さて、お話は一気に地上の現実の世界に移り、最初の登場人物として甄士隠が出てきて、いよいよこの長い物語の幕開けとなります。そして、物語のことばの端々に、今後の物語の展開の暗示がちりばめられています。
当日地陷東南,這東南一隅有処曰姑蘇,有城曰閶門者,最是紅塵中一二等富貴風流之地.這閶門外有個十里街,街内有個仁清巷,巷内有個古廟,因地方窄狭,人皆呼作葫芦廟.廟旁住着一家郷宦,姓甄,名費,字士隠.嫡妻封氏,情性賢淑,深明礼義.家中雖不甚富貴,然本地便也推他為望族了.因這甄士隠禀性恬淡,不以功名為念,毎日只以観花修竹,酌酒吟詩為楽,倒是神仙一流人品.只是一件不足:如今年已半百,膝下無儿,只有一女,乳名喚作英蓮,年方三歳.
[訳]そのころ、地は東南に窪み、この東南の片隅に姑蘇と呼ばれるところがあり、閶門と呼ばれる城門があり、浮世でも一二の富貴風流の地であった。この閶門外に十里街という通りがあり、通りに仁清巷という路地があり、路地には古い廟宇があり、狭い場所なので、人は皆ひょうたん廟と呼んでいた。廟の傍に田舎役人が住んでいて、姓は甄、名は費、字(あざな)は士隠と言った。正妻は封氏と言い、善良でやさしく、礼儀をわきまえていた。家はさして富貴ではないが、当地では彼を名望ある家柄と見做していた。この甄士隠は生まれつきあっさりしていて無欲で、功名を上げようという気もなく、毎日ただ花を眺め竹の手入れをし、酒を汲んでは詩を吟じることを楽しみとし、あくせくせず悠々自適な人物であった。ただひとつ物足りないのは、今年既に五十になるのに、男の子がおらず、娘が一人だけおり、乳名を英蓮と言い、年はやっと三歳であった。
● 郷宦 xiang1huan4 田舎の役人
● 嫡妻 di2qi1 正妻
● 賢淑 xian2shu1 =賢惠:善良でやさしい婦人
● 望族 wang4zu2 名望ある家柄
● 禀性 bing3xing4 生まれつき
● 恬淡 tian2dan4 あっさりしていて無欲である
● 酌酒 zhuo2jiu3 酒を注ぐ
● 吟詩 yin2shi1 詩を吟じる
● 神仙 shen2xian (仙人の意から)→〔喩〕なんの苦労も気がかりもなく、悠々自適の生活をする人
● 一流 yi1liu2 同類。同じ仲間
一日,炎夏永昼,士隠于書房閑坐,至手倦抛書,伏几少憩,不覚朦朧睡去.夢至一処,不辨是何地方.忽見那廂来了一僧一道,且行且談.只聴道人問道:“你携了這蠢物,意欲何往?”那僧笑道:“你放心,如今現有一段風流公案正該了結,這一干風流冤家,尚未投胎入世.趁此机会,就将此蠢物夾帯于中,使他去経歴経歴。”那道人道:“原来近日風流冤孽又将造劫歴世去不成?但不知落于何方何処?”
