◎飛行機 11 ライト兄弟 3
★「航空工学の父」ジョージ・ケイレイ卿
○ウィルバー・ライトは1867年4月16日に生まれたが、この年の10月14日、日本では第15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還した
○ウィルバーが生まれる94年前の1773年に、「航空工学の父」と呼ばれるジョージ・ケイレイ(イギリス)が貴族の家に生まれた
・ケイレイは19歳のときに、ヘリコプターの模型を飛ばした
○ケイレイははばたき飛行の限界を見抜き、機体の重量を支える主翼と、推進力を得るメカニズムを独立にしなければならないと考え、固定翼のグライダーを設計した(「ライト・フライヤー号の謎」鈴木真二著、技術堂出版および「飛行機物語」鈴木真二著、ちくま学芸文庫より)
○1799年、ケイレイは銀の円盤に固定翼グライダーを彫った
その銀盤の裏には、飛行機の機体に作用する力を揚力と抵抗に分け、揚力は自重(重力)と釣り合い、推力は抵抗に打ち勝つことが必要であるという、力学的な関係が示されていた(同上書)
○銀盤に彫られたグライダーは尾翼も備えていた
◎ケイレイは翼に作用する空気力を模型によって計測し、その結果を「空中航行について」と題する論文に発表した(1809~1810年)
・ケイレイは揚力と迎え角の関係を導き、適切な迎え角を用いれば飛行に必要な揚力が得られることを示した
・また、翼に反(そ)りを与えれば、平板翼よりも大きな揚力が得られることを示した
◎ケイレイは飛行機に搭載するエンジンの研究も行なったが、当時の蒸気エンジンは大きくて重く動力として使えなかった
○ケイレイは1849年に3葉のグライダーを製作し、10歳の子どもを乗せて傾斜した野原で地上から浮かせることに成功したという
さらに1853年には、ケイレイの馬車の御者が操縦した単葉のグライダーで斜面を下りながら空中に浮き、約460mほどの飛行に成功したが、世間一般には認められなかった(同上書)
★「グライダーの父」オットー・リリエンタール(1848~1896)
・オットー・リリエンタールは1870年にベルリン工業技術大学(現・ベルリン工科大学)を卒業し、1年間の兵役ののち、ベルリン工科大学の機械工房で職を得た
オットー・リリエンタールは独学で勉強しなければならなかったライト兄弟よりも、力学や数学に通じていた
オットーと弟のグスタフの兄弟はイギリスの航空協会の会員になり、1874年には反りのある翼の優位性を発見した
ドイツでは政府により組織された委員会によって、「エンジンを用いた空気よりも重い飛行機は成立しない」という見解が出されていた
このこともあって、オットーは空気力を測定したデータの公表を1889年までさけた
・1886年にリリエンタール兄弟はドイツの飛行船飛行協会に所属し、1888年には空気力学の実験を再開した
リリエンタール兄弟の研究結果は「飛行術の基礎としての鳥の飛行」(1889年)と題する本にまとめられた
◎リリエンタール兄弟のデータは、ライト兄弟が1900年にグライダーを設計する際にも使用された
◎オットーは1891年に製作したグライダーで24mの滑空に成功し、人類初の滑空飛行と記録されている
・リリエンタールのグライダーは今でいうハンググライダーで、体を移動させてバランスを取るという方法をとっていた
リリエンタールのグライダーは18種類作られ、主に単葉機であったが複葉機も設計され、両機種で2000回以上の飛行が行われた
★オットー・リリエンタールの墜死
○1896年8月9日、ベルリン郊外のゴレンベルグの丘で、オットーはその日2回目の飛行を行なった
上昇風が突然機体を失速させ、グライダーは約15mの高さから墜落し、オットーは背骨を折った
翌日、ベルリンの病院で息を引きとった
・リリエンタールの評価は、当初ドイツ国内では低かったという
第1次世界大戦が近づき、国民的英雄に祭りあげられ、1914年にようやく国民の基金によって記念碑がつくられた
・オットーの墓石には生前口にしたという「犠牲は払われなければならない」という言葉が刻まれている
◎オットー・リリエンタールの滑空実験、1896年の墜死はライト兄弟の飛行に関する好奇心を動かした
