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鎮守の森の学校(京都北山細野の神主)

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

霜出勘平南九州市市長・南九州市市民の皆さんへ

2015年07月20日 | 日本人が幸せになるには

霜出勘平南九州市市長、南九州市市民の皆さんへ

YOMIURI ONLINE より>知覧とアウシュビッツ平和へ連携

 知覧特攻平和会館を運営する鹿児島県南九州市は15日、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺の象徴となったアウシュビッツ強制収容所跡があるポーランド南部オシフィエンチム市と友好交流協定を結ぶ方針を明らかにした。同会館では特攻隊員の遺品を紹介しており、両市は連携して平和の尊さなどを世界の国々に発信する考えだ。

2015年07月16日[ 九州発 ]<YOMIURI ONLINEより引用終わり

 

悪名高いナチスドイツのユダヤ人大虐殺の象徴であるアウシュビッツ強制収容所跡があるポーランド南部のオシフィエンチム市と南九州市(知覧)が友好交流協定を結ぶという読売新聞の記事を見て、どうしてドイツによるユダヤ民族大虐殺と日本の国を守るために命にかえて戦った英霊たちの聖地知覧が連携して「平和の尊さを世界に発信」できるのか?

この企みは南九州市霜出勘平市長とその市長や市民を裏で操ろうとする組織が特攻の英霊たちとユダヤ人民族浄化を行なったナチスドイツを同列に扱い、英霊たちの行為を貶めるための許しがたい画策としか考えられません。

霜出勘平市長にはこれ以上英霊を冒涜する事の無いように、南九州市市民の皆さんには「知覧」という名誉ある地名が永遠に地図に残り、歴史に残るようにお願いします。

   英霊を被告席に座らせることを許さない国民の会 代表 


ナゼ、政府は地方の過疎化を進めるのか?

2015年07月10日 | 日本人が幸せになるには

日本の人口が都会(主に首都圏)に集中し、地方には過疎化が今も続いています。

政府は過疎化を止めるために次々と対策を進めているように見えますが過疎化は続いています。

それどころか日本の人口が減る一方です。(私は人口が今の半分まで徐々に減るのは良い事だと思っています。)

過疎化する根本原因は何か?が判っているのだろうか?

地方が過疎化する原因などは都会に居ては判らないのです。(政治家や中央の役人には)

田舎に居ても判りません。(地方議員や地方の役人には)

国は地方に対策案の提出を望み、その案に予算を付けているのが現状です。

このやり方をこれまで延々と続けて無駄金(都会の住民の払った税金)をつぎ込んで来ています。

もうソロソロ結果が出ても良い頃ですが今だ過疎が解消されたニュースは聞きません。

当たり前なのです。過疎地には人材がいないのです。優秀なやる気のある者は皆都会へ出て行ってしまっているからです。

人口が都会に流れるのは地方に仕事が無いからだと工業団地や工場誘致をしていますが田舎に工場を造っても働き手がいません。

田舎にはジイさんと婆さんしかいないからです。それに環境整備もせずに工場だけをつくっても誰も街から働きに来てくれません。

今までやって来た、今もやろうとしている国の地方再生プランはこれからも効果が出る事はありません。

先にも書きましたように「地方には人材がいなくなってしまっている」からです。

それにこれからはもっと地方と首都圏などの人口密集地の格差は広がります。

その原因は有権者一票の格差を無くすと言う愚かな政策が地方の弱体化に拍車をかけるのです。

大都会の国会議員は増え、地方の国会議員は減ってしまい。今後は大都会(首都圏)重視の国政に嫌でも進んで行きます。

国の政治家や役人達は日本の国をどうしようと思っているのか?

