烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

善悪は実在するか

2007-10-19 10:53:31 | 本:哲学

 『善悪は実在するか』(河野哲也著、講談社選書メチエ)を読む。
 同じ著者による『<心>はからだの外にある』に続いてアフォーダンス理論に基づく倫理学批判である本書を読む。この本ではプラトン的な価値と道徳観によらず、人間の個別性を重視しかつ客観主義的な倫理学の構築を試みている。
 第一章ではアフォーダンス理論のおさらいで、環境中に価値や意味は実在しており私たちはそれを直接知覚するのだということを確認する。知覚するものが何であるかを把握するにあたり、現象学とは異なり、「意味すなわち因果的効力をもった世界こそが志向性を可能にする」と述べる。対象の性質はそれ自身に内在しているものではなく、あくまでもそれと関係する主体との関係で決定されるが、重要なのはこれが「主観的」なものではなくあくまでも客観性をもっているという点である。
 これに続く第二章では事実と価値の問題が取り上げられ、存在から当為は導出できないとして事実と規範を峻別する反自然主義を批判する。この議論ではカンギレムの健康に対する考え方を援用し、自然の中に規範性が存在すること、そしてそれは社会の規範性とは異なることを指摘する。健康と病気と善悪は別個のものでありながらしばしば社会では結び付けられてしまうことが多いので、この議論は興味深い。アフォーダンス理論に基づく著者は当然社会の規範性より自然の規範性を優位におく。

社会の規範性は、生命の規範性に比べればあきらかに曖昧であり、生命的規範からの派生物、あるいは、その未熟な模倣物でしかない。なぜなら、生物の場合には、作りだすべき正常状態がどのようなものであるかが前もって分かっているのに対して、社会の場合は正常状態とは何かが、自明ではないからである。ある生物個体が健康であるかどうかは明確である。病理的状態は環境適応の柔軟性を奪い、個体の維持を危うくする。この明確さに対して、「健康な社会」という概念のいかがわしさを対置してみればよいだろう。

生命の「規範性」と社会の「規範性」は著者も指摘しているように明らかに異質なものなので、何かより適切な用語で区別をより明確にしたほうがよさそうに思える。この議論でも生物個体の規範性は一個体によって解釈される主観的なものではなくあくまで客観的なものである。

社会的規範は、その規範を内在化していない社会のある部分(ある人びと)にその適用を求める要請として存在している。したがって、社会的規範が、ある種の強制性、あるいは外的な指令性をもたなくなったとしたら、それは規範でなくなってしまうのである。人びとがある要請を従前に内在化したらならば、社会的規範とはならない。それは「自然」(すなわち、習慣)となるのだ。したがって、社会的規範は、あたかも社会的規範の模倣を目指しつつ、それに至らないでいるものであり、自己を内在化していない人たちに自己を強いる力の表れなのである。

ここでクリプキの「ヴィトゲンシュタインのパラドックス」による規則に従うことの問題が取り上げられ、社会的規範のプラトン主義的側面を指摘しその意味を明らかにしている。唐突な印象をもったが非常に興味深い指摘だ。
 第三章では道徳的価値の実在性の問題が取り上げられる。これはおなじみの問題だが、著者は道徳判断を主観的なものとすることの危険性を指摘する。

主観主義の問題は、もし善悪が主観的に決定されるとするならば、私たちは善悪の判断に誤ることがなくなってしまう点である。相互主観主義によれば、ある社会のノモスにしたがって判断された善悪には誤りがないことになる(そして、ある人がその社会のノモスに反した道徳判断をした場合には、その個人はつねに判断を誤っていることになる)。一方、個人主観主義者はそもそも判断を誤る可能性がない。(中略)
 真理とは主観的なものだと考える観念論の最大の問題は、人間が誤る可能性がなくなってしまう点にある。

 さらに著者は行為の倫理的判断においてその行為によって誰がどう影響を受けるのか、その効果を考慮しなければならないことを強調し、従来の倫理学が「特定の誰かの行為が特定の誰かに影響を与える」という点を考慮していないことを批判する。そこが疎かになった道徳を著者は「法化した道徳」であるとする。
 道徳の規範性(指令性)がどこからくるのかについては、著者が述べる共感を基礎におく道徳から説明するのは難しいように思われるが、第四章で著者は規範性が互酬性から来ると説明する。そしてこの規範性は国家に媒介されて「法」として表現されると「誰から誰へ」という具体性がなくなり権力的な面が強まると指摘する。
 最終章では著者のいう「法化した道徳」の問題点を指摘し、ケアの倫理、修復的司法の観点を取り入れることの必要性を説く。生物としての人間に基礎をおきつつ、感還元論に陥ることなく倫理の問題を論じているたいへん刺激的な本であった。
 最後にマルキ・ド・サドの哲学にも触れているが、サドのいう「冷淡でつむじ曲がりの人間」の存在(悪魔的悪)をどうすればいいのかは一連の議論におけるアキレス腱であるように思う。この点を指摘していることからもサドの洞察の深さがより際立つ。