城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

南志賀廃寺のビイスタ工法

2021-10-19 18:34:26 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆一般様
田園調布駅で下車した時にその街路を見て
即刻いっも読んでいる先生のビイスタ論で
田園調布が出来ている事にピント来ました。

南志賀廃寺のビイスタ工法
◆対談者
それにしても長谷川先生の城郭ビイスタ論
引き続き堅調に動画視聴者数が増えてます。

日本の忘れ去られた貴重な測量築城史とも
言えますし。現在の城郭縄張研究家が長年
軽視し続けた城郭遺跡論点と言える非常に
高く評価できる優れた理論だと私思います。

私は以前先生に古墳は私は関係無い!庭園
は私には関係ない!城下町割りに興味無い!
古代都市や古代城柵にも私には関係ないと、
私が興味あるのは戦国城郭だけ名言した事
がありましたが人間の作ってきた歴史的建
造物には全て設計が存在し縄張が普遍的に
存在すると、歴史の時間軸に登場する遺跡
を幾何学構造的に平面的に冷静に巨視的に
展望できる様にな歴史と社会を冷静客観的
に展望できる、ビジョン展望やビイスタ的
遺跡観察眼が身に付いたと思います。これ
錆びっいた金属ネジが潤滑油で解放されて
スムーズに動く様に考え方が柔軟になりま
した。このブログ読むのも一種の脳トレと
言う事になります。

◆長谷川 ビイスタ論動画の視聴数は
私自身が驚いている状態とも言えます。

◆対談者
この動画いきなり弥生の倭の国の一例と思わ
れる纏向遺跡で発掘された纏向宮殿遺跡から
動画の幕が開けるという本当に異例の内容!
しかもクサビ型V字状放射ビイスタ論から
古代弥生宮殿の建物配置構図を語られると
言うもう前代未聞の内様には視聴者は唖然!
▼纏向宮殿遺跡のクサビ型Vビイスタ工法

◆長谷川
堂塔建築家/堂宮大工/工匠は木材の巧妙な木
組だけでに留まらず依頼された建築群の全体
構成つまり第三者が見て美しい品格と雄大な
広がり雄々しさを常に計算して都市計画と調
和した権力者や時の為政者が求める希望要望
にテクノクラート技術者として応えなければ
ならない運命でV字状宮殿配置する事は堂塔
や神殿や宮城をより荘厳によりビジュアル的
に権力者の威信が反映される建築群創設が要
求さます。つまり大工の総統領は現代の有名
な建築デザイナーのようなアーチステックな
時代を先取りする如き芸術的最新のセンスが
求められます。規矩術を工匠が応用している
事は確実でしよう。

▼渤海国の寺院宮殿のビイスタ工法


▼日本国 平城宮のビイスタ工法


◆南志賀廃寺 みなみしがちょうはいじ
   大津宮関連遺跡の一つで、現在の南志賀一丁目・
二丁目に位置する。昭和初期に大津宮の位置を究
明する目的から崇福寺跡とともに発掘調査が実施
されて以降、複数回にわたって調査がおこなわれ
た。飛鳥の川原寺と同じ伽藍配置で、中門を入る
と東側に塔、西に西金堂が対峙し、その北側に金
堂、講堂が順に並び、講堂を囲むように三方に僧
房を配する。金堂・講堂・西金堂・塔跡は瓦積み
基壇をもつ。また出土遺物から7世紀後半の白鳳時
代から平安時代末期まで存在していたとみられる。
現在は一部が公園となり塔心礎や回廊の礎石が残る。
国指定史

◆対談者
以前大津南志賀町に長谷川先生と偶然行く機会
がありまして遺跡が放射線状に設計計画されて
いると説名を受けたんですが、その時は私は未
だ『城郭ビイスタ論』と言うものを全く知らず
長谷川さん!?空想家ですねと?鼻先で笑って
いたんですが、あの南志賀廃寺の解説を今一度
御願いを申上げます。

◆長谷川
堂塔伽藍建築の中芯腺はAから赤線で中門/金堂
講堂/僧坊の中心を貫通しております。

◆長谷川
建物は奥に行くに従って前面よりも広く計画的
に設計されたビイスタ工法である事が解ります。
◆長谷川
また奥の僧坊からも放射状にビイスタ工法を
活用しています。



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琵琶湖源流の美とくらし

2021-10-19 08:54:54 | 民俗学
以下の写真展示企画展は民俗学を含めて
昭和平成令和と過疎化の進む日本の山村
の現状を包み隠さず映し出す貴重な記録
写真展と思います。私も2回に亘り見学
させていただき研ぎ澄まされた余呉丹生
菅並洞寿院の空気の中を散策致しました。
  滋賀民俗学会理事 長谷川博美 



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驚愕!安土城驚異の縄張の深層1!深淵!新視点!

