烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

表現と意味

2006-11-25 23:53:43 | 本:哲学

 『表現と意味』(ジョン・R・サール著、山田友幸監訳、誠信書房刊)を第3章まで読む。発語内の力の体系的分析、間接的言語行為の分析、フィクションの言語的身分について述べられている。その中から興味をひいた部分を書き記す。
 発後内行為における「世界」と「言葉」の間の方向性について。

いくつかの発語内行為は、その発語内の目標の部分として、言葉(より厳密に言うと、その命題内容)を世界に合致させなければならず、他の発語内行為は、世界を言葉に合致させなければならない。断言(assertion)は前者のカテゴリーに入り、約束は依頼は後者のカテゴリーに入る。

 言語を世界に合わせるか、世界を言語に合わせるか、人間のさまざまな営みを考える上でこの方向性は興味深い。科学することは言語を世界に合わせることだろうし、芸術は世界を言語(表現)に合わせることだろう。政治も世界を言語に合わせようとする行為だろうか。歴史は科学としては言語を世界に合わせる行為だろうが、ここに政治が絡むと複雑となる。そしてこの「世界」というものを複数あると考えるとさらに面白い。

 フィクションの論理的身分について。

 人間の言語がフィクションなるものの可能性を許容しているという事実は、人間の言語に関する一つの奇妙で特異で驚くべき事実である。ところがわれわれは、フィクションに属する作品を識別し、理解することに何の困難も見出さない。このようなことは、いかにして可能なのであろうか。

 戯曲のテキストの発語内の力は、ケーキを焼くためのレシピの発語内の力に似ているように私には思われるのである。それは、ものごとのやり方、すなわちその劇を上演するやり方についての、指図の集まりなのである。

レシピ(指令書)のようなものとしての言語という考え方。これはちょうどDNAが個体発生のレシピのようなものだという比喩に通じるものがある。文学的テクストをレシピのように解読すること。DNAというものはその遺伝暗号の配列自体も重要だが、各遺伝子がどのタイミングでどのように発現するかも決定的に重要である。芸術的効果が最もうまく発現するように配置されたレシピとしてテクストを読んでみるのも面白いかもしれない。