城郭 長谷川博美 基本記録

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衝撃!本能寺の変!秀吉の策略は離間計(りかんのけい)!

2021-10-28 04:49:05 | 戦国武将

衝撃!本能寺の変!秀吉の策略は離間計(りかんのけい)!
◆質問者
離間計(りかんのけい)とは何ですか?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
宿敵の仲を裂くことで状況を打破する戦術。
敵勢力を二つに分断して勝利する策略です。

君臣=主君と家臣の中を引き裂く分断策戦。
親子=親子の血縁を齟齬分離し自軍が勝利。
割算=2を半分に分離1を痛撃して勝利する。

◆質問者
秀吉が実施した永禄期の君臣分離策とは?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
織田信長の元で美濃斉藤氏と美濃三人衆を
調略「ひとたらし」により分離した功績!
これにより信長は尾張と美濃を併呑する!
もっとも斉藤義龍と父道三の親子関係を
分断したのも戦国の策略によるものです。
近江では六角氏が重臣後藤氏を突然殺害
した後藤騒動も君臣の和を裂く離間の計
用意周到に心理作戦を用いて敵の陣中に
疑心暗鬼を生じさせて敵に内乱を起す策。

◆質問者
秀吉が近江に潜入して実施した離間の計は?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
 主君浅井氏と家臣堀樋口を分離した事です。
これにより織田方は長比城、鎌刃城、現在の
長浜市南部と米原市の全域を確保しました。
さらに天正年間に入り堀樋口氏を策略により
特に堀家の家宰樋口三郎兵衛を逃亡失脚させ
坂田郡を本格的に自領に組み入れて行きます。
織田方の丹羽長秀は浅井の磯野丹波守の佐和
山城を長期包囲して浅井氏磯野氏の主従関係
を破綻させ磯野を高嶋郡へ誘致する策略を用
いております。これも離間の計と言えます。


◆質問者
更に秀吉は北近江に侵入し施した離間の計は?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
元亀年間になると秀吉は近江浅井氏の本城たる
小谷城浅井氏の重要支城、横山城の城代になり
ます。これは姉川合戦において勝利した結果に
おいて信長は木下藤吉郎に横山城「長浜市」の
城代を命じます。姉川合戦も浅井の本城小谷城
と支城横山城を分離させる策戦で離間の計です。

◆質問者
天正元年の小谷城攻めで秀吉が執った策戦とは?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
虎御前山城から出陣し信長に大嶽城を落城させ
て秀吉自身は小谷城浅井久政と浅井長政の中間
に存在する京極丸を攻略して両者を離間分断し
小谷城落城を有効に導いてます。 これズバリ
離間の計の1つ分断策戦とも言えます。

◆質問者
その前に朝倉義景と朝倉景鏡を越前で離間させ
て景鏡に越前大守義景の首を討たせてたのは?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
主従を離間の計で分離させる事は秀吉いや戦国
期の常套策で、朝倉景鏡が先年美濃近江国境に
出張した折節に狡猾な秀吉は景鏡の内応準備を
初めてた可能性があります。景鏡は大軍を近江
美濃国境に派遣しながらも、淡白に越前に帰還
する不可解な軍事行動をしています。越前大野
郡白山神社権現には既に元亀年間に戦勝祈願し
た鰐口が残り織田の景鏡懐柔内応策は早くから
水面下で先行、進捗していた可能性があります。

◆質問者
秀吉は離間策もさる事なから連合策もしますか?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
志賀の陣で佐和山城の丹羽長秀と横山城の秀吉が
連合合策して宇佐山城で窮地に陥った信長を救援
に向かいます。秀吉長秀の連合合策つまり、和算
の法則で山崎合戦、賤ケ岳合戦でも見事賤ケ岳に
合流し勝利します。一方秀吉は北国軍の柴田勝家
の柴田勝家とその前線指揮官、佐久間盛政の間に
布陣していた当時能登小丸城主と当時越前府中城
の前田利長父子を茂山から北国に引き上げさせて
叔父柴田勝家と甥佐久間盛政の強力な軍隊の本陣
と前線を分断させる「離間の計」を知らない間に
巧妙に行使し羽柴秀吉は北陸をも見事に制圧して
いく策略を展開しています。これ即ち敵の分断で
敵を割算で分離し自軍は連合して勝利する策略。
非常に解り易い!敵の2を割算で1として1を潰し
自分は肝心の合戦の要で1+1=2と連合する策で
す。

