ただの偶然なのですか

私のお気に入りと日々の感想  

「生きる技術は名作に学べ」伊藤聡著の感想

2010年01月26日 | 読書
私がネットの世界に足を踏み入れたのは2006年。そのとき偶然に出会ったブログの中に、主に映画や本についての感想が書かれているブログがあって、それを感想文ブログとよぶのが合っているかわかりませんが、私にとっては新たなジャンルのそのブログの面白さにハマってしまいました。
ネットの世界にはいろいろなブログがあり、その中には自分の身の回りに起きた出来事や、今の自分の心境をストレートに語っているものも多くありますが、それらのブログにたいして私は自分の意見や感想をコメントするのをためらうことが多いです。
自分のコメントが見知らぬ相手にどのように受け取られるかなんて予想がつかないことですし、自分のコメントが相手に与える影響について責任をもったり、その後のフォローをするのは難しいことだとおもいます。なによりブログの筆者と自分とでは立場も価値観も違いますし、安易に自分の考えを述べられるほど私の意見は間違いじゃない保証もないわけです。
しかし、それが映画や本の感想となると話はちがってきます。なにしろ「感想」なわけですから、誰がどんな感想を持ったとしてもそれは自由なわけで、特定の個人の人生に無責任に踏み込むことはできなくても、それが映画や小説の中で描かれている作品としての人物であれば、その人生について私の考えを述べることもできるわけです。
そして映画や小説のいいところは、その世界観を他者と共有できることです。もちろん、人によって立場も人生観も違うので、同じ作品にたいして誰もが同じ感想を持つとは限りませんが、いろいろな人の感想を読むことで作品への解釈が深まり、自分とは違った視点からの感想には「こういう見方もあるのか!」と感心して、作品の面白さ自体が何倍にも膨らむことがあります。
そして、これらの感想文は単なる感想にはとどまらず、感想文という手法を用いていながらも、そこには書き手の人生観や価値観が表れていて、そこから書き手の人間性を垣間見ることができるのです。

そのような、いくつかある私のお気に入りの感想文ブログの中でも、特に『空中キャンプ』さんのブログは、表現力もその内容の深さも秀逸で、いつも楽しく読ませていただいています。以前から「こんなに面白い文章を無料で読ませてもらっていいのかしら」となんだか申し訳なくおもっていましたが、なんとこの度、空中キャンプさんの初の著書が出版されたのです!
私にとっては(一方的に)身近な存在であった『空中キャンプ』さんが書いた本が、うちの近所の書店に並んでいるのを見ただけで、私はなんだか興奮してしまいました。

ということで、伊藤聡氏の著書『生きる技術は名作に学べ』をここに紹介させていただくわけですが、私のような者が感想文の感想を書くのもなんだか野暮なような気がしますので、詳しい内容については是非この本を読んでいただきたいのですが、ギャグやツッコミも満載でとても読みやすくて、とにかく面白い本です。
この本には、誰もが題名だけは知っているような世界の名作の中から十冊について伊藤氏が読み解いた世界観が書かれています。
そこには伊藤氏の人生観が表れていて、これはもう単なる十冊の本の感想文ではなく、全体を通してひとつの読みものとして素晴らしい作品になっているとおもいます。そして、そこに表れている伊藤氏の温かい人間性に私は感動してしまい、読んでいる途中で何度も涙が出てしまいました。原作を読んだとき以上にその感想文に感動してしまうのは自分でもどうかと思いましたが、伊藤氏の他者にたいする温かさ、その人生観に共感できることがたくさんあって、「人生ってそうなんだよね」って涙が出たり、伊藤氏の言葉から勇気をもらったりしました。
でも本書の中で、ひとつだけ私が実感として理解できなかったのは、「父親と息子」の関係についてのテーマです。このテーマは本書の中に最後の一行にいたるまで何度か登場します。私がこのテーマを理解できなかったのは、たぶん私が女性だからだとおもいますが、我が家のことをみると、私の父と弟の間には、弟が大人になった今でもわだかまりがあって上手くコミュニケーションをとれない雰囲気がありますし、それに付随して私と弟の関係にもなんだか気まずいものがあることは感じています。これから父が年老いてくるにつれて、私はこの問題と向き合うことを避けては通れないでしょう。

そして私は、読み終えたばかりなのに、もう、この本を読み返したくなっています。
ほんとうに、これから何度でも読み返していきたいとおもう本です。
















宗教ファン?

