中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[1]

2012年12月13日 | 中国ニュース

  今回は、中国の作家、莫言氏が、ノーベル文学賞を受賞し、スウェーデンアカデミーで講演された時の講演内容の日本語訳をご紹介します。
  大陸中国から初のノーベル文学賞受賞ということで、授賞式での服装をどうされるかが話題となりましたが、結局、授賞式は燕尾服を着用され、それに先立つ、今回ご紹介するスウェーデンアカデミーでの講演会では、中山服を着られました。

  講演の題名は「講故事的人」、英語ではStory Teller、物語を語る人で、物語の語り部たる小説家になるまでの生い立ちを述べられていて、なかんかおもしろい話になっていると思います。
  ただ、例えばお母さんのお墓の上を鉄道が通ることになったので、移転のために墓を掘り返すエピソードは、魯迅の《故郷》の中のエピソードにそっくりですし、市場で講談を聞いてきて、そのお話を周りの人に臨場感を出して語るエピソードは、映画の《中国の小さなお針子》の中のエピソードによく似ているのは、偶然でしょうか?

  ともかくも、内容をご覧ください。長い講演内容なので、何回かに分けてご紹介します。
   尚、中国語原文は、次のところからご覧ください。

http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536.html


  尊敬する、スウェーデンアカデミーの会員の皆さん:

  TVやネットを通じ、皆さん方は遥か遠く離れた高密県東北郷のことを、既に多少なりともご理解いただいているかもしれません。皆さん方は、私の90歳になる父親の写真を見たかもしれませんし、私の兄、姉、私の妻と娘、私の1歳4カ月になる孫娘の写真を見たかもしれません。けれども、私が今最も懐かしく思っている、私の母親に、皆さん方は永遠に会うことはできません。私がノーベル賞を受賞し、多くの人が私の栄光を共に分かち合いましたが、私の母はそうすることができません。

  私の母は1922年に生まれ、1994年に亡くなりました。母の遺骨は、村の東側の桃畑の中に埋葬しました。去年、鉄道がそこを通るというので、私たちは母の墓を村から遠く離れたところに移さざるを得ませんでした。墓を掘り起こしてみると、柩は既に朽ち果て、母の遺骨は、既に土と混じり合っていました。私たちは遺骨のしるしとして幾らかの土を掘り出し、新しい墓の中に移しました。そしてその時から、私は、私の母が大地の一部になったと感じました。私が大地の上で話すことは、つまり母に対して話をすることなのです。

  私は母の一番下の子供でした。私が憶えている中で最初の出来事は、家中でたった一つの魔法瓶を持って、人民公社の食堂にお湯を入れに行ったことです。飢えて力が出ず、うっかり魔法瓶を割ってしまいました。私はたいへんびっくりして、草むらの中に逃げ込み、その日一日、そこから出ることができませんでした。夕方になって、私は母が私の幼名を呼んでいるのが聞こえました。私は草むらから抜け出し、怒ってひっぱたかれるものと思っていたのですが、母は私を叩きも怒りもせず、ただ私の頭を撫で、口の中で長いため息を出しただけでした。私の記憶の中で、最もつらかった事件は、母について集団で麦の穂を拾いに行った時で、麦畑の番人が来たので、麦の穂を拾いに来た人は次々逃げて行きましたが、母は纏足の足で、速く走れないので、捕まえられ、その長身の番人から頬を叩かれました。母はよろけて地面に倒れました。番人は私たちが拾った麦の穂を取上げると、口笛を吹きながら意気揚々と去って行きました。母は口元から血を流し、地面にしゃがみこみ、顔には絶望的な表情を浮かべていました。私はそれを一生忘れることができません。それから何年も経ってから、あの麦畑の番人をしていた男が、白髪交じりの老人となって、村の市場で出会いました。私は飛び掛って行ってあの時の仇を取ろうと思いましたが、母は私を引きとめ、静かに言いました。「息子や、あの時の私を叩いた男は、この老人とは別人だよ。」

  私が最も印象深く覚えている事件は、ある年の中秋節のお昼のことで、我が家では珍しく餃子を作ったのですが、ひとり分、お碗一杯しかありませんでした。ちょうど餃子を食べようとしていた時、一人の乞食の老人が我が家の玄関にやって来ました。私はお碗に半分の乾し芋を両手で奉げ持ち、乞食のところに行ったところ、乞食はぷんぷん怒ってこう言いました。「私は年寄りだよ。おまえたちは餃子を食べているのに、私には乾し芋を食べさすなんて、おまえたちの心はどうなっているんだ。」私は前後の見境もなく腹を立て、言いました。「私たちは一年のうちでもそう何回も餃子が食べられる訳ではないし、ひとりに小さなお碗に一杯しかなく、腹半分も食べられないんですよ。あなたに乾し芋をあげるだけでも悪くないですよ。要るなら持って行きなさい。要らないなら、出て行ってください。」母は私をたしなめると、自分のお碗に半分入った餃子を両手でかかえて持って行き、老人のお碗の中に入れてやりました。