◆質問者
秀吉は明智光秀にも策略により勝利してますか?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
勿論です四国の長宗我部と織田信長の連携を分離
させ急遽、主君の信長に四国長宗我部討伐の軍を
起させたのは羽柴秀吉の策略そのものです、また
これにより主君、織田信長と明智光秀の君臣主従
関係を破綻させ「離間の計」をフルに行使し明智
に本能寺の変に至る事を導いている策士と言えま
す。本能寺の変の首謀者かつ現場采配は斉藤利三
であり斉藤氏は四国長宗我部氏家臣石谷氏と縁戚
という縁故関係にあり本来四国長宗我部氏との窓
口は斉藤利三/明智光秀が四国政策の取次役ですが
秀吉は見事に四国戦略の主導権を横領簒奪掌握し
て織田信長と外様新参大名と言える明智光秀と信
長の関係を齟齬や破綻をもたらしたのは羽柴秀吉
の離間の計に明智光秀が眩惑されぶらかされた事
になります。信長の本能寺での最期の衝撃的文言
『是非に及ばす』明智の謀反「さもありなん」の
肯定を意味する言語とも言えます秀吉の危機管理
能力や想定能力「読み」とも言える中国大返しは
準備万端事前に計画していたごとく疾風の速さで
秀吉は備中高松城そして姫路城「秀長」の留守を
経由して山崎合戦において電光の如く明智光秀に
勝利しています。これは秀吉の予定調和であり、
シュミレート策が的中した事を証明するものです。
秀吉の備中高松での毛利氏との手際よい講和自体
も不自然と言えます。普通敵将が兵を引く場合は
これに追い打ちをかけるのが毛利の兵法の常道な
のに秀吉とあっさり講和している不可解さ?一方
明智は成す事計画する事全て順調に行かず緩慢で
す。秀吉の離間の計は明智の頼みとする丹後細川
氏にも既に調略を施していた事でしょう。明智と
細川の関係を離間させていたのは秀吉の離間の計
そのものである可能性があります。同じく山崎合
戦本戦で本来は明智の与力、中川清秀、高山右近
も明智派閥から離間させて巧妙に自軍に導く調略
は真に見事です。一方明智は成すべき万策全てに
おいて不完全で緩慢とも言えます。本能寺変後の
シュミーレト策戦やビジョン展望を明智は持ち合
わていない。秀吉は、次々に策略や外交を成功さ
ていて、まるで事前準備した如く順調に事を運ん
でおります。そもそも播州姫路城を確保し、小寺
官兵衛を黒田官兵衛とて改名させ播州御着の小寺
勢力を、離間の計を用いて分断した事に始まりま
す。中国地方では秀吉は独断で備前岡山の宇喜多
氏との提携連合関係を主君信長に稟議書の提出な
く実施して主君信長から詮議を受けていますが、
これは天正3年段階の北陸方面で柴田勝家と意見
の齟齬を巡って秀吉は無断で長浜に帰還して信長
に叱責されています、秀吉の戦略、策略は主君の
信長をも凌駕する俊敏狡猾な頭脳の回転の速さの
持ち主と思われます。まさに敵の心理を洞察看破
する秀吉の人間心理読心術は「ひとたらし」調略

◆質問者
天正11年の賎ケ岳合戦における秀吉の策略は?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
前哨戦において越中、能登、加賀、越前と
美濃織田信孝伊勢滝川一益を分断離間すべ
く江北長浜城を柴田勝家と柴田勝豊を離間
させて先ず秀吉は重要拠点旧領長浜を確保
します。この段階で賤ケ岳の合戦の前哨戦
初期策戦において秀吉が先手を完全に確保
したと言って過言でありません更に秀吉は
賤ケ岳本戦でも離間の計を行使致してます。
柴田軍2万の本陣勝家本隊と前線指揮官の
佐久間盛政を、大岩山砦、岩崎山砦などの
脆弱な囮の砦を用意して、これで「釣り」
柴田軍を二分する計略離間の計を用いて賤
ケ岳において佐久間を殲滅し柴田本隊を越前
北庄城で滅亡させます。一方事前に前田利家、
金森長近徳山秀現は合戦の事前に内応の約束
を秀吉は取り付けています。秀吉は相手を分
断し味方をプラスする割算と足し算、割算と
和算「÷」と「+」を巧妙に使い分けています。

◆質問者
秀吉と言う人は知らない間に敵対する勢力を
離間させ仲違いさせる極めて陰湿巧妙な神経
策戦を行使する人だと思いますが堅実な徳川
家康には「離間の計」の策略は通用しない筈!

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
いいえ秀吉は徳川家康と家臣石川数正を離間
の計を用いて自軍に調略して「ひとたらし」
して大局的には徳川に総合戦略で勝利します。

◆対談者
秀吉って陽性な性格だと思っていたらその反面
極めて陰湿な策略家で何故か人間的に嫌ですね?

◆長谷川
秀吉は晩年その本質が吐露されて政策のミス
とも言える大陸出兵や利休切腹、秀次切腹な
どの失策が増えます。彼の弟大和大納言たる
豊臣秀長の補佐や中庸の諫言が、如何に豊臣
政権に軌道修正や安定をもたらしていたかが
解ると思います。秀吉は社長、秀長は常務で
社長の暴投を秀長が堅実に捕手としてカバー
していたそれは播州の姫路城の秀長の守備や
江州賤ケ岳合戦の秀吉方の本陣と言える田上
山城を柴田方の攻撃から堅固に本塁を守りぬ
く地味な名捕手こそ常務豊臣秀長の本領です。

◆質問者
織田信長子息が離間計で家臣を虐殺した人は?

◆長谷川
天正12年の事
井 長時(あざい ながとき)は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国苅安賀
城主 
経歴[編集]
天正10年(1582年)の本能寺の変以前に父の遺領[1]
を継ぎ、尾張衆として織田信忠の軍団に組み込まれ
る。本能寺の変後は、尾張を領した織田信雄に仕え
る。岡田重孝・津川義冬、そして浅井長時田宮丸の
三人は「三家老」と呼ばれ、信雄家において大きな
影響力を持っていた。しかし、謀反の疑い(豊臣秀
吉の陰謀説あり)をかけられ、三家老はすべて信雄
の居城に誘い出された上で殺害された(『勢州軍記』)
『寛政重修諸家譜』では幼名の「田宮丸」で記され、
没年は16歳となっている。主君家臣の間で疑心暗鬼
を発生させる秀吉の本領は明智と信長を離間の計で
分断して残った明智を用意周到に滅ぼした策略によ
るものではないだろうか?
コメント (3)
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