烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

暴走する世界

2006-05-17 23:45:21 | 本:社会

 『暴走する世界』(アンソニー・ギデンズ著、佐和隆光訳、ダイヤモンド社刊)を読む。この小著は、1999年に刊行されているからすでに7年が経過していることになる。情報化社会になりグローバル化が進行することにより変容を遂げつつある社会の重要な要素(リスク管理、家族、伝統、民主主義)を論じている。
 第3章では、伝統について論じられている。グローバル化の波が押し寄せてきた時に、最も拒絶反応が先鋭化するのが地域あるいは共同体の伝統が揺るがされるときだろう。著者は伝統は真理の響きをもつものであり、グローバリゼーションが進んでも人々は伝統を「真理」であることを盾にとってその正統性を主張するものだと述べる。一見そうした伝統には遠い昔から伝えられている性質のものだと思い込みがちであるが、この「真理」とされる伝統は、何世代も前から連綿と続いているものである必要はなく、つい最近始められたものであっても構わない。要はその共同体の人びとにとって守るべき価値がありとされているかどうかが重要なのである。なぜそうまでして伝統にこだわるのかといえば、それが共同体の人びとにとって、「人間生活に連続性を与え、その様式を定めるのが伝統だから」である。


 同じことを繰り返すことは、人にとりあえずの安心を与える。そして繰り返す作業の意味が自分でよく分かっていない(昔からそうしている)ときの方が、判断する必要がないから安楽で心地よい。グローバリゼーションが進む時、共同体の人びとは自分たちの伝統に変更を迫られることに拒絶反応を示しているように見えるが、伝統というものが共同体の歴史の中で変化してきていることからすればその解釈は間違っている。意味もなく繰り返してきたことに意味づけを自覚的に見出さなくてはならないことが不安を呼び起こすからなのだ。もともと意味なんかないのだからそれはある意味当然である。そんなときに伝統の正統性を過度に強調して頑なな態度をとるのはその表れだろう。どこかの神社に毎年参拝することも、その作られた伝統の中枢にある無意味性を隠そうすればするほどその態度は頑なに語る言葉は硬直したものになる。


 ギデンズも指摘しているが、「伝統が生きながらえるためには、内輪の儀式による正当化ではなく、説得力ある-他の伝統、他のものごとの処し方と比較対照させての-正当化が欠かせないのである」。