2021-10-18 08:46:40 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
▲城郭ビイスタ論クリック

★★待望城郭ビイスタ論講座登場★★
題目 城郭幾何学論/城郭ビイスタ論
講師 歴史城郭研究家 長谷川博美
様式 パワーポイント解説講座
日時 令和3年11月25日木曜
場所 米原市下多良三丁目3番地
施設 米原まなびあいステーシヨン
旧称 米原公民館
交通 米原駅西口より徒歩5分
   米原ジヤンクションより車で約10分
予約 ☎  0749-52-2240
費用 500円

★丁張りとは 丁張り(遣り方)とは、
「建物を建てるために施工する、基準と
なる仮設工作作業」
▲城郭ビイスタ論クリック
この記事のおおすめ度
五段階で★★★★★星5

驚愕!安土城の縄張の深層1!深淵!新視点!
※この記事の楽しみ方は女性は昔
糸であやとりをした事、男性は陣
取りをした事を思い出し読まれる
と楽しいと思います。縄張って何
だっけ?固く考えずに柔らかく考
える事をお勧め致します。
質問者
本論の趣旨や根幹とは何か?

長谷川
1、普請と作事の分業 
※普請土木と作事建築は別分野
2 城郭縄張と縄打の現実
3 天正4年安土城創建時の測量法考察
4 論説ではなく現実の検討と考察

◆質問者
文献『信長公記』に記された安土城の
普請奉行は?

◆長谷川
天正4年起工時『信長公記』の記録には
「天正四年丙子 安土御普請の事」と
表題が附されており建築ではなく普請

「巻九
太田和泉守これを綴る
天正四年丙子
安土御普請の事
正月中旬より江州安土山御普請、
惟住五郎左衛門に仰せつけらる。」

とあり天正4年正月中旬に惟住五郎左衛門
「丹羽長秀」に織田信長は普請を指示する。
★ただし丹羽長秀を普請奉行とは記さない。

◆質問者
織田信長が安土に住んだ正式な記録とは?

◆長谷川
「二月廿三日、安土に至つて、信長、御座
を移され、先づ、御普請、御意に相、
御褒美として、御名物の周光茶碗、五郎左
衛門に下さる。黍き次第なり。御馬廻、
御山下に各御屋敷下され、面面、手前手前
の普請申しつけらる。」

とあり同年2月23日に御座を移し移住する。

◆質問者
本格的に石垣普請が開始された時期とは?

◆長谷川
『公記』には
「四月朔日より、当山大石を以て、御構への
方に石垣を築かれ、又、其の内には天主を
仰せつけらるぺきの旨にて」

とあり4月1日から本格的に石垣工事が開始
され、最初から天主を築いたのでなく途中
で天主を上げる事を信長は指示している。
従って本論に登場する安土城の石垣線の
基本線「縄打線」は天主礎石腺と趣きの
異なる石垣線を見せている。文献の解釈に
もよるが信長の性癖「きまぐれ」で天主が
途中から計画されたのかは判然としないが
天台の歪んだ形状や天主礎石群の不一致や
あまりにも整合性の無さは城郭普請と楼閣
作事の齟齬や分業体制を現すものなのか?
また下図は昭和15年段階のものである事も
注意が必要である。


◆質問者
築城に従事した当時の武士や職人の様子は?

◆長谷川
『公記』同年に
「尾・濃・勢・三越・若州・畿内の諸侍、
京都・奈良・堺の大工・諸職人など召し
寄せられ、在安土仕り侯て、瓦焼唐人の
一観相添へられ、唐様に仰せつけらる。」
とあり

尾張、美濃、伊勢、三河、越前、畿内、
京都、奈良、堺等から職人を招集している事、
特に中国人瓦焼「一観」まで招き中国風に瓦
をする事を信長は指示している。

◆質問者
城郭石垣を採取した奉行は存在したか?