国民はもう一度、冷静に考えて行動を始めなければわが国はとんでもない方向に進み孫子に惨めな未来を押し付ける事になります。

 


地方選挙が始まり同級生の出陣式に出かける

2015年04月03日 | 日本人が幸せになるには

今日から地方選挙が始まりました

実家の地元から30数年連続して京都市会議員に出ている同級生の出陣式(事務所開き?)に京都中央市場の側にある彼の事務所に出かけました。

歳が歳だけに今回は出馬しないと聞いていました。彼もマダマダ元気ですが後進に道を譲るつもりが出られなくなり、彼に代われるような候補者も見つからず多くの人達からの要請で再び立つ事になりました。

昔は地方議員の多くは二つのタイプがあったと思います。一つは組合やカルト政党の利権の代弁者として、もう一つは地域(選挙区)と選挙区を含む都市の発展のために立つ本来の政治家。

昔、私がまだ20歳代の頃まで親戚のジイさんがヤハリ京都市会議員、京都府会議員を30数年続けて勤めていました。この人も与党(弟が国務大臣)でしたが当時の革新の蜷川知事に協力して京都のために邁進していました。(選挙になれば出勤前に街宣車でまわり、夕方からは選挙演説会場に候補者名の入って提灯をぶら下げたり、会場の火鉢に炭火を入れて手あぶりの用意をして手伝った事が懐かしい)

同級生の彼もまさにそのようなタイプの地方政治に徹した良い意味での地方政治家だと思います。

私は彼の選挙区から遠くはなれた北山に住んでいますが以前は彼に一票をいれるために実家に籍を置いていました。

彼も今回が最後のご奉公だと思います。最高得票で当選させてやりたい候補者です。

若い人達の政治家志向を薦めたいが議員の中に長年の経験と人のつながりを生かして若い議員を育てる彼のような議員も必要なのです。

前回は民主クラブからでしたが今回は自民党と維新の党の支持を得て無所属で出馬します。彼に取っては党派は関係なくまさしく地域から押されて出るタイプの政治家です。そして京都のために多くの貢献をして来ました。表に立たず実績を残している彼のような地方政治家を大切にして行きたい。

最近では国会議員になるための地元の票固めのために出る奴もいますが私は地方議員の役目は地元のために一生を捧げてくれる人を選びたい。(しかし、地元のためにはどうしても国政に出なければならない事もあります。その時は押されてなれるような人を選びたい)

住民の民度が試される12日の投票結果が楽しみです。地方政治こそマスゴミのムードに流されない堅実な選択が大切です。

 


戦後70年 時代は変わって来たのだろうか? 作られた物からまた創る物へ

2015年03月11日 | 日本人が幸せになるには

70年前の終戦時(私は小学校1年生)。終戦で疎開先の親戚の家から還ってきて近くの小学校に入りました。

(疎開先の小学校のことはよく覚えているのですが自宅近くの小学校の始めは記憶が無いのです)

終戦の秋から新しく近くの小学校に通ったのですが着るもののうちズボンは母が手作りしてくれました。黒いカーテンを外してその生地で作ってくれたのを覚えています。

このカーテンは戦争中の燈火管制(家の明かりが外へ漏れるのを防ぐために分厚い黒い生地をカーテンとして使っていたのをです。)

不思議にその黒い生地の感触は今も覚えているのです。

戦後6年後、中学1年生の時に近くの三宮寺というお寺で北川住職が隊長になってボーイスカウトの準備隊ができました。同級生が誘ってくれたので入隊しました。

1年後正式に京都第16隊として発足しました。その時のユニフォームは生地を知り合いの生地屋さんから買って近くの洋服屋さんに作らせたように思います。

隊のカラーであったスカイブルーのネッカチーフは準備隊のときから生地を買って来て分け合い私は母に周囲を縫ってもらったことも覚えています。

なぜ、ここまで長々と書いたか? 言いたいことはこれからです。

終戦時70年前は本当に何にも無かったのです。必要な物は材料を集めて来て作らねばならなかったのです。そして、70年前の日本人は作って来たから今があるのです。

その後、物を作ったら売れる時代を経て、より良いものが望まれるようになって、ブランド商品に行き着くのです。

ブランド商品と言うのは本来ステータスシンボルの意味合いが強かったのですがバブルの頃の「背伸びをすれば背が高くなる」などという馬鹿げたコマーシャルに釣られて若者やセレブを夢見る人達に求められるようになり(成金もですが)本物は高くて手が出ない人達の心を見透かした偽物も横行するようになりました。

