城郭 長谷川博美 基本記録

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近江安土城と遠江諏訪原城と甲斐新府城の城郭ビイスタ工法

2022-05-08 00:18:40 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
近江安土城と遠江諏訪原城と甲斐新府城の城郭ビイスタ工法
 
 
◆某学芸員様
長谷川先生の城郭ビイスタ論動画が日本中から
大変注目されつつあると聞き及びます。私実は
某学芸員ですが公務員と言う事で匿名でお願い
を申し上げます。甲斐新府城の馬出曲輪の件で
すが、我々は虎口、枡形、虎口、馬出、三日月
堀などを市民の方々に解説しておりますがもう
しかし新しい城郭解説の城郭分析の手法は令和
に付け加えられ日本史において城郭ビイスタ論
は今後検討され歴史教科書にも紹介されるかと
私は予想しています。私残念な事ながら公務員
である以上自由な発想と斬新な視点を用い先生
の様な城郭遺跡解説を市民の皆様に出来ません。
私は山梨県と関係のない某自治体の者なのです
が学問的に長谷川先生城郭ビイスタ論は汎用性
においても非常に高く評価されるべき学術性を
内包していると思います。ただ私には遺跡看破
する城を見る目に開眼していないと思ってます。
甲斐新府城の馬出曲輪を見てもせいぜい虎口、
枡形、虎口、馬出、三日月堀、止まりなのです。
長谷川先生の城郭ビイスタ論をマスターする事
で未来の市民の皆様にお役に立つ学芸員として
スキルアップを自己研鑽として勉強したいです。
 
 
◆反論者
馬鹿な事を言う!虎口、枡形、馬出、三日月堀
をマスターし理解したら一流の城郭探訪家だよ!
ふん!新府城の枡形や馬出にビイスタ工法など
ある訳ないだろうが!そんなの異端で邪道だよ。
 
◆某学芸員様
すみません。冷静に黙っていて下さいませんか
貴方は探訪を好まれる人私は学術を高めたい人
異端で邪道と思っていた事が正論だった時に人
は文化的衝撃を受けます「カルチャーショク」
です文化的衝撃を受ける豊かな感受性が大切!
◆長谷川
城に行く人も、城を研究する人も、互いに互い
を尊重しあい仲良くする事が一番大切な事です。
決論から言うと甲斐新府城に城郭ビイスタ工法
は存在致します。まず側面の青線から放射状の
ビイスタ線の潜在の読み取りが可能と思います
◆長谷川
次に赤線で縄張されている枡形は城外ほど開い
ている傾向確実です。今回の図では青と赤の線
を用いて甲斐新府城の枡形と馬出ビイスタ論を
不肖の私が解説させて頂きました。感謝です!
 
◆一般様
もしかして?これはスゴイ内容の論説に感じる。
 
◆東海の質問者様
あの武田勝頼が縄張したと伝わる沼津の三枚橋
城にもビイスタ工法は存在したのでしょうか?
 
◆長谷川
図面が古図なので正確にビイスタ工法が三枚橋
の城に存在したのか私には十分には解りません。
丸馬出、食い違い虎口、横郭、など武田系統の
築城術を読み取る事が可能かと私は想像します。
 
◆長谷川
古図から類推すると三枚橋城にビイスタ工法使わ
れていたと想像され、これは私の想像の範疇です、
◆長谷川
 三枚橋城の後身の沼津城古図を参考させて
頂いて考察を致しますと先ず城郭の中心部の
天守「三階矢櫓」から周囲に向かって放射状
に中央ビイスタが施工され街区の町割も非常
に美しい傑作縄張の城郭だったと思われます。
城郭も町割もシンクロした見事な都市景観!
 
