70年前の終戦時(私は小学校1年生)。終戦で疎開先の親戚の家から還ってきて近くの小学校に入りました。
(疎開先の小学校のことはよく覚えているのですが自宅近くの小学校の始めは記憶が無いのです)
終戦の秋から新しく近くの小学校に通ったのですが着るもののうちズボンは母が手作りしてくれました。黒いカーテンを外してその生地で作ってくれたのを覚えています。
このカーテンは戦争中の燈火管制(家の明かりが外へ漏れるのを防ぐために分厚い黒い生地をカーテンとして使っていたのをです。)
不思議にその黒い生地の感触は今も覚えているのです。
戦後6年後、中学1年生の時に近くの三宮寺というお寺で北川住職が隊長になってボーイスカウトの準備隊ができました。同級生が誘ってくれたので入隊しました。
1年後正式に京都第16隊として発足しました。その時のユニフォームは生地を知り合いの生地屋さんから買って近くの洋服屋さんに作らせたように思います。
隊のカラーであったスカイブルーのネッカチーフは準備隊のときから生地を買って来て分け合い私は母に周囲を縫ってもらったことも覚えています。
なぜ、ここまで長々と書いたか? 言いたいことはこれからです。
終戦時70年前は本当に何にも無かったのです。必要な物は材料を集めて来て作らねばならなかったのです。そして、70年前の日本人は作って来たから今があるのです。
その後、物を作ったら売れる時代を経て、より良いものが望まれるようになって、ブランド商品に行き着くのです。
ブランド商品と言うのは本来ステータスシンボルの意味合いが強かったのですがバブルの頃の「背伸びをすれば背が高くなる」などという馬鹿げたコマーシャルに釣られて若者やセレブを夢見る人達に求められるようになり(成金もですが)本物は高くて手が出ない人達の心を見透かした偽物も横行するようになりました。
昔、バブルの頃、銀座のホステスがまず客の値踏みをするのにお客の時計を見て客の懐具合を探っていました。(今はどうですか?時計の値段にこだわる人はまだいるようですね)
私の時計を見て値踏み出来ずにいたのを思い出します。その頃私はエニカ・シェルパ(エベレストの初登頂の時にヒラリーがハメテイタと言う)という時計を長くはめていました。こんな時計は銀座のホステスは見たことが無かったのです。(よけいな話ですが)
永年努力してブランド品にまで高めて来た商品も今やイミテーションでもそこそこの品質になり、あえてブランド品にこだわる必要は無くなり、ブランド品を持っていても誰も興味を示してもらえなくなってしまいました。
メーカーが長年苦心して開発改良を重ねて来た商品も中国韓国にあっという間にパクられてしまい、真似が簡単な大量生産品は研究投資に見合う販売利益が期待出来ないようになって来ました。
食べ物なども私の経験では40数年前にカナダのバンクーバーで始めてを食って以来ケンタッキーフライドチキンのフアンになりました。
月に1回はケンタッキーフライドチキンの店でフライドチキンとポテトフライにホットコーヒーを食べていました。
ところがバンクーバーで食ったフライドチキンはカラッと揚がっていて味も濃くて美味しかったのですが特に最近ブヨブヨでベタベタで美味く無く、フライドポテトも油に浸したようなグニャグニャで不味くなっています。
コンビニで売り始めたフライドポテトの方が私の食感には合っていそうです。
それに昨年からですか?コンビニでホットコーヒーを売り出しましたね。私は早朝野球に行く時にセブンイレブンでサンドウイッチとホットコーヒーを買って行くのですがコーヒーショップの物よりも香りも良いように思います。それにたったの100円です。(コンビニで180円の所もありますがセブンイレブンの100円の方が美味しいです)
やはり、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンの売り上げが大幅に落ちているのが報道され私の味覚がマンザラでもないと安心しました。
戦後の物に飢えた世代はブランドと安さにこだわっているようですが、この年代も後わずかです、100円ショップとブランド品との差も大して変わらない時代になって来たことを若い者達は判り始めているのでしょうね。
もう少しすれば商品を提供する時代は終わって、材料を提供する時代がまた来るかも知れませんね。
物を大切にすることを疎かにして来た時代が終わりを告げつつあるのです。良いものを長く使う時代がよみがえれば、日本の匠の製品がまた光を放ちます。
これからの匠の技とは一人の名人だけの技でなくツチカワレテ来た会社の技術やノウハウなどが匠の技になるのです。
考えて見たら日本と日本人って素晴らしい民族ですね。日本人に産まれて来ただけでも幸せ者です。
神様、仏さま、ご先祖さま、にまた感謝!