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いま、そのとき、かんがえつつあること。

かくも「正しい」動物愛護

2007-05-03 | 国家と権力
北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名により出された通達によって「野蛮な儀式」とされ事実上禁止されたが、2007年4月、通達は撤回された。(「イオマンテ - ウィキペディア」
この「イオマンテ解禁」がニュースサイトで紹介されてるわけなんですけど、一部の動物愛護を議論するひとが、これに「反対の意見をおくろう」というはなしをしている。

野蛮だとか日本は先進国なんだからとか、なかなか すごいことをいっている。北海道知事や北海道ウタリ協会などに意見をおくるんですと。はあ。

いやね、あたしだって動物愛護に共感しないところがないわけではないですよ。けっこう厳格なベジタリアン生活も経験しましたし、そのへんのムシも、できるかぎりは ころさないようにはしているつもりです。イオマンテもね、クマをころさずに儀式をとりおこなうことも可能でしょうよ、それは。禁止されてきたもんだから、これまでは そうせざるをえなかったわけですからね。

けど、なぜに個々人の和人が のこのこと植民地主義の再生産をやるのよ。逆説的だけど、アイヌの文化を固定化するのは同化政策であって、当事者じゃないわよ。和人がアイヌを支配してきたから、「禁止」できたわけでしょう。禁止なんか されてなかったら、みずから「簡略化」をえらんでいたかも しれないでしょう。「現代的感覚」に あわせて、ね。

べっつに、現代的感覚とやらを肯定するつもりはないし、「簡略化」する必要があるなんて全然おもっていない。アイヌ文化を賛美すれば和人の過去が浄化されるとも おもっていない。イオマンテを消費の対象として みなすつもりもない。

いまになって通達を撤回しますだなんてことになってしまった、この日本という国家の歴史が おそろしいだけです。残酷だとか野蛮だとか、50年前といっしょの発想でもってイオマンテに いちゃもんをつけるひとの意識というものが、ただ、むなくそ わるいだけです。

「原始人じゃあるまいし」って…。

坂口安吾(さかぐち・あんご)は、伝統よりも生活が大事だといった。わたしも同感だ。和人は近代以降、自分たちの文化をそれほど厳格に重視してこなかった。それは、伝統にすがるよりも、あらたな生活習慣が魅力だったからだろう。もちろん、国際関係の権力のバランスによって、アメリカやヨーロッパの生活習慣に あこがれるように しむけられてきたという側面はある。だが、カッコつきではあれ、選択する「自由」はあった。アイヌよりは はるかに、自由があった。

アイヌを支配しつづけてきて、そして、いまになってイオマンテを「解禁」しますよということにした。そこに動物愛護の観点から、あらためて、野蛮だから やめてほしいと おっしゃる。

「クマに罪はない」という観点にたてば、絶対的に「正しい位置」に たてるそうだ。自由とは、かくも都合のよい権力だ。


どんなに動物愛護に共感しようとも、わたしは人間中心主義を否定する気にはとてもなれない。人間関係に不平等がなくならないかぎり、人間中心主義の否定や「動物の権利論」をみとめるつもりはない。動物の権利論は、この世界の非対称な関係、権力関係をわすれさり、おおいかくし、感情という無敵の論理によって世界を断罪する。

世界全体が断罪されるとき、もっとも被害をこうむるのは少数派なのだ。

人間中心主義を肯定しつつ、動物の処遇を改善していくことは両立できる。

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (やみぃ)
2007-05-03 07:58:52
まったく同感です。ありがとう。
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事実関係をもーちょっと (ひつじ)
2007-05-04 01:23:28
把握してから文章にすれば よかったかなと、ひとりで反省中です。

けど、やみぃさんに賛同していただけて、うれしいです。

イオマンテに好意的でも批判的でも、クマをころすことばかりに関心が集中してきたこと、イオマンテという祭り全体をみようとはしてこなかったこと、まさに「好奇の目」にさらされてきたこと、観光のダシにされてきた経緯など、批判すべき対象は「動物愛護」だけに かぎらないようです。今度の通達撤回ですべてが解決するのではなく、これから「和人社会」のありかたが とわれてくるのだといえそうです。依然として、イオマンテは和人の手中にあるということかもしれません。
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Unknown (Unknown)
2007-05-07 15:32:20
昔の和人とかこの問題と関係ないでしょ?
わたしらは今現代の日本人だべw
どうしてわざわざ熊を殺す必要があるのですか?
人間は散々熊を痛めつけてきたのにまだ殺すのかよ?おい。
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日本人とは、だれのことか (ひつじ)
2007-05-08 12:09:29
匿名さん、コメントありがとうございます。