◆長谷川
更に見る方角を変えて古図を考察させて頂きます
と下図みどり線の如く扇状城郭ビイスタの観察を
する事が可能だと思います。これも完璧な幾何学。
 
◆長谷川
更にまた別角度から検討しますと放射状ビイスタ
工法の存在がこれまたうかがわれます。
◆長谷川
この城は現在現存しないとの事でウイッキペディ
アを引用して沼津城の参考とさせて下さい。
 
 
◆長谷川
東三河の古宮城の枡形もビイスタ工法採用で
枡形が扇状に開いている事にも再度注目です。
◆長谷川
甲斐の躑躅ケ崎館にも城郭ビイスタは適応可能。
◆長谷川
信濃の海津城「川中島」の城もビイスタ工法!
 
 
◆対談者
織田信長の「ちかつおおみ」近江の安土城には
城郭ビイスタ論と呼ぶべき城郭編面構造設計が
存在する事を長谷川先生が日本で最初に論説さ
れ戦前戦後を通して日本城郭研究史上最高峰の
城郭遺跡構造理論だと令和の巷間では大変話題
になっています。滋賀県内でヤッパリ城郭研究
の深淵を知る城郭専門の先生は長谷川先生なん
だよと半世紀間世評が絶えませんでした長谷川
先生は社会から忘れられた無冠の城郭研究家に
して知る人ぞ知る伝説中の研究家としての高名
が昔日よりあるも全く我々市民は滋賀県長浜市
出身米原市在の長谷川先生の事が隠されていた
事が滋賀県民としては至極残念無念!皮肉にも
他府県の人に長谷川先生講演や講座が知られる。
 
▼尾張小牧での長谷川単独講演 過去写真
▼江戸時代の城郭測量方法 享保18年 
日本城郭測量方法の温故知新なのです。
▼城郭ビイスタ論 余呉城郭研究会動画より
 
 
◆更に安土城のトリプルビイスタも検討します。
◆みんな
長谷川先生!スゴイ!やはり城郭の本物は違う!
 
◆長谷川
大仰大げさな物言いは困ります。城郭研究家とは
目立たず、驕らず、誇らず、粛々地道に城郭遺跡
や研究に取り組む求道精神の世界で催事や祭事と
は無縁の影の世界に住む隠者こそ研究者と言える。
隠者とは研究にいそしみ世に出ない人こそ研究家。
 
◆対談者
さてさて京都に近い湖の国を近江「おおみ」の国
と言います。都から遠い遠江を「とおつおおみ」
は訛化して遠江と書いて「とおとおみ」と読みま
す江は浜名湖を指します。さて長谷川先生遠江に
も城郭ビイスタ工法を用いて設計縄張された放射
城設計線の存在する遠江の名城は存在しますか?
 
▼諏訪原城 ビイスタ工法 概略線 赤線
 
◆長谷川
慎重に考察すべき事なのですが諏訪原城も城郭
ビイスタ工法に相当する設計の潜在があろうと
私は思います。私が述べるのではなく城郭研究
の主役とは民主主義の国において、市民の皆様
こそが真に主役であると私は常々思っています。
 
▼諏訪原城 ビイスタ工法 赤線 青線
 
▼諏訪原城 ビイスタ工法 外郭線 赤線 青線
◆探訪者
諏訪原城は続日本名城100選に選出された名城だ!
 
◆対談者
真に城郭を勉強学習しようとする立場の人にとり
学歴、経歴、肩書、に惑わされる事なく世界遺産
だから行くんじやなく、名城100だから行くんじゃ
ない、チャンと城を学問しょうとする心構えと基本
姿勢が大切だと思います。要するに城の肩書でなく
登録される何十年も前から、名城に相応しい城跡
だと価値観を看破できる見学者としての資質を高
める事が大切でしよう。城を学ぶ人の本質ですよ。
なによりも学究的資質があるのならば諏訪原城に
城郭ビイスタ構造がある可能性を看破する力量や
資質こそが城を学び学問する人の基本姿勢です。
 
◆観光者
ちがう、ちがう、城跡は学問の場などではない!
現代人の遊びの場!観光推進社会の遺産として
現代の遺産を活用する事が社会隆盛の大義です!
 