◆長谷川
『公記』同年に
「石奉行、西尾小左衛門、小沢六郎三郎、
吉田平内」とある。

◆質問者
『公記』同年にの安土山御天主の次第で
普請奉行の氏名が記されているか?

◆長谷川
「御大工、岡部又右衛門。漆師首刑部。
白金屋の御大工、宮内遊左衛門
。瓦、唐人の一観に仰せつけられ、
奈良衆焼き申すなり。
御普請奉行、森三左衛門。」

とあり安土山御天主の次第においては

御大工、岡部又右衛門とあり。
御普請奉行、森三左衛門は重要。

◆長谷川
しかし信長家臣、森三左衛門は元亀年間に近江
志賀郡で父も兄も打死にしてお、森長可の誤記
の可能性がある事に注意したい。

◆長谷川
安土城の天主台や小櫓は多数が何故不整形なのか?
何故故意に?不整形な城郭を造る必要があるのか?
安土城の縄張研究こそ日本城郭史上最大の研究盲点。

◆一般者
安土山の自然地形に合わせて城郭を普請している事
古くから城郭史で解説されている常識でこれが正論。


◆長谷川
世の中には「常識の嘘」や「固定概念」と呼ばれる
最初に安土城の縄張り説明を受けた時の記憶が脳内
に永久に残る現象、一般民衆の多くが初期学習記憶
と呼ばれる「固定概念」に捉われてる事を指摘する。

◆一般者
私には全ての石垣が偶然性を伴って安土の自然地形
に合せた縄張としか認識出来ない。自然地形としか。

◆長谷川
「論」ではなく、「実」と言う、現実を認識する事
が重要と思う。絶対に四角矩形であると確信してた
遺構が実は何度計測しても不等辺である事が現実。


◆長谷川
論者は「論」に執着し、現場は「現実」を重視する。
天正4年より創築記現実図面は90度直角を基調とする
石垣遺構が少ない。90度の矩形空間を有する安土城の
「織田信長公本廟」は天正13年(1585年)に秀吉に
より建設された後世の石組遺構で注意が必要と言える。

◆一般者
しかしこの現実は規則正しい矩形の四角の櫓「矢倉」
が石垣の天端と建築物の間に隙間「スキマ」が発生
し縄張と普請の齟齬「ズレ」を補う腰屋根と言われ
る設備が必要である。その一例を証明する一例とは?

◆長谷川
この安土城図とユンゲの安土城屏風を模写したとする
版画を如何に解釈するか?絵画の右には、2層の櫓が
中央には石段と奈良地方で見かける錣「しころ葺き」
とよばれる瓦葺きの櫓門が見え『信長公記』にも唐人
一観に唐風に瓦を担当させ奈良衆焼き申すと記録が
ある。また下図には普請と呼ばれる石垣普請の工事
と作事と呼ばれる普請奉行と作事奉行の齟齬を回避し
て城郭建築を雨漏りによる建物腐食を回避する為の
施設「腰屋根」が大きく張り巡らされており城郭建築
を恒常的に使用せんと企図した様相が絵画から読み
取れる。間口が狭く、奥行きのある歪▼な櫓台に注目。


◆一般者
  この様な城は近世城郭に照らし合わせて見ても
あまりに異形の姿と思われる。織田信長と言う人格
が異形異風を好む、人間とするならば肯定できる。

◆長谷川
縄張は本丸二ノ丸三の丸などの配置に使われる設計
現代城郭史は縄張を城郭の郭配置のみとし固執して
城郭縄張のベーシックなプラニング設計や基本線は
語られ注目される事は稀である。そもそも地形拘束
されない縄打と言う世界が学会や一般の人々に認知
されていない事にも喚起が必要で実際に縄打ち丁張
や城郭の測量は伝統的に実施されいて日本の文化と
言える。
◆一般者
放射状測量法を用い施されたられた中世城郭を
長谷川氏は実践的に体験された事かあるのか?

