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ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎イスラーム 20 正統カリフ時代 3

2015-08-15 21:17:09 | 宗教
イスラーム 20 正統カリフ時代 3

★正統カリフ

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


第3代正統カリフ ウスマーン・イブン・アッファーン

○ウマルは644年、キリスト教徒によって暗殺された

 息を引き取る前に、6名の実力者の名をあげ、後継者の選出をゆだねた
 後継者候補の互選の結果、クライシュ族のウマイヤ家のウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選ばれた

クルアーンの正典化

 クルアーンの断片は、口頭で暗唱したり、ヤシの葉や石板に記録されたりしていた
 ムハンマド没後、暗唱者の死亡が相次ぎ、各地でクルアーンの伝承に異同が生じはじめた

 ウスマーンは、クルアーンを書物の形で統一することとし、ザイド・イブン・サービトたちを責任者としてクルアーン全体を1冊にまとめさせた
 ウスマーンはこれを正本とし、そのコピーを主要都市に送り、他のすべてを焼かせた


第4代正統カリフ アリー・イブン・アビー・ターリブ

○ウスマーンの統治には、公正さが見られないとか、人事で親類縁者をひいきしたとか、不満が生じた
○暴動に発展し、ついにウスマーンは、656年にメディナにやってきた反乱兵士たちに暗殺された

 この兵士たちに、後任カリフとして選ばれたのが、アリーである

○アリーはムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファーティマと結婚し、ムハンマドの娘婿であって、ムハンマドと同じハーシム家の一員だった
 ところがアリーには、クライシュ族の一部から暗殺の責任者との非難があびせられた

○アリーに反対する勢力は
 ウスマーンの親戚にあたるムアーウィヤが率いるウマイヤ家と
 ムハンマドの未亡人でアブー・バクルの娘のアーイシャとズバイル・イブン・アウワーム、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー

○ラクダの戦い

 656年12月、アーイシャ、ズバイル、タルハはイラク南部のバスラ近郊で、アリーの支持者(シーア・アリー「アリーの党派」、たんにシーア派と呼ばれる)と戦ったが、アリーが勝利した

 アーイシャの輿を乗せたラクダの周りで激戦が行われたために、この名で知られる
 ズバイル、タルハは戦死し、アーイシャはマディーナに護送された

○スィッフィーンの戦い(アリーとシリア総督ムアーウィアとの戦い)

 ウマイヤ家のウスマーンが殺害された後、家長の地位を継承したのはシリア総督のムアーウィアである

 拠点をマディーナからイラクのクーファに移したアリーは戦力をたくわえると、657年、ユーフラテス川中流、シリアとイラクの国境近くのスィッフィーンの地で、ムアーウィアの軍と対峙した
 当初、アリーの軍が優勢だったが、ムアーウィア軍の将軍アムル・イブン・アースが槍先にクルアーンの紙片を結びつけて停戦を呼びかける策に出たことで戦闘は中止された

ハワーリジュ派

 アリーの軍からこの妥協を不服とする数千人の離脱者が出た
 彼らはアリーを反逆者(ムアーウィア)との調停を受け入れた者として非難、「判断は神のみが有す」と主張した
 彼らはハワーリジュ(離脱者たち)と呼ばれた

 アリーはやむをえず、ナフラワーンの戦いでハワーリジュ派の多くを殺害した

・661年1月、アリーはクーファのモスク近くでハワーリジュ派の刺客によって暗殺された

●アリーの死によって、「正統カリフ時代」は終わりをつげる

◎イスラーム 19 正統カリフ時代 2

2015-08-14 21:17:08 | 宗教
イスラーム 19 正統カリフ時代 2

✭正統カリフ

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


第2代正統カリフ ウマル・イブン・ハッターブ

 634年にアブー・バクルが没するが死の床で後継者に、ウマル・イブン・ハッターブが指名され、第2代正統カリフに就任した

635年、ハーリドはシリアの古都ダマスカスを占領した

636年、ヤルムーク河畔の戦いでムスリム軍は、ビザンツ帝国皇帝ヘラクレイオス率いるビザンツ軍に勝利し、ビザンツ帝国はシリア(現在のシリア、ヨルダン、レバノン、イスラエルを含む領域)の全領域を失った