2010年01月19日 | いろんなこと
私の息子に障害があるとわかってから、それまで私にあまり関心を示さなかった知人の中に、妙なテンションで私に急接近してくる人達が数名いました。
役所に障害者手帳の申請書類を提出した直後には、いろいろな宗教の信者の方達が5,6人くらい冊子を届けに何度もうちに来て、その中には、わざわざ車に乗って毎週訪問して手書きの手紙をくれる見ず知らずの人もいました。私が玄関のドアを開けずに応対すると家の外で遊んでいる娘に「弟さんはお元気?」なんて聞いたりしていました。どうして弟のことを知っていたのでしょう。役所から情報が漏れていたのでしょうか?
その他にも、私たち夫婦の仲人をしてくださった奥様が「私がこの宗教を信仰していることはうちの主人に秘密にしてほしいのですけど」と言って数冊の冊子と熱心なお手紙をくださったり、それまでは会えば挨拶する程度の仲だった娘の同級生のお母さんが「私はこの宗教で救われたから、何かあればうちにきて。」と言ってくださったりもしました。
そのような方たちに共通して私が感じたのは、何と表現したらいいのでしょうか妙なテンションの高さです。それまでは私にほとんど関心を示さなかったのに、急に態度を変えて、あまりにも親しい感じで近寄ってくるんです。まるでセールスのターゲットを見つけたかのような妙なテンションの高さが、隠しているようでも感じられてしまいます。もしかしてノルマがあるんですか?と聞いてみたくなりました。
もちろんその中には、私のことをほんとうに心配してくださっている方もいらっしゃるでしょうし、人生には大変なことも多いので心の支えとして宗教が必要だと思ってくださるのもわかるような気がします。
そんな知人達の中でも、同じバス停で幼稚園バスを一緒に待つ間柄だったAさんは特に熱心で、やんわりお断りしているのに、いつもうちの郵便受けに冊子を届けてくれたり(購読料はAさんの自腹)、今でも毎月のように懇談会に誘ってくれたり(毎回お断りしています)、家が近所なのでスーパーでばったり会えばいつも5~10分くらい自分の宗教観を語ってくれたりします。
スーパーの食品売り場の通路で「宗教は戦いだからね。この宗教は勝つ宗教だから。」と熱く語るAさんのテンションの高さに私はいつも違和感を感じてしまいます。Aさんは私が何を思っているかなんてことには興味がないのか、相手がドン引きしていることに気づかないほど周りが見えなくなっているのか、それとも気づいているけど「この宗教は前進するためのイケイケな宗教だから。」の精神で押してきているのでしょうか。
そもそも、Aさんは私が自分の宗教観を持っていないとでも思っているのでしょうか。私だって精神的に辛いときには宗教について書かれた本や哲学の本も読みますし、その中には共感できるものもたくさんあります。
この年になれば誰にだってこれまでの人生経験から得た宗教観や人生哲学があるわけで、特に中年以上の人が生きていくためには宗教は必要なものだと私も思っています。
私にとっては宗教は好きなアイドルと同じくらい心の支えになっていますが、私がどんなに熱く自分が好きなアイドルの魅力について語ったところでAさんには伝わらないでしょうし、それと同じで、Aさんが自分が信仰している宗教について熱く語れば語るほど、Aさんと私は周波数が違うような感じがしてしまいます。
それに、私にとって宗教観とは人生経験の中から自分で見つけて築いていくもであり、他人から押し売りされた宗教観を受け入れられるほど私は純心でも素直でもないんです。
そして、この世界はひとつで、行き着く先もひとつだと私は思っているので、誰が何を考えていようと同じような気がなんとなくしています。
Aさんも私もAさんが崇拝しているあの方も、みんな同じでひとつだと思うなんてことをAさんに言ったら怒られるでしょうか。でもAさんは私の話なんて聞くつもりはないでしょうし、Aさんと宗教について語り合うほどのエネルギーは私にはありません。
でも、Aさんは明るくて前向きで、この社会を良くしたいという信念を持っている方なので、Aさんのことは嫌いじゃないです。