  私が最も後悔したことは、母と白菜を売りに行った時のことで、思わず知らず一人の白菜を買いに来た老人に一毛多く代金を取ってしまいました。お金の勘定が済むと、私は学校へ行きました。授業が終わって家に帰ると、めったに涙など流さない母が、満面に涙を浮かべていました。母は決して私を叱りませんでしたが、そっとこう言いました。「息子よ。あなたは母の面子をつぶしてくれたね。」

  私が十いくつかの歳に、母は重い肺病を患い、飢えと痛みと疲労で、我が家は困難な状態に陥り、光明や希望を見出すことができませんでした。私は強い不吉感に襲われ、母がいつ何時自殺を図るのではないかと心配しました。毎日仕事から帰ってきて、門を入るや、私は大声で母を呼び、返事を聞いてはじめて、石が地面にきちんと落ちたかのように安心しましたが、すぐに母の返事が聞こえないと、恐れおののき、脇棟や粉挽き小屋に駆けて行き、探しました。ある時、私は全ての部屋を探しましたが母の姿を見つけることができませんでした。私は中庭にしゃがみこんで大声で泣きました。その時、母が背中に柴を一束背負って外から帰って来ました。母は私がめそめそしていたのが不満でしたが、私も母に私が心配していたとは言えませんでした。母は私の気持ちを察して、こう言いました。「息子よ、安心おし。私は生きていても楽しいことなんて何も無いが、閻魔様がお呼びにならない限り、逝ったりしないから。」私は生まれつき、顔が醜く、村では多くの人が面と向かって私を嘲笑し、学校では数人の気性の荒い同級生に、時にはそのため殴られることさえありました。私が家に帰って泣きじゃくっていると、母は私にこう言いました。「息子よ、おまえは醜くなんかないよ。鼻も眼もちゃんと付いているし、両手両足もちゃんとしている。どこが醜いの?それに、おまえの心がきれいで、良い行いをたくさんしさえすれば、よしんば醜くても、きれいになれるのよ。」後に私が町で暮らすようになって、何人かの教養のある人が相変わらず陰で、時には面と向かって私の容姿をけなすことがありましたが、私は母の言葉を思い出し、心穏やかに彼らに謝りました。

  私の母は字が読めませんでしたが、学問のある人をたいへん尊敬していました。我が家は貧しく、次の食事に事欠くこともしばしばでしたが、私が母に本や文房具を買ってほしいと言うと、母はいつもその希望をかなえてくれました。母は働き者で、怠け者の子供を嫌いました。けれども、私が勉強していて仕事に遅れた時は、私を叱ったことはありませんでした。一時期、村の市場に講談師がやって来ました。私はこっそりそれを聞きに行き、母が私に割り当てた仕事を忘れてしまいました。このため、母は私を叱りました。夜、母が行灯の前で家族のために綿入れの服を急いで作っていた時、私は我慢できずに、昼間講談師のところから聞いてきた話を母に話して聞かせました。最初、母は嫌な顔をしました。というのも、母の心の中では、講談師は口先がうまいだけで、全うな仕事をしていない人間で、そんな男の口から、何も役に立つ話など聞けないと考えていたからです。けれども、私がその話をもう一度話して聞かせると、次第に母の心を惹きつけました。それ以後、市の立つ日には、母は私に仕事を割り当てず、私が市場に講談を聞きに行くのを黙認してくれるようになりました。母の恩情に報いるため、また母に私の記憶力をひけらかすため、私は昼間聞いた話を、臨場感を出して母に聞かせました。

  間もなく、私はただ講談師が話した物語をそのまま話して聞かせるだけでは満足できなくなり、話の過程で、絶えず味付けを加えるようになりました。私は母の興味を惹くように、自分で筋をこしらえたり、時には話の結末を変えることさえありました。私の話の聴衆は、母だけでなく、姉、おば、祖母も聴衆になりました。母は私の話を聞き終わると、時には心配で気が気でない様子で、私に対して言っているかのようで、また自問自答しているかのように、こう言いました。「息子や、おまえは大きくなって、どんな人間になるんだろうね。まさか口先を弄んで飯を食うんじゃないだろうね。」私は母の心配が理解できました。なぜなら、村の中では、おしゃべりな子供というのは、人に嫌がられ、時には自分自身、更には家族に面倒をもたらすからです。私が小説《牛》の中で描いた、おしゃべりで村人に嫌がられる子供は、私の幼少時代のイメージです。母はいつも私におしゃべりは控えるように諭しました。母は私が寡黙で、おとなしくておおらかな子供になるよう望みました。けれども私の体には極めて強い話をする能力と、極めて大きな話をする欲望が表れていて、このことは疑いなく極めて危険であったのですが、一方、私が物語を語る能力は、また母に喜びをもたらしていて、このことは母を深い矛盾の中に陥れたのです。

にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村



最新の画像もっと見る

コメントを投稿