烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

生と権力の哲学2

2006-05-16 23:59:47 | 本:哲学

 前日に引き続き『生と権力の哲学』についての感想である。
 フーコーの精神分析批判はほんとうに正鵠を得ているのかどうか。「生権力」という概念は、確かに優れたもので近代社会に浸透するミクロな権力を浮き彫りにするのに役立っている。しかしこのツールはあまりにも切れ味がよすぎるので、手当たり次第にこの刃物でものごとを切っているとかえって「生権力」のありかたを見誤らせてしまう心配はないだろうか。



 そこで語られる具体的なテーマとは、まずは家族である。フロイトは家族を、まさに「人間」が存立するための根幹的な主題として扱った。それは「法」的な社会システムに、<生権力>を入り込ませていく領域そのものではないのか。


 確かにフロイトが扱った家族というものは西洋の家父長的な家族であった。しかしものごとの分析のためにとりあげたある対象が、特定の歴史的文脈を背負っていることは人間のシステムである以上当然のことであり、そこの抑圧的な力学が作用しているからといってただちに拒絶するべきものと断ずるのは早計だろう。



カウンセリングの文化が、「告白」という<生権力>的なシステムを展開させながら、「真理への意志」そのものを駆動させた装置の末裔であることはいうまでもない。それはまさに「言説」を扇動し、性を「真理」として発見すべく人びとを刺激するものである。精神分析は、まさに「法」という旧来の、「罪」と「罰」をもたらす「超越」のイデオロギー体制として、「生」のシステムのなかに入り込んでいく。


はたしてそうだろうか。ここで著者が批判している「精神分析」は極端に戯画化されたものではないだろうか。批判すべきものがあるとすれば、それは精神分析の作業そのものではなく、そうした営みの中に過剰に「権力」を読み込み抑圧するシステムであると設えてしまう言説それ自体の「権力」的運動ではないのか。上のような批判とは異なり、家族システムというのは、「超越」的なイデオロギー体制ではなく、内在的な力学的システムだと私は思う。注意しなければならないのは家族というシステムは、極めて容易にイデオロギーが投影されるため、その光源がどこから来ているのかをきちんととらえないといけないということだ。ややもすると投影されているスクリーンにあたる家族システムを廃棄すべき対象だと勘違いしてしまうのだ。
 なかなか後半の主題のアガンベンやネグリに行き着かないのだが、ここは議論のだいじな結節点だからどうしてもこだわってしまう。