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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2008年11月弟橘媛様像と成田

2011-06-12 23:19:38 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

また、2008年の旅に戻る。以前にも書いたがこの年の9月仕事中、からの台車を全速力で押して走っていて急に取っ手が倒れ、頭からアスファルトに転倒した。倒れても台車は走り続け、その性で顔の左半分は擦り傷になり、首は捻挫してしまった。

頬から顎にかけた1番深い傷跡は半年以上消えなかった。首の捻挫は先日のノワタリさんの言葉で気付いたが、今世でまた首をきられる訳にもいかず、捻挫と言うことで浄化されたのだろう。ありがたいことに4,5件向こうに接骨院があるおかげで、私は片輪にならずんでいる。

その傷もやっと癒えた11月下旬の連休に弟橘媛様の像にお参りする為に上京した。

2003年の11月にノワタリさんに案内されて走水神社、二宮の吾妻神社はお参りしていたが、時間が無く行けなかった富津に行く事が目的だった。

今から20年前、霊能力のある友人の兄さんが私に対しての弟橘媛様からのメッセージを伝えてくれた事が始まりだった。

朝早く、ノワタリさんと横浜の叔母や従兄弟、妹、姪、ハヤシさんで多いので前日からレンタカーを借りて出発した。アクアラインを通ると、あっという間に千葉県に着いた。残念ながらその時を忘れていて海面上にが沢山集まってきているような筋が出来ていた。

丁度対岸は海に入られた観音崎である。はるか遠くにぼんやりと対岸が見えた。ヤマトタケル命を助ける為、覚悟して海に入られたが、媛様のお付の者も全員入水されたと言う。お付の者達は媛様のような覚悟は無かったらしく、その思いが走水神社でノワタリさんが受け取られた事を思い出した。

像の周りを手分けして清めていたら、姪が「私、此処覚えてる~、以前この近くで合宿をしたの。その時帰った後、気胸になったの。」と言ったら、ノワタリさんが「その時に弟橘媛さまが助けられたのよ。」と言われた。確かに胸が痛いと言って姪が新宿に住む従兄弟の所へ行き、始めは喘息が出たのだろうと思っていたのが治まらないので、病院へ連れて行って貰った事で事なきをえた事があったのでお礼を言った。ほって置くと死ぬ事もあると聞いた。みんなでお参りした後、海を清め、祝詞をあげた後、お花を投げ込もうとしたら、「もう一箇所にいるみたいだから、少し残して。」とノワタリさんが言われた。

ノワタリさんが歌われているのをで撮った写真を見ると水平線が白くぼんやり光っているのに写真を載せていて気付いた。これは媛様が喜ばれているのだろうと思う。でも、なぜ弟橘媛様が私の前に出られたかは未だに分からない。

その後、予定に無かったが東京観音へお参りに行った。

観音様に着いた時、入り口付近に観音様のお社があった。しかし、花は枯れ、お社も埃っぽかった。

上は私のの物であるが、その次の2枚はノワタリさんが祈っておられる時に写したが、光に観音様が包まれているようになっている。

下はお清めした後で、大変すがすがしくなっているような気がする。大きな観音様の像の展望台へは頭の中を踏むようで行かなかった。

その後、高速を走り成田へ向かった。成田さんの門前はとても賑やかで、うなぎの良いにおいがしていたが、途中のサービスエリアで遅い朝食を取っていたのでまだ食事をする事が出来なかった。お不動さんにご挨拶をして、私達は門前のレトロな町を歩いて買い物を楽しんだ。

栗羊羹を買いにみんなで入ると、お店の人はみんな白いコートに白いズボンだったので「看護婦さんの旅行ですか?」と、聞いてきた。いくらなんでも病院外では仕事でない限り、白では無いでしょと言いそうだった。ちょっと古めかしい喫茶に入っても満席でお店の人に聞くと「連休だからかしら、普段こんなに多くないですよ。」と言われた。美味しそうな食べ物屋さんが並び私はワクワクした気分だった。美味しい物を良く知っている叔母は土産に佃煮を買ってくれ、家に持ち帰ると父が「うまいうまい!」言いながら一人で食べてしまった。

の中で叔母が買った団子を食べながら、先日行った麻賀多神社へ向かった。その時駐車場には他に車は無かった。たった、3年でこんなに違うとは!

天之日津久神社は思っていたよりも小さなお社で杉木立の木漏れ日の中に静に佇んでいた。今回行った時よりもず参拝者は少なく、心置きなくみんなでお社をお清めることが出来た。みんなでゆっくりとお参りする事が出来た。

社務所には誰も居られなかったが、一人の叔父さんが由来書を手渡ししてくれ説明をしてくださった。

この日、行きたかったお媛様の所と天之日津久神社に行く事が出来て私はとても満足した。

 


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