中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[2]

2012年12月14日 | 中国ニュース

  前回に続き、莫言のスウェーデンアカデミーの講演、2回目です。

  原文は、例によって、次のリンクからご覧ください。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-2.html

  前回のお話で莫言の原点が、農村での、1950年代終わりの大躍進の後の自然災害期の飢え、そして今はもう亡くなっていますが、母親の強い影響力によることが分かりました。
  第2回の今回は、貧しさゆえ小学校を中退し、牛や羊の放牧をして一家の生計を助けていかなければならなかった少年時代、軍隊に入り、折しも70年代後半からの改革開放政策により、大学に行き、作家としての一歩を踏み出すという幸運に恵まれた青年時代と話が進んでいきます。

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  ことわざに、「山河を改造するのは容易いが、本性を入れ換えるのは難しい」と言います。私は父母からどんなに懇ろに教え導かれようと、話をするのが好きな天性は、改まりませんでした。このことは私の名前、「莫言」(言う莫れ)を、ちょうど自分に対する皮肉のようにしています。私は小学校を卒業前にやめてしまいました。というのは、幼い頃は体が弱く、重い仕事ができず、荒地の草むらに行って牛や羊の放牧をするしかなかったからです。私は牛や羊を連れて小学校の門の前を通る時、以前の同級生達が学校の中でわいわいがやがややっているのを見ると、心の中が悲しさと寂しさで一杯になりました。人間というものは、たとえ子供であっても、集団を離れるとどれほど苦痛か、深く会得しました。荒れ地に着くと、私は牛や羊を放ってやり、彼らに自由に草を食べさせました。青い空は海のようで、草地は果てしなく広がり、周囲には人影が無く、人の声はせず、ただ鳥が空の上で鳴いているだけでした。私は孤独で、寂しく、心の中はからっぽでした。時には、私は草地の上に横になり、上空を物憂げに漂っている白雲を見つめ、頭の中ではたくさんの訳のわからない幻想が浮かんできました。私たちの故郷にはたくさんの、キツネが美女に化ける話が伝わっていました。私はキツネが美女に化けて、私といっしょに牛を放牧する幻想を思い描きましたが、遂に実現しませんでした。けれども一度、真っ赤なキツネが私の目の前の草むらから跳び出してきた時には、私はびっくりして、しばらく地面にしゃがみこんでいました。キツネが走り去り跡形も無くなっても、私はまだそこでぶるぶる震えていました。ある時は、私は牛の傍に佇んで、コバルト色の牛の眼と、牛の眼の中に映った自分の姿を見つめていました。ある時は、私は鳥の鳴き声を真似して上空の鳥と対話しようと試み、またある時は、一本の木に対し私の気持ちを訴えました。けれども鳥は私を相手にしてくれず、木も私を相手にしてくれませんでした。それから何年も経って、私は小説家になると、当時のたくさんの幻想は、皆私に小説に書かれました。多くの人が、私の想像力が豊かだとほめてくれ、何人かの文学愛好者は、私に想像力を養う秘訣を教えてほしいと言いましたが、これには私は苦笑するしかありませんでした。ちょうど、中国の先哲、老子が言ったように、「福は禍の伏する所、禍は福の倚る所」であり、私は幼くして学校をやめ、飢えと孤独、読むべき本の無い苦しみを経験しましたが、私はこのために先輩作家の沈従文のように、早くから社会や人生という大著を読み始めました。前に述べた、市場に行って講談師の講談を聞いた話は、この大著の中の1ページに過ぎません。

  学校をやめてから、私は大人たちの中に混じり、「耳学問」の長い人生を開始しました。私の故郷は嘗て一人の物語を語る偉大な天才、蒲松齢を輩出しました。私たちの村の多くの人は、私も含め、彼の後裔です。私は集団農場の畑の中で、生産隊の牛小屋や馬小屋で、祖父や祖母の熱いオンドルの上で、時にはゆらゆら揺れながら進む牛の曳く荷車の上で、たくさんの妖怪変化の物語、歴史上の奇談、言い伝えなどを聞きました。これらの物語は、故郷の自然環境、家族や歴史と密接に結びつき、私にとって強烈な現実感を生じさせました。

   私はいつの日かこうしたものが私の創作の素材になるなどとは夢にも思っていませんでした。私は当時は物語好きの子供に過ぎず、人々の話すのを夢見心地で聞いていました。当時、私は絶対的な有神論者で、私は万物には魂が宿ると信じていて、大木を見ると厳かに手を合わせました。私は一羽の鳥でも願えばいつでも人になると信じていて、見知らぬ人に出会うと、ひょっとすると動物が化けたのではないかと疑いました。毎晩、私が生産隊の労働点数記録事務所から家に帰る時、寄るべない恐怖が私を包み込み、肝っ玉を太くするため、私は走りながら大きな声で歌いました。当時私は変声期で、声はしゃがれていて、声の調子は聞くに堪えず、私の歌声は、村人たちの悩みの種でした。

  私は故郷で二十一年間暮らしましたが、その間家から最も遠くへ行ったのは、汽車に乗って青島に行った時で、危うく木材工場の巨大な木材の間で道に迷うところでした。母が青島でどんな景色を見たか聞いた時に、私はがっかりして母に言いました。何も見なかったよ。ただ積上げられた材木を見ただけだと。しかし、その時の青島行きで、私に故郷を離れ外の世界を見たいという強烈な願望が生じました。

  1976年2月、私は招集に応じて軍隊に入るため、背中には母が結婚の時の首飾りを売って買ってくれた四冊の《中国通史簡編》を背負い、高密県東北郷という、愛憎半ばする場所を出て、我が人生の重要な時期を開始しました。私が認めざるを得ないのは、もしも何年にも亘る中国社会の大きな発展と進歩が無かったら、もしも改革開放が無かったら、私がこのように作家になることなどあり得なかったということです。

  軍営での無味乾燥の生活の中で、私は1980年代の思想解放と文学ブームを迎えました。私は耳で物語を聞き、口で物語を語る子供から、ペンを執って物語を著述することを試み始めました。最初の道のりは決して平坦ではなく、私は当時は二十年余りの農村生活の経験が文学の豊かな鉱脈であることなど別に意識していませんでしたし、当時は文学とは良い人の良い行いを書くこと、すなわち英雄や模範を書くことだと思っていました。ですから、いくつか作品を発表しましたが、その文学価値は低いものでした。

  1984年秋、私は解放軍芸術学院文学系に入学しました。恩師で著名な作家、徐懐中の指導の下、《秋水》、《枯河》、《透明なニンジン》、《赤いコウリャン》等の短編小説を書きました。《秋水》という小説の中で、はじめて「高密県東北郷」という文字が出てきます。これより、あちこち流浪していた農民が自分の土地を得たように、私という文学の放浪者は、遂に身の落ち着け所、心の拠り所を得ました。私の文学フィールドである「高密県東北郷」を作り出す過程で、アメリカのウィリアム・フォークナー、コロンビアのガルシア・マルケスは、重要なヒントを与えてくれました。私は彼らの作品をまじめに読んだわけではありませんが、彼らが切り開いた勇敢な精神は私を励まし、一人の作家は必ず自分のフィールドを持たないといけないということを理解させてくれました。人間は日常生活では謙虚で譲歩しなければなりませんが、文学の創作では、大威張りで、独断専行しなければならないのです。


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