◆長谷川
城に対して様々な対峙姿勢や思惑が存在しますが
互いに互いの、志向、思考を尊重しあい仲良く!
 
◆旅行物
続日本名城100選に米原市番場の鎌刃城が選出さ
れていますが、まさか鎌刃城にも今世間で話題が
爆発している城郭ビイスタ論の可能性ありますか?
私は普段城跡を通り過ぎるだけのハイキングする
人ですが、鎌刃城に重大な城郭ビイスタの可能性?
 
 
◆長谷川
城郭ビイスタ論は太閤秀吉の▲肥前名護屋城にも存在
致します。鎌刃城にもビイスタの要素が潜在してたら
ロマンがありますまた城郭探訪もより楽しく深くなる。
鎌刃城に城郭ビイスタ論など存在しないと頭ごなしに
否定する事は、僕はホウレンソウが嫌いだに等しい位
の学問の進捗や可能性を摘み取ってしまう場合が危惧
され日本城郭研究史の発展進展を計るべかと思います。
◆長谷川
▼鎌刃城西尾根の連続竪堀群も放射状に設定されて
いる事に見学者は再度留意する柔軟さを持っ事かと。
◆東近江の就業者さん
すみません!滋賀県東近江鯰江の近所に仕事に
行ってます。『信長公記』に登場する鯰江の城
跡は現在原型が損なわれて存在しませんが蒲生
郡誌が編纂された頃は鯰江城にもビイスタ工法
が存在したのでしょうか?
 
◆長谷川
『蒲生郡誌』収録の図ではビイスタ工法と思わ
れる平面構造が読み取れると私は考察致します。
図のA、Bは東国で言う「馬出」に相当する物。
 
◆福井県の人
続日本名城100線選に選ばれた賤ヶ岳合戦の巨大陣城
柴田勝家の玄蕃尾城にも城郭ビイスタ論がありますか?
 
◆長谷川
福井県敦賀市側からのビイスタ構造が存在したと
私は考察致します。ちなみに柴田勝家の甥である
佐久間玄蕃の行市山陣城にもビイスタ工法が潜在
 
 
◆一般者
長谷川先生って?もしかしたら稀代の城郭研究
と言える先生ではないでしょうか?
 
 
◆余呉城郭研究会諸士様
今頃気付いて何とします?気付くのが遅いです!
◆対談者
同じ列車に今乗車しても昔乗車しても同じ事
です。要するに素晴らしい列車であれば良い!
遅れて乗車しても学ぶべき事は無尽蔵にある!
 
▼以下 ウッキペデイアより引用
諏訪原城(すわはらじょう)は遠江国榛原郡金谷
(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の
日本の城(山城)である。諏訪之原城とも書く。
甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀った
ことからこの名が付いたとされる。徳川氏時代の
城名は牧野城。『家忠日記』には牧野城のほか
牧野原城とも記載。東照宮御実紀(徳川実紀)に、
牧野の城(諏訪原をいふ)と記載。現在は建築物は
残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構が
はっきりと残り、戦国時代の武田氏・徳川氏の築城
様式を知る上で貴重なものとなっている。国の史跡
に指定されている。
 