[訳]ある日のこと、夏の暑い盛りの昼下がり、士隠が書斎でぼんやり座っていたが、書きものに飽き書を放り出し、床几に伏してしばし休息したが、思わず朦朧と眠りに落ちた。夢の中であるところに行ったが、それがどこだか分からなかった。ふと、あちらから僧侶と道士がやって来て、歩きながら話をしていたが、道士がこう問うのだけが聞こえた。「あなたが持ってきたこのやくざものを、どこにやろうとお思いか。」その僧侶は笑って言った。「安心しなさい。今とある色ごとのもめごとを解決しようとしているが、この色ごとの仇役は、まだ生を受けて浮世で暮らしたことがない。この機会に、このやくざものをその中に挟み込んで、きゃつに浮世の経験をさせてみようと思うのじゃが。」その道士は言った。「確か最近色ごとの仇役が劫(ごう)を一回経験してきたのではありませんでしたか。どの方面のどこに降りたのか知りませんが。」
● 了結 liao3jie2 解決する
● 一干 yi1gan1 ある事件に関係のある(すべての人を指す)
● 投胎 tou2tai1 生まれる。生を受ける
● 冤孽 yuan1nie4 前世の因業(いんごう)
● 造劫歴世 zao4jie2li4shi4 劫(ごう)を一回経験した
那僧笑道:“此事説来好笑,竟是千古未聞的罕事.只因西方霊河岸上三生石畔,有絳珠草一株,時有赤瑕宮神瑛侍者,日以甘露灌漑,這絳珠草始得久延歳月.后来既受天地精華,復得雨露滋養,遂得脱却草胎木質,得換人形,僅修成个女体,終日游于離恨天外,飢則食蜜青果為膳,渇則飲灌愁海水為湯.只因尚未酬報灌漑之,故其五内便郁結着一段纏綿不尽之意.恰近日這神瑛侍者凡心偶熾,乗此昌明太平朝世,意欲下凡造歴幻縁,已在警幻仙子案前挂了号.警幻亦曾問及,灌漑之情未償,趁此倒可了結的.那絳珠仙子道:‘他是甘露之惠,我并无此水可還.他既下世為人,我也去下世為人,但把我一生所有的眼涙還他,也償還得過他了.’因此一事,就勾出多少風流冤家来,陪他們去了結此案。”
[訳]その僧侶は笑って言った。「このことは話すとおかしいことだが、長い年月聞いたことのない珍事であった。西方の霊河の岸の三生石の畔に、絳珠草がひと株あり、赤瑕宮の神瑛の従者が、毎日甘露をかけてやっていたが、この絳珠草は寿命が延び、やがて天地の精華を受け、また雨露の滋養を得て、ついには草胎木質から脱却し、人の形に変わるを得、ただ女体を修成し、一日中、離恨天の外に遊び、餓えれば蜜青果を食して膳とし、渇けば灌愁海の水を飲んで湯とした。ただ未だ灌漑のに報いていなかったので、体中気がふさぎ、悶々としていた。ちょうどこの神瑛の従者が下界への思いが俄かに激しくなり、この昌明太平の世に下界に降りて、幻の縁(えにし)を経験したいと思い、警幻仙子の所に行って届け出をした。警幻が質問をしていくと、灌漑の情がまだ償われておらず、この機会にそれを精算することにした。かの絳珠仙子が言うには、「あの方に甘露の恵をいただいたが、私はこの水をお返しすることはできません。あの方が下界に降りて人間になられるなら、私も下界に行って人となり、私の一生の涙でもってお返しすれば、あの方に償ったことになりましょう。」このことで、多くの色ごとの仇役が呼び出され、彼らといっしょにこの事件を解決に行くことになったのである。」
● 五内 wu3nei4 五臓
● 郁結 yu4jie2 気がふさぎ、晴れ晴れしない
● 纏綿 chan2mian2 まとわりつく
● 昌明 chang1ming2 政治や文化が盛んである。繁栄している
● 下凡 xia4fan2 神仙が下界に下りる
● 造歴幻縁 zao4li4huan4yuan2 幻の縁(えにし)を経験する
那道人道:“果是罕聞.実未聞有還涙之説.想来這一段故事,比歴来風月事故更加瑣砕細膩了。”那僧道:“歴来几个風流人物,不過伝其大概以及詩詞篇章而已,至家庭閨閣中一飲一食,総未述記.再者,大半風月故事,不過偸香窃玉,暗約私奔而已,并不曾将儿女之真情発泄一二.想這一干人入世,其情痴色鬼,賢愚不肖者,悉与前人伝述不同矣。”
