いかりや爆氏の毒独日記

最近の世相、政治経済について「あれっ?と思うこと」を庶民の目線から述べていきたい。

小沢「ウルトラC」説 勝っても首相に就任せず 野党に譲って連立?

2010-08-28 20:21:55 | 日記

本日の東京新聞の2面の見出しである。

 民主党代表選で、小沢一郎前幹事長が勝った場合でも、首相に就任しないのではないかという見方が出ている。小沢氏はそもそも首相を目指すタイプではなく、野党と連立を組むため、首相の座を野党の党首クラスに譲る「ウルトラC」を考えているというのだ。
 「基本的には、代表になった人が首相をやるが、小沢さんはもともと『どうしても首相になりたい』という人じゃない」
本来、小沢氏はトップにかつがれるより、ナンバー2として実権を握るタイプの政治家。海部政権で、自民党幹事長、細川政権では新生党代表幹事、鳩山政権では幹事長として権勢をふるった。
政治資金事件では、検察審査会の対応次第で強制起訴になる。首相になれば憲法の規定で起訴をまぬかれることができるとはいえ、・・・健康不安もある。
 こうした事情とは別に、小沢氏は「ねじれ国会」を解消する奥の手として、首相ポストを野党側に明け渡して連立を組むのではないか、という憶測も広がっている。・・・以下省略。

  このウルトラC説は単なる噂の域を出ないが「ねじれ国会」の下では小沢氏がめざす改革は容易ではありません。法案可決には最低限、衆議院員数三分の二以上が必要となる。野党との協力で凌ぐなどとは甘い。その程度の連立は必須条件となる。小沢氏が代表選挙にのぞむにあたりその程度のことも考えずに代表選に立候補するなどあり得ない。

 マスコミの偏向報道には目に余るものがあるので、そのままを信用はできない。フジTV「新報道2001:8月22日放送」によれば、小沢氏の立候補すべき 19.8% 立候補すべきではない 75.8% (8月19日調査)だという。

 しかし、最近の日本経済の急速な悪化(円高、株価低迷など)で、菅政権が露呈している無為無策で雰囲気は一変しつつある。それを意識してか、菅首相は本日も北九州を訪れ、小倉北区の東芝北九州工場で、LED(発光ダイオード)チップ生産現場を視察した。午後は化学メーカー、戸田マテリアルの北九州工場(同市若松区)も視察。参院選で消費税アップを唱えるような菅政権では、日本経済は任せられないという焦燥感が国民に広がりつつある。

 やはりここは豪腕の小沢さんの登場を期待する国民が増えているのではなかろうか。そして、あり得ないかもしれませんが、少数政党ながら国民新党党首、捨て身の男亀井静香氏の首相就任であれば言うことない。日本経済回復も彼なら必ずやり遂げてくれるに違いない。



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2 コメント

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レンホークリーン・・・ (明け烏)
2010-08-28 22:59:45
クリーンな政治家云々を初めて耳にしたのは、ロッキード事件直後の「クリーン三木」ではなかったかと思う。ところがそれから35年以上経つのに、これに代わる言葉が出てこず、レンホー女史あたりが未だに「クリーンな、クリーンな」と連呼しているのは甚だ、滑稽である。
汐留の広告社が思いつかないくらいだから本当にこれを代替するものが見つからないに違いない。「清潔な」といえば黴菌のいないというイメージだし、「ご清潔な」といえば男女のあちらの関係を含む意味にしか使われていないのである。

小は店員もいない個人商店から大は一部上場の企業まで、それを経営するには、「きれいごと」だけでは済まないのは当然の話である。ただ大の方は「きれいごと」で済まない金額が多額で、小はその額が小さいから一見すると小が若干クリーンに思えるという程度だろう。
政治家もまた然り。小は田舎の市会議員から、大は20人以上の秘書をかかえるといわれる大政治家まで、政治活動は「きれいごと」ではやっていけないくらい、いい歳をした大人なら誰でも納得済みのことである。
その昔、自民党時代に東京の下町を選挙区とする国会議員には忘年会のお呼びが200件から入ったそうである。ご祝儀をもって出掛け、最初の一口だけは飲まねばならないから秘書何人かと手分けして行っても忘年会シーズンが終わると金庫は空になり、当該議員を含めて事務所スタッフ一同、半死半生になったといわれる。

レンホー女史、こんなことも知らないのであろう。ちょっと若い頃からチヤホヤされ過ぎたのかもしれぬ。こういうお頭(オツム)の弱い女の唱える「ご清潔」とやらを「レンホークリーン」と呼びたい。
歴史小説 (明け烏)
2010-08-29 01:00:50
歴史物または歴史小説といえば誰でも司馬遼太郎氏や塩野七生氏を思い浮かべるであろう。私も同感である。塩野氏の「ローマ人の物語」など、よくぞ日本人がこれを書けたものだと、有り得ぬ奇跡、または天の配剤としか思えず呆然としたものであった。
しかし敢えてここで別の二人の天才を挙げてみたい。

一人は大仏次郎氏。この作家は「帰郷」を書いたかと思えば「鞍馬天狗」のような娯楽小説も書いているが、「ドレフェス事件」という西洋近代史に題材を取った優れた小説を書いている。私はこれを読んで初めてシオニスト運動の出発点となった「ドレフェス事件」とはどういうものであったのかをビビッドに理解したのである。素晴らしい作品であった。「鞍馬天狗」の印象が強かったため、同姓同名の別の作家がいるのでは、と疑ったのは、やや恥ずかしいことではあったが。

もう一人は想像力の怪物、山本周五郎氏である。この方の「栄花物語」には、周囲が嫉妬から出鱈目に作り上げた「賄賂政治家」というイメージや袋叩きに何の言い訳もせず、黙々と難局の解決に力を尽くしてゆく田沼意次という本物の政治家の姿が描かれており、誤ったイメージで胡散臭く思っていた自分が恥ずかしくなったものであった。おそらく池波正太郎氏の「剣客商売」にも強い影響を与えているものと思われる。
残念なことに人が嫉妬と既成のイメージによって動くのは、時代が変われど変わらぬものらしく、田沼意次の息子意知が江戸城中で旗本の佐野政言に斬られると、佐野が「世直し大明神」と祀られたりしているところまでため息が出るくらい、そっくりである。

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