◆長谷川
永禄末の近江佐々木六角方の和田山城跡の実際
の城郭遺構り現場で体験した。
▼和田山城、遺構イラスト図、長谷川博美
▼和田山城、遺構縄張図、長谷川博美
▼和田山城、遺構縄打図、長谷川博美
◆一般者
そもそも縄打なる文言は何れの文献に
使われているのか?

◆長谷川
『築城記』縄打の文言が記録されている。
また犬走の文言も明確に記されている。

◆一般者
安土城の天主など
わざわざ不整形八角形の建物を建てる事が不可解?

◆長谷川
三角測量、多角測量、三辺測量、などが安土城に
介在したのか今後、研究研究されるべきだと思う。

◆一般者
では三辺を観察しながら安土城が普請計測
された痕跡を長谷川氏に解説を願いたい。

◆長谷川
1、2、3、4、5、の石垣の直線が存在する。
別線で
7、8、9の石垣線が存在しA点に集結する。
また
別線で10、11、12、13、14の石垣が存在。
A点の延長線上にある、B点が推測可能。
また別線で
15、16、17、18と石垣線が存在する
但し19の上は、現況を変形させ昭和に復元
した石垣線で是を本論で★採用は出来ない。
また別線で
20、21、22、23の石垣線が存在する。
両線は終結してC点を求める事が出来る。
また伝台所郭の石垣24。伝天守取り附台
の枡形石垣の25、26を貫通して27の横矢
石垣を貫通する線が復元できる。
また伝八角平の25から順次26、27、28は
北東虎口、29は天主鈍角隅石垣「シノギ」
伝本丸南部石塁の歪30へと貫通する線が
復元可能であり集結点Dを求める事が可能。
◆長谷川
更に縄張線、縄打線の検討を進める。
一見整然と矩形を形成すると思われる
伝黒金門多聞櫓も詳細に観察すると
現実には歪である。
それは44、45、46、47、48の線と
49、50の線が図のF点で
集結している事で解る。
また51、52、53、54と
55、56、57の集結点は図面左側のE点
があり伝金門左の隅櫓は正方形ではなく
歪な不整形をなしている。
◆長谷川
更に縄張線、縄打線の検討を進める。
58、59そして図面右Eへの集結点。
また63、64、65、67からEに続く線。
また27、28の右、62、61、同じく図
面右側のEへと集結する線もある。
特に図面右のE点からN点へは天主建物
礎石配置の配置「南北」を通過する中心
線となっている。勿論天主石垣と天主礎
石は普請と作事の作業の別を表わすもの
◆一般者
佐和山城址で東西にわたる縄打線を模索
されたが安土城においても東西の縄張り
縄打線を模索願いたい。

◆長谷川
試論的に縄張線、縄打線を模索を試みる。
▼先ず1、2、3、4、5、6と縄打線が存在する。
線上にA点、B点を仮定する。次に
A点より8、9、10、11、12、13と縄打線を復元する。
◆長谷川
2、3
8、9
の囲いは桝形「たまり」である事が理解出来
るが各内角が90度示す、近世枡形とは異なる
歪な形状である事が解る、これは自然地形に
従ったものではなく縄打線、縄張り線に従属
した為と私は推測する。

◆長谷川
更に、縄打線、縄張線を模索する。
23、22、21、19、12、集結点Bを求める
事が出来る。
あ更に20、19、18の線を求める事が出来る。
い更に24、11
う更に15、10、16の線を求める事が出来る。
あ、い、うの線は集結点Cを求める事が出来る。
◆長谷川
更に、縄打線、縄張線を模索する。
A点から25の点が求められる。
25からは26、14、27の線が求められる。
図面の左Eから28、29の線が求められる。
D点からは31、32、33、34、35の経線
が求められE、D、C、経線も存在する。
◆長谷川
織田信長の安土城の築城を手伝った人物に羽柴筑前守
秀吉が『信長公記』に記されているが、彼は織田政権
の信長の遺志を踏襲するかの如く太閤秀吉となり肥前
に名古屋城をビイスタ工法を用いて築城している。