[訳]その道士が言うには、「確かに聞いたことのない話だ。涙で償うというのは聞いたことがない。思うにこのお話は、これまでの色ごとの事件に比べこまごまとしてわずらわしいようだが。」その僧侶は言った。「これまでの何人かの色恋沙汰になった人物は、そのことの大筋と詩や文章が伝わっているだけで、家庭の閨房での一飲一食のことは、述べられていない。また、大半の色ごとの話は、香や玉を盗んだとか、示し合わせて駆け落ちしたとかいうことばかりで、若い男女の本当の気持ちは少しも表わされていない。思うに今回一群の人が下界に降り、その情痴色鬼、賢愚不肖なるは、悉く前人の伝述とは異なりましょう。」
那道人道:“趁此何不你我也去下世度脱几個,豈不是一場功?”那僧道:“正合吾意,你且同我到警幻仙子宮中,将蠢物交割清楚,待這一干風流孽鬼下世已完,你我再去.如今雖已有一半落塵,然猶未全集。”道人道:“既如此,便随你去来。”
[訳]その道士が言うには、「この機会に我々もいっしょに下界に降り、済度し解脱するというのも、功徳になるのではありますまいか。」僧侶が言うには、「私もそう思う。いっしょに警幻仙子の宮中に行き、やくざものをきっちり受け渡したら、これらの色恋沙汰の亡霊たちが皆下界に降りてしまってから、私たちも行くとしよう。今はもう半分くらいが浮世に下ったが、まだ全員がそろっていないので。」道士は言った。「そういうことなら、あなたといっしょに行くことにしよう。」
● 度脱 du4tuo1 済度し解脱する
● 交割 jiao1ge1 受け渡し。決済
● 孽鬼 nie4gui3 よこしまな亡霊
● 落塵 luo4chen2 浮世に下りる
却説甄士隠俱聴得明白,但不知所云“蠢物”系何東西.遂不禁上前施礼,笑問道:“二仙師請了。”那僧道也忙答礼相問.士隠因説道:“適聞仙師所談因果,実人世罕聞者.但弟子愚濁,不能洞悉明白,若蒙大開痴頑,備細一聞,弟子則洗耳諦聴,稍能警省,亦可免沈倫之苦。”二仙笑道:“此乃玄机不可預泄者.到那時不要忘我二人,便可跳出火坑矣。”士隠聴了,不便再問.因笑道:“玄机不可預泄,但適云‘蠢物’,不知為何,或可一見否?”那僧道:“若問此物,倒有一面之縁。”説着,取出逓与士隠.士隠接了看時,原来是塊鮮明美玉,上面字迹分明,鐫着“通霊宝玉”四字,后面還有几行小字.正欲細看時,那僧便説已到幻境,便強従手中奪了去,与道人竟過一大石牌坊,上書四个大字,乃是“太虚幻境”.両辺又有一幅対聯,道是:
[訳]はてさて甄士隠はすっかり聞いて理解したが、言われている「やくざもの」が何のことかわからない。思わず前に出て拝礼し、にっこり笑って聞いた。「おふたりの仙師に伺いたい。」かの僧侶、道士も急いで返礼して挨拶をした。士隠はそこで説明した。「ちょうど仙師が因果について話されているのを聞き、実に人の世ではめったに聞けないことでした。しかし私は愚鈍なので、はっきりとはわかりません。愚かさをさらけ出すようですが、一部始終をお聞かせいただけるなら、私は耳を洗って詳しく伺い、多少用心すれば、罪悪の泥沼にはまり込む苦しみから免れることもできるでしょう。」二人の仙人は笑って言った。「これすなわち玄妙の道理で、予め漏らすことはできぬ。その時に我々二人を忘れなければ、泥沼の状態から抜け出すことができましょう。」士隠は聞くと、これ以上問うことができず、笑って言った。「玄妙の道理は予め漏らせぬとのことですが、先ほど言われた「やくざもの」とはどういう物ですか。ひと目見せていただけませんか。」僧侶は言った。「この物のことを聞くのであれば、多少の縁(えにし)があるのであろう。」そう言うと、取りだして士隠に手渡した。士隠が受け取って見ると、それは美しい玉であり、その上には字迹も鮮やかに「通霊宝玉」の四文字が刻まれており、その後ろにも何行かの小さな文字があった。よく見ようとした時、僧侶は既に幻境に着いたと言うや、強引に手の中から奪い取り、道士と共に大きな石の牌楼を通り過ぎた。その牌楼には、上に「太虚幻境」の四文字が書かれ、両側には一幅の対聯があった。それには。次のように書かれていた:
● 洞悉 dong4xi1 はっきりわかる
● 大開痴頑 da4kai1chi1wan2 愚かさをさらけ出す
● 備細 bei4xi4 一部始終。詳細
● 諦聴 di4ting1 詳しく聞く
● 警省 jing3xing3 用心深い
● 沈倫之苦 chen2lun2zhi1ku3 罪悪の泥沼にはまりこむ苦しみ
● 玄机 xuan2ji1 (道教)玄妙な道理
● 預泄 yu4xie4 あらかじめ漏らす
● 火坑 huo3keng1 泥沼の生活
假作真時真亦假,無為有処有還無.