よく匿名さんのようなご意見に反感をもたれる人がいらっしゃいます。ですが、それは偏見であると おもっています。たとえば、ありがちな非難として、おまえだって肉たべてるじゃないか?というのがあります。けれども、察するに、匿名さんは厳格なベジタリアンでいらっしゃいますよね。で、ベジタリアンだというと、野菜だって「命じゃないか」という非難をする人がでてきます。でも、命を尊重するベジタリアンの方の中には、野菜をたべることにさえ、どこかで申し訳なさを感じていらっしゃる人もおられます。そのようなベジタリアンの方を、わたしは尊重します。

動物をころすことを人間の害悪だと みなすなら、肉をたべること、宗教的な目的で動物をあやめること、すべてが害悪ということになります。ですから、それがアメリカ人がなすことであろうと、アイヌ人がすることであろうと、悪は悪だという、とても公平な見方であると おもいます。

わたしは人間と動物を対等には あつかわないので、匿名さんとは立場が ちがいます。けれども、そのような倫理観をもつ方もいらっしゃるということは尊重するつもりでいます。

けれども、動物愛護を主張するさいに、公平な観点にたって社会批判をしてほしいと おもいます。日本では、人がクマに遭遇しただけで、大日本猟友会に射殺してもらっているという現実があります。人がクマに殺されようとも、そのクマを射殺してもよいかどうかは議論がわかれるところであるにもかかわらず、あまりにも安易にクマをころしてしまっているようにも みえます。これは残念な点だと おもいます。

匿名さんは、このような日本社会のありかたにも一貫して批判してこられたのでしょうが、このブログをよまれている人は、そうではない人がほとんどであろうかと おもいます。ですから、もしかすると、アイヌのクマ祭り(イオマンテ)ばかりが批判の的として注目をあびてしまい、結果として社会の少数派だけが批判されるということになってしまいます。これでは いけないと おもうのです。

少数派は少数であるために「目立たない」ようにも みえますが、そうではありません。社会の少数派は、なんらかの「しるし」が つけられていて、多数派の注目をあびやすい存在だと いえます。「出る杭は打たれる」ということばにも あるように、少数派は、めだつのです。その反面、多数派は社会に埋没しているぶんだけ、安全だし、アイデンティティも自由に選択できます。しいてアイデンティティをもつ必要性さえ ありません。

匿名さんは、和人ということばが歴史的用語であるように勘違いされているのかもしれませんが、そうではありません。和人とは、アイヌや沖縄人ではない「日本人」のことをさします。アイヌがアイヌとして存在するかぎり、わたしも匿名さんも、和人なのです。和人が「和人として」自覚をもったりしないのは、さきに説明しましたとおり、多数派は民族的アイデンティティから自由でいられるためです。

「日本人とは、だれなのか」を厳密に検証していくと、結局のところ、日本国籍をもつひと、くらいにしか定義できません。その点については、森巣博(もりす・ひろし)『無境界の人』をよまれてください。

「和人がアイヌにしてきたこと」は、過去のことで、いまは もう ちがう、という認識をもたれているかもしれません。ですが、匿名さんが動物にたいして おもちでいらっしゃる関心を、すこしでもアイヌにも むけていただければ、そのような事実はないことが おわかりになるかと おもいます。和人のアイヌ支配は現在進行形だと、わたしは みています。その点をかるくみる動物愛護なら、わたしは嫌悪感をいだいてしまいます。そういうはなしです。

今回の件は、北海道知事によるイオマンテ禁止の通達が撤回されたということにすぎません。今後のイオマンテが どうなるかは、「社会とのかねあい」をみはからいながら、アイヌが決定するでしょう。そのさいに、動物愛護を主張されている方の意見は、おおきな影響力をもつことは、うたがいえません。

法的には、イオマンテでクマをころすことに、なんら問題はないことになったわけですが、当事者がどのような決定をだすのかは、わたしには わかりかねますし、ましてや、わたしは、「どうしてわざわざ熊を殺す必要がある」のかというご疑問にこたえる立場にはありません。わたしはアイヌの代弁者ではないのですから。わたしは、ただ、和人の「おせっかい」をとめたいだけです。

人間の心理として、高圧的に対応されたら、ますます意固地になるというところがあります。いわゆる逆効果というやつですね。ささやかに意見を表明しながらも、じっと変化のきざしをまつという態度も、社会をかえていくのに必要なのではないでしょうか。そうでなければ、いらぬ反発をうみだし、動物愛護は、ますます とおいところにいってしまいます。

