烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

所有と国家のゆくえ

2006-09-18 22:15:57 | 本:社会

 『所有と国家のゆくえ』(稲葉振一郎・立岩真也、NHKブックス)を読む。所有の問題を巡っての二人の四回にわたる対談を収録したもの。
 市場経済になしにはやっていけないこの社会で発生する不平等をどのように調整するかという問題が議論の大きな焦点となっている。後半はその責任についての議論がなされている。

立岩:・・・そういう人が一人しかいなくたって、その人がこういうシステムのもとではこういう暮らしができるはずなのにそれができないことは不正だっていう言い方は依然として成立しうる。
・・・
稲葉:・・・その人個別の不幸に責任がないとしても、そういう人たちがたくさんいるとしたら、そういう人たちがたくさんいる社会環境を作ったことには責任があるというか、国家はできるだけそういう不幸なひとが少ないようにするし、たまたま自分の責任なしに不幸に落っこっちゃった人たちにできるだけのことをするという責任は、まあ当然帰せられるだろうくらいには言えるだろうと。

個人は生まれつきの資質において異なるし、置かれた状況によってすでに取り返しのつかないようなハンディキャップを負っていることがある。これは必ずしも国家の責任とはいえない部分もある。また個人についても責任があるのかどうかも難しい問題である。

 立岩:・・・結局本人の有責な部分と、そうじゃない部分とを分けて、その結果本人に有責でない部分に関しては社会がっていう話をしていくわけだよね。ぼくはそういう話の組み立て方をしなきゃいけないとは思わない。その理由の一つでもあるんだけれど、それをどうやって仕分けるのと言ったときに何かしらの恣意性が起こらざるをえない。本人の責任なのかそうじゃないのか、こいつは働きたいんだけど働けないのか、働けるのに働いていなのかみたいな。

この議論では責任ということについて様々な意味がこめられているように思う。責任の所在を明らかにしようとする立場は、責任をもっぱら負担の分配と帰属から捉えるもので、責任を引き受けるべきものという考え方に立っている。だから当然その帰属が国家にあるのか個人にあるのか、双方にあるのならどの程度までが個人にあるのかという議論をせざるをえなくなる。
 責任の帰属を敢えて問わないという立場は、責任に答える過程に重心を置いており、応答責任論であるといえる。不幸な他者への配慮があくまで中心であり、救済することが責任を果たすことであるという立場である。
 責任という同じ言葉で議論されているが、このあたりをもう少し明確に切り分けて議論するのが望ましいのではないかと読んでいて感じた。全体の流れからすると、応答責任論が支持されているようだが、他者への配慮は過剰になりすぎると、フーコーが慧眼にも指摘した「生-権力」による支配となる危険もある。結果的に個人を画一化し、規律からの逸脱を厳しく制限することにもなるということは指摘しておいてもいいだろう。配慮に対して十分な理由付けがなされるのかどうかということを批判的に検討する必要があるだろう。