小谷城の機能的本丸から浅井本宗家を読み解く!
質問者
長谷川先生!城郭遺跡において一番最高所が
詰めの丸や本丸ではないケースを知りショツ
クを受けました!例えばこんな城の模式図な
らば一番下が本丸、上段が二ノ丸、最上段が
三の丸と識別する見分ける事が可能な事が
城郭の堀切と土塁の設定位地から見分ける事
が出来る事を知り大変に驚いています。気に
となかった事に気付く事ってとても大事です。
◆図①
長谷川誤解をさける為に言っておきますが上図
は城郭パーツ「部位」の堀切と土塁とを基準に
おいた概念図である事に注意して下さい。例え
ば上記の城が落城後100年経過して江戸時代の
人が昔を偲んで地誌類に古城絵図を残された
場合には山頂から本丸、二の丸、三の丸と100
年前の呼称とは異なる曲輪名称を残される場合
もあります。この場合は伝本丸、伝二ノ丸、
伝三の丸と現代の人々は石柱を立てる場合には
注意が必要です。ですかから◆図①は城郭遺跡
の現実機能論から言う下段から本丸、二の丸、
三の丸です。
質問者
城郭機能論を説明して下さい!
長谷川
◆図②は坂道を登攀する3台の車が左から右へと
進行する様子のイラストです。現代人はこの図を
見て一瞬にして乗用車が左に向かって進行してい
る事を悟ります。何故悟れるか?認知可能なのか
?現代人は乗用車の進行方向にハンドルや運転席
やボンネットやサイドミラーを確認して車の前部
と進行方向を認識する事が出来ます。城郭遺構も
城址が敵対している外敵が侵入する事を予想して
堀切や土塁を普請している事に気づく事が大切。
◆図②
◆図③ならば図の左手が敵の侵入する城外に相当。
城の前面は左です。城の前フロントどちらかです。
◆図④ならば図の右手が敵の侵入する城外に相当。
城の前面は右に相当します。
質門者
あのう~小谷城本丸には浅井備前守長政が
それより高所の小丸には長政の父久政が居
た事になっております。しかし更に高い所
にある山王丸には久政より浅井家では血統
上は上位の殿様であるオモヤの大殿が居た
場所ではありませんか?山王丸こそが浅井
本宗家では最高家格である浅井宗本家の
居城ではないのでしょうか?
尼子氏の子 井口氏の子
養子①浅井亮政ー②浅井久政ー③浅井長政
本家本宗家 ↑小丸殿通称小殿
①浅井蔵屋→②娘鶴千代→③江戸時代徳川旗本三好氏
婿田屋明政
通称大殿
長谷川
たしかに東浅井郡誌では浅井明政はこと田屋明政は
浅井亮政の婿養子として浅井本宗家を継承すべき人
であったが浅井の政務一切を取り仕切る人物からは
引退したと記されております。石山本願寺顕如の記
禄した『天文日記』には浅井亮政薨去し、その葬儀
の香典は田屋明政こと浅井明政に送られている事は
亮政の喪主が明政であり2代目浅井氏を襲名すべき
人物と判断したものでしよう。ですから本来は久政
は浅井本宗家の継承者とは認識されていなかったか
もしれません。浅井郡誌には明政は一線から引退し
て大殿「隠居」した殿様として認識されたと解釈し
ております。浅井家の主権を継承する事になった、
久政は小殿の呼ばれ小谷城内の小丸に居住する事に
なりやがて久政も息子長政に政権を譲渡する事にな
ったと解釈しています。郡誌の言う論説です、から
是を的確正解とは断言できませんが浅井郡誌に小谷
城には山王権現と竹生島権現を祀る曲輪が小谷城内
に存在したと記しております、是を良質の文献資料
で特定確定する事は今後の新潮な課題かと思います。
小谷城信仰郭の研究の様な論文として、、、
質問者
『信長公記』には小谷城の浅井下野「久政」の居城
が浅井長政の居城のと別の意味で記されていますか?
長谷川
『信長公記』の天正元年に記述には生々しいく下野
居城、つまり浅井久政の居城が記されております。
「八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、京極つぶらへ
取り上り、浅井下野・同備前父子の間を取り切り、
先ず、下野が居城を乗つ取り候。爰にて、浅井福寿庵、
腹を仕り侯。さる程に、年来目を懸げられ候鶴松大夫
と申し侯て、舞をよく仕り侯者にて侯。下野を介錯し、
さて其の後、鶴松大夫も追腹仕り、名与是非なき次第
なり。羽柴筑前守、下野が頸を取り、虎後前山へ罷り
上り、御目に懸けられ侯。翌日、又、信長、京極つぶら
へ御あがり侯て、浅井備前・赤生美作生害させ、浅井
父子の頸京都へ上せ、是れ又、獄門に懸けさせられ、
又、浅井備前が十歳の嫡男御座侯を、尋ね出だし、
関ケ原と云ふ所に張付に懸けさせられ、年来の御無念
を散ぜられ訖んぬ。爰にて、江北浅井が跡一職進退に、
羽柴筑前守秀吉へ、御朱印を以て下され、悉く面目の
至なり。」と生々しく戦国の世の凄まじき現実と様相
を浮き彫りにしております。
質問者
小谷城の縄張りには格郭の本丸つまり城郭機能
縄張論から見てどの様な曲輪配置になってます
か?
