『ツチヤ教授の哲学講義』(土屋賢二著、岩波書店刊)を読む。講義をそのまま口述筆記したような形の入門書である。哲学とはそもそもどういう営みであるかということから説き起こし、デカルトやプラトンの考えを批判的に解説していく。言葉の意味とはどういうものであるのかということが中心にあり、行き着く先はウィトゲンシュタインの言語ゲーム論である。
土屋氏が哲学を志すようになったきっかけは、ハイデガーの『存在と時間』であったことがこの講義の中でさりげなく紹介されているが、結局はその考え方には限界があると彼は考えている。
現象学やハイデガーは、解明すべきは、世界がどうなっているかということではなくて、われわれが世界をどう意識しているか、どう理解しているのかということだと考えました。だから現象学では、Xとは「X」と意識されているものである、と考えているといってもいいとぼくは思います。たとえば、存在であれば、「存在」と意識されているものです。(中略)でも、彼らのやり方には限界があるとぼくは思います。何よりも、「「X」と意識されているもの」というのは、どのようなものなのか、どのような仕方で取り出すことができるのか、ということに関して疑問を感じるんです。
形而上学は結局のところ、ことばを言い換えたり、われわれが使っている言葉のルールを変更しようとしているとしか思えない。(中略)だから、ぼくはこういう形而上学の試みというか、観察可能な事実を超えたものを明らかにしようとする試み自体に、根本的な疑いをもっています。
ウィトゲンシュタインも言葉で意味がどうして伝えられるのかということに生涯をかけて格闘した人だった。
脳科学も最近大いに進歩しているが、脳の中に「意味」それ自体が潜んでいるわけではないだろう。軽妙な語り口ながら根本のところはしっかりとおさえた名講義である。