幸福維新の志士となれ <幸福の科学>

国難打破から、いざ、未来創造へ

「エル・カンターレとの約束を思い出す」(前編)

2011年01月07日 | ヘラトリ
七の日感謝祭ご講話 北海道正心館小林早賢館長

「エル・カンターレとの約束を思い出す」


皆さまこんにちは。
今日はようこそ、北海道正心館『七の日感謝祭』にお越しいただき、ありがとうございます。

今日は、先日の支部長情報交流会に関連して、来年のことを考えて一番中核になるテーマを取り上げ、年明けから始まる『信仰を深めるためには』公案研修を探究していく上で重要なことを~更に北海道正心館ではもう一段、練り込みをしてありますけれども、それが来年1月8日から開示になるのですが、(既にかなりの支部からオーダー研修の予約を頂いておりますが)~今後一番重要なテーマでありますので、年末の締めくくりとして、そのお話をさせていただきます。

情報交流会での発表がいろいろありましたが、特筆すべき点は、活動推進局が『エル・カンターレ信仰伝道局』という名称に衣替えしたことです。一番大きな変化だと思います。
これは、単なる名称変更にとどまらず、色々なことを、今後、変えていくことになると思います。名前というのは、それほど大きな理念を含んだものです。

そういう視点で見てみると、いろんな変化を作っていくだろう、むしろ作り出していくべきだろうと思っています。
その背景について、もう一段、説明しておきたいと思います。

これは、先生のお言葉として何度か耳にされた方もいらっしゃると思いますが、自然に流しておくと、どうしても地上においては、21世紀のこういう時代に、つまりイエスのような時代ではなく、現代の高度な経済社会で、こういう宗教活動をしていると、結果的には、「活動形態がやや税務署に近くなる」と言われています。

ややもすると、「行動パターンが税務署型になる」というのは、皆さんもお感じになっていると思います。
別の言い方をすると、「統計局」型の行動~数字の報告を求める~になってくる。
(削っても削っても、数字の報告がまた増える。「報告業務のリストラかけても、また元に戻って、結構な報告量になる」というのを20年間繰り返していますね。)
また、ややもすると、ご教示を伝える「連絡局」型の行動になる。

機能としては、税務局兼統計局兼連絡局という、こういう感じなると言われているわけです。
もちろん、この世的には、そういう活動が付随するのは、あることなのですが、ただ、それらは手段、或いは結果であって、「目的と結果の関係」、或いは「目的と手段の関係」をよく考えないといけないのですね。

私達の「目的」は、エル・カンターレ信仰を広めることです。その結果、色々な数字が出てきて、「みんなで喜びを分かち合う」ということになります。
ただ、ここが微妙なのですが、「結果に囚われない」ということを言っている訳でもないし、さりとて、「結果が目的になる」と宗教ビジネスのように見えることもあるので、これの「中道」をよく捉えないといけません。

経済や生活全般が、現代ほど複雑でなかった仏陀、イエスの時代に比べると、現代は、このあたりが難しいと思います。
「目的と結果の関係」をさらに説明すると、先生がこれを人体に喩えて(たとえて)仰ってくださったことがあるのですが、「目的」というのは「頭脳」にあたります。また成果測定をする箇所は、「下半身」に相当します。

組織を人間の人体に置き換えると、「頭脳」というのは指令を発信するところ、つまり「目的」にあたります。その目的がつつがなく流れるために、下半身が三次元でダチョウのごとく駆けて「結果」を出す、そういう意味で、先ほど述べたような活動(報告、連絡等)が「下半身」に相当するわけです。
(下半身しかないダチョウは、変ですね(笑)。)

こういう全体像をよく腑に落としておかないと、ともすると目的と手段の関係が逆転しかねない部分は、過去20年間ありまして、かくの如く先生のご指摘もありました。
本当の意味で「目的」をしっかり打ち立ててやっていく。そのプロセスで、統計的側面も出てくるわけですが、
「主従を間違えてはいけない」ということです。
「その目的である「信仰」が、どれくらい大きなものなのか」
それを掴んでいくために、『信仰を深めるために』公案研修の意義について、これからお話したいと思います。