長谷川
城郭とは堀切や土塁配置を考察する事によりその
城郭の求芯性つまり城郭の中央はどこか?外郭は
どこなのか思わぬ城郭の物理的中心を提示してれ
る事があります。何度も当該ブログで言ってます
が城址を丁寧に冷静に観察する事で城郭の先生で
ある城址が私達に真摯に語りかけてくれる事があ
るのです。『信長公記』天正元年の記述に「下野
が居城を乗つ取り候。」浅井下野守久政の居城が
小谷城内に存在した事を我々に提示しております。
◆図4を御覧ください!
浅井備前の居城やテリトリー「範囲」は大堀切か
ら右のA1本丸A2大広間A3桜の番場やA4馬屋屋
屋敷等のA群にセパレートしている事が解ります。
これ等のA群を分ける城郭遺構の最大に目印とは
B群のAB群の境を大きく分断する大堀切に相当
します。
長谷川
さて次にB群の主郭本丸とは構造上は何処に相当
するのでしょうか?残念ながら現在小丸とされる
曲輪はB群の主郭、つまり求芯性の中軸中央点を
示す場所に位地しておりません。『信長公記』の
言う所の下野居城とは軍記物『浅井三代記』や
『浅井郡誌』の言う小丸は城郭構造的にはB群の
中核ではなくB群に従属する一曲輪と言う評価に
なります。B1曲輪に浅井氏より浅井血統で言う
本宗家「浅井田屋一族」の城と評価すると高島郡
の田屋城本丸に枡形虎口がある事でで山王丸大石
垣や枡形虎口は小谷浅井氏より血統的上位の本宗
家の城と所謂大殿の城と解釈もできるかもしれま
せん。さてB群はB1山王丸B2小丸B3京極丸B
4中の丸、そしてA城グループと大堀切を有する
城郭群とは大堀切を挟んでB系城郭遺跡群に従属
する城郭群を形成しています。
長谷川
さてここで山王丸の北にある六坊の土塁と堀切の
構造に着目してみましよう。この遺構は小谷城の
見学でも見落としやすい月所丸への堀底道を形成
しており、この遺構が山王丸への侵入を防ぐB5
に相当してB1山王丸に従属する曲輪である事が
読み取れます。更に剣難の難路を月所丸に至ると
二つの曲輪と二つの土塁と二重堀切と更にその外
の堀切に堅固に防御されたB6月所丸の城郭群が
存在いたします。
長谷川
次に小谷城の背後を堅固に護る。小谷山尾根上の
本城の後ろ盾ともいう大嶽城が存在します。その
遺構を観察しますと小谷本城方面には一切堀切を
設けてませんむしろ大嶽城の北尾根で山田方面へ
繫がる尾根に巨大な二重堀切を設けて、小谷本城
を守る役目が読み取れます。つまりこれはB1群に
従属する広義で言うならば大嶽城一城だけでB7に
相当するB1を守る為の独立性のある城で、枡形が
あるもものB系列の城郭と言う観察が出来ると思い
ます。また機会があればこれ等の雄大な遺跡を見学
したいと私は思っております。
★小谷城枡形考察
小谷城に残存する枡形を考察すると山崎丸。大嶽城。
山王丸。京極丸。などやく4箇所現存します。かすか
ではありますが大広間全面を守る黒金門の虎口も枡形
に相当する可能性があります。中世の枡形とは何ぞや?