★「航空工学の父」ジョージ・ケイレイ卿
○ウィルバー・ライトは1867年4月16日に生まれたが、この年の10月14日、日本では第15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還した
○ウィルバーが生まれる94年前の1773年に、「航空工学の父」と呼ばれるジョージ・ケイレイ(イギリス)が貴族の家に生まれた
・ケイレイは19歳のときに、ヘリコプターの模型を飛ばした
○ケイレイははばたき飛行の限界を見抜き、機体の重量を支える主翼と、推進力を得るメカニズムを独立にしなければならないと考え、固定翼のグライダーを設計した(「ライト・フライヤー号の謎」鈴木真二著、技術堂出版および「飛行機物語」鈴木真二著、ちくま学芸文庫より)
○1799年、ケイレイは銀の円盤に固定翼グライダーを彫った
その銀盤の裏には、飛行機の機体に作用する力を揚力と抵抗に分け、揚力は自重(重力)と釣り合い、推力は抵抗に打ち勝つことが必要であるという、力学的な関係が示されていた(同上書)
○銀盤に彫られたグライダーは尾翼も備えていた
◎ケイレイは翼に作用する空気力を模型によって計測し、その結果を「空中航行について」と題する論文に発表した(1809~1810年)
・ケイレイは揚力と迎え角の関係を導き、適切な迎え角を用いれば飛行に必要な揚力が得られることを示した
・また、翼に反(そ)りを与えれば、平板翼よりも大きな揚力が得られることを示した
◎ケイレイは飛行機に搭載するエンジンの研究も行なったが、当時の蒸気エンジンは大きくて重く動力として使えなかった
○ケイレイは1849年に3葉のグライダーを製作し、10歳の子どもを乗せて傾斜した野原で地上から浮かせることに成功したという
さらに1853年には、ケイレイの馬車の御者が操縦した単葉のグライダーで斜面を下りながら空中に浮き、約460mほどの飛行に成功したが、世間一般には認められなかった(同上書)
★「グライダーの父」オットー・リリエンタール(1848~1896)
・オットー・リリエンタールは1870年にベルリン工業技術大学(現・ベルリン工科大学)を卒業し、1年間の兵役ののち、ベルリン工科大学の機械工房で職を得た
オットー・リリエンタールは独学で勉強しなければならなかったライト兄弟よりも、力学や数学に通じていた
オットーと弟のグスタフの兄弟はイギリスの航空協会の会員になり、1874年には反りのある翼の優位性を発見した
ドイツでは政府により組織された委員会によって、「エンジンを用いた空気よりも重い飛行機は成立しない」という見解が出されていた
このこともあって、オットーは空気力を測定したデータの公表を1889年までさけた
・1886年にリリエンタール兄弟はドイツの飛行船飛行協会に所属し、1888年には空気力学の実験を再開した
リリエンタール兄弟の研究結果は「飛行術の基礎としての鳥の飛行」(1889年)と題する本にまとめられた
◎リリエンタール兄弟のデータは、ライト兄弟が1900年にグライダーを設計する際にも使用された
◎オットーは1891年に製作したグライダーで24mの滑空に成功し、人類初の滑空飛行と記録されている
・リリエンタールのグライダーは今でいうハンググライダーで、体を移動させてバランスを取るという方法をとっていた
リリエンタールのグライダーは18種類作られ、主に単葉機であったが複葉機も設計され、両機種で2000回以上の飛行が行われた
★オットー・リリエンタールの墜死
○1896年8月9日、ベルリン郊外のゴレンベルグの丘で、オットーはその日2回目の飛行を行なった
上昇風が突然機体を失速させ、グライダーは約15mの高さから墜落し、オットーは背骨を折った
翌日、ベルリンの病院で息を引きとった
・リリエンタールの評価は、当初ドイツ国内では低かったという
第1次世界大戦が近づき、国民的英雄に祭りあげられ、1914年にようやく国民の基金によって記念碑がつくられた
・オットーの墓石には生前口にしたという「犠牲は払われなければならない」という言葉が刻まれている
◎オットー・リリエンタールの滑空実験、1896年の墜死はライト兄弟の飛行に関する好奇心を動かした