『信仰を深めるために』公案研修の意義



『あなた方は、主エル・カンターレの本当の姿の100分の1も掴んでいない』と、霊人の言葉にもありました。
「なぜ今の私達が、100分の1にとどまっているのか」ということと、本研修は関連があります。

この研修は、「仏陀特別霊指導」で、全5則です。第4則がクライマックスです。
北海道正心館版では、もう一段工夫を加えて、内部の実験研修を大晦日の日にやります。更に、今回は支部長向けのプレ研修を1月6日に行います(講師:館長)。
そうして、本格的に1月8日から開示いたします。

公案の中身は、もちろん申し上げられませんが、その主旨、意味合いは何かといいますと、
「皆様方が生まれてくる前に主の御前で誓った中身」、これは結構重いと思うのですけれど、「私達は生まれる前に、その主の御前で何を誓って出てきたのか。それを思い出せ」、
これが第4則です。

これで十分、この研修の念い、重要性、意義がおわかりになると思います。
私達は、本仏の前で誓って出てきたんですね。

これ、今までに弟子が、ニュアンスとして語ってきたことはあったと思いますが、現実に、ここまでストレートな「仏言」として出てきたのは、初めてだと思います。
そもそも、本仏の存在を知っていた。その本仏の前で誓いを立てた。そして、その誓いが存在したがゆえに、私達は、この時代に生まれることが許された。

そして、その誓いを思い出すことは、とても重要なことではありますが、
「これは簡単なことじゃないぞ。本当に深いところまで、自分が誓ったことを思い出せる、そこまで霊的になれるというのは…これは生半可なことじゃないぞ」
と、3年5年10年と修行された方であれば、おわかりなのではないでしょうか。



今世のこの世の自分から、自由になる



 日々感じておられると思いますが、どうしても3次元で生きていますと、この世的な自分に束縛されて、己を小さく小さく考えてしまいます。
その小さな自分と決別したくて、脱皮したくて、精舎修行に来られます。
一泊研修などして、その晩あたりから、俗世の塵垢(ちりあか)が取れてきて、本来の自己に向き合って、
「本当の自分はこんな小さくないのだ」
と悟り、そして、
「信仰をとおして主と一体になって、もっと大きな自分になれるんだ!」
と掴むのだけれど、下山して3日から1週間過ぎると、その思いが切れてくる。で、また精舎修行に行く。

単純な繰り返しをしているように見えますが、実は前進しています。何度も何度も繰り返していくことで、確実に前進しているのですが、
皆様の成長に応じて、当会自体も大きくなり、各自にかかってくる負荷も大きくなっているので、格闘している精神状態は、同じように見えますが、第三者からみると、間違いなく成長しています。

日常生活の中で、色々な出来事があると、自分を小さく捉えてしまうものです。だから、
「こんな小さな自分が約束できることなんて、この程度じゃないか」
と、無意識のうちに小さく考えてしまうんです。

この世の自我に囚われた(とらわれた)状態で、約束してきたことを思い出そうとしても、
そこで思いついた「約束」は、本来の自己から見れば、とてもそれを「誓って」、生まれてきたわけではない、というものなのです。

もしそれで、エル・カンターレとの誓いを思い出せるなら、この研修が存在する意義はありません。
日常の生活の中に囚われている意識では思い出せない「誓い」とは、一体、何だったのか。
「そこまで深く立ち入って、エル・カンターレとの誓いを掴む」
これが、この研修の目的です。
これは半端なことではありません。妨げているのは、「自我意識」です。具体的に言うと、今世のこの名前で生きているという、その枠の中で生きているという意識が、「自由な自分」を妨げているのですから、ここに制約があります。



