烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

針の上で天使は何人踊れるか

2007-08-18 20:09:26 | 本:歴史

 『針の上で天使は何人踊れるか』(ダレン・オルドリッジ著、池上俊一監修、柏書房刊)を読む。ヨーロッパ中世末期から近世にいたるまでのさまざまな歴史的事実の中で、現代の私たちからは摩訶不思議、荒唐無稽にしか見えない現象について、それがいかにその時代にあっては「合理的」であったかを説明した本である。表題の天使についての疑問も、天使という存在が人間と同じような肉体を所有しているのか否かという問題のひとつの応用問題である。天使は聖書においてさまざまな形で人間と交流している。肉体をもつ人間と交流できる存在である以上、なんらかの有形的な存在、すなわち肉体をもつであろうと考えることは、合理的である。天上では無形だが、地上に降り立つときだけ有形となるのか?そうだとすればこの有形の天使は眠ったり、食べたりするのか?セックスをするのか?したいと思うのか?疑問はつきない。
 大前提となっているのは、神は存在し、その下僕である天使も存在するということである。この枠組みの中で考察する以上そうした問題について何らかの解答をせざるをえない。
 私たちがこれらの問題に頭を悩ませていた過去の人々をあざ笑うことができるのは、そうした認識的枠組みを共有しておらず、神を必要としない科学的合理主義の世界観の方が数段優れているということを当然視しているからにほかならない。しかしどちらもこの世界(人間にとって不可思議なこの世界)を解釈しようとする真摯な営みであることにおいては同じである。その枠組みの中で事象を説明、解釈する以上すべては”合理的”になされなければならないのだ。いずれにせよ人間の恣意的な解釈の枠組みだとしていずれにもコミットしない立場は不合理で不誠実な態度なのだと思う。
 だからこの本に書かれているような突飛な事例は、あくまで現在の私たちにとって突飛なのである。監修者も同名の本を著しているが、「動物裁判」の事例も「裁判」という制度が今とまったく違った考えに基いている以上、こうした裁判もありなのである。私たちは、理性を備えた(自分で合理的な判断ができる)人間のみしか裁きを受けられないということを前提としている。だから合理的判断が可能かどうかという境界事例では、裁きにゆらぎが生じる。下は本書で紹介されている事例である。

一九九三年、リヴァプールで十歳の少年ふたりが幼児を殴り殺した。その後、ふたりは成人と同じ法廷で裁かれ、殺人罪で有罪判決を下された。(中略)少年たちの裁判には前近代の見世物のような「報復的残忍さ」があったと、モリソンは書いている。(中略)当時、少年たちはまれに見るほど大人びていると新聞が書いていたにもかかわらず、少年たちが大人と全く同じように自分たちの行動に責任を負えると思っていた人は、ほとんどいなかった。(中略)この単純な観察結果は他の状況でも明らかなのに、トンプソンヴェナブルズが殺人罪で有罪になったときは無視された。(中略)トンプソンとヴェナブルズの裁判からは、文化によって罪の負い方に対する考えが異なることも見て取れた。今日の大部分の西欧人にとって、豚が法律に違反したという考え方はとても受け入れられない。同様にイギリスの裁判のちょうど一年後に、トロンヘイムの町で六歳の少年ふたりが幼児を殴り石をぶつけて殺すという事件が起きた。ノルウェーの人々にとっては、子供たちに殺人罪を負わせるのは、とても考えられないことだった。ノルウェーの事件はイギリスのそれと非常に似ているものの、地元の社会は全く異なる反応を示した。(中略)罪の負い方に対する考え方は同時代であっても、場所によって、状況によって大幅に変わることがわかる。

受精卵はいつから人間になるのか、苦痛を感じることができる高等な霊長類に権利はあるのか、脳死を人の死と認めていいのかなど生命倫理で議論されるこうした問題も、実は中世のスコラ学者たちが天使について議論していたように、ある枠組みの中で世界をあくまで合理的に解釈しようとする営みであることには変わりがない。こんな珍奇なことが「あった」のだと面白がるのではなく、今現在でもこんな珍奇なことが「ある」のだと考えさせてくれるところに本書の意義がある。