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烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

マラケシュの贋化石

2006-01-02 08:44:15 | 本:自然科学
 『マラケシュの贋化石』(スティーブン・ジェイ・グールド著、渡辺政隆訳、早川書房刊)を大晦日から元日にかけて読む。早いもので彼が他界して4年になるんですね。 表題にもなっているエッセーのほかに上下巻あわせて、22(合計23)のエッセーから構成されている。冒頭の贋化石のエッセーは、学生たちにまんまといっぱい食わされて捏造化石を本物と思い、その図版を出版してしまったベリンガー博士についての考察である。昨年は生物学分野での捏造事件が相次いだが、この博士は自ら捏造したわけではないが、真贋を見極める目をもたなかったために哀れな末路をたどったという話である。地質学分野では有名な歴史的事件らしい。この一見他愛もない事件を、例によってグールドは当時の地質学の知的状況を考慮にいれて絶妙な筆致でべリンガー博士を弁護する。 当時(上記の本が出版されたのが1726年)はまだ単純な生物は自然発生するという説が信じられていて、化石というのは鉱物に内在する「力」によって形成されるという説も大真面目に主張されていたんですね。したがってベリンガー博士が太陽や月などの化石の図版も堂々と収録してしまったというわけです。 私たちはいつも後知恵をもって過去をみるから、頓珍漢な事件だと片付けてしまいがちになるが、当時からすれば重大な知的論争の渦が中心にあって、その周辺でそうした事件が生起していたのだということがわかるのである。それに加えて、そうした論争に加担している渦中の人間ほど、自分の結論に矛盾しないような現実だけを見がちであるという、人間の愛すべきと同時に悲しむべき欠点がこうしたエピソードを知ると思い知らされる。 そのほかにも進化論や地質学などの歴史的エピソードをめぐる興味深いエッセーが書かれている。地質学の歴史をおさらいするのに『億万年(イーオン)を探る』(マーチン・ゴースト著、松浦俊輔訳、青土社刊)も平行して読んだ。これで偶然知ったのだが、聖書に付記してあった天地創造の日時(紀元前4000年10月22日土曜日午後6時)が、地質学や生物学の知見により地球の年齢が格段に古いということを受け容れて抹消されたのがそんなに昔ではないということだ。それによるとこのアッシャー(上の日時を地割り出した司教)の年譜がケンブリッジ大学出版局の聖書から削除されたのが1900年、オックスフォード大学出版局のそれから抹消されたのが1910年だという。当時10代でその聖書により教育された人が、仮に70年それから生きたとしたら亡くなったのが1980年になる。アメリカでは、創造説を進化論と併記して教えよという運動もあるが、古い聖書の教えを頑なに信奉する人の存在というのは、決して化石のような存在ではないのだと思った。

素数の音楽

2005-12-29 12:25:47 | 本:自然科学

 『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ著、新潮社刊)を読む。 以前読んだ『素数に憑かれた人たち』(ジョン・ダービシャー著、日経BP社刊)が理系向けとするならば、こちらは文系向けのリーマン予想(「ゼータ関数の自明でない零点の実数部分はすべて1/2である」)をめぐるドキュメンタリーである。数式がほとんどでてこないので、リーマン予想が逆にイメージしにくくなっているが、この予想を証明しようとする数学者たちのドラマはより密に書き込まれている。 古代ギリシャのピタゴラスは、数が存在の根本要素と考えこの数が奏でる音楽(天球の音楽)を聞き取ろうとした。一見なにも秩序がないかのように振舞う素数の「音楽」をその中に聞き取ろうとする営みは、美しさが求められる数学の世界ならではと思う。 数が実在するのか否か、すなわち人間が存在しなくても数は存在するのかどうか・・・数学者は当然数は実在すると主張する。数が「実在」するってどんなことなんだろう。 結論はだせそうにないが、私が思うに「数が実在する」と直観する脳神経組織は実在するのだろう。「間違いなく実在する」という感覚には、単に知性的な認識だけではなくある感情が伴っている。これが純粋に経験的なものなのかどうかはよく分からないが、たとえば人の顔や声は、単なるものや音とは違い、私たちに「ありありとした」存在感をもたらす。相貌の失認やカプグラ妄想の例をみるとイメージの認識系と情動系の結合がそうした「ありあり」感をもたらしているようだ。私には分からないが、どうも優れた数学者は、数をありありと感じることができるようだ。 この「ありあり」感を伴うかどうかは、事物を愛情の対象とすることができるかどうかの分岐点ではなかろうか。「○○」を愛することができますかという問いの「○○」の中にいろいろな事物を代入してみる。「ピタゴラス」、「母親」、「りんご」、「メチルアルコール」、「世界」、「一般相対性理論」などなど。数学者は、この「○○」に「数」を代入したときに「イエス」と答える人たちなのだろう。


へんないきもの

2005-12-23 18:29:58 | 本:自然科学

またまたへんないきもの』(早川いくを著、寺西晃絵、バジリコ社刊)を読む。前作にもましてへんないきものたちが登場して楽しませてくれる。私たちは小さいころから「いきもの」とはだいたいこういうものであるという概念を教えられつつ、なんとなく「ああ、こういうものがいきものなんだ」と(乏しい経験を自分なりに積んで)理解して生活している。だからいま、地球という閉じた環境システムが未曾有の危機に瀕しており、毎日多数の(この著書によれば20分に1種、1日に150種、1年間に4万種)生物種が絶滅しつつあると聞かされると、たいてい自分の「いきもの」概念に基づいて、アフリカの平原からライオンや象が、中国の深山からジャイアントパンダが、ジャワの森林からオランウータンが今こうしている時にもわれわれ人間の手によって絶滅への谷は追いやられつつあるとあるのだと思い、ドキュメンタリー番組を見ながら動かしている箸を一時止め、動物保護と地球環境保全のことに思いをいたしつつ、自分の消費行動を(コマーシャルが流れているちょっとの間)深く反省したりするのである。 だがしかし、そうした生物は、上に述べたようないきものばかりではないのだ。自分の体液を凍結して冬を越すハイイロアマガエルもいれば、アルゼンチンの草原に棲むヒメアルマジロもいるのだ。そしていきものがほんとうにたいせつな存在ならば、沙漠にいるヒヨケムシも魚を食すアンボイナも海底に蠢くテヅルモヅルも等しくそうなのだ。 生物の多様性の重要性ということをただ観念的にとらえている人にこの本は、私たちが抱いているところのつうじょうの生物概念とじっさいのいきもののギャップをはっきりと教えてくれる。そしてこの新鮮な驚きに続いて、思わず笑みを漏らす人と嫌悪感を抱く人の二種類に分かれるだろう。生物多様性の重要性を等しく理解している人でも、おそらくこの二種類の人々がいるのだ。前者のタイプの人がおそらく理性的に生物多様性と絶滅の問題の本質をとらえることができるであろうことは間違いない。