幸福維新の志士となれ <幸福の科学>

国難打破から、いざ、未来創造へ

「エル・カンターレとの約束を思い出す」(後編)

2011年01月07日 | ヘラトリ
(前編よりつづき)



入念な準備をした上で

 多くの霊人も仰っておられますけれども、主エル・カンターレ本仏はひたすら大きいので、例えばその大きさは、「釈迦とキリストの悟りが手のひらに乗って見えた」と『フランクリー・スピーキング』にありました。

この前の「韓信の霊言」によれば、「仏陀の時と違って、主エル・カンターレを支えるには、脇士としてみたら、普賢菩薩みたいな方が100人位いないと担ぎ上げられません」とありました。

それだけ巨大な方を信仰するということは、何を意味しているかというと、
「その百倍巨大な主の願いを実現することに命を賭けます」
ということを、表面上の言葉ではなく、他人向けのプレゼンテーションとしてではなく、それを本心から「誓い」、「帰依する」ということに他ならないのです。

つまり、「私達の目標が、本当は100倍あったのだ」ということを受け止めて、制約された"自我意識"がささやく、
「出来るわけないよ」
という言葉に打ち克っていくことが、必要なのです。

そのための入念な準備が、まさに第一則から第三則にあたるわけですが、北海道正心館版は、さらに工夫を凝らして、第4則の入り方に万全を期しました。

三次元の制約というのは大きいですので、その中でこれをしっかりと掴んでいくために、第一則では、「肉体の殻を脱ぎ捨てる」ことを、まず瞑想でやります。
この世的な経歴、性別、両親、家庭環境など、いわゆる「言い訳」の材料から自由になることです。

そして、肉体意識から自由になった心を、「一念三千」ではありませんが、その心の針を、しっかりと菩薩の世界に定めることを第二則でやります。
そして、「信仰とは主と一体となること」ですが、そのためには、もう一段の心の作業が要ります。それが第3則です。

それは、洗濯でいうと「染み抜き」にあたることです。染みが残っている部分というのは、主と一体となるときに、例えば移植手術でいう「拒否反応」みたいなものを起こし、それが妨げとなります。

一般的には、染みの三大要因は、「家庭環境」と「教育」と「職業訓練」だと教えて頂いています。
「両親の考え方が先生とぴったり同じだ」という方は、いないはずです。そのギャップのところに染みが存在します。

二つ目が教育。私達には少なからず偏向要因となっているはずです。
現代の二大阻害要因は、「マスコミ」と「教育」ですが、既にマスコミにはパンチを食らわせていますから、来年は『教育の法』で、左翼的考え方に光を当て改革していきます。

三つ目は職業特性です。
これら三大要素の中で、特に象徴的なのは両親の価値観です。ここで無意識に刷り込まれてくる「染み」から自由になることが、本当の意味で信仰が立ってくることと大きな関連があります。

ここで最後の染み抜きをやって、
「エル・カンターレの御前での誓いを思い出す」
という第四則に入ります。

 私も、何度もシミュレーションしてみたのですが、本当に誓ったものを思い出すには、まだもう一段、二段、真実に近いものを思い出すには足りないと思いましたので、更に第4則の冒頭で、準備と工夫を加えました。

皆様の人生計画、或いは「誓い」は、誰が預かっているのでしょうか。
守護霊・指導霊ですね。その存在に、何十年間導かれてきたわけです。
それを正確に受け取る必要があります。比喩的に言えば、
「私はどう誓い、どう書いて、何を託してきたのでしょうか?」
ということです。
そのためには、様々なこの世的制約条件から自由になっていくことが必要ですが、そのためにどうしなければならないかを、御法話『心の中の宇宙』で仰っています。



潜在意識の水底を観る



 一つ目は、自我意識。例えば湖そのものが仏であるならば、私達も本来、その湖に溶け込んで仏と一体となった、湖面の凪いだ(ないだ)湖そのものです。
そして自我意識とは、その湖面に波が立って、その波頭の一つひとつが自分だと思っていることです。本当は、あなたは湖そのものであったのに、その波頭の一個一個の大きさを競ったり、互いに嫉妬したりしている。それがこの世の現実です。