◆長谷川
織田信長豊臣秀吉の築城にともなう測量技術と検地
検地=正確な築城に伴う測量技術の獲得と発展は
織田信長の天正の石直し や慶長の豊臣秀吉の太閤
検地 (たいこうけんち)へと相関関係があります。
で実施した 検地 ( 田畑 (山林は除く)の 測量 及
び収穫量調査)。 天正の石直し 、 文禄の検地 いう。
 領主が自領内に課税する為に基礎資料として領内の
 織田信長 も検地を実施していて(信長検地 と呼ぶ
 )が、奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)も
すでに実務を担当していたことが知られています。

コメント (4)
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越前丸岡城のビイスタ工法と築城呪術の潜在

2021-10-16 02:21:55 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
★数秒後に動画や本文が写し出されます★
越前丸岡城のビイスタ工法と築城呪術の潜在

◆おしらせ ウッデイパル余呉様
2021/10/16城郭フオーラムは彦根犬上郡
方面に勤務就業さけている方々の御参加
が平素と比べ比較的多いと聞き及びます。
残席がまだあり余裕あるとの事ですから
御参加希望の方は☎0749-86-4145へ

◆城郭ビイスタ論 動画「長谷川博美」
日本全国の向学の皆様のお陰を持ちまして
再生数が。私の予想外の1350名様に達して
改めて厚く御礼と御声援に感謝致します。

◆長谷川
今回10/16に見学する賤ケ岳合戦で柏谷山城は
全くその存在が知られていません。柴田勝家
方屈指の有力武将の陣城である事は確実です
城址見学をして突然余呉の林間から出現する
土塀の如き幾何学状の400年前の柏谷砦の跡
を見る度に私は顔面蒼白になる事もあります。
一般社会常識から言えば400年前の土塀の痕
など残っていないと1000人中999人は考えま
す。しかし現実に砦が明確に残っております。


◆越前丸岡城
天正4年(1576年)柴田勝豊により築城かた勝豊は
柴田勝家の姉の子で勝家の養子。天正3年(1575年)
越前国を平定した柴田勝家は北庄城を築城、勝豊
を豊原寺城に置いたが、勝豊は翌年丸岡城を築い
いた。天正10年(1582年)柴田勝豊は近江国長浜城へ
と移り、丸岡城には柴田の家臣安井家清が城代と
して在城する。天正11年(1583年)柴田勝家は賎ヶ
岳合戦で羽柴秀吉に敗れ北庄城落城し安井左近は
賤ケ岳合戦で戦死したとされる。


◆越前丸岡城のビイスタ工法
丸岡城には真北を「正中線」とする解り易い
城郭ビイスタ工法の痕跡を読み取る事が可能
です。「正中線」は、丸岡城天守閣を貫いて
非常に調った楔型の「クサビ型ビイスタ工法」
で築城が施工された事が偲ばれます私の城郭
幾何学論は汎用性や普遍性を持つ従来の城郭
理論城郭図書には登場しない忘れられた日本
の城郭規範や根本根幹をなす可能性があります。


◆みんな
長谷川先生!素晴しい理論です。最初はみんな
城郭ビイスタ論など見向きをしない空論でした。

◆一般様
城郭ビイスタ論は偏向した独善的で勝手な解釈
だと確信して取り合わなかったんですが、此処
まで多くの事例が出来してくると是はスタンダ
―ドで一般的常識と言う事になる。今まで多く
の学者がビイスタ論に何故取り組まなかったっ
たのか?それもよく解ります。要するに真説や
正論が新たに登場して来ると今までの既存論は
B級論へと下落し自分達の社会的権威や「ハク」
も見事下落し著書出版も売れが鈍る。また講演
講座にさえ呼ばれなくなる。すると今で特定の
ネームバリュー知名度の先生に依存していた人
々は自分達の組織や社会や連帯を保守する心理
が働く学門が進展する事よりも派閥や人的絆を
や連合や員数を旨とする人々はごぞって「城郭
ビイスタ論」は認めない。しかし人間とは真理
や新研究の動画に収めた事案を自分の心の奥の
深層心理に従い、どんどんと「建前」から自分
の本心「本音」に従って見始めた結果だと思い
ます。城郭ビイスタ論は簡単に絶対に止らない!

