさんは「あら~かわいいわね。何年生?」と言ってくれたりするんだ。でも、ぼくはその質問の意味がわからなくて「おっぱい」とか言っちゃうんだ。
いっしょにいるママは困った顔で笑うしかない。だって、たまたま信号待ちで隣になった人から「この子は見た目は小学校低学年なんですけど、ほんとうは中学生なんです」なんて話を聞かされたら、びっくりしちゃうかもしれないから。
でもママは、よその子に話しかけてくれる優しい人たちに心の中ではいつも感謝しているんだ。
ぼくは足し算ができないし文が読めないけど「勉強しなさい」なんて言われたことはないし、学力テストもない。
何になろうかなんて考えたこともないし、悩んだこともない。
猫みたいに、いるだけで周りの人たちが温かくなれたらいいとおもう。
でも、ママはときどきイライラしている。なんでも好きな物を食べられて、どこにでも自分の足で歩いて行けるのに、これ以上なにがほしいんだろう…。