「自分が湖そのものなのだ」と気がつくためには、さざなみを鎮める必要があります。自我意識の統御、仏教的な「無我の修行」がこれにあたり、湖面が鏡のように平らかになります。

 しかし、これだけでは、「誓い」の中身を受け取るには、十分ではありません。
湖面が平らになっても、本当の潜在意識、本来の自己が思っていることは、その湖底に書いてあるのですが、それを観るにためは、湖の水の透明度が高くなければなりません。濁っていたら、水底まで見えないのです。

 この「にごり水」に当たるものは何か、これが「雑念」です。
濁る原因は、必ずしも「悪想念」だけではありません。「悪想念」だけならば、憑依現象が生じますので、先ず悪霊を取る反省行が必要となり、話としては、もう一つ前の段階となります。

ここで言う「雑念」とは、自分の心の中に飛び交っている、“腹減った”とか、“今晩のおかず何かな~”とか、“旦那は何時に帰ってくるかな~”という、無意識に心の中でつぶやいていること、このノイズのことを言います。

心の世界ではノイズとなって飛び交っているので、守護霊との交信が妨げられてくるのです。
宗務本部の人を霊査すると、守護霊と同通することがありますでしょ。例えば、先生にお茶出しをするときに、至近距離で“腹減った”とか思っていると、比喩的に言うと、「腹減った~」と大声で叫んでいるようなものです。

ですから、「雑念を出さない」という訓練が要ります。そうするとノイズが減ってきて、湖水の透明度が増し、潜在意識と同通しやすく(水底が見えやすく)なります。

つまり、「心の針が上を向いていればいい」というだけでもないのです。

湖水を透明にするためには、「無念無想」が必要です。余計なことを思わないということですね。これは、訓練によって、ある程度できるようになっていきます。

 守護指導霊の声を正確に受け止めるには、ノイズを減らしてきれいな湖水にすること、つまり、湖底に何が書いてあるか文字が観えてくるためには、湖面の波を鎮めるだけではなく、湖水の透明度を高めて雑音をなくしていく、仏教的には『無念無想』の修行が必要なのです。

 本当は、精舎修行の精度を高めるには、『無我』と『無念無想』の両方の修行が必要になります。「守護指導霊の声を聞きましょう」というのを、本当にきっちりやろうとしたら、この両方が前提になります。

そして、これをやるご法話研修があります。
『精神統一の方法』という修法がありますが、この中で『無我観』と『無念無想禅』が実修されています。

 このように、第1則~第3則で魂の自由を回復したのちに、長時間ではありませんが『無我観』と『無念無想禅』を実修して、万全に準備を整えた上で、
「自分は生前、主エル・カンターレの御前で何を誓ってきたのか」、
それを心を解放して、恐れや迷いを取り除いた状態で、かつノイズにじゃまされない状態で、ストンと受け取ったときに、多分、皆様が自分の表面意識で考えていたことと違うものを観るはずです。
もっと、もっと、ずっと大きいものを観るはずです。



感化力は"勇気"から生まれる



その「ずっと大きなもの」を観たときに、人は本来の使命に目覚めざるを得ません。
そして、それを実現するための第一歩、第二歩を踏み出すことは、とても勇気が要ることですが、その行動を踏み始めた時に、

皆様は、今まで自分が活動の制約とか限界だと思っていたこと、そして何だかんだと言ってきたことが、さーっと壁が崩れ落ちるように無くなっていくのを見ることしょう。それをするのが、最後の第五則です。

第四則で本来の自己と出会います。そして、「その本来の自己が主との約束を果たす」というのは、いわば「師弟の道」にあたります。

それを実現するためには、誓ってきたことを心の中で思っているだけでは意味がありませんので、行動にあらわす必要があります。それには「勇気」が要ります。
つまり、自分のこの世的な頭で考えて、「この程度のことだな」と思っていることを実行するには、それほど勇気は要りませんが、「この世の自分が縮み上がるくらいのこと」をやろうとすると、勇気が要ります。