昔、バブルの頃、銀座のホステスがまず客の値踏みをするのにお客の時計を見て客の懐具合を探っていました。(今はどうですか?時計の値段にこだわる人はまだいるようですね)

私の時計を見て値踏み出来ずにいたのを思い出します。その頃私はエニカ・シェルパ(エベレストの初登頂の時にヒラリーがハメテイタと言う)という時計を長くはめていました。こんな時計は銀座のホステスは見たことが無かったのです。(よけいな話ですが)

永年努力してブランド品にまで高めて来た商品も今やイミテーションでもそこそこの品質になり、あえてブランド品にこだわる必要は無くなり、ブランド品を持っていても誰も興味を示してもらえなくなってしまいました。

メーカーが長年苦心して開発改良を重ねて来た商品も中国韓国にあっという間にパクられてしまい、真似が簡単な大量生産品は研究投資に見合う販売利益が期待出来ないようになって来ました。

食べ物なども私の経験では40数年前にカナダのバンクーバーで始めてを食って以来ケンタッキーフライドチキンのフアンになりました。

月に1回はケンタッキーフライドチキンの店でフライドチキンとポテトフライにホットコーヒーを食べていました。

ところがバンクーバーで食ったフライドチキンはカラッと揚がっていて味も濃くて美味しかったのですが特に最近ブヨブヨでベタベタで美味く無く、フライドポテトも油に浸したようなグニャグニャで不味くなっています。

コンビニで売り始めたフライドポテトの方が私の食感には合っていそうです。

それに昨年からですか?コンビニでホットコーヒーを売り出しましたね。私は早朝野球に行く時にセブンイレブンでサンドウイッチとホットコーヒーを買って行くのですがコーヒーショップの物よりも香りも良いように思います。それにたったの100円です。(コンビニで180円の所もありますがセブンイレブンの100円の方が美味しいです)

やはり、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンの売り上げが大幅に落ちているのが報道され私の味覚がマンザラでもないと安心しました。

戦後の物に飢えた世代はブランドと安さにこだわっているようですが、この年代も後わずかです、100円ショップとブランド品との差も大して変わらない時代になって来たことを若い者達は判り始めているのでしょうね。

もう少しすれば商品を提供する時代は終わって、材料を提供する時代がまた来るかも知れませんね。

物を大切にすることを疎かにして来た時代が終わりを告げつつあるのです。良いものを長く使う時代がよみがえれば、日本の匠の製品がまた光を放ちます。

これからの匠の技とは一人の名人だけの技でなくツチカワレテ来た会社の技術やノウハウなどが匠の技になるのです。

考えて見たら日本と日本人って素晴らしい民族ですね。日本人に産まれて来ただけでも幸せ者です。

神様、仏さま、ご先祖さま、にまた感謝!

 


安倍首相は自分で書けない「戦後70年談話」なんかヤメテしまえ!

2015年03月09日 | 日本人が幸せになるには

戦後70年の安倍晋三首相談話に関する政府の有識者会議などというどうでも良い人達に考えさすなど最近の政治家の劣化を象徴するモノだ。

政治家とは日本の明日のために国民に選ばれた人達である(ハズですね?)

ところが考えることは(頭の中は)党利党略・私利私欲/担がれた組織の利権ばかりで国民の将来、日本の国の明日のことなど考えられない。

ではどうするか?

頭の良いと言われている官僚に立案を丸投げ。

役人とは責任を取らない代表格、立案したら結果に責任を取らなければなりません。

ではどうするか?

