鍵が天から降ってくる、乾いた帽子が欲しいときに(彼女にとっては見ず知らずの)他人が帽子を取り替えてくれる。何分後に会ったらいいのかを知りたいと願っているときに(同じく彼女にとっては見ず知らずの)他人が「7分後だ」と教えてくれる。それぞれ全然別のコミュニケーションをとっている(外にいる人に渡すため窓から鍵を投げる、勝手にもって行かれた帽子を取り返す、なぞなぞの答えを伝える)のに、別の人にはまるで神様が導いてくれたかのような偶然のように思えてしまう。勘違いされた(あるいはされるようにしむけた)コミュニケーションが愛情の絆を紡ぎ出す。このやりとりに思わず観ているものは、ほほえましさを感じてしまうのだが、同じような勘違いが、後半では凍りついた笑いを引き起こす。そう、強制収容所でベニーニが扮するグイドが、かつて親密にしていたドイツ人医師レッシングと再会したときである。彼に重要な話があると言って彼をわざわざ晩餐会の給仕に呼び出し、内密に話を切り出そうとする。グイドは収容所からの脱出かと思い彼の目を見つめ真剣に聞き入ろうとする。その次の瞬間、医師はどうしてもわからない謎々の話を彼に相談するのである。相手の答えに生死を分ける収容所脱出の機会を掴もうとしている人間と、全く生死とは無関係な謎々遊びの答えを期待している人間の対比が鮮明に(そして残酷に)映し出される。
ベニーニの演じる父親は、息子が捕虜収容所での虐待という現実に直面しないようにするために、「これは点数を競い合って、勝利者が本物の戦車を手にするゲームなのだ」と嘘をつく。直面する現実との間に幻想のベールを立てるのである。子供は自らがこの現実を解釈することは禁じられていて、父親の言説に従ってこの現実をゲームだと思いこむ。父親は子供に幻想を与えるために、あらゆる手段を使う。子供がゲームの存在を疑いだしたとき、父親が言うことは、その疑問を頭から否定することではない。「ゲームなんかいつだってやめてうちに帰ることはできるんだ。でもみんながやっているんだ」ということを息子に信じさせることである。自分はやめようと思えばいつだってゲームを降りることができる。でも他の人はそうじゃない。他の人はみんなやっているということを信じ込ませることである。幻想の構造はいつもこういうもので、他者が信じていることを信じているという構造になっている。そうなんだ。父さんはこれが(いつだってやめられる)ゲームだってことは重々承知している。だけどみんながやっているからやめるわけにはいかないんだ。
おそらく人生はこういう構造になっている。誰もみなみんなが明日は来ると信じているからそれを信じて明日へと生きている。
家族三人は強制収容所内で、虐待されるという悲劇を描いたこの映画で回避されている悲劇がある。
それは、父親が作り出したこの幻想のベールに映し出されたゲームを子供が収容所の中で虚構だと察知してしまうという悲劇である。父親は最後まで息子に嘘をつき通す。そして銃殺され「真実」を話すことなく、息子は父親が与えてくれたと信じる戦車に乗って、収容所から解放される。これがもしそうならなかったとしたら、この映画は戦争という悲劇を笑いとばすというものにはならなかったであろう。もし嘘がばれるというストーリーになったとしたら、おそらく息子は最後のシーンで戦車に誤ってひき殺されるか、ドイツ人と間違われて銃殺されるという結末になっていたのではないのか? この映画でほっと胸をなでおろす瞬間は、最後に息子が単に別れた母親と再会できたという瞬間であるが、これは単に離ればなれになった親子が再開できたという理由からではない。父親が突き通した嘘が父親が死んだことで嘘をついた張本人の口からじかに真実が語られる機会が永遠に失われ、そのかわりにその虚構が母親へと受け継がれたために息子が現実という砂漠に「軟着陸」できるだろうということが感じ取れた瞬間だからである。
ベニーニの演じる父親は、息子が捕虜収容所での虐待という現実に直面しないようにするために、「これは点数を競い合って、勝利者が本物の戦車を手にするゲームなのだ」と嘘をつく。直面する現実との間に幻想のベールを立てるのである。子供は自らがこの現実を解釈することは禁じられていて、父親の言説に従ってこの現実をゲームだと思いこむ。父親は子供に幻想を与えるために、あらゆる手段を使う。子供がゲームの存在を疑いだしたとき、父親が言うことは、その疑問を頭から否定することではない。「ゲームなんかいつだってやめてうちに帰ることはできるんだ。でもみんながやっているんだ」ということを息子に信じさせることである。自分はやめようと思えばいつだってゲームを降りることができる。でも他の人はそうじゃない。他の人はみんなやっているということを信じ込ませることである。幻想の構造はいつもこういうもので、他者が信じていることを信じているという構造になっている。そうなんだ。父さんはこれが(いつだってやめられる)ゲームだってことは重々承知している。だけどみんながやっているからやめるわけにはいかないんだ。
おそらく人生はこういう構造になっている。誰もみなみんなが明日は来ると信じているからそれを信じて明日へと生きている。
家族三人は強制収容所内で、虐待されるという悲劇を描いたこの映画で回避されている悲劇がある。
それは、父親が作り出したこの幻想のベールに映し出されたゲームを子供が収容所の中で虚構だと察知してしまうという悲劇である。父親は最後まで息子に嘘をつき通す。そして銃殺され「真実」を話すことなく、息子は父親が与えてくれたと信じる戦車に乗って、収容所から解放される。これがもしそうならなかったとしたら、この映画は戦争という悲劇を笑いとばすというものにはならなかったであろう。もし嘘がばれるというストーリーになったとしたら、おそらく息子は最後のシーンで戦車に誤ってひき殺されるか、ドイツ人と間違われて銃殺されるという結末になっていたのではないのか? この映画でほっと胸をなでおろす瞬間は、最後に息子が単に別れた母親と再会できたという瞬間であるが、これは単に離ればなれになった親子が再開できたという理由からではない。父親が突き通した嘘が父親が死んだことで嘘をついた張本人の口からじかに真実が語られる機会が永遠に失われ、そのかわりにその虚構が母親へと受け継がれたために息子が現実という砂漠に「軟着陸」できるだろうということが感じ取れた瞬間だからである。