烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

『嵐が丘』を読む

2007-08-22 23:05:25 | 本:文学

 『「嵐が丘」を読む』(川口喬一著、みすず書房刊)を読む。本書のはじめに書かれているように、

『嵐が丘』を読むことは文学理論(の変遷)を読むことだ
解釈の歴史は解釈様式の歴史でもある。
このテーゼはもちろん『嵐が丘』にもよくあてはまる。一九世紀中葉の初期の読者からはじまって、ロマンティシズム、近代リアリズム、モダニズム、さらにポストモダニズムと続く芸術様式の変化に即応して、批評方法もまたさまざまにその姿を変容させてきた。そうした方法の変化がその都度、『嵐が丘』という作品もめまぐるしく変えてきた。

と述べている。こうして作品をどのようなものとして位置づけるかによって、ロマン主義の表現主義的批評、リアリズム批評、修辞的批評、客観的批評、社会学的文化批評などに分類することができる。さらに実際の批評のタイプとして、精神分析的批評、神話的批評、意識の批評、言語学的方法、マルクス主義批評、フェミニズム批評、構造主義批評、ポスト構造主義批評など実にさまざまな方法論がある。
 要は作者と作品と読者の関係をどう位置づけるかということと、作品にあくまで内在して批評をするのか、作品の外の現実も考慮に入れて批評をするのかということで立場を分けることができる。
 『嵐が丘』という小説は、この数多くの批評を受け容れるまことに奥の深い小説であるということだ。いくつもの解釈を受け容れるというのは名作とされるゆえんであろう。
 文学作品というのは科学と違って評価方法が多様であるというのが面白くもあり、厄介なところでもある。評価は一定の基準に則ってなされなければならないから、評価者はルールを決め、それに従って批評をする。その中でなされるさまざまな批評を読み比べることは実に面白いのだが、なぜそうした規準で読まなければならないのかという素朴な疑問はどうしても残る。例えば、ニュークリティシズムが提唱した批評の禁止項目として
1.intentional fallacy:作者の個性や動機や意図を詮索してそれにより作品を解釈する過ち
2.affective fallacy:読者の感情に与える効果によって作品を評価する過ち
3.biographical fallacy:作者の伝記によって作品を解釈し、作品によって伝記を修正する過ち
4.documentary fallacy:虚構の文学作品をあたかもそれが歴史的記録であるかのように扱い、そこからその他の推定上の事実を引き出すことができるかのように扱う過ち
などがある。
 しかしカルチュラル・スタディーズを初めとする外在批評は、4の禁止項目をやすやすと侵犯しつつ、非常に興味深い読みを提示している。
 当然のことながらどれが正しい読みかと云う問いに正解はない。どれが生産的な読みか(さらに多くの問題を提議し、さらなる読みを要求するか)ということがもっとっも重要なことであろう。これは数学がさまざまな定義と公理を設定しつつ、どれが最も生産的な数学的世界を作ることができるかで評価されるのに似ていて面白い。文学と数学というと一見水と油のようだが、問題設定によってどのような世界を構成できるかという点でみると共通な部分があるのだ。個人的には作品を作者の意図の下に従属させて解釈するような読みは、発展性に乏しく面白みに欠けるように思う。外在的な批評が生む世界は広そうであるが、作品という虚構世界に矛盾がある場合に現実の世界との整合性をどう処理するかという問題はあるのではないかと思う。
 とにかく読みながらいろいろと刺激を受ける実に楽しめる本である。