自分を捕らえているもの:地域、両親、職業、教育…



 私達は何百、何千、何万転生という豊富な経験を持っています。表面意識は、それらに直接アクセスできませんが、潜在意識には、智慧と経験が蓄積されていて、
「それが表面意識ににじみ出てくる」
という意味では、アクセス可能です。

 例えば、ある地域(北海道・日本)に生まれたという事実があると、その地域特性とか言語、文化に囚われた制約があります。
例えば地球の裏側のブラジルの方の発想。先般のブラジルご巡錫でも皆さんご覧になったと思いますが、初めて会った人をスタンディング・オベーションで迎えられました。
さっそく直後の横浜アリーナ(12/4)で、日本の人が真似していましたね。先般の熊本でも真似していました。この20年間、日本では誰も思いつかなかった発想です。
この生まれ育った環境に制約された生き方をしているんです。

ブラジルは、カルチャー遺伝子的には、元々の南米大陸に加えて、ポルトガル、南ヨーロッパ(一部アフリカ)等ですから、どこかの転生で、皆さんも接触はあったはずです。要するに考え方の遺伝子としては、どこかで触れているのですが、今世、表面意識の環境制約に囚われていると(ex.日本人は自分の方から積極的に好意を表現しない)、彼らのような発想が出てこない。

 自分を小さく見ているという点で、さらに影響が大きいのは、
「この両親の下で生まれた」
という制約です。これは、白紙に戻して観ることができます。ここは公案(第3則)にも出てきます。
この両親の下で、この両親の人生観によって、少なくとも成人するまで育てられた。
「信仰とは、親の価値観からの独立でもある」
と、2007年大阪中央支部での『純粋な信仰』の質疑応答にありましたが、親の価値観ではなく、主の価値観を選び取るということが、「信仰が立つ」という上で、重要な意味があるのがわかります。

これは皆様も、なかなか、出来ているようで出来ていないのではないかと、無意識に背負っているように見えます。そこから完全に解脱し、自由になっているか。そういう意味で信仰が立っているかどうか。

 また、たまたま選んだ、(もしかしたら流れで選んだのかもしれない)「職業」からの制約もあります。

職業は、魂の傾向性をつくりますから、職業特性から出てくる人格というのもあります。そこから自由になった自分は、また違う個性かもしれません。
今世、私は「公務員」でしたが、もしかしたら「貿易商人」だったかもしれません。
実は、全く違う遺伝子を潜在意識は持っているのだけれども、それが遮断されていて、色々な可能性があることに気がつかない。

しかし、そこで信仰が立つことによって、今世の職業経験から自由になると、自分にはもっと可能性があることが見えてきます。

 また、さらに長い視点で見てみると、今世における「経歴」も、たまたまの偶然の要素があったのかもしれません。
私も今世、ご存じの大学を出て、ご存じの組織に就職し、その後出家したわけですが、
(レジメでは詳述は避けますけれども)、どこかでボタンが一つかけ違っていたら、まったく違う人生のプロセスを経て、例えば夜間大学に行き、まったく違う職業に就いていたかも知れません。

その場合、今52歳にして、この時点まで全く違うプロセスを辿ったとして、この2010年12月27日の時点で、北海道正心館のこの演台に立っているだろうかと考えてみたとき、
直感としては、「やはり立っている」という気がします。

だから、「経歴」というのは相対的なものであって、主体である「意志」と「情熱」が、環境をつくり出していくのだと思うのです。

 ということで、「経歴」からの制約もあります。また「家族」からの制約もあります。「伴侶」、「子供」、「親」、「学歴」、「外見」、「体力」etc.…。

誰もに今世の制約条件があり、その制約の中で発想し、行動しています。
ただ、それらは「思い」の中で乗り越えることができ、違う自分を引っ張り出すことは可能です。

こういう制約だらけの中で生きている自分が、自然のままで、
「仏の御前で、生前、約束してきたことは何か」
といういことを考えたら、「小さな目標」や「小さな目的」を考えてしまうはずなんです。
この限界を、「信仰」の力によって突破しなければならないのです。

(続く)

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