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烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ライフ・イズ・ビューティフル

2005-11-20 15:21:38 | 映画のこと
 鍵が天から降ってくる、乾いた帽子が欲しいときに(彼女にとっては見ず知らずの)他人が帽子を取り替えてくれる。何分後に会ったらいいのかを知りたいと願っているときに(同じく彼女にとっては見ず知らずの)他人が「7分後だ」と教えてくれる。それぞれ全然別のコミュニケーションをとっている(外にいる人に渡すため窓から鍵を投げる、勝手にもって行かれた帽子を取り返す、なぞなぞの答えを伝える)のに、別の人にはまるで神様が導いてくれたかのような偶然のように思えてしまう。勘違いされた(あるいはされるようにしむけた)コミュニケーションが愛情の絆を紡ぎ出す。このやりとりに思わず観ているものは、ほほえましさを感じてしまうのだが、同じような勘違いが、後半では凍りついた笑いを引き起こす。そう、強制収容所でベニーニが扮するグイドが、かつて親密にしていたドイツ人医師レッシングと再会したときである。彼に重要な話があると言って彼をわざわざ晩餐会の給仕に呼び出し、内密に話を切り出そうとする。グイドは収容所からの脱出かと思い彼の目を見つめ真剣に聞き入ろうとする。その次の瞬間、医師はどうしてもわからない謎々の話を彼に相談するのである。相手の答えに生死を分ける収容所脱出の機会を掴もうとしている人間と、全く生死とは無関係な謎々遊びの答えを期待している人間の対比が鮮明に(そして残酷に)映し出される。

 ベニーニの演じる父親は、息子が捕虜収容所での虐待という現実に直面しないようにするために、「これは点数を競い合って、勝利者が本物の戦車を手にするゲームなのだ」と嘘をつく。直面する現実との間に幻想のベールを立てるのである。子供は自らがこの現実を解釈することは禁じられていて、父親の言説に従ってこの現実をゲームだと思いこむ。父親は子供に幻想を与えるために、あらゆる手段を使う。子供がゲームの存在を疑いだしたとき、父親が言うことは、その疑問を頭から否定することではない。「ゲームなんかいつだってやめてうちに帰ることはできるんだ。でもみんながやっているんだ」ということを息子に信じさせることである。自分はやめようと思えばいつだってゲームを降りることができる。でも他の人はそうじゃない。他の人はみんなやっているということを信じ込ませることである。幻想の構造はいつもこういうもので、他者が信じていることを信じているという構造になっている。そうなんだ。父さんはこれが(いつだってやめられる)ゲームだってことは重々承知している。だけどみんながやっているからやめるわけにはいかないんだ。

 おそらく人生はこういう構造になっている。誰もみなみんなが明日は来ると信じているからそれを信じて明日へと生きている。
 家族三人は強制収容所内で、虐待されるという悲劇を描いたこの映画で回避されている悲劇がある。
 それは、父親が作り出したこの幻想のベールに映し出されたゲームを子供が収容所の中で虚構だと察知してしまうという悲劇である。父親は最後まで息子に嘘をつき通す。そして銃殺され「真実」を話すことなく、息子は父親が与えてくれたと信じる戦車に乗って、収容所から解放される。これがもしそうならなかったとしたら、この映画は戦争という悲劇を笑いとばすというものにはならなかったであろう。もし嘘がばれるというストーリーになったとしたら、おそらく息子は最後のシーンで戦車に誤ってひき殺されるか、ドイツ人と間違われて銃殺されるという結末になっていたのではないのか? この映画でほっと胸をなでおろす瞬間は、最後に息子が単に別れた母親と再会できたという瞬間であるが、これは単に離ればなれになった親子が再開できたという理由からではない。父親が突き通した嘘が父親が死んだことで嘘をついた張本人の口からじかに真実が語られる機会が永遠に失われ、そのかわりにその虚構が母親へと受け継がれたために息子が現実という砂漠に「軟着陸」できるだろうということが感じ取れた瞬間だからである。

スター・ウォーズ

2005-11-20 15:19:56 | 映画のこと
スター・ウォーズ

 監督のジョージ・ルーカスが述べているように、これは現代の神話、西部劇が廃れてしまった後の現代の神話である。エピソード4で登場するルーク・スカイウォーカーは、王家の血筋を引きながら、幼いときに惑星タトゥーインに預けられて育てられた人物であった。これは、神話によくある貴種流離譚のパターンである。
 今回登場するルークの父親であるアナキン・スカイウォーカーは、知らず知らずに悪の道へと進み、やがて息子に敵対することになるダース・ベイダー卿になるというのが今回の映画の流れである。今回のエピソード1,2の中では、決定的に不足している役がある。それは父親である。まずアナキンの父親は出現することはなく進行していく。彼の母親は奴隷として使われる身であり、アナキンは自分の父親を知らずに成長していく。父親役をするのが、オビ・ワン・ケノビであるが、精神分析が教えるところによれば、彼はあくまで象徴界を持ち込む「父の名」として機能している。彼の本当の父はおそらくどこか違う惑星で「享楽」している父親、フロイトのいう原父である。アナキンは成長過程で次第にオビ・ワンに対して敵意を燃やすようになる。これは彼が自分を単に一人前として認めてくれないからだけではなく、父親役をしている彼が、自分の知らないところで、自分の手の届かない享楽を手にしているからだという幻想を抱いているからである。アミダラがオビ・ワンに対して抱く信頼感に反し、自分のことは忘れられているという感情を抱くことで、その敵意はますます膨らんでしまう。ここには誰でもあの有名なエディプス・コンプレックスの構造を認めることができる。ここでの彼の悲劇は、父親役が持ち込む象徴界の機能を持ちこたえることができずに、享楽する父親へとなってしまうことである。父親が不在なのは、アナキンの場合だけではなく、賞金稼ぎのジャンゴ・バットの場合もそうである。彼と一緒に行動しているのは、自分のクローンだから実は彼と「息子」との関係は父子関係ではない。

 王妃と臣下の恋愛という禁じられた関係という軸がこの物語のもう一つの主題となっている。王妃の立場は全くヒステリー的である。申し出てきた相手の男性を、自分はそういう立場ではないとして拒絶することが彼女の立場である。中世騎士物語の王妃と騎士との関係と全く相同的に、この二人の間の障害があればこそ、この恋愛はますます燃えさかることになるというだけではない。対象に至る道を妨げるような外的な障害物は、そもそも対象にまっすぐたどりつけるという幻想を生み出すためにそこにある。貴婦人は絶対に不可解な他者である。このトラウマ的な他者をラカンは、「もの」として表現している。貴婦人が触れがたい理想的存在へと高められるのは、こうしたトラウマを避けるためのナルシズム的な投影である。