ササン朝ペルシアの滅亡

 637年、将軍サードはイラクの都市ナジャフの南にあるカーディスィーヤに進出し、ここでササン朝ペルシアの軍に勝利した(カーディスィーヤの戦い)
 この後、ティグリス川を渡ったサードは、ササン朝の首都クテシフォンを陥落させた

 さらに642年には、イラン西部のニハーワンドの戦いで、ササン朝第26代王ヤズデギルド3世の軍に勝利し、ササン朝の滅亡を決定的にした
 ヤズデギルド3世は、651年メルヴ近くの水車小屋で部下によって殺され、ササン朝ペルシアは完全に滅亡した

○633年、アムル・ブン・アルアースはアブー・バクルの命令によってシリア遠征軍の司令官となる
 アムルは641年4月、ビザンツ帝国によるエジプト支配の要であったバビロン城を陥落させた

 アレクサンドリアにはビザンツ海軍の基地がおかれていた
 アレクサンドリアについては、アラブ軍による包囲攻撃ののち、両者のあいだで交渉がおこなわれ、641年11月、協定によってアラブ軍に明け渡された

○アラブ・ムスリム軍は、東方ではササン朝ペルシアを倒して、イラク・イランを支配下におさめた
 西方では、ビザンツ帝国にシリア・エジプトからの撤退をよぎなくさせた

ウマル

・はじめイスラームの迫害者だったが、改宗とともに熱心な信徒となった
・戦利品の分配を改めて、アラブ戦士には一定の俸給を支払うことを定めた
・ウマルは「神の使徒の後継者の後継者」と呼ばれたが、略してハリーファとだけ称した
 ウマルが好んで用いたのは、「信徒たちの長(アミール・アルムーミニーン)」の称号であった
 アミールは軍司令官を意味する

 これ以後、歴代のカリフたちも公式の場では、このアミール・アルムーミニーンの称号を好んで用いたとされている

ヒジュラ暦を定めた
・家族法、刑法などの法規定の整備も行った
・被支配下の人々から税を徴収する一方、被支配下の民は、生命財産の安全保障を得、信仰の保持を許された
 都市の中央には礼拝所が建設され、クルアーンが朗唱された

●ムスリムはムハンマドの教えを広めることを使命としていたが、征服地の住民を改宗させることが目的ではなかった
 キリスト教やユダヤ教などの1神教を信じている場合は改宗をせまることはなかった

◎イスラーム 18 正統カリフ時代 1

2015-08-14 21:10:16 | 宗教
◎イスラーム 18 正統カリフ時代 1

正統カリフ

 ムハンマドの死後に、ハリーファ(後継者または代理人)としてイスラーム共同体(ウンマ)の長となった4人で、ムスリムによって「正しい指導者」と認められた

・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)


○ムハンマドは632年6月8日(ヒジュラ暦11年ラビーウ・アウワル(第3月)13日)に亡くなった
 ムハンマドは生前後継者を指名していなかった

 ムハンマドはマディーナの中心部に住居兼礼拝所を構えていた
 その周辺にマッカからの移住者が住んでいた

アリー
 ムハンマドには4人の娘がいたが、ムハンマドが亡くなった時点で、うち3人はすでに死去し、末娘のファーティマだけが生きていた
 ファーティマの夫はアリーという人物で、ムハンマドの従兄弟であり、ムハンマドに養子同様に育てられていた
 アリーがムハンマドのあとを継ぐ指導者であろうと考えた人もいたが、30代で指導者としてはまだ若かった