有識者と言うエライ学者先生方に集まってもらい有識者会議とか懇談会とか言う組織を作ってそこへ丸投げ。

学者先生は昨日までに起こったことを勉強する人達のことで先のことなど予想の出来る人は学者にはなれない。

だけど、世界で起こったことはよく勉強されている。成功例を沢山引っ張り出して来て答申にあったような事を並べ立てて提出。

だけどその成功例は○○何年のあの国で、あの人がいたから成功したので明日のわが国にはどうだか判らない。

その判らない提案を役人は良いと思われる頭を駆使してカタチにして政府に、今の政治家はもともと明日が判らない人だからそのまま決めてしまい、ことごとく失敗。

今回も同じ。

何が首相談話だ! 自分で考えられない談話を無理に発表することは無い。村山談話も河野談話もゼーン部、自分で考えたことではない。

だから、安倍首相も自分で書けないなら無理に発表することは無い。

何を発表しても特亜の国々、アメリカはイチャモン付けるに決まっている。

もし何のイチャモンも付かないような談話なら日本の国の国益に反するモノに決まっている。

またまた、その後永年にわたって首相談話が日本の足かせ、手かせ、首かせになる可能性がある。

どうしても安倍首相談話を残したいのなら辞める時に「最後っぺ」として残して行けば?

 

 


午前中神主の仕事をした後、久野潤先生の歴史講座を聞きに行く。

2015年03月09日 | 日本人が幸せになるには

午前中、豊中市千里の上新田天神社でお宮参りや車のお祓い、厄よけ祈願など神主の仕事を手伝って午後2時から茨木市社会福祉会館で開催される久野潤氏の帝国海軍の艦内神社についての講演を聞きに行きました。

茨木市に住んでいるごっこ屋本舗事務局長の椋本さんと会場で落ち合って聞きました。

久野潤先生は若干34歳、私は岡本幸治先生の「近現代史の歴史講座」を主催していた時に岡本先生の推薦で講師を引き受けて下さったこともあり久野潤先生が30歳になる前から存じ上げているのですが何しろスゴイですね、歴史の先生と言うのは大概歳を取った人が多いのですがこの若さで感心させられることが多いのにはオドロキです。

34歳という若い時、私は何をしていたか? ジックリ反省をしてみたら、丁度この歳に初めてヒマラヤに遠征隊の隊長として出かけた歳です。

わたしはその時の遠征が終わって初めて大人の考え方に近づいたように思いました。それまでの私はガキ丸出しの生き方をしていたようです。

それまで反発していた父の生き方を理解でき始めたようでした。その後は父の偉さと言うか?父を認められるようになって来ました。そしてその後は尊敬に変わって行ったように思えます。

久野潤先生の話からズレてしまいましたが。

会場で著書を2冊買ってサインをしてもらいました

34歳、私の歳まであと43年もあるのです、どんなエライ先生になって居られるか?楽しみですが私はもう先が無いので見届けられませんが。


バカヤロウ! 国会をなんと心得ているのか

2015年03月01日 | 日本人が幸せになるには

最近車で移動中ラジオの国会中継を聞いています。

>国会とは、国の最高機関であり、国の唯一の立法機関である。内閣、裁判所の上位に君臨し、国政全般に渡って最終的な決定権を有する。

国会は,国権の最高機関として国民に対して国政全般の責任を負い、行政、司法作用を調整する<

と言うのが国会の役目であるはずで国民のために働いてもらうための国会議員が党利党略のために大臣を蹴落とすための誹謗中傷に専念するさまは反日が社是のマスゴミをよろこばし、それらにつながる反日日本人、支那、南北朝鮮、旧連合国をよろこばすことにつながる売国行為だと言うことをこの際日本国民はもっと認識せねばなりません。

大臣のアラを暴くのが国会の役割では無いだろう! 罪を暴くのは司法の役目だろう。わが国は民主的な三権分立を国是としているはずと違ったのか?

裁判所で罪が確立されたら大臣の首を切って総理大臣の任命責任を追及したら良いことで、大臣が法律を犯していると思ったら裁判所に告訴すれば良いことである。

国会では明日の日本のための方針を打ち出す所ではなかったのか? 

野党の質問議員のアホさ加減とアホ面は言うに及ばず、スネに傷を持つ与党の大臣の多さ、自民党には無傷の国会議員は居ないのか?

どっちにしろこんな馬鹿者しか選ばない(選べないか?)国民が一番馬鹿なのは判っていますが、何とかならないでしょうかね?

