『東京の坂、日本の坂』その160、小金井市の坂④。たどり着いた前原坂は他の人のブログを読むとそれほど古い坂道ではなく、旧志木街道である質屋坂の方がはるかに古い。大正〜昭和初期にかけて小金井街道ができた際に勾配を緩くしたのでは、と記述があった。
薬師通りとは立体交差しており、ただ、バス停には前原坂とある。また、不思議なのは『まえばるさか』という読み方も。
九州地方によくある『原』を『ばる』と同じなのである。ただ、ネットだけでは由来までは辿り着けなかった。
前原坂から左手に降りていく坂が『妙貫坂』という階段の坂道。左手は墓地となっているが、一段高いところにある墓石には星野家の名前。
星野家は周辺の名主だったようだ。坂の名前は坂下にある金蔵院の前身である観音寺の坊の一つとも、大正まで住んでいた墓守の名前とも言われている。
坂の上まで戻り、右に曲がる。その先、右に弓形に下る坂となっているが、これが『金蔵院の坂』である。坂下にある金蔵院の正面に出る。
坂上まで戻り、細い道を歩き、連雀通りに出る。右に曲がると大きな農協の建物がある。その先、左に下っていくのが『車屋の坂』らしい。こちらの車屋の坂も坂の下に水車小屋があったのであろう。崖のところは狭く、石段となっている。
再び連雀通りに出て右に曲がる。次の信号を左に曲がろうと上を見ると『傾斜12%』『うねうね道』の黄色の警戒標識。確かに細く、くねくね。下からの一方通行だか、交通量も多く、特に子連れ自転車が多い。この坂が『白伝坊の坂』、白伝坊は墓守として住んでいたお坊さんの名前らしいが、異説としては金蔵院の寮の名前というのもある。
坂の途中には『月待板碑(つきまちいたび)』という石碑がある。月待供養は毎月23日に集まり、月王子を祀り、後生安楽を願う供養のこと。この石碑には天文7年(1538年)とあり、もう一枚は1309年のもので小金井市郷土資料に指定されている。
小金井市の沢山の坂を登り降りしたが、まだまだ坂道は残っていて主に小金井市の南東部及び中央線を挟んで北部は改めて周ることにしたい。