初代正統カリフ アブー・バクル

 ムハンマドが亡くなったその日のうちに、マディーナの人々が集まっていた家に、移住者の長老たちが押しかけ、長老のアブー・バクル(60歳をすぎていた)にたいする「忠誠の誓い(バイア)」を行った
 翌日、メディナのムスリム全員によるバイアが行われ、アブー・バクルが「アッラーの使徒の代理(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)」に就任することが正式に決まった
 アブー・バクルがムスリムの指導者として初代正統カリフ(ハリーファ)に選ばれた

 その後、イスラーム共同体の指導者の地位を引き継いだ者を、カリフと呼ぶ

リッダ(背教)戦争

・ムハンマドの死とともに、かつてムハンマドに服従していた各地のアラブ諸部族が離反した

 盟約はムハンマド個人との間に結ばれたのだから、ムハンマドの死によって彼との盟約は解消されたと考え、ザカート(喜捨税)やウシュル(10分の1税)の支払いをやめた
 ナジュド高原南部のヤマーマ地方では、ハニーファ族のムサイリマが預言者と称し(ムスリム側は「偽預言者」と呼ぶ)、離反者たちを集めて反ムスリムの運動を展開した
 ムスリム側はこれを背教(リッダ)として討伐しようとした(リッダ戦争)
 カリフ アブー・バクルは、633年、将軍ハーリド・イブン・アルワリードを討伐軍の司令官に任命した
 ハーリドはムサイリマを殺害し、多数の離反者を討伐した

大征服のはじまり

 ハーリドは633年夏、イラクへと転戦した
 アラブ軍は、肥沃なイラク平野の、穀物やナツメヤシ、樹木の緑に目を見張り、この地方をサワード(黒い土地)と名づけた
 濃い緑色を「黒」とみなしていた

 ハーリドはヒーラおよびユーフラテス川下流域の諸都市を征服した
 634年、アブー・バクルの指示でシリア地方に転戦した
 後任の司令官にはサード・ブン・アビー・ワッカースが任命された

◎イスラーム 17 豚肉食

2015-07-12 17:01:30 | 宗教
イスラーム 17 豚肉食

食物規定

・ある宗教内部で、どのような食物は食べてよいか、またそれらをどのように料理すべきかを定めた伝統的な体系的戒律(「世界宗教事典」教文館)

○ヒンドゥー教やジャイナ教の一部では、「不殺生」の教えにより、動物の肉すべてが禁じられている
 ヒンドゥー教徒は牛を神聖視するため、牛の肉は食べない
 「不殺生」の教えによれば、食べるために動物を殺すことも暴虐とみなされるため、「不殺生」の実行者は菜食主義者となる

 仏教において「不殺生」は、他の生物に対する愛の表現である

○ユダヤ教の食物律法で適正な食物とみなされるものや、それらの適正な料理法はコシェルと呼ばれる

 肉はひづめが分かれ、反芻する動物のものしか食べてはならないので、うさぎ、豚(反芻しない)は食べてはならない
 血を食べることも禁止されているので、肉は血を抜いて食べる
 肉と乳製品を混ぜることは禁じられている
 うなぎ、貝、エビ、カニは食べてはならない
 動物の肉は正しい仕方でされたものであることが必要である

○模範的なユダヤ教徒は、シナゴーグか家で食前に30分の祈りを捧げ、朝食前に手を洗って食前の祈りを捧げ、会食中の話題には必ず「タルムード」を選ぶ
 食後にも祈りを捧げて、仕事に向かう
 午後も5分ほどの祈りを行う
 夜には近くのアカデミーや食堂で「タルムード」を学習する
 ただし、このような生活を厳格に営んでいるユダヤ人は少数派であるという(「世界宗教事典」村上重良、講談社学術文庫)


ハラール(許容されたもの)

ユダヤ教の影響を受けたイスラームの食物規定で合法的な食品をハラール食品という

ハラールの反対語はハラーム(禁止行為)で、「豚肉食」は禁止されている

豚は不浄物とされていて、豚は飼育・売却ともほぼ禁止されている(売却には異論もある)