それに、参議院で「民主党・新緑風会」という名称はやめて欲しい。伝統と権威のあった緑風会の名前を薄汚い民主党に利用されるのは耐えられません。

与野党の国会議員はもう少し品格をたかめて下さい。そして、国会中継がパフォーマンスと政府攻撃の場ではなくて法案に対する審議の場であると言うことを国民の多くは期待しているのです。

失言を引き出すための質疑など誰も国民は野党に期待していません。

相手を貶める質問をする議員の何と品のない表情か? 挙げ句の果てに「政府は充分な審議を経ずに法案化した」とマスゴミと一緒に国民に言い訳をするのが常ですが、そんなこと国民はみんな知っているのですよ。

どうして日本はこんな国になってしまったのでしょうね? 判っているけど国の最高機関は国会なのですよね。

 


建国記念日の橿原神宮・紀元2675年世界一の歴史の誇り

2015年02月12日 | 日本人が幸せになるには

例年恒例になってい建国記念日の橿原神宮(神武天皇=初代天皇を祭る)参拝と参道での国旗販売を手伝うのに朝7時に我が家を来るまで出発、凍てついた道を京都へ、実家の神社に車をとめて、西大路駅から京都駅へ、近鉄特急で橿原神宮に10時前について、参拝。

今年は朝鮮人の嫌いな旭日旗もヒラメていました。

その後お昼まで参道で国旗を販売しながら、憲法改正のための署名運動をしました。

多くの参拝客が通る

支那人が嫌いなチベットの旗も

憲法第9条にシガミツク左巻きに対抗「脱9条」の旗

これも恒例右翼モドキの街宣車の群れ

以下は昨日(紀元節)のミナキクラブメルマガの記事

建国神話を想う

 2年前の一月に奈良県の橿原を訪れたいへん驚いたことがあった。

 それは私自身が紀元前660年に神武天皇が即位され国を開かれたことをただの神話と考えていたが、その浅はかな自分の考えに気づかされたことだ。

 きっかけは岡島茂雄氏の『日本史を歩く』という著書を読んだことだった。昭和15年の皇紀2600年祭に合わせ、神武天皇を祭る橿原神宮外苑の整備工事がおこなわれた。その際、京都帝大の若き末永雅雄博士を中心に大掛かりな発掘調査がおこなわれた。その結果、大量の縄文・弥生遺跡とともに櫟樫(いちいがし)の切り株が多数見つかった。古代橿原の地には神聖な樹木である樫の森があり、そしてそれを伐採して造った大きな建物跡も見つかったそうだ。つまり大宮殿が建てられた可能性がある。さらに戦後、その切り株をアメリカの大学に持ち込み、放射性炭素測定法で測ったところ、2400年から2800年前に切られた切り株だった、つまり神武天皇が国を開かれた時期とピタリと重なる 。今までどうして神話を軽く見ていたのだろう。自分の目で確かめてみたくなり橿原へと赴いた。

近鉄橿原駅を降り、畝傍山を目指して歩いて行くと橿原考古学研究所付属博物館があった。当時の発掘で出土した大量の土偶やクジラやフグの骨、また青森の亀ヶ岡式土器など全国の土器や石器など、橿原の地を中心とする交易圏の広さを証明する大量の遺物が展示されている。奈良盆地の南部である飛鳥の地に鯨をどうやって運んだのだろうか、想像すると大きな勢力があったことが感じられた。橿原遺跡は縄文時代晩期(約3000年前)の西日本最大級の遺跡だった。

 ところが調べてみると教科書には一切載っていない。おそらくほとんどの方も橿原遺跡という名称すら聞いたことも無いのではなかろうか。博物館学芸員の方から話を伺いながら、ひょっとして戦後に何らかの意図が働いて消し去られたのではないか、想像すると何か大切な忘れ物に気がついたようでワクワクしてきた。

そこで、近くにある橿原考古学研究所に行き、職員の方にさらにいくつか質問をさせていただいた。< 以上ミナキクラブメルマガより

私も近い内に(もう少し暖かくなったら)橿原考古学研究所付属博物館に見学に行きたいと思っています。

戦前紀元2600年のお祝いが盛大に行なわれました。私の産まれたのは紀元2598年ですがまだ幼児だったので思い出はありませんが「紀元2600年」と言う歌も出来てその後も唄われていました。

