根無し草的状態におかれることは、他の人々によって認識され、保証される場所を、世界のどこにももたないことを意味し、余計ものであるということは、世界のどこにも帰属していないことを意味している。孤立が孤独の予備的条件でありうる(絶対にそうだとは限らないが)のと同様に、根無し草的であることは余計ものであるという意識の予備的な条件でありうる。
『全体主義の起源』(ハンナ・アーレント著、みすず書房刊)
退屈とどうつきあうかで、ひとの人生の感じかたは、はっきり二つに分かれる。退屈を最悪の患いとして、猫の手も借りたい忙しい人生をねがう人と、退屈を最良の機会として、「想像の尻尾」を生やした人生をねがう人と。
猫の手か、猫の尻尾か、それが問題だ。ひとの人生の問題は、もしかしたら、ただそれだけにつきるのかもしれない。
『感受性の領分』(長田弘著、岩波書店刊)
馴染みの古本屋で見つけた『感受性の領分』(長田弘著、岩波書店刊)を読む。1986年から92年にかけて新聞に掲載されたコラムをまとめたものであるが、時事的なことは書かれていないので今手にとって読んでみても違和感は全くない。一つのコラムに最低一冊の本が関わっており、それを巡る著者の随想であるが、話題は硬軟取り混ぜて幅広く、読書欲をさらにかきたてられる。一貫しているのはことばがすべて地についているということ(それはすなわちことばが浮き上がっている現在に対する批判となっている)。話題がお化けの話(「お化け」)であろうが、屁の話(「への字」)であろうが、ことばが使われている日常という現実にしっかり根付いている。この世に存在しないお化けであっても、「お化け」。ということばは存在し、そのことばによって独特な言語空間ができあがる。大人はそのことばを捨ててしまうから
お化けがいないと知ってのこったのは、何かしら濃密な感覚が失くなってしまったというおもいだ。お化けがいない夜の闇は、なんだかひどく希薄になってしまったような気がする。いまは、夜はますます明るくなり、影はどんどんうすれてしまい、そうして、日常のみえない隣人だったお化けもいない世の中になった。
そういうお化けがみんな、いまはなくなってしまったのだ。人の世のいやなこと、恨みつらみ、不快、無念、鬱屈、失意、挫折、憎悪、願望をことごとく肩代わりしてくれて、人の弱さ、いじましさ、醜さを一身に引き受けてくれたお化けというお化けがいなくなって、明るいばかりの世にのこされたのは人間だけだ。お化けのいない世の中では、もはやみずから思い悩むしか、わたしたちは何もできなくなってしまった。
と著者は書く。
存在しない「お化け」でもことばは立派な力をもつ。上の話はお化けについてだが、これは希望や理想といったことばに読み替えることもできよう。こんなことばを今真顔で語ることが白々しくなってきているとすれば、希望や理想も「お化け」ということばと同じ運命を辿っているのではないだろうか。
と思いつつ、読み進めると「三つの動詞」というところでは現在が圧倒的に名詞が氾濫している時代であるといい、
なんだかんだといってゆたかとされる今日の、そのゆたかさは、おおすぎる名詞をひたすらこしらえて、使いつづけて、使い捨てているゆたかさなのだ。それほどまでにたくさんの名詞をゆたかに手に入れながら、しかしいま、まるでほったらかしにされているのは、動詞だろう。日々にはつらつとした動詞がおとろえてきて、名詞とは逆に、動詞がだんだんに貧しくなっている。
と診断する。実はこの危惧は今に始まったことではなく、西洋から大量の事物が輸入された明治時代にこそ問題であり、著者と同じ問題意識を抱えていたのが、漱石だった。漱石は日記にこう記す。「真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。」 考えて、語り、行うこと。この三つの動詞の重みを受けとめること。この作業は誰も肩代わりしてくれない。自分で行うしかない。大量の新奇で珍奇な名詞が日々生まれ、それを考えることなく知ったつもりになりおしゃべりして、流されることは今ますます増えているといわざるをえないだろう。