「豚肉食」が禁止された理由ははっきりしない

 腐った肉や、得体の知れない肉は疫病の危険性がある

○ムスリムはライオン、トラ、蛇、犬、猫、ネズミ、ワニ、亀、カエルなどの肉も食べない


●クルアーンより

・「アッラーが汝らに禁じ給うた食物といえば、死肉、血、豚の肉、それから(屠る時に)アッラー以外の名が唱えられたもののみ。それとても、自分から食い気を起したり、わざと(神命に)そむこうとの心からではなくて、やむなく(食べた)場合には、別に罪にはなりはせぬ」(第2章168節)

・「汝らが食べてはならぬものは、死獣の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ(邪神)に捧げられたもの、絞め殺された動物、打ち殺された動物、墜落死した動物、角で突き殺された動物、また他の猛獣の啖(くら)ったもの―(この種のものでも)汝らが自ら手を下して最後の止めをさしたもの(まだ生命があるうちに間に合って、自分で正式に殺したもの)はよろしい―それに偶像神の石壇で屠られたもの。それからまた賭矢を使って(肉を)分配することも許されぬ」(第5章4節)

・「わしに啓示されたものの中には、死肉、流れ出た血、豚の肉―これは全くの穢れもの―それにアッラー以外の(邪神)に捧げられた不浄物、これらを除いては何を食べても禁忌ということにはなっていない」(第6章146節)
など


ザブフ

動物(牛、羊、ヤギ、鶏など)をイスラーム法の定めた方法で屠ること

ザブフの方法で屠られた動物はハラールな食糧となる
ザブフの方法は、ムスリムがザブフの意志表明を行い、「ビスミッラーヒ、アッラーフ・アクバル(アッラーの御名によって、アッラーは偉大なり)」と唱え、動物の頚動脈を鋭利な刃物で切断し、血を抜く

ザブフを行われた動物は、供犠とはことなる
海の魚や動物については、ザブフを行わなくてもハラールとなる

調味料にアルコールやアルコール由来成分が含まれていないこと
豚肉や豚骨などを原料としたものが入っていないこと


日本でハラームでない食品を探すのは困難

○日本の方法はハラームなので、牛肉や鶏肉でも食べられない
 ラーメン、牛丼や親子丼は食べられないことになる
 しかし、日本でムスリムが妥協して牛肉などを食べても罪にはならない

 日本国産のハラール認証されたインスタントラーメンはある
 寿司は、酢の原料にアルコール成分が入っている場合があるから食べられないだろう

 また、豚肉を切った包丁、まな板、豚肉を入れたお皿もハラームになる

・厳格にハラールの規定を守る人は、日本ではパン(動物性油脂のショートニングが入っている)、ケーキ(洋酒などの酒精成分が入っている)、チョコレート、ゼリー(牛の骨から作られたゼラチンが入っている)も食べない

○全日空では国際線でハラール認証の機内食メニューを提供している

東京オリンピックに向けてハラール認証のメニューを提供するハラール認証レストランやホテルの需要が高まるだろう

ハラール認証食品はビジネスチャンスになるだろう



★イスラーム法では「必要は禁止物を許容に変える」という立場がとられている(「イスラームの生活を知る事典」、塩尻和子・池田美佐子、東京堂出版)

○ハラール食品がないときは、豚肉が排除されていれば、ユダヤ教徒やキリスト教徒がそれぞれの規定に従って処理した肉を食べてもよい
 それさえも入手できないところでは、出された食肉を食べても「許容」される

知らないで豚肉を食べる場合や、餓死の危険があるという極限状態では、生命維持のために豚肉であっても、死肉でさえも食べることが許される

●病気治療のためにアルコールを含む薬剤の処方は許可されている

◎イスラーム 16(五行 5) 巡礼

2015-07-05 12:16:50 | 宗教
イスラーム 16(五行 5) 巡礼

●五行

・五行はムスリムであるための信仰行為としての5つの義務である(5柱ともいう)
 1、信仰告白
 2、礼拝
 3、喜捨
 4、断食
 5、巡礼

 5、巡礼(ハッジ)

