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いま、そのとき、かんがえつつあること。

線ひき問題

2005-11-22 | にんげん
バトラーの『ジェンダー・トラブル』が とどいた。なぁんだ。出発点や問題意識はまともで、ごもっともな本じゃないか。

要するにだ。堅実な部分と意欲的な部分が混在しているということだ。わたしは、この本が「性差はない」という内容だと きいた。ひとことで要約して、「性差は構築されたものだ」という内容だと。つまり、どの程度の「構築度」をさしているのかも わからなかった。まだ全部はよんでいない。けども、とりあえず支持できる部分を引用しておく。
女であることは「自然な事実」なのか、それとも文化のパフォーマンスなのか。「自然さ」とはセックスのカテゴリーをとおして、そのなかで、身体を生産していくパフォーマティブな行為――言説の制限を受ける行為――によって構築されるものなのか。(9ページ)
…フェミニズムの政治の基盤に共通のアイデンティティを置こうとする試みによって、アイデンティティそれ自体が政治的に構築され規定されたものであることをあばこうとする抜本的な研究が、どの程度まえもって排除されることになるのか。(10ページ)
バトラーの立場は明確だ。単一な「女」というカテゴリーへの疑問と批判であり、根本的なところを再検討してみようじゃないかと。

わかった。この本の内容をだ。とりあえずエセ科学として みなそうじゃないか。そのうえで、どこまでは科学的で、どこからは非科学的なのか。はっきりと線をひいていただこう。はっきりと。明確に。

あるいは、つぎのように といなおしても よい。どこまでがセックスで、どこからはジェンダーなのか。どこまでが宿命で、どこからは そうでないのか。くっきりと はっきりと線をひくことが できるものなのかと。

セックスは、断続しているのか、連続体なのか。きっちりと「ふたつだけ」なのか。


………と、ここまでいいとしてもだ。気になるのは、表現が あいまいなところも、けっこうある点だ。「身体を生産していく」って? どういう意味でなのかしら。「言説の制限を受ける行為」だとあるけど、すんなりとイメージできる表現ではないよね。女というカテゴリーが排除するものを批判しながら、バトラー自身も もうひとつの排除をつくりだしてしまったという批判もあるのだろう。しかし、こういった作業が無意味であるとか、それだけで全否定されるべきではなかろう。

ここで、社会構築主義をガーゲンの『あなたへの社会構成主義』から おさらいしておこう。
何かは、単にそこにあります。ところが、何があるのか、何が客観的な事実なのかを明確に述べようとし始めた瞬間、私たちはある言説の世界、したがってある伝統、生き方、価値観へと入りこんでいきます。(328ページ)
バトラーが なにをいわんとしたのかを、「要約」しようとする かたり(わたしの文章もふくまれる)にこそ、注意ぶかい態度で のぞむ必要がある。最後に、もう一度バトラーを引用しておく。
ジェンダーが構築物だという主張は、ジェンダーが幻にすぎず、人工物にすぎないと述べて、それに「本物」や「真正さ」を二元的に対立させることではない。(71ページ)
グーグル:「セックス 本質主義」 / 「線引き問題」