烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ナショナリズムの由来2

2007-08-13 22:31:36 | 本:社会

 『ナショナリズムの由来』の第二部の総括では、資本主義に内在する<外部>への運動と同時に、運動自体によって普遍化できない<外部>が生まれることを指摘している。このことは、シニフィアンが次々と横滑りしていく欲望の運動には終わりがないことを意味しているのだと思われる。資本主義の運動はこの欲望の運動をもっとも効果的に、もっとも幅広く可能ならしめるシステムである。

資本主義こそ、まさにその転換(注:無限判断を否定判断に読み換えてしまう転換)を担うメカニズムではないか。資本主義は、確かに、「規範的な経験可能領域の普遍化の不可能性」を表示する<外部>を発見し続けることによって駆り立てられているのだが、同時に、<外部>をその度に経験可能領域に包摂することでそうした「不可能性」を隠蔽し、普遍化が成し遂げられたかのように偽装する。資本主義は、無限判断の水準に踏みとどまることができないのである。(中略)
 これらに対して、資本主義の運動に全面的に共振してしまったときに帰結する社会的な選択肢もある。それこそが、(他のさまざまな)ナショナリズム-最後・後のナショナリズム-である。

 この結果として、ナショナリズムは「人種なき人種主義」(文化的な差異が、人種と同等な、本質主義的で永続的な差異として扱われる現象)をとるとされる。他者の欲望を欲望することが欲望の本性だとすれば、ナショナリズムで現れる「他者」は、一つには欲望する者の欲望を知っているはずの他者である。この他者と欲望を共有する幻想をみることで、われわれは一体感を感じることができるし、その他者の欲望が自分たちのそれ以上であると幻想することで欲望はさらなる<外部>を求める運動を続けることができる。この欲望の連鎖にかたちを与えるのが文化的な差異である。
 ナショナリズムで現れるもう一つの「他者」は、自分たちの欲望をすでに享楽している許しがたい他者である。
 著者のいう最後・後のナショナリズムが重要なのは、資本主義というシステムが欲望をいくらでも差異化・微分していくことの可能な、歴史上最強のシステムだからだと思われる。本書は、だからナショナリズムの「由来」から説き起こされているが、むしろ後半はナショナリズムの「行方」を示唆する不気味な予言書となっている。