○巡礼とはある宗教の信者が行う、その宗教で特別に重要な意味を持った場所への旅行で、信仰を深め、祈願の成就をめざす宗教的行為である

○キリスト教徒は、エルサレム、ローマ、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラやフランスのルルドやポルトガルのファティマにある聖母マリアの聖地などに巡礼する

○仏教においてはルンビニー(釈尊の誕生地)、ブッダガヤー(釈尊の初成道の地)、鹿野苑(初転法輪(初説法)のところ)、クシナガラ(入滅の地)など釈尊に関係のある地が巡礼地と定められているが、それほど大きな意味を持ってはいない(「世界宗教事典」リチャード・ケネディ、教文館 など)


イスラームの巡礼(以下、おもに「岩波イスラーム辞典」によります)

○大きく分けて3つある
・マッカへの巡礼(①ハッジ(大巡礼)と②ウムラ(小巡礼))と③ズィヤーラ(訪問)

○ウムラ(小巡礼)
 五行の1つとはみなされていない
 ハッジの期間以外ならいつでも行うことができる

○ズィヤーラ(訪問)
 マディーナにある預言者モスクや、預言者の一族、聖者の廟などを訪れる参詣・墓参行為で、ハッジとは明確に区別されている


ハッジ(大巡礼)

○一般にマッカ巡礼はハッジをさす
 ヒジュラ暦の第12月の8日から12日を中心にかけての時期にマッカのカアバ聖殿(「神の館」)を訪れることである
 ハッジはムハンマドが632年3月に行った「別離の巡礼」の儀礼を再現するものである

○近代以前のマッカ巡礼は、巡礼者の財産をねらってアラブ遊牧民や盗賊団が襲撃をかけることが少なくなかったから、常に大きな危険がつきまとった
 そのためマムルーク朝の歴代スルタンは、年ごとに「巡礼のアミール(指導者、指揮官)」を任命し、武力によってエジプトやアフリカからの巡礼団を保護する政策をとった(「世界の歴史8」佐藤次高、中公文庫)

○現在では、200万もの巡礼者が同じ儀式を行えるよう、組織化がなされている
 サウジアラビア政府は、ハッジがスムーズに行えるよう歩行者道、トンネル、回廊を造るため膨大な資金をつぎ込んできた
 それでも、あまりにも激しい混雑のため、今でも事故は稀ではない(「イスラーム」ジャマール・J・エリアス、春秋社)


○巡礼者はヒジュラ暦の第10月から第12月10日までに、巡礼の意志表明をしなければならない
 また、巡礼者は定められた巡礼境界地点に入る前に意志表明をしなければならない

ハッジは一生に1度は果たすべきムスリムの義務であるが、すべてのムスリムを対象とはしていない
「誰でもここまで旅して来る能力がある限り、この聖殿に巡礼することは、人間としてアッラーに対する神聖な義務であるぞ」(クルアーン 3章91節「岩波文庫」)
 ムスリムにとっては、一生の願いでもある

・借金のない成人で、マッカまで旅する体力や財力があり、自分の巡礼中に残留家族の生活を維持する準備ができる者のみが、それを実行する資格をもつ
 体力のない者や老人は、資金の援助をして他人に「代参」を依頼することができる
 女性は近親の男性や夫の同伴なしには許されない

・遠来の巡礼者のためにマッカには「巡礼案内人(ムタウウィフ)」がおり、ハッジの複雑な儀礼のやり方を指導している

○ハッジをすませた人はハーッジュ(女性はハーッジャ)という称号で呼ばれる
 ハーッジュになったからといって、特別な恩典がつくわけではない

○世界各地から多数のムスリムが集まるマッカは、物資や情報が交換される場でもあり、イスラーム諸学の多くの学者がマッカに居住していた
 巡礼に来た人々は、新しい思想の動向にふれてその影響を受け、故郷に持ち帰った

