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北京史(三十五) 第六章 明代の北京(13)

2023年12月24日 | 中国史

北京城

第五節 明代の北京の文化

北京城の建設

 明の北京城は元の大都城の基礎の上に建設され、後に清朝で流用されることになり、元の大都城よりもっと雄大で壮麗であった。

 元の大都の旧城は周囲60里(30Km)、全部で11の城門があった。1368年(明の洪武元年)、大将軍徐達が元の大都城を攻め落として占領し、その城の範囲があまりに広く、守備に不便であったので、次第に広々とした北部は放棄し、東西の両方の城壁と北側の光熙、粛清の二門を廃棄し、元の北城壁の南5里に、別途新たな城壁を築き、相変わらず二つだけ北門を開け、元の安貞門を安定門に改め、健徳門を徳勝門に改め、同時に東壁の崇仁門と西壁の和義門を東直門と西直門に改め、それ以外の七門は旧来通りとした。(光緒『順天府志』巻1『城池』)

内城西直門甕城、城門楼、甕城門楼、箭楼、護城河

1419年(永楽17年)、明朝はまた南城壁を南に2里移動し、相変わらず三つ門を開け、名称は旧来通りとした。ここに至り、城の周囲は全部で40里となった。1436年(正統元年)、明朝はまた9門の城楼、月楼、角楼、外堀、水門を建設し、4年で完成すると、すぐに麗正門を正陽門、文明門を崇文門、順城門を宣武門、斉化門を朝陽門、平則門を阜城門に改めた。(光緒『順天府志』巻1『城池』、『明故城考』)9門の名称は清朝を通じて変わらず、これがすなわちいわゆる北京内城である。

内城角楼、城垣と馬面(楼台、櫓)

 洪武初年、元朝の北城を圧縮すると同時に、いわゆる「王気」を消し去るため、また元朝の故宮を取り壊した。(蕭洵『故宮遺録』北京出版社1963年版)これは破壊的な作業ではあったが、今後、計画的に北京を造営するための前提となった。1406年(永楽4年)明朝は北京宮殿の造営を決め、準備作業に着手した。1417年(永楽15年)大挙して土木工事を開始し、1420年(永楽18年)基本的に竣工した。(『明成祖実録』永楽4年閏7月壬壱戌条及び1812月)この工程では紫禁城及び皇城の宮殿、門闕(宮門前の両側にある望楼)、城池(城壁と堀)が完成しただけでなく、太廟、社稷壇、天壇、山川壇、及び鼓楼、鐘楼など一連の建物が完成した。今回造営された宮殿の門闕は、規格が南京と同様であった。紫禁城はまたの名を大内と称し、周囲6里3Km)、元朝の大内の旧跡からやや南に移動した。四つの門があり、南を午門、東を東華門、西を西華門、北を玄武門(清に神武門と改称し、辛亥革命後、中華門と改められた)と言った。皇城の周囲は18里余りあり、主に6門あり、南に面した一番目の門が大明門(清に大清門と改称され、辛亥革命後、中華門に改められた)、二番目の門が承天門(清に天安門に改められた)、三番目の門は端門、東に面するのが東安門、西に面したのが西安門、北に面したのが北安門(清に地安門と改称された)であった。明朝の宮殿は全て清朝が引き続き使用したが、清朝は建築物に対して大いに再建、或いは改造を行い、且つ一部増築を行った。

金中都、元大都、明清北京城の変遷略図

 明朝中葉になって、北方の蒙古族の騎馬隊が度々南下して騒ぎを起こし、引いては都に肉薄した。北京城の人口は大量に増加し、城外の人口が日増しに密集してきた。このため、朝廷の中では絶えず外城を建設するよう主張する者があり、城外の住民を城壁の中に取り囲み、それにより防御を強化した。それで1564年(嘉靖43年)都の南側を取り囲む外羅城(城外の大城)が完成した。これがすなわちいわゆる北京外城である。(光緒『順天府志』巻1『城池』、『明故城考』)元々、外城は京城の四面を取り囲むよう議論していたが、経費が足りないため、南側一面だけ修築された。このため、北京城全体が凸型の輪郭を形作った。外城は長さ28里に過ぎず、門が7か所あり、南正面が永定門、南の東側が左安門、南の西側が右安門、東側が広渠門、東北角が東便門、西側が広寧門、西北角が西便門であった。