枡形が三カ所観察できる鎌刃城は『信長公記』を読む
と堀氏、樋口氏、多羅氏が登場し枡形は二カ所が石積
であり殿と言われる階層が鎌刃城では主に堀、樋口氏
かとおもわれます。では小谷城に枡形が5箇所存在する
事は5人の殿が小谷城には存在した事になります。それ
は1朝倉氏、2高島浅井氏「田屋氏」3京極氏、4久政
5長政だったのかもしれません?枡形は江戸時代にも
城の玄関を象徴する門口として継承されて行きます。
質問者
長谷川先生!城郭遺跡において一番最高所が
詰めの丸や本丸ではないケースを知りショツ
クを受けました!例えばこんな城の模式図な
らば一番下が本丸、上段が二ノ丸、最上段が
三の丸と識別する見分ける事が可能な事が
城郭の堀切と土塁の設定位地から見分ける事
が出来る事を知り大変に驚いています。気に
となかった事に気付く事ってとても大事です。
◆図①
長谷川誤解をさける為に言っておきますが上図
は城郭パーツ「部位」の堀切と土塁とを基準に
おいた概念図である事に注意して下さい。例え
ば上記の城が落城後100年経過して江戸時代の
人が昔を偲んで地誌類に古城絵図を残された
場合には山頂から本丸、二の丸、三の丸と100
年前の呼称とは異なる曲輪名称を残される場合
もあります。この場合は伝本丸、伝二ノ丸、
伝三の丸と現代の人々は石柱を立てる場合には
注意が必要です。ですかから◆図①は城郭遺跡
の現実機能論から言う下段から本丸、二の丸、
三の丸です。
質問者
城郭機能論を説明して下さい!
長谷川
◆図②は坂道を登攀する3台の車が左から右へと
進行する様子のイラストです。現代人はこの図を
見て一瞬にして乗用車が左に向かって進行してい
る事を悟ります。何故悟れるか?認知可能なのか
?現代人は乗用車の進行方向にハンドルや運転席
やボンネットやサイドミラーを確認して車の前部
と進行方向を認識する事が出来ます。城郭遺構も
城址が敵対している外敵が侵入する事を予想して
堀切や土塁を普請している事に気づく事が大切。
◆図②
◆図③ならば図の左手が敵の侵入する城外に相当。
城の前面は左です。城の前フロントどちらかです。
◆図④ならば図の右手が敵の侵入する城外に相当。
城の前面は右に相当します。
質門者
あのう~小谷城本丸には浅井備前守長政が
それより高所の小丸には長政の父久政が居
た事になっております。しかし更に高い所
にある山王丸には久政より浅井家では血統
上は上位の殿様であるオモヤの大殿が居た
場所ではありませんか?山王丸こそが浅井
本宗家では最高家格である浅井宗本家の
居城ではないのでしょうか?
尼子氏の子 井口氏の子
養子①浅井亮政ー②浅井久政ー③浅井長政
本家本宗家 ↑小丸殿通称小殿
①浅井蔵屋→②娘鶴千代→③江戸時代徳川旗本三好氏
婿田屋明政
通称大殿
長谷川
たしかに東浅井郡誌では浅井明政はこと田屋明政は
浅井亮政の婿養子として浅井本宗家を継承すべき人
であったが浅井の政務一切を取り仕切る人物からは
引退したと記されております。石山本願寺顕如の記
禄した『天文日記』には浅井亮政薨去し、その葬儀
の香典は田屋明政こと浅井明政に送られている事は
亮政の喪主が明政であり2代目浅井氏を襲名すべき
人物と判断したものでしよう。ですから本来は久政
は浅井本宗家の継承者とは認識されていなかったか
もしれません。浅井郡誌には明政は一線から引退し
て大殿「隠居」した殿様として認識されたと解釈し
ております。浅井家の主権を継承する事になった、
久政は小殿の呼ばれ小谷城内の小丸に居住する事に
なりやがて久政も息子長政に政権を譲渡する事にな
ったと解釈しています。郡誌の言う論説です、から
是を的確正解とは断言できませんが浅井郡誌に小谷
城には山王権現と竹生島権現を祀る曲輪が小谷城内
に存在したと記しております、是を良質の文献資料
で特定確定する事は今後の新潮な課題かと思います。
小谷城信仰郭の研究の様な論文として、、、
質問者
『信長公記』には小谷城の浅井下野「久政」の居城
が浅井長政の居城のと別の意味で記されていますか?
長谷川
『信長公記』の天正元年に記述には生々しいく下野
居城、つまり浅井久政の居城が記されております。
「八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、京極つぶらへ
取り上り、浅井下野・同備前父子の間を取り切り、
先ず、下野が居城を乗つ取り候。爰にて、浅井福寿庵、
腹を仕り侯。さる程に、年来目を懸げられ候鶴松大夫
と申し侯て、舞をよく仕り侯者にて侯。下野を介錯し、
さて其の後、鶴松大夫も追腹仕り、名与是非なき次第
なり。羽柴筑前守、下野が頸を取り、虎後前山へ罷り
上り、御目に懸けられ侯。翌日、又、信長、京極つぶら
へ御あがり侯て、浅井備前・赤生美作生害させ、浅井
父子の頸京都へ上せ、是れ又、獄門に懸けさせられ、
又、浅井備前が十歳の嫡男御座侯を、尋ね出だし、
関ケ原と云ふ所に張付に懸けさせられ、年来の御無念
を散ぜられ訖んぬ。爰にて、江北浅井が跡一職進退に、
羽柴筑前守秀吉へ、御朱印を以て下され、悉く面目の
至なり。」と生々しく戦国の世の凄まじき現実と様相
を浮き彫りにしております。
質問者
小谷城の縄張りには格郭の本丸つまり城郭機能
縄張論から見てどの様な曲輪配置になってます
か?
