中国語学習者のブログ

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莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[5]

2012年12月17日 | 中国ニュース

  莫言のスウェーデン・アカデミーでのノーベル文学賞受賞記念講演、今回が最終回です。長い間、おつきいいただき、ありがとうございました。今回も、原文は以下にリンクを貼っておきます。

http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-5.html

  莫言のスピーチを読んでいて、彼の少年時代からの人生体験や、故郷の山東省の農村の風土、また人民公社時代から改革開放に至る中国近現代史というものが、彼の文学の作風に強く影響していることが分かりました。そしてまた、彼が紹介した小説を、一度読んでみようか、という興味を引き起こすことができました。
  ただ、今回の最後の部分では、最後の小学生時代に学校から「苦難の展示」を見に行った時のこと以降の話は、いかにも付けたしのようで、その前のところまでで打ち切ったほうがよかったような気がします。

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  最後にもう一編、《生死の疲労》のことを話させてください。この本の題名は仏教の経典から取ったのですが、聞いているところでは、この題名を翻訳するのに、各国の翻訳家が頭を悩ませているそうです。私は仏教の経典を別に深く研究した訳ではないので、仏教に対する理解はたいへん浅いものですが、ここでそれを題名としたのは、私は、仏教の多くの基本思想とは、真の宇宙の意識であり、人間社会の多くの紛争は、仏教家の眼から見れば、全く意義の無いものであると感じたからです。このように、ある種の高い目線から人の世を見下ろせば、明らかにたいへん悲しむべきものです。もちろん、私はこの本を布教書にしようとしているのではなく、私が書いているのはやはり人間の運命と人間の感情であり、人間の極限と人間の寛容であり、また人間が幸福を追求し、自分の信念を堅持するための努力と犠牲です。小説の中で、あの己が身ひとつで時代の潮流と抗う「青い顔」は、私の心の中では一人の本当の英雄です。この人物の原型は、私たちの隣の村の一人の農民で、私が子供の時、いつも彼が一台のぎいぎい音を立てる木製の荷車を押して、私の家の前の道を通るのを見ました。荷車を曳いているのは一頭のびっこのロバで、そのロバを引いているのは、彼の纏足をした奥さんでした。この奇妙な取り合わせは、当時の農業集団化の社会の中では、明らかに風変わりで、時代遅れのものでした。私たち子供の目にも、彼らは歴史の潮流に逆行して動く道化に見え、彼らが町を行く時には、私たちは義憤に満ちて彼らに石を投げたりしました。それから何年も経って、私が執筆している時に、この人物、この場面が、ふと私の頭の中に浮かんだのです。私はいつか彼のために本を一冊書くことになるだろう、遅かれ早かれ彼の物語を世の中の人々にお話しようと思っていたのですが、そのまま2005年になって、私があるお寺で、「六道輪廻」の壁画を見た時に、この物語を描く正しい方法が分かったのです。

  私がノーベル文学賞の受賞が決まってから、多少の論争が起こりました。最初、私は皆の論争の対象が私であると思っていたのですが、次第に、この論争がされている対象が、私とは少しも関係の無い人物であるように感じました。私は一人の劇を鑑賞している人物のように、人々の演技を見ていました。私は、あの賞を受賞した人の体が花で埋まって、石ころを投げつけられ、泥水をかけられているのを見ました。私は彼が打ちのめされやしないかと心配しましたが、彼は微笑みながら花と石ころの中から這い出してきて、体についた泥水をきれいに拭き取ると、平然と一方に立ち、人々に向かってこう言いました。一人の作家として、最も良い話し方は、文章にすることです。私が言わないといけない話は、全て私の作品の中に書きました。口をついて出た言葉は、風の間に間に散って無くなりますが、ペンで書いたものは永遠に磨滅しません。私は皆さん方に辛抱強く私の本を読んでほしいと思います。もちろん、私は皆さん方に私の本を読めと強制する資格はありませんが。

  よしんば皆さん方が私の本を読んでも、皆さん方が私に対する見方を変えてくれるとは期待していません。世界中捜しても、全ての読者に好かれる作家などいません。今日のような時代ではなおさらそうです。