築城
永禄12年(1569年)、駿河・遠江を領していた今川氏
が武田氏と徳川氏に挟撃され滅亡し、駿河は武田氏に、
遠江は徳川氏の所領となった。しかし、間もなく両氏
は争うようになり、元亀2年(1571年)に武田氏当主・
武田信玄は遠江南東部の高天神城を攻撃した。この
ときは落城させることができず撤退したが、翌元亀3年
(1572年)には徳川氏に攻勢をかけ、二俣城などの
諸城を落城させ、さらに本拠地・浜松城から討って出た
徳川氏当主・徳川家康を三方ヶ原の戦いで破った。
翌元亀4年4月(1573年5月)、信玄は病死するものの、
跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。
天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環
であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に
命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせた
という。ただし、このことを記す史料が『甲陽軍鑑』
など後代に成立した史料のため、築城者については
確定できないものの、この時期の築城は間違いないと
考えられている(『武徳編年集成』には永禄12年
(1569年)に「金谷城」を築城したとあるが、
この城が諏訪原城と同一かどうかは断定できない)。
信玄後期から勝頼期に建設された城郭の特徴である、
台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造と
なっている。小山城と共に、大井川西岸の防衛線及
び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。
 
武田氏と徳川氏による争奪戦[
その後も勝頼は遠江への攻勢を強め、天正2年
(1574年)には主要拠点であった高天神城[1]も武田氏
の手中としている。ところが天正3年(1575年)5月、
長篠の戦いで武田軍が織田徳川連合軍に大敗した。
徳川家康は直ちに反攻に転じて三河・遠江の武田氏の
各拠点の攻略に乗り出し、諏訪原城も7月中旬ごろから
徳川軍により包囲された。武田方は在番衆の今福虎孝や
室賀満正、小泉昌宗以下抗戦の構えを見せ、1ヶ月余り
の攻防戦が繰り広げられた。しかし、徳川軍による包囲
と攻撃を支えることができず、また敗戦の痛手から勝頼
が援軍を派遣できなかったこともあり、開城し城兵は
小山城に退去した。徳川氏が奪取した日時は、天正3年
8月(日付は異同あり)[2]とされる。攻略後、徳川氏は
この城を拠点に武田軍の監視・牽制や駿河国への攻撃を
続け、殊に高天神城への大井川沿いの補給路を封じた
ことで戦いを有利に導いた。またこの間、徳川氏は城
の大規模な改修を行っており、現在見られる城の遺構
はこの時代のものになる。
 
発掘調査[編集]
平成21年(2009年)から27年(2015年)にかけて、
諏訪原城の発掘調査が行われた。発掘調査の成果と
して、元来は甲州流築城術の典型とされた縄張の内、
武田氏時代に構築されたのは本丸と南端にある小型
の丸馬出のみと判明した。結果として二の丸やそれ
に付随する大型の丸馬出は徳川氏が整備した可能性
が高く、これまでの丸馬出=武田氏の築城という固
定観念の見直しや、低評価だった徳川氏の築城技術
に対する再検討を促すことになった。平成28年度
(2016年)には発掘調査に基づき、二の丸北馬出に
あった薬医門が復元された。
 
▼以下沼津城ウスイッキペデイアより引用
 
沼津城(三枚橋城)城址 沼津市大手町 歴史

1641年寛永18年)の大火後、城跡が開墾地

となり、1778年安永7年)正月、沼津藩水野

氏が請け取り、縄張りや着工の準備が始まった。

2月、江戸から松本藩時代の軍学者で旧臣とも

関係のあった吉田雪翁が門弟の神田清次と共に

沼津に赴き、城地を見て回り、数日かけて本丸

や二の丸等の縄張りを行った[1]。10月、吉田雪翁

の絵図面を付した伺いが用番老中松平右近将監に

提出され許可を得るに至ったが、最終的に吉田

雪翁の図面を中止して田沼意次家臣の須藤次郎兵衛

に依頼することとなり、着工は延期となった。

1779年(安永8年)9月、田沼家の国表である遠江国

相良の大工善四郎が郷宿の堺屋幸七宅に逗留し、普請

工事全体を統括した。棟梁には大工幸右衛門(浅間町)

が選ばれ水盛りも任された。御用掛りは大工平三郎

(浅間町)が担った。縄張りについては、須藤次郎兵衛

自らが行った。10月、善四郎の水盛坪数と土方御不審仕様

帳が完成したので、沼津藩江戸屋敷に送った。沼津藩では、

1780年(安永9年)4月に須藤次郎兵衛の絵図面で築城は

認可され、築城が進められ、その年の暮れに完成した。

城地請け渡しから城の完成までには満3年を費やした[2][3]