 元朝大都城は土城であったが、明朝は内城の土壁を全部レンガで包んで積み上げることにし、洪武年間(13681398年)に城壁の外側をレンガで包んで積み上げ、正統年間(14361449年)に更に城壁の内側を包んで積み上げた。嘉靖年間(15221566年)に外羅城を追加で築き、更に最初からレンガを積み上げていた。また、内城の9つの門の外側の外堀(護城河)には元々木の橋が架かっていたが、正統初年に一律で石橋に変更した。明代の北京城の堅実さは、元の大都をはるかに上回っていた。

 明代の北京城の設計レイアウトはたいへん厳密で完璧なものであった。城全体から見ると、外城は内城の南側を囲み、内城は皇城を囲み、皇城は紫禁城を囲んだ。そして外城から紫禁城まで、どの城の周囲も、幅広く深い堀がめぐらされていた。こうして、皇帝が居住する紫禁城は城全体の中心となり、何重にも取り囲んで守られていた。次に、北京城のデザインには、一本の南北に貫く中軸線によって全ての建物を配置する原則を採用していた。この中軸線は紫禁城の中心を貫き、南は永定門に達し、北は鐘楼に達し、長さは約13であった。城全体で最も広大な建物と土地は大部分がこの中軸線上に配置され、その他の各種の建物もこの中軸線に基づいて有機的に配置され、またそのように調整された。

故宮(紫禁城)

外城角楼、城垣と馬面(楼台、櫓)

 明代の北京城の設計レイアウトは全くもって封建帝王のために奉仕していた。全ての城壁や堀の修築は、何れも封建帝王統治を守り、強固にするためだった。全ての宮殿や祭壇、廟宇や、中軸線上の広大な建物や体裁は、封建帝王の至高で無上の威厳を際立たせるものだった。

 紫禁城の主要な建物は中軸線上に配置され、南から北に、午門、皇極門(元は奉天門と称し、清代に太和門に改められた)、皇極殿(元は奉天殿と称し、清代に太和殿に改められた)、中極殿(元は華蓋殿と称し、清代に中和殿に改められた)、建極殿(元は謹身殿と称し、清代に保和殿に改められた)、乾清門、乾清宮、交泰殿、坤寧宮、御花園、玄武門が置かれた。他の副次的な建物は対称に配列するという原則に基づき、中軸線の左右両側に配置された。皇極殿、中極殿、建極殿の左右には、文華殿、武英殿。乾清宮、交泰殿、 坤寧宮の左右には更に幾重にも重なった楼閣が置かれ、たくさんの人戸があった。午門から建極殿までで外朝を形作り、 乾清門から玄武門までで内廷を形作った。外朝は皇帝が政令を発布し、国家の大典を挙行する場所であり、内廷は皇帝と皇后、妃が居住する場所であった。

 午門は明清両代では百官が皇帝に朝見するため集合する場所で、また征伐、凱旋の度に「捕虜を宗廟に捧げる」儀式を行う場所であった。明代には、ここはまた皇帝を皇帝の怒りに触れた官吏に対して棒打ちの刑(廷杖)を行う場所であった。皇極門は明代の朝廷の所在で、皇帝はいつも「御門決事(事案の決裁)」を行った。皇極殿は明清両代、皇帝が政務を聞く金銮殿(太和殿のこと)であった。毎年、元旦、冬至、万寿節(皇帝の誕生日)の三大祝日には、ここで祝祭式典が挙行された。その他、例えば新皇帝の即、詔書(詔(みことのり))の公布、科挙の進士合格の黄榜(皇帝の公告)や将軍の出師の命令の公布など、ここで厳かな儀式が挙行された。中極殿は明清代の皇帝が行事で皇極殿に行くと、ここでしばらく休憩する場所であった。建極殿は清代毎年大みそかに少数民族の王公貴族を宴席で歓待した場所であった。雍正帝以降、進士の試験がここで行われるようになった。乾清門は明代の皇帝の寝宮で、清朝皇帝も、康熙帝、雍正帝以前はここを寝宮とし、またここで文武の諸官吏(臣僚)を引見(召見)し、平素は執務を行った。交泰殿は清代は皇帝の玉璽(じ)を保管する場所であった。坤寧宮は明代の皇帝の寝宮で、清代は神を祭る場所であった