◆長谷川
過激な言動は控えて下さい。私は温厚温和な言動
行動を好む素朴な感性の無名の研究家なのですよ。

◆対談者
町の歴史城郭講演に足を運ぶのは人間の表層的
心理「建て前」心の表面的な心の世界でしよう
でも人間は反面、真理、現実、実相、現実への
強い知的好奇心を心の奥に所持しているもので
す。城郭ビイスタ論の進捗も肯定出来る物です。

◆対談者
フオロアー様が158人で動画再生が1350とは
異常な現象です。これは誰か別の組織に属す
る人々が、動画を再生して見ていると言う事
動画を見ても同調勢力からは決して疎まれず
長谷川先生の学門は本当は深いと言う証明!

◆正中線とは?「長谷川」
正中は神道の用語でもありまた神社仏閣城郭の
中心線をなすセンターラインの意味があります。
有名な金沢城の石垣も各曲輪の石垣は「正中」
見定めて、鬼門の方向にある城郭石垣の隅石
は鬼門を避ける回避する工夫がなされている事。

◆越前丸岡城の人柱伝説の紹介
丸岡城の築城が進む中、どういう訳か天守台の
石垣が何度積んでも崩れてしまい、一向に工事
が捗らなかった。『神か悪霊かの仕業か。人柱
を立てれば治まるのではないか?』と誰かが上
伸した。人柱に選ばれたのが隻眼のお静である。
お静は子供を武士に取り立てて貰うことを条件
に自らの命を差し出した。そして、天守の中柱
の下に埋められ、それから石垣は崩れなくなっ
たと云う。ところが、お静の子は武士に取り立
てて貰えなかった。お静は怨霊となり、藻刈り
の時期になると春雨を降らせ堀の水をいっぱい
にして皆を困らせた。人々はお静を鎮めるため
小さなお墓を建て、これを慰めたと云う。

◆長谷川此処からは「民俗学者としての考察」
典型的な隻眼「ひとつめ」伝承であり人身御供
伝説でもある。これは城郭に呪術的な地鎮効果を
含む伝説であろう。「静」と言う女性名称にも
「しず女」=しずめ=鎮め=地鎮の呪術の潜在
を感じる。丸岡城に潜在しているのは民俗学的
にペンタゴン五芒星の図形潜在か?と考えます。



◆丸岡城の五角形の水堀の意味「長谷川」
桔梗紋や5角形自体は英語でペンタゴン
五芒星「ごぼうせい」と呼ばれる形状で
ある。アメリカには国防総省ペンタゴン
が存在、北海道府には五稜郭が存在した
が此れペンタゴン「五芒星」の陣形で
ある。五芒星で最も有名の陰陽師として
阿倍晴明の駆使する五芒星民俗学でも
言うところの安部のセーマンと呼ばれる
星型が古来より★五芒星「星型」である。

◆五芒星「ウイッキペデイア」より引用
五芒星(ごぼうせい)とは、五光星、五稜星
あるいは五角星(英: five-pointed star)と呼ば
れる5つの角を持つ星マークのうち、互いに
交差する長さの等しい5本の線分で構成され、
中心に五角形が現れる図形である。五線星、
星型五角形(星型正五角形)ともいう。 
5つの要素を並列的に図案化できる図形として
、洋の東西を問わず使われてきた。世界中で
魔術の記号とされ、守護に用いることもあれば、
サタニズムに見られるように上下を逆向きにし
て悪魔の象徴とすることもある。悪魔の象徴と
してとらえる際には、デビルスターと呼ばれ
ることもある。 

◆長谷川
ちなみに賤ケ岳合戦屏風には越前柴田方の柴田
勝安方の武人に六芒星らしき旗を持っ姿が描写
されています。

◆越前丸岡城の笏谷石城郭瓦
越前丸岡城=笏谷石の鯱瓦/軒丸笏谷石瓦

◆越前北庄城=笏谷石の鬼瓦

◆越前福井城=笏谷石瓦

◆越前敦賀城=笏谷石の鯱瓦と柱穴礎石

◆越前引壇城=川瀬氏寄進笏谷石製日吉神社祠

◆敦賀市疋田常行院墓地=笏谷石製石仏群

◆近江安土城天守入口化粧石=越前笏谷石

◆越前一乗谷館=笏谷製鬼瓦

◆近江小谷城=笏谷石製軒瓦「鬼面意匠」水盤 バンドコ

◆近江浅井郡=湯次神社狛犬=越前笏谷製

◆近江清滝寺=京極氏墓所=京極高次廟所=越前笏谷製


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甲斐甲府城の幾何学縄張分析

2021-10-15 00:30:57 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
★数秒後に動画や本文が写し出されます★


◆対談者
長谷川先生の城郭幾何学は一般に人々とり
難し過ぎるのではないでしょうか?