1777年(安永6年)、幕府から沼津藩に対し、築城資金

として三千両が貸与された。翌1778年(安永7年)1月に

韮山代官から土地が引き渡され、さらに翌1779年

(安永8年)4月に縄張りが幕府に認可された。城が完成

したのは1779年(安永8年)9月であるという記録がある。

しかし、その後も徐々に普請や拡張が行われている。実際

に、水野忠友は「御一代に成就に及ばず」(自分の代で

完成しなくてもいい)と遺している。1830年(文政13年)

に敷地が拡張され、ここは御添地と呼ばれ、沼津市添地町

として残っている。1831年(文政14年)から翌1832年

文政15年)にかけて二重櫓を完成させた。また、1850年

嘉永3年)には幕府から普請の許可が下りている[4]

同じ場所にはかつて、三枚橋城があった。三枚橋城と

沼津城の絵図は共通する部分が見られることから、

堀の一部を埋め立てたてるなどして三枚橋城を沼津城

にそのまま利用したと考えられている[5]。三枚橋城と比

べると、沼津城はあくまで政庁という側面が強く、面積

も三枚橋城の約半分しかない。林靏梁は江戸から遠州

赴任する際に沼津を通過しており、その時の印象を 

林靏梁日記のなかで、「沼津城 手薄之様子 武風之衰 

可咲也(わらうべきなり)」と書いている[6]。梯郭式

平山城で狩野川に隣接して本丸、その北西に二の丸三ノ丸

が造られていた。天守に相当する三層の櫓を本丸に建て、

二の丸に御殿を置いた。最終的には、水野家8代の5万石

城下町として栄えた。

一時期沼津兵学校が置かれたものの、1872年(明治5年)

には東京に移転し、1873年(明治6年)廃城令を待たずし

て破却されることになった。敷地は民間に払い下げられ、

度重なる大火や道路の新設、堀の埋め立て等を経て、城郭

は失われた。現在は大手町という地名が残るだけであるが、

本丸跡は中央公園として整備され「沼津城本丸址」の碑

が建つ。ここまでほぼ完全に破壊された城も珍しいといわ

れるが、数少ない現存する遺構として、市内の光長寺辻之坊

山門が、城門(中庭門とも)が移築されたものと伝えられ

ている。また、市内香貫の民家に奥座敷があったとの事だが、

現在では取り壊されている。

 

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3 コメント

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Unknown (城めぐり)
2022-03-02 16:25:05
私は5000城見て廻りました。自分には城を見る確固たる自信と自負を持っています。しかし失礼ながら長谷川さんと言う無名の研究家さんが諏訪原城や安土城にビイスタ工法が潜在する事を動画で述べられているのを見て私は城の研究を50年間で何をやってきたのか?ショツクと衝撃を受けました。何の為に5000城必死に見てきた来たのか?よもや安土城や諏訪原城にこんな仕掛や構造が存在するなんて戦前の研究家も戦後の研究家も誰一人発見で出来ずに気付かず見落として来られたと感じました。他ならぬ5000城見てきた私自身がビイスタ工法の存在を一度も気付かなかった事に真に城址を見る人間として恥入るばかりです。今更ながら長谷川さんの研究の深さに改めて驚いています。
返信する
Unknown (Unknown)
2022-03-02 16:33:02
諏訪原城の城郭ビイスタ論初めて知りました。衝撃で
腹の皮がよじれる程に興奮が止まりません。これは本当なのでしょうか?
返信する
Unknown (Unknown)
2022-05-08 00:21:44
新しい城郭の学問手法が提示されていて驚愕致します。学術視点のレベルが極めて高く感じられます。
返信する

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