 紫禁城以北で、中軸線上に配置されたのは万歳山と鼓楼、鐘楼であった。万歳山は俗に煤山と称し、清初に景山と改称された。言い伝え(相傳)では、建物を取り壊して出た廃土が積み重なってできたと言われ、上には峰が五つあり、山頂に登ると、北京城全体を俯瞰することができた。この山は元朝の後宮の旧跡の上に聳え立ち、その意味は前の王朝に圧勝したということであり、それゆえ「鎮山」とも呼ばれた。鼓楼、鐘楼は後に清朝の再建するところとなり、北京城全体の時を知らせる中心であった。

明北京城午門から正陽門までの平面図

 紫禁城以南は、午門を出ると、中軸線に沿って、左側には皇帝が祖先を祭祀する太廟があり、右側には皇帝が土地の神様と五穀の神様を祭祀する社稷壇があり、真南は端門で、更にその真南が承天門であった。ここは明清両代にいつも詔書を公布する儀式を行う場所で、明代には、詔書は承天門の上で読み上げられて(宣読)から、「雲匣」の中に入れられ、彩色した縄で縛って「龍竿」の上から吊り下げ、その後、礼部から全国に公布施行された。清代、詔書は城楼の上で読み上げられてから、「朵雲」の中に入れられ、木彫りの金色の鳳凰にくわえさせ、「金鳳頒詔」と称した。(『明史・礼志・頒詔儀』。呉長元『宸垣識略』巻3『皇城一』)

 承天門外には「T」字形の広場があり、名を天街と言い、外に宮墙を建造した。天街の東西両端には各々長安左門と長安右門を建て、その南に突き出た部分は大明門に通じ、壁の内側は千歩廊、壁の外側は中央官署の所在地で、五府(前、後、中、左、右軍都督府)と各部(吏、戸、礼、兵、工部)が東西に対に並んでいた。長安左右門の外は、また各々門があって五府と各部に通じており、東公生門と西公生門と言った。

 明代、長安左右門は何れも禁軍により守られ、毎日百官が皇帝に上奏する時は、この二つの門から出入りした。およそ国家の大典を行う際は、大明門を開いて出入りし、さもなければ常に閉じて開かなかった。各々の科の新たな進士のトップから三名は、殿上で名前を伝えて(胪唱lú chàng)後、長安左門から退出し、順天府尹が出迎えて、役所に行き歓迎の宴を催し、祝賀した。毎年、霜降(そうこう。二十四節気の一つ。102324日頃)の後、吏部などの役所は広場の西側で「朝審」を行い、死罪や重い刑罰の囚人に対し再審を行い、刑を確定させた。

 大明門前には一本の碁盤状の街路が跨り、これが東西両城の交通の往来の要路(孔道)であった。真南は正陽門で、さらにその真南には永定門があった。永定門里以東が天壇で、皇帝が天を祭る場所であり、以西が山川壇(初めは地壇と称し、後に先農壇と改称した)で、農神を祭る場所であった。

天壇祈年殿

 明代、北京の大通りや小路の配列は、正方形に水平、垂直の形式が採用され、これは都市全体の正方形と水平垂直により決定した。大通りは多くが南北方向に作られ、胡同は多くが東西方向に作られた。内城、外城に全部で16の門があり、全ての城門に一本のまっすぐな大通りが通っていた。北京城全体の有名な大通りは三十本余りあり、縦横に交わりながら走り、碁盤の目状の道路システムを形作った。通りの大小には決まりがあり、大通りは幅24歩、小路は幅12歩であった。最も小さな道路は巷、或いは胡同と言い、胡同は内城、外城にあまねく分布し、その数は1千本余りに達し、住民の住宅が集まる場所であった。



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