○巡礼は肌の色、言語の違い、身分や年齢、性別をこえて全世界のムスリムをアッラーの下に1つに結びつけ、連帯感を生み出す上で大きな役割を果たしている(「イスラム教入門」中村廣治郎、岩波新書)

ムスリムでなければマッカやマディーナに立ち入ることはできない


ハッジの順序

・巡礼の手順は細かく規定されている

①巡礼者はマッカに入る前に定められた場所(ミーカート)でグスル(全身の浄め)を行ってから巡礼服(イフラーム)に着替える

イフラーム
 ハッジを行う前に禁忌の状態になること

 さらに、イフラームの状態に入った時に着用する、縫い目のない男性用の上下2枚の白布をさす
 1枚を腰に巻き、もう1枚を左肩からかけ、右肩をあける
 イフラームは、アッラーの前に人間が平等であることやアッラーに身を捧げることや清純であることを示している
 頭に被りものをしてはいけない
 着用後、2ラクアの礼拝を行い、禁忌状態になる
 イフラームを解くまで、香水、性の交わり、動物や虫の殺生、爪を切ること、ひげを剃ることなどは禁じられる

 女性の場合は、巡礼の意志表明を行い、イフラームの状態になるだけで、巡礼用の特別着はなく、顔だけは出す全身を覆う服を着る
 顔をおおってはいけないのは、アッラーに自分の顔を覚えてもらうためだといわれている(「イスラームの生活を知る事典」、塩尻和子・池田美佐子、東京堂出版)

②タルビアを唱えながら遅くとも第12月8日までにはマッカに入り、聖モスク(マスジド・ハラーム)内にあるカアバを反時計回りに7周するタワーフ儀礼を行う
 それから黒石とカアバの扉がある南東のコーナーで祈り(ドゥアー)を捧げる

○タルビア
 ハッジの最中に唱える言葉で、意味は
「あなたの御前に参りました、アッラーよ、あなたの御前に参りました、あなたの御前に参りました、比類なき御方、あなたの御前に参りました、称賛と恩恵、そして大権はあなたのものです。比類なき御方」

 巡礼者は巡礼行事の移動中にも欠かさずタルビアを唱える

タワーフ儀礼
 カアバ聖殿を黒石の地点から左方向へ7回まわる儀式で、巡礼者がアッラーの前に出ることを象徴している
 タワーフは「回ること」の意

 カアバ聖殿を前にして祈願をし、黒石の角に進み、黒石に接吻する
 できない場合は、黒石に向き手をあげ「アッラーの御名によって、アッラーは偉大なり」の言葉に続き祈願を行う
 各周で南角と黒石を向き手をあげ同様に祈願する
 タワーフを行う間は、祈願やクルアーンの章節を読誦する

③北東コーナーの近くにあるマカーム・イブラーヒーム(イブラーヒームのお立ち所)の近くで任意の礼拝2ラクアを行う

④ザムザムの泉の水を飲み、サファーの丘に向かいサアイ行を行う

ザムザムの泉
 カアバ聖殿とサアイ廊の中間にある
 巡礼者たちはザムザムの泉の水を故郷への土産にするという
 ザムザムの泉の水には病気を治す力があると信じられている

サアイ行
 サファーの丘とマルワの丘の間を7回行き来する行

 聖モスクの東側面にあるサアイ廊の南の端にサファーの丘があり、北の端にマルワの丘がある
 ムハンマドはサファーの丘に立って初めてイスラームをマッカの人々に説いた

・巡礼者はマルワの丘に行き、サアイ行の意志表明を行う
 サファーの丘から始めて、アッラーの唱念やクルアーンを唱えながら3往復半してマルワの丘で終える
 サアイ廊の両緑線の間を早足で進む
 サアイ行を終えた後に、剃髪するか髪の一部を切る
 早めにマッカに到着していた者は、タワーフやサアイを繰り返し行う