長谷川
城郭とは堀切や土塁配置を考察する事によりその
城郭の求芯性つまり城郭の中央はどこか?外郭は
どこなのか思わぬ城郭の物理的中心を提示してれ
る事があります。何度も当該ブログで言ってます
が城址を丁寧に冷静に観察する事で城郭の先生で
ある城址が私達に真摯に語りかけてくれる事があ
るのです。『信長公記』天正元年の記述に「下野
が居城を乗つ取り候。」浅井下野守久政の居城が
小谷城内に存在した事を我々に提示しております。
◆図4を御覧ください!
浅井備前の居城やテリトリー「範囲」は大堀切か
ら右のA1本丸A2大広間A3桜の番場やA4馬屋屋
屋敷等のA群にセパレートしている事が解ります。
これ等のA群を分ける城郭遺構の最大に目印とは
B群のAB群の境を大きく分断する大堀切に相当
します。
長谷川
さて次にB群の主郭本丸とは構造上は何処に相当
するのでしょうか?残念ながら現在小丸とされる
曲輪はB群の主郭、つまり求芯性の中軸中央点を
示す場所に位地しておりません。『信長公記』の
言う所の下野居城とは軍記物『浅井三代記』や
『浅井郡誌』の言う小丸は城郭構造的にはB群の
中核ではなくB群に従属する一曲輪と言う評価に
なります。B1曲輪に浅井氏より浅井血統で言う
本宗家「浅井田屋一族」の城と評価すると高島郡
の田屋城本丸に枡形虎口がある事でで山王丸大石
垣や枡形虎口は小谷浅井氏より血統的上位の本宗
家の城と所謂大殿の城と解釈もできるかもしれま
せん。さてB群はB1山王丸B2小丸B3京極丸B
4中の丸、そしてA城グループと大堀切を有する
城郭群とは大堀切を挟んでB系城郭遺跡群に従属
する城郭群を形成しています。
長谷川
さてここで山王丸の北にある六坊の土塁と堀切の
構造に着目してみましよう。この遺構は小谷城の
見学でも見落としやすい月所丸への堀底道を形成
しており、この遺構が山王丸への侵入を防ぐB5
に相当してB1山王丸に従属する曲輪である事が
読み取れます。更に剣難の難路を月所丸に至ると
二つの曲輪と二つの土塁と二重堀切と更にその外
の堀切に堅固に防御されたB6月所丸の城郭群が
存在いたします。
長谷川
次に小谷城の背後を堅固に護る。小谷山尾根上の
本城の後ろ盾ともいう大嶽城が存在します。その
遺構を観察しますと小谷本城方面には一切堀切を
設けてませんむしろ大嶽城の北尾根で山田方面へ
繫がる尾根に巨大な二重堀切を設けて、小谷本城
を守る役目が読み取れます。つまりこれはB1群に
従属する広義で言うならば大嶽城一城だけでB7に
相当するB1を守る為の独立性のある城で、枡形が
あるもものB系列の城郭と言う観察が出来ると思い
ます。また機会があればこれ等の雄大な遺跡を見学
したいと私は思っております。
★小谷城枡形考察
小谷城に残存する枡形を考察すると山崎丸。大嶽城。
山王丸。京極丸。などやく4箇所現存します。かすか
ではありますが大広間全面を守る黒金門の虎口も枡形
に相当する可能性があります。中世の枡形とは何ぞや?
枡形が三カ所観察できる鎌刃城は『信長公記』を読む
と堀氏、樋口氏、多羅氏が登場し枡形は二カ所が石積
であり殿と言われる階層が鎌刃城では主に堀、樋口氏
かとおもわれます。では小谷城に枡形が5箇所存在する
事は5人の殿が小谷城には存在した事になります。それ
は1朝倉氏、2高島浅井氏「田屋氏」3京極氏、4久政
5長政だったのかもしれません?枡形は江戸時代にも
城の玄関を象徴する門口として継承されて行きます。
良いねが身に
沁みます。
本当に
ありがとうございます。
先ず、下野が居城を乗つとりとい言う文言
の意味がこの投稿を読むとよく解ります。
先生はその短い文言「先ず、下野が居城」
と言う意味は、深いと言っておられました。
解りました。ようやく『信長公記』のふかさも
長谷川先生の城郭遺跡分析と解説も併せ
て解りました。
本当にありがとう
ございます。