[訳]うそが真の時は真もまたうそであり、無が有になるところでは有は無に還る
士隠意欲也跟了過去,方挙歩時,忽聴一声霹靂,有若山崩地陷.士隠大叫一声,定睛一看,只見烈日炎炎,芭蕉冉冉,所夢之事便忘了大半.又見奶母正抱了英蓮走来.士隠見女儿越発生得粉粧玉琢,乖覚可喜,便伸手接来,抱在懐内,斗他頑耍一回,又帯至街前,看那過会的熱鬧.方欲進来時,只見従那辺来了一僧一道:那僧則癩頭跣脚,那道則跛足蓬頭,瘋瘋癲癲,揮霍談笑而至.及至到了他門前,看見士隠抱着英蓮,那僧便大哭起来,又向士隠道:“施主,你把這有命無運,累及爹娘之物,抱在懐内作甚?”士隠聴了,知是瘋話,也不去睬他.那僧還説:“舍我罷,舍我罷!”士隠不耐煩,便抱女儿撤身要進去,那僧乃指着他大笑,口内念了四句言詞道:
[訳]士隠はついて行こうと思い、足を上げた時、突然雷鳴が聞こえ、山が崩れ地面が陥没したようで、士隠が大声をあげたところ、ふと目覚めて、見てみると、太陽がかんかん照りつけており、芭蕉はしなやかに垂れ、夢で見たことは大半を忘れてしまった。乳母が英蓮を抱いてやって来るのが見えた。士隠は娘が白粉を塗り玉を磨いたように真っ白な肌に育っているのを見ると、おりこうさんで好ましく、手を伸ばして英蓮を乳母から受け取ると、胸の中に抱きかかえ、ひとしきり遊ばせると、彼女を連れて通りの方へ行ったところ、そちらはたいへんにぎやかであった。ちょうど通りに出ようとしたところ、あちらから僧侶と道士が歩いて来た。僧侶はかさぶた頭で髪は抜け、はだしで、道士はびっこをひいて髪はぼうぼう、きちがいじめた様子で、盛んにぺちゃくちゃしゃべりながらやって来た。彼らの前までやって来て、士隠が英蓮を抱いているのを見ると、僧侶は大声で泣き出し、士隠に言った。「旦那さま、あなたはこの不幸な星の下に生まれた、災いが父母に及ぶ物を、胸に抱いてどうするのですか。」士隠はそれを聞くと、でたらめな話と思い、相手にしなかった。僧侶はまた言った。「捨てておしまいなさい、捨てておしまいなさい。」士隠はがまんできず、娘を抱いてうしろを向いて立ち去ろうとすると、僧侶は彼を指さして大笑いすると、口の中で四句のことばを念じて言った:
● 霹靂 pi1li4 雷
● 定睛 ding4jing1 ひとみを凝らす。じっと見る
● 炎炎 yan2yan2 太陽がかんかん照りつける様
● 冉冉 ran3ran3 しなやかに垂れる
● 粉粧玉琢 fen3zhuang1yu4zhuo2 おしろいを塗り玉を磨いた(ように真白)
● 乖覚可喜 guai1jue2ke3xi3 賢く喜ばしい
● 斗 dou4 手合わせをする
● 頑耍 wan2shua3 遊ぶ
● 過会 guo4hui4 たいへん
● 癩頭跣脚 lai4tou2xian3zu2 かさぶた頭で髪の毛も抜け、はだしで
● 跛足蓬頭 bo3zu2peng2tou2 びっこで髪はぼうぼう
● 瘋瘋癲癲 feng1fengdian1dian きちがいじみている
● 揮霍 hui1huo4 金銭を湯水のように使う。動作が敏捷である
● 施主 shi1zhu3 施主。檀家。僧侶が在家の人に対し用いる呼び方
● 有命無運 you3ming4wu2yun4 不幸な星の下に生まれた
● 爹娘 die1niang2 父母。両親
● 睬 cai3 相手にする
慣養嬌生笑你痴,菱花空対雪澌澌.好防佳節元宵后,便是煙消火滅時.
[訳] 甘やかされて大きくなり、おまえの愚かさを笑う。菱の花は空しく対し、雪はしんしんと降る。なんぞ防げよう、佳節元宵の後、煙消火滅の時を。
● 慣養嬌生 guan4yang3jiao1sheng1 =嬌生慣養:甘やかされて大きくなる
● 菱花 ling2hua1 “菱”は英蓮の後の名“香菱”を指す
● 雪澌澌 xue3si1si1 “雪”は“薜”と諧音(音が同じ、もしくは似ている)で、英蓮の薜家での悲惨な運命を暗示する。“澌澌”雪がしんしんと降る
● 好防 hao3fang2 なんぞ防げようか
さて、お話は甄士隠の家族に巻き起こる不幸、娘の英蓮の将来の暗い宿命を暗示しつつ展開しますが、続きは次回とさせていただきます。
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