「動物を愛し、命を尊重する美しいわたし」という自己陶酔に まどろみたいのではなく、ことばどおりの意味で動物の命を尊重されたいのでしょうから、その点は戦略的になられたほうが よいかと おもいます。逆効果をさけるより、自己満足を追求してしまうのは、おろかな行為でしょう。

なにしろ、匿名さんのような方の理想は、究極には全人類を厳格なベジタリアンにするというところにあるのでしょうから、あせっては いけないのでしょう。もちろん、それぞれの動物のことをかんがえると、いてもたってもいられない、というのは共感できます。けれども、全人類をベジタリアンにするのは、すぐにすぐ実現できることではありません。たとえば、肉食禁止法、動物実験禁止法、強制力のつよい動物愛護法を制定するのは、世間の目からすれば夢物語のようなはなしでしょう。けれども、動物のことをかんがえたら、それをめざさずには いられないという方も いらっしゃるわけで、そのような方々には、「わたしなりの」応援のメッセージをおくるつもりです。
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このサイトの事ですか? (オキクルミ)
2007-05-11 01:52:00
初めまして。

>この「イオマンテ解禁」がニュースサイトで紹介されてるわけなんですけど、一部の動物愛護を議論するひとが、これに「反対の意見をおくろう」というはなしをしている。

>野蛮だとか日本は先進国なんだからとか、なかなか すごいことをいっている。北海道知事や北海道ウタリ協会などに意見をおくるんですと。はあ。

このサイトの事でしょうか。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nobo/iyo.html

この内容からイオマンテどころか、アイヌ民族そのものに対しても無知なのが見え見えです。
このサイトの主は、はっきり言ってどうしようもないです。
自分がその地域の住民でもないのに「野良猫に餌やるな」の類の看板が出れば、どこだろうとしゃしゃり出て抗議して、その地域を掻き回したあげくに“地域猫活動”を押しつける。
困った哀誤家です。

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ありがとうございます (ひつじ)
2007-05-11 02:48:53
ミクシィのあるコミュニティでトピックが たてられていたんです。

要望のあて先はオキクルミさんが紹介してくださったページといっしょでした。おなじ人なのかどうかは、わかりません。ミクシィの かきこみは、かなりひどいものが ありました。同調する人が、ある程度いたことにも おどろきましたが。


あと、まだ紹介していなかったので、ついでに。
東村岳史(ひがしむら・たけし)『戦後期アイヌ民族-和人関係史序説 1940年代後半から1960年代後半まで』三元社
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/180.htm

ちょうどイオマンテに対する北海道知事の通達がでた時期をあつかっています。第2章は「「熊祭り」の政治学-「殺す」べきか「殺さざる」べきかをめぐって」です。新聞資料を元に分析してあります。

それから、アイヌ民族博物館のサイトに
「アイヌの「送り儀礼」に関する文献資料」
http://www.ainu-museum.or.jp/iyomante/akino.pdf
がありました。

東村さんの論文をよむと、「観光のアトラクション」としてイオマンテが都合よく利用されてきた経緯が うかがえます。そして観客の興味はただ、熊に集中し、殺すまねの演出には「なあんだ、つまんないの」などといった感想の声もあったようです。

すこし引用します。「たとえアイヌが自分たちの伝統の意味を「客観」化させてとらえ、それを和人に向かって説明しようとしたところで、和人側にその説明を聞く耳がなければ、説明の言葉は宙に浮いたものになってしまうであろう。その場合、アイヌが取りうる方策の一つは、相手が聞く耳を持つまで行為自体をやめてしまうことである」89ページ。
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はじめまして。 (やおた煮)
2007-05-21 12:50:55
まったくおっしゃる通りです。

反対意見を送ろう!と主張されている方々は「自分たちには『野蛮』な他者を正しい道へと導く資格があるのだ」と本気で思い込んでいるようですね。それこそが「野蛮」なのですが。

御覧になったというmixiのコミュニティに私も参加し、「民族自決」について穏やかに説明したところ、アクセス禁止されました・・・

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こんばんわ (ひつじ)
2007-05-21 22:55:40
わたしも すこしだけ議論に参加しました。けど、きりが ないように感じて やめました。

自分が いってることの意味が わかってないんだろうなという感じですね。

まあ、あまりに びっくりしたもので事実関係を把握しないまま こちらに感想をかいてしまい、それはそれで反省しています。通達後も、イオマンテは かなり ほそぼそとではあれ、つづけられてきたのですよね。ある意味では、通達よりも愛護団体の批判のほうが影響力をもってきたのかもしれないと感じました。

オープンなかたちではイオマンテをとりおこなうことが できなくなったわけですから。もちろん、非難されないにせよ和人の好奇の目にさらされてしまうのなら、オープンにする意義は うすれてしまうのですけども。
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