「本来の中道とは、そのあたりにある」
と、主からも教えられています。

 そういうことをやろうとしたら、やっぱり『勇気』が要りますね。
そして、その『勇気』ある一歩を踏み出したときに、人間には『感化力』が出てくるんです。
『感化力』はどこから出てくるかというと、『勇気』を出した時に出てくるのです。『勇気』を振り絞ったときに、人はその姿を見て感動して、その方に『感化力』が生まれるのです。

大して勇気が要らないようなことを言ったり、やったりしても、人は別に感化されません。その一言を発し、
「"言った以上は実践する"と心に決めて、一歩踏み出したんだな、この人は」
と思える人から発されるオーラが、実は『感化力』なんです。

だから、『感化力』と『勇気』とは、一体です。

具体的に言うと、『伝道』や『植福』、もっと踏み込んで言えば、『勧進』ですね、つまり、『伝道』と『勧進』に置き換えていただければ、わかりやすいと思います。
「この人はちょっと無理かな」と思う相手に対しても、皆様に『感化力』が出てくると、違う結果が出てきます。伝道においても、勧進においても、それはそうです。

おそらく、心の中で思っておられる活動上の限界は、伝道においても、植福においても、同じところが原因なのだと思うのです。

限界は確かにあります。しかし、それは、
「今の『感化力』では、そこまでが限界なのだ」
ということをあらわしているのですね。

でも、その『感化力』に変化が出てくると、現れる結果が変わってくるのです。説得されなかった人が、説得されるようになってきます。
「この人は無理かな」と思っている人が、無理でなくなってくるという現象が起き始めるんです。

 『感化力』をもたらすものは、『勇気』で、その『勇気』はどこから出てくるかというと、「自分は本当は、エル・カンターレの御前でここまで誓ってきたんだ」
ということを、自分の中で受け入れることです。

それが腑に落ちると、『勇気』が出てきて、それが『感化力』となって現れてきます。これは断言できます。
その方の「伝道する力」や「勧進する力」の次元が、変わってくるのです。
なぜ変わるかというと、宗教の世界では、自力だけじゃないですよね。本格的に他力が及んでくるんです。

単純に2倍じゃなくて、自分の『感化力』が2倍になると、それにふさわしい光が及んでくるので、実際相手が受ける光は2倍にとどまらず、3倍4倍になってくるという、これが宗教の素晴らしいところで、この世的な事業と決定的に違うところです。

ここまで踏み込んだ『感化力』は、倍ではないのです。そこにオーバーラップしてくるものがあるので、支部や様々ところでの活動に影響をもたらしてゆきます。

いろいろな限定が外れて、今までなら及ばなかった説得ができ、相手に感動を与え、その相手の方にも本来の自己を思い出して頂けるように、その方のハート、魂にまで届くようになってくると、前提がすべて変わってきて、「目標」だったものが、「通過点」や「プロセス」だったことが、本心でわかります。

これが、実は冒頭申し上げた、
「目的と手段の関係がわかってくる」
ということの意味なのです。
「結果としての数字が、あとからついてくる」ということですね。

「こういう活動を目指したい」というのが、今回の活動推進局の名称替えの主旨の一つであり、同時にこの研修の目指していることでもあります。

 もし、自我に囚われた心境で思い浮かべられるのものが、主と約束してきたことの内容だとしたら、残念だけれども、幸福の科学は世界宗教になれません。
しかし、世界宗教になることは、運命、天命です。

だから、皆様方の約束してきたものは、もう一段も二段も、大きいもののはずなのです。
 今日の話は、非常に重要な内容ですので、道内の支部ルートでも、レジュメで流す予定です。ぜひ全国の法友の方にもお伝えください。
本日は本当にありがとうございました。(拍手)

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