道徳哲学講義

 『道徳哲学講義』(T.W.アドルノ、船戸満之訳)を読む。アドルノがフランクフルト大学で「道徳哲学の諸問題」という題で行った講義録から作成したもの。カントの『純粋理性批判』のアンチノミーから話を始める。ここで取り上げられているのは、特に第三アンチノミーで自由と必然をめぐる対立である。カントは理性の世界において現象する世界とは異なる因果性(自由による因果性)を認める。この自由こそが道徳の根拠となる。「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である」(『実践理性批判』)というわけだ。他律ではなく自立としての自由こそが道徳の条件である。ここから有名なカントの定言命法が出てくる。現象界と英知界という二つの世界について、



実際にこの二つの領域が互いに相容れないなら、道徳法則が所与であるとされることで人間は、初めから実現できない事柄が事実上課せられていることになるでしょう。そのときこの過剰な要求の中にはある種の非理性が横たわることになるといいたい。


とアドルノは述べる。
 カントの道徳哲学は、法則至上主義だから、この法則に従うかぎりにおいて、尊敬に値する人間とされる。尊敬という感情は、「外的影響を通じて感受された感情ではなく、理性概念を通じて自分で引き起こした感情である」とカントは断言する。自由と合法則性を結ぶ「尊敬」という概念が導入されるが、自分でこう定義しているからこれは自分の主張を補強するために定義を決めたと批判されてもしかたがないような気がするね。
 アドルノは嗅覚鋭くこの自由の抑圧的性格の胡散臭さを嗅ぎ取る。



まず定言命令そのものが必然性の性格をもっており、次にこの定言命令は私に対して戒律の形をとって必然として現れました。そして最後に私がそれに対して払うべき尊敬の形において、私は今一度この可能性を反映すべきであるとされました。この布置の内部で自由に残された唯一の可能性は、実に奇妙なことですが、実際には、私がこの尊敬、この合法則性、この戒律を逃れる可能性だけでしょう。換言すればカント哲学における自由のための空間は、この規定を真剣に受け取るなら、事実上もっぱら否定性に限られます。その場合、私が実際に自由に振舞い、道徳法則がその普遍性そのものにおいて自由の原理と調和するはずという考え方を度外視するときこそ、本来私は自由であるということになります。


 この抑圧的契機の中に「お前はなさねばならない。なぜならこうしなければならないからだ」という超自我の命令のリフレインがこだまする。
 カントの道徳では幸福は度外視される。幸福を念頭においた行動をしてはいけないのであり、ただ法則に従うことだけが許されている。そして法則にしたがって行動できるようになった時に初めて幸福を希望する資格を手にすることをカントは許す。徳と幸福の一致という非常に困難なことを彼は「最高善」として掲げた。ここに至るまで定言命令を繰り返す超自我はわれわれの尻を叩き続けるというわけだ。
 カントにとって誰にでも普遍的に当てはまるということが道徳を論じるにあたって大前提であったことは頷ける。しかしこの定言的命令は、あくまで個人が心の中に星辰のごとく掲げる道徳的規準として、過去の私と現在の私あるいは現在の私と未来の私を比較したときに目指されるべきものではないかと思う。これが個人と個人を比較するように適用されたとき、個人を抑圧する全体主義的傾向を帯びてしまうのではないかと感じた。

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