◆長谷川
別に普段の城郭見学においても城郭幾何学
については資料の付録として付けている様
な状態で私は押し付けはしていません。私
の城郭見学会とは素朴で真面目な世界です。

◆質問者
山梨県の甲府城に幾何学縄張が有りますか?


◆長谷川
設計された物全てに設計設定腺あると思い
ます。道路標示の「止まれ」にも元々は此
の様な設計線が存在しましたが風雪で消え
てしまったのです城郭幾何学城郭ビイスタ
は日頃城に興味を示しておられる男性陣よ
りも「折り紙」や「糸取り」に親しんだ事
のある女性陣の方が幾何学と割り切る事に
よりやはり糸辺の分野は女性が理解力高い
と思います。既に先輩や読書により城縄張
の観点を既成知識として身に着けた女性陣
の方がむしろ「城郭幾何学論/ビイスタ工法」
に自然に素直に学べると思います。人間は
一度難しい「ムズイ」と思った瞬間に興味
や学習能力「ヤル気」がストップ停止して
しまうものです。城郭幾何学も気楽に取り
組めば大きな学問的進捗を見せると私は思
います。地域振興ではなく生涯学習の意味
において私はそう常に思っておりますが?

▼甲斐新府城の桝形と馬出を幾何学分析する女性


◆長谷川
山梨県甲府城の石垣腺には優れた整然とした
▼幾何学が多用されていると私は思います。

▼特に天守台石垣は繊細な放射線から成り立っ。

甲府城の古絵図  『楽只堂年禄』第173巻を分析する

様々な場所に放射状測量の痕跡を読み取る事が可能です。


甲府城 以下ウイッキペデイアより引用
築城主・築城年代[編集]
「家康は甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐におけ
る支配的拠点としていたが、1583年
(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じ
て一条小山の縄張りを行い、甲府城の築
城を企図したと言われる。 甲府城の築城
主を徳川家康とする説は古くからあり、
江戸後期に編纂された『甲斐国志』では
築城主を家康・年代を天正13年(1585年)
としている。昭和戦後期には1969年(昭和
44年)に『甲府城総合調査報告書』が築城
主を家康・年代を天正11年としている。 
築城主を家康・年代を天正10年・13年とす
る説の根拠となる史料には年未詳徳川家奉行人
連署状写、享保年間の『甲斐国歴代譜』、
「愛宕山宝蔵院」『甲斐国志』仏寺部があるが
、いずれも家康による築城を確定する史料で
なく、この時期に甲斐国内において大規模な
動員がかけられた形跡もないことが指摘される
[3]。 天正11年築城説の根拠となる年未詳正月
27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の
平岩に対して一条小山における築城の準備を命
じており、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣
を行っている。石垣積は「穴太積」とも呼ばれる
西国系の技術で、織田信長が天正4年(1576年)
の安土城築城において本格的に使用し、豊臣秀吉
に引き継がれたという。戦国期の甲斐や武田領国、
家康の領した東国五カ国には存在せず、甲府城に
おいて初めて用いられている。現在の甲府城の石垣
遺構は技術的な中断の形跡が無く同一の技術水準に
よるものであることが指摘され、豊臣大名時代の
築造と考えられている。 これらの石垣積の導入
時期や甲斐・家康を巡る政治情勢から、平山優は
甲府城築城に関わる年未詳家康文書の年代比定は
天正11年ではなく、小田原合戦・家康の関東転封
をひかえた天正17年頃である可能性が指摘を指摘し
[4]、家康は甲府城の築城を企図していたが実現さ
れず、甲府城の築城は豊臣大名時代になされたと
評価している[5]。」



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