○サアイ行はハージャル(預言者イブラーヒームの女奴隷)が幼い息子イスマーイールのために水を求めて砂漠をさまよった故事に基づいた行である
 ムスリムはハージャルとイスマーイールが砂漠をさまよっているときに、アッラーがザムザムの泉で水を与えたと信じている

○サアイ行は、人間が人生でたえまなく続ける努力、闘いを象徴し、ムスリムが生きるための人生の闘いを粘り強く行うことを表している(「イスラーム世界の基礎知識」ジョン・L・エスポジト、原書房)

⑤8日の夜は、マッカ郊外のミナーの谷もしくはアラファ(複数形ではアラファート)で過ごす

○ミナーの谷
 聖モスクから東へ約5km離れた谷間で、巡礼者が巡礼期間中テント生活する巡礼地である
 巡礼者は8日にミナーの谷に移り、テント生活を始める

⑥巡礼者は9日正午までにタルビアを唱えながらアラファに到着しウクーフ儀礼を行う

・アラファの野にある「ラフマ山(慈悲の山)」でムハンマドが「別離の説教」を行ったとされる

ウクーフ儀礼
 これまで犯した罪業を悔い改め、アッラーに赦しを求め、アッラーの名を唱念し祈願する
 ウクーフなしにはハッジを完遂したことにはならないとされている

 一部の巡礼者はラフマ山に登ってウクーフ儀礼を行う

⑦日没後、巡礼者はアラファとミナーの間にあるムズダリファに向かい、そこで1晩を過ごす

⑧翌10日の朝、ミナーに戻り、大・中・小の3本ある悪魔を象徴する石柱(ジャムラ)のうち、最大のものに7個小石を投げつける(石投げの儀式
 それからラクダや羊などを供犠し、イフラームを脱ぐ

 動物を犠牲として捧げるのは、アッラーがイスマーイールの代わりに羊を犠牲として受け入れたという故事にならったものである
 その際、頭髪をすべて剃るか、一部を切る

○この日は、巡礼に参加しなかったムスリムがそれぞれの居住地で供犠を行う、犠牲祭の日でもある

○旧約聖書の物語では、アブラハムが息子のイサクを犠牲として捧げられるよう神から要求されるが、この物語のイスラーム版ではイブラーヒーム(アブラハム)が最も身近な存在(息子)を犠牲にしてその献身を示すよう神に求められたとされている

 イブラーヒームは、息子イスマーイールを手にかけることを見るに忍びず、目隠しをしてその喉をかき切ることにした
 目隠しをずらして見ると、イスマーイールは無傷のまま立っていた
 その足下には、神がイスマーイールの身代わりにした、雄羊が横たわっていた(「イスラーム」ジャマール・J・エリアス、春秋社)

○犠牲獣は、家族、隣人、貧しい人々に分け与えられる
 過剰な消費を防ぐため、こうした肉は缶詰にされ、1年を通じて救済組織に活用される
 西欧やアメリカに住んでいるムスリムは、個人としてその義務を果たすことが困難だと感じているため、自分に代わってその役割を果たし、その肉を必要な人々に分配してくれる国際組織の後援をする(「イスラーム」同上)


○ジャムラ
 ジャムラはイブラーヒーム(アブラハム)の伝説と結びついている
 イブラーヒームがアッラーに命じられ、子イスマーイールを犠牲に捧げようとした時、悪魔がささやき邪魔したので、イブラーヒームは大石柱の場所で石を投げて悪魔を追い払った

⑨巡礼者はその後も2、3日ミナーにとどまり、3本の悪魔の石柱に石投げをする
 そしてマッカ出発前にまたタワーフ儀礼を行い、巡礼の儀礼を終える

・一部の巡礼者は帰郷する前に、マディーナの預言者廟への参詣を行ったりする