>奉祝國民歌「紀元二千六百年」 
内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定 
 増田好生 作詞/森義八郎 作曲

 金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて 
 いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
 あゝ 一億の胸はなる
 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
 はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年
 あゝ肇國(ちょうこく)の雲青し
 荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
 感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
 あゝ報國の血は勇む
 潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
 世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
 あゝ燦爛(さんらん)のこの國威
  
 正義凛(りん)たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
 力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
 あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる<

それにしても「古事記」の記述は神話から始まり史実を書き残した世界に誇る立派な歴史書だったのですね。

次には「紀元2700年」の歌が出来るのが楽しみですがその頃はもう私はいませんが。

 

 


明日・2月11日は紀元節(建国記念の日)・橿原神宮参道で国旗売りをやってます(午前中)

2015年02月10日 | 日本人が幸せになるには

毎年恒例の紀元節の橿原神宮参道での国旗の販売を今年も午前9時半頃からお昼頃まで橋の側でヤッテイマす。

この国旗の販売は日本世論の会関西支部が紀元節に恒例でやるのを手伝わしてもらっています。

同じ場所でミウラ折の「国旗、君が代」「教育勅語・原文・口語訳」「古事記のカミサマ」などの販売もやっています。

午前中橿原神宮にご参拝の方、お声をかけて下さい。

 

今日は茨木市社会福祉文化会館で2時から開催の「古事記講座」を聴きに行く予定でしたが昨日からのこの冬一番という大寒波来襲の予報で大事を取ってやめました。

確かに朝はマイナス6度で雪も降り続いて道路は危険な状態でしたがお昼位から雪も止み三時には日差しがポカポカと暖かく春のような陽気になって来ました。

なにしろ我が家から茨木市の会場まで雪が無くても2時間余かかるのです、今日のように雪が国道かでコチンコチンに凍てついていると雪道に慣れていない市内から来る車との接触がよくあり、高齢者にはなおのこと注意が必要と言われています。(本人はあまり切実には思っていませんが)

明日は京都市内まで車で出て、近鉄で橿原神宮まで行く予定です。朝早く出なくっちゃ。


謹賀新年・京都北山から歴史が変わる

2014年12月31日 | 日本人が幸せになるには

あけましておめでとうございます

喜寿からのチャレンジ・人生最後の挑戦(と何時も最後のチャレンジと思うのですが)思っている間に今年はもう喜寿を迎えました。

今度のチャレンジはデッカクて生きている間には無理で仕上げは続く人達に託します。

NPO法人「ごっこ屋本舗」というあそびを仕事にして来た私の秘伝の集大成です。

大風呂敷も大風呂敷・日本の国を変える大風呂敷です。

神さまのミタマを頂き生まれて来た日本人はすべて幸せになれるはずなのに和を尊ばず西洋の個人主義こそ先進文化と、

対立の構造を受け入れて不幸を重ねて来ました。

世間では身近な事からコツコツと言いますが一人でコツコツやっても世の中変わりません。

世の中全てが何処かで繋がり、繋がりと繋がりが関連して世の中が変わるのです。

出来たてのNPO法人ですが賛同者を募って大きな波のキッカケになればと思っています

NPO法人 ごっこ屋本舗 理事長

京都北山 九頭神社 宮司 中村重行

今年も京都北山から発信しますのでよろしくお願いします。


写真は九頭神社に奉納した絵馬です。(130センチX80センチ)。来年はこの4倍の大きさの絵馬を奉納します。

原画はミナキクラブ代表の南木隆治氏のお嬢様の絵を使わせてもらいました。

タイトルは小さくて見にくいかも知れませんが「京都北山から歴史が変わる」と書いています。

この大きな板にプリントしてくれたのは私の「京都北山展」で何時も杉の板にプリントしてくれている京北細野町の木材印刷加工「よろず庵」の藤原正典君です。