烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

表現と意味-2

2006-11-26 22:40:46 | 本:哲学

 『表現と意味』を昨日に続いて読む。
 フィクションと嘘は異なること。嘘をつくことは言語行為における統制的規則に違反することであるが、統制的規則はどれもその内に違反の概念を含んでいる。したがって私たちは規則を学ぶことで同時に違反することがどういうことかを学ぶ。すなわち嘘をつけるようになる。しかしフィクションは単に嘘をつくということではなく、高度な技術である。フィクションの作者は、文を書くことと通して発語内行為を遂行する「まね」をする。発話行為は「本物」であるが、発語内行為は「まね」であるというのがサールの結論である。
 しかし歴史的事実を多く取り入れながらフィクションを作る場合、歴史的叙述と歴史的フィクションとはどこに境界線があるのだろうか。これは単に実証的文献の有無により決定できる問題ではないように思われる。またフィクションか否かの判定は一般にそのテクスト自身だけではできない場合もある。歴史的文献については、残存する他の文献との整合性により判断されるのであろうが、それも絶対的な基準ではない。報道文のような事実を報告する文章であっても、私たちはそれが新聞の然るべきところに掲載されているから、事実の報道だと了解する。もしこれが小説欄に掲載されていたら、小説の一部と解釈するだろう。
 それにしても論文の最後になって著者が呈している疑問は単純ながら真実をついている。いわく、

なぜこのような事柄をとりあげて論じるのかという疑問である。すなわち、大部分においてまねごとの上での言語行為からなるようなテキストに、われわれはなぜこのような重要性をみとめ、努力をそそぐのであろうか。(中略)この疑問に対しては、私の考えでは、単純な解答などまったくなく、単一の解答さえないと私が言うのを聞いてももはや驚いたりはしないであろう。

 最後になってこう言われるとなんだか肩透かしをくったような感じになるが、著者はその解答の一つとして、想像力の産物が果たす役割を挙げている。すなわち「フィクションのテキストによって真剣な(つまり、フィクション上のものであはない)言語行為が伝えられることがありうるという事実」があり、「フィクションに属するほとんどすべての重要な作品は、テキストにより伝えられはするが、テキスト中に属してはいない「メッセージ」ないし「メッセージ群」を伝えている」からであると述べている。
 なぜ昔から小説というジャンルが絶えることなく続いているのか、虚構的存在の分析哲学の小難しい議論はさておきなんとなくわかったような気がした。
 分析を長々と行いながら、最後は常識的な結論に落ち着くというこの議論は次の隠喩の分析でもそうだった。

隠喩による発話は、その真理条件をただ伝える以上のことを行っている。隠喩による発話は、発話の真理条件の一部ではない真理条件をもつ別の意味論的内容を経由して、自分の真理条件を伝える。効果的な隠喩には不可欠な要素だと感じられる、あの表現力は、主として二重の特徴(two features)に関わっている。聞き手は、話し手が言おうとしていることを算定しなくてはならない-聞き手はコミュニケーションに対して、単に受動的に理解すること以上の貢献をしなくてはならない-、しかも、伝達されている内容と関連はあるが別の意味論的内容をたどりきることにより、これを行わなくてはならないのである。

だからつまらないのではなく、とても楽しい。