  私は何も話したくないのですが、今日のような場合は話をしなければなりません。それで、簡単にあと幾つかお話をします。

  私は物語の語り部なので、やはり皆さんに物語をお話します。1960年代、私が小学三年生の時、学校から苦難の展示会を見に行きました。私たちは先生の引率で、声を出して大声で泣きました。先生に私のパフォーマンスを見せるため、私はもったいなくて顔についた涙を拭くことができませんでした。私は、何人かの同級生がこっそり唾を顔に付けて涙を流したふりをしているのを見ました。私はまた一群の本当に泣いたりウソ泣きをしている同級生の中で、一人の同級生は、顔に一滴の涙も付けず、口からも一言も発せず、手で顔を覆うこともしませんでした。彼は大きく眼を見開いて私たちを見て、眼からは驚きと困惑の表情が浮かべていました。その後、私は先生にこの生徒の行為を報告しました。それで、学校はこの生徒を警告処分にしました。それから何年も経ってから、私が自分が先生に密告したことを悔いて告白すると、先生はこう言いました。あの日、先生にこのことを言いに来た生徒は十数名いたと。この生徒は数十年前にもう亡くなったのですが、彼のことを思い出す度に、私は心から申し訳なく思います。この事件によって私が悟った道理は、多くの人が泣いている時、泣かない人がいることを許さなければならない。泣くことがパフォーマンスになっている時は、なおさら泣かない人を許さなければならないということです。

  もう一つお話をします。三十年余り前、私はまだ軍隊で働いていました。ある日の晩、私が事務所で本を読んでいると、年配の長官が扉を開けて入って来ました。私を面と向かった位置で見ると、こう独り言を言いました。「ああ、誰もいないのか。」私はそれで、すぐに立ち上がって、大声で言いました。「どうして私は人ではないのですか。」その長官は私にたてつかれて顔を耳まで真っ赤にし、気まずそうに出て行きました。このことがあって、私はしばらく得意満々で、自分が勇気ある闘士であると思っていました。けれども何年かして、私はこのことで深く心がとがめるようになりました。もうひとつ、最後のお話をさせてください。これは何年も前、私の祖父が私に話して聞かせた話です。八名の外地へ出稼ぎに行った左官が、暴風雨を避けるため、荒れ果てた寺の中に非難しました。外では雷鳴が次々と鳴り響き、火の玉がいくつも寺の門の外を行ったり来たり転がり、空中では更にぎいぎいと龍が叫び声を上げているようでした。八名は皆あまりの恐ろしさに肝をつぶし、顔から血の気が引いていました。一人が言いました。「私たち八人の中に、一人天に背いて悪事を働いた者がいるにちがいない。悪事を働いた者は、自分で寺を出て、罰を受けるべきだ。そうすれば、良い人間は巻き添えにならずに済む。」当然、誰も出て行こうとはしません。また一人がこう提案しました。誰も出て行きたくないのであれば、皆、自分の麦藁帽子を外へ放り投げてみよう。誰の麦藁帽子が風に吹かれて寺の門を出たかで、誰が悪事をしたかが分かる。それでその男に出て行って罰を受けてもらおう。」それで皆は自分の麦藁帽子を寺の門の外へほうり投げたところ、七人の麦藁帽子は風で寺の中に戻されましたが、一人の麦藁帽子だけ、風に巻かれて外に出て行きました。皆はこの男に罰を受けるよう促しましたが、もちろんこの男は出て行きたがりません。皆は彼を担ぎ上げ寺の門から放り出しました。物語の結末は、おそらく皆さんが想像された通りです。その男が寺の門を放り出されるやいなや、その荒れ果てた寺は、轟音をあげて崩れ落ちました。

  私は一人の物語の語り部です。物語を語ることで、ノーベル文学賞を受賞しました。私が賞を受賞した後、たくさんのすばらしい物語が起こりました。これらの物語により、私は真理と正義は存在するのだと堅く信じるに至りました。

  今後の年月でも、私は引続いて物語を語